2018年5月17日木曜日

‘subjunctive’が「仮定法」?(3)

前回の終りに、「ちょいと考えてから続きを……」などと申しましたが、暫くサボってほっといた後、ちょっとは考えてはみたものの、結局いい知恵など浮びませず。当初は自分でも認識していなかった、この駄文の単一ならざる主旨を、何とか整然たる体裁で記せぬものか、と思ったんですが、そりゃどうも無理ですね。

「単一ならざる」とはぜんたい何のことかと申しますと、前回も言いわけしとりましたが、

1.英語の「仮定法」という文法事項についての、日本における根強い謬聞
2.そもそも「仮定」という訳語自体の非妥当性
3.その前に「法」という訳語の是非
4.定義が曖昧なその「仮定法」の説明にしばしば用いられる「時制」という訳語の当否、およびその語義や用法における混乱

……に対する論難(言いがかり)、といったところになるようで。かなり無理やりっぽいけれど、ざっと並べればそんな具合。さらには、

5.「仮定法」ならびに「法」「時制」(その他)に対応する原語の語義、用法
6.英語圏の英文法における「仮定法」(その他)の定義、および実際の英語表現

などについての能書きも垂れるつもり……だったんだってことを、書き始めてだいぶしてから自覚したってのが実情なのでした。

これじゃとても整然たる体裁の文章になんかなりません。よっぽど事前に考えとかなくちゃ。言うまでもなくこれ、いつものとおりなんにも考えずに書き始めちゃったもんだから、こりゃちょっとまずかったな、とは思い至り、そんで「ちょいと考えて」などとは申し上げたる次第。

でも諦めました。ほんとは「仮定法」を「一例」とした「和式英文法」全般について、ああだこうだあらぬ因縁をつけようという魂胆だった筈が、とてもそれどころじゃなくなっちゃてもう。できれば事項ごとに順次記述する、ってな体裁にしたいなどと思ったりもしたんですが、何せそれぞれの話がどれも相互に絡み合ってるし、何よりもうかなり書き散らしちゃってるしで、ここは普段どおり、考えながら書いてんだか書きながら考えてんだかわかんないまま、多少(随分と)索然たるもんになってもしかたねえや、ってな開き直りの下に、とりあえずは話を続けることに致そうかと。
 
                  

しかし「続ける」とは言い条、何をどこからやったところで、到底一本の筋に沿って滔々と語るなんてわけに行かないのはもう明らか。まずは、「いずれ」などと言って後回しにしといた2つばかりの話柄のうち、比較的話が早く済みそうな1つめ、すなわち「主節」という言い方についての疑義てなもんを書いとこうかと。

2つともこの愚長文の主旨(ったって、それが1つに絞れずにいるわけですが)とはあながち無関係でもない筈だし、ほんとに容赦なく後回しにしちゃったら、完全に忘れちゃうってことはないにしろ、いかにも思い出したようで間の抜けた感じになるかとも思い、ここで先にやっつけとこうと(今)思ったのでした。

と言いながら、2つめの話、つまり ‘mood’(や ‘modal’)に当てられた「法」または「叙法」という2つの訳語におけるその「叙」の有無について、ってやつのほうは、なんか話が長くなりそうだし、「仮定法」の原語たる ‘subjunctive (mood)’ についての御託に絡めたほうが適当ではなかろうか、と(今)思い至りましたので、そっちは当面後回しのままってことでひとつ。
 
                  

……という具合で、早速その「比較的話が早く済みそう」だなどと迂闊にも思ってしまった1つめ、「主節についての与太話」を書き始めたところ、生来の貧乏性の故か、またしても次々と要らざる枝葉末節に言及してしまい、結局また早く済むなどはとんでもない、その話だけで随分な長文と成り果てるは必至の様相。主節談義自体が、本旨たる仮定法云々にとっては補足的な話題に過ぎないってのに、それすらまだ当分終りません。

てことで、今回は上記の弁解のみを掲げ、残りはひとまずその「主節についての愚論」にケリがついてから投稿することにしました。行き当たりばったりもほどがある、ってところですが、何卒ご寛恕のほどを。

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