多少の努力の下に、その主節談義にも何とか収集をつけるべく、以下に書き連ねて参ります。くっだらねえですよ、相変らず。って、自分で言ってもなあ、とは思いつつ。
さてこの「主節」てえやつ、以前は素朴に ‘main clause’ の訳ってことで丸く収まってたんですが、その ‘main clause’ っていう英語自体の定義がちょっと曖昧で、近年の多少とも凝った文法書では、これに言わば細分化が施され、2つの新たな用語が導入されているのでした。それらの「和名」は寡聞にして存じませず、よんどころなく依然大雑把に「主節」とは言っとりましたる次第。
基本的な定義としてはこの「主節」、「いずれにも従属せざる節」といったところなんですが、「従属節でないのが主節」なんてえと、つい連想しちゃうのが、「木管は金管に該当しない管楽器」ってな言いよう。それが最も簡潔かつ穏当な定義ではあるようですが。
敢えてまたも暫し逸脱しちゃいますけれど(いきなり……)、子供の頃は、どっからどう見ても金属製なのに、フルートだのサックスだのが「木管楽器」ってどういうこと? って思ってたんでした。やがて判明したのは、上述の如く「金管」に非ざるものが「木管」だったてえオチ。文法用語と同様、所詮は安直な漢字訳、別に「かね」か「き」かなんてこた関係なくて、その楽器の鳴らし方の違い、ってことだったんです。
金管がつまりは「喇叭」だとすると、木管は「笛」の一派って雰囲気なんですが、、吹奏楽やってる人でも、「リードのあるのが木管」だと言う人は少なくありません。でもそれだと「横笛」であるフルートは当然範疇外。葦笛だけが笛じゃない、ってのはわかり切ったことだし……ったって、そもそも「木管≒笛」なんてのは、今あたしが勝手に思いついて言ってるだけのことだったんだ。
趣旨の逸脱は重々認識しつつ、まあ成行きってことで。これ、ありようは、マウスピースを有するのが金管で、そうじゃないのが木管、ってことなんですね。リードの有無は無関係。で、そのマウスピースの有無が何なのかてえと、それを介して唇の振動を増幅するのが金管、つまり喇叭の一党であるに対し、リードの振動を利用するか否かは問わず、とりあえず息自体で管を鳴らすのが木管、ってな感じなんでした。要するに、クラリネットとかオーボエとかサックスとかと同様、フルートだのピッコロだのも、単純に「唇の振動」は無用ってところが、つまりは金管と対極をなす木管の心意気、とでも申しましょうか。
それがどうした、って話であるは先刻承知なれど、これがわかったときには「なるほどそうだったのか」と、ちょいと感服致しまして。で、こんな話をなぜ突然したかってえと(実際突然思い出しちゃったんです)、「主節」、と言うより ‘main clause’ の定義にも、 「従属節」(「従位節」とも)= ‘subordinate clause’ に非ざるもの、ってな言い方が当てられる(こともある)、ってことでして。
毎度恐縮至極に存じます。こういう連想によって、かつての自分は結構いろいろ腑に落ちることが多かったもので。でもまあ、2つの対立概念について、まず一方を明確に定義し、もう一方をそれに該当しないもの、とするのはなかなか上手い手かも、とは思われます。後者を「非前者」のように言っちゃうと途端に何かつまんなくなっちゃうけど。そりゃ俺の勝手か。
余談終り。さて、件の「主節」の話。当初はあたし、「比較的話が早く済みそう」だなどと迂闊にも本気で思ってたんですけど、やはりと言うべきか、既に随分と長引いちゃってて申しわけありません。半ばは想定内ですが、半ばは自分でも呆れとります。初めはほんとにもっと簡潔に片づけるつもりだったんです(甘いね)。ともあれ、ひとまず話を続けることに致しましょう。
「どこにも従属しない節」ってだけだと、「主節」にもいろいろあり、しばしば主節しかない文ってのもあれば、文全体が主節そのものとしか言いようのない例さえある、ってことんなっちゃうんですよね。そういう厄介さを回避する方途として、‘superordinate clause’ と ‘matrix clause’ なる用語、と言うか概念がだいぶ前に導入されてるんですけど、それらに当る日本語がわからんのです。そこはあたしの不勉強ではあるんでしょうけど、先日も申しましたように、英語についての情報は専ら英語によってのみ得ることにしちゃってからもう数十年、ってのが実情なもんで。別にこれ、商売でやってるわけじゃなく、徹頭徹尾個人的道楽ですし。
とりあえず、旧来の素朴な「主節」方式だと、どういうところが曖昧なのかってのをざっと開陳しときやしょう。たとえば
He was fifteen when he first met her.
という、ごく単純な複文(撞着語法か?)において、後半の ‘when he first met her’ は、その前にあるこの文の主役たる ‘He was fifteen’ って部分にとっては飽くまで従属的存在であり、だから従属節とは呼ばれるってわけですが、それは取りも直さず、その従属節に対する「本体」たる前節、その ‘He was fifteen’ が主節たるは言うに及ばず、ということにはなるてえ次第。
でも同じ話を、ちょいと言い方を変えて
He was fifteen and he first met her.
とすると、これは ‘and’ という接続詞によって前後が並立関係となる重文……ってな話も、今さら皆まで言うなって部類の、まあ昔懐かしいお馴染みの文法解説。で、この場合は前節も後節も主節……とは言わないのかも知れないけれど、英語では ‘main clause’ たるは言を俟たず、ってことなんです。この文にはもとより従属節なんざなく、「従」がないのに、それとの対比によって成り立つべき「主」が2つもあるというわけで、多少気の毒にも見える状態。
言い遅れましたが、先に示した「主従」を含む複文(complex sentence)も、今挙げた「主」のみからなる重文(compound sentence)も、前後の節は順序を入れ換えられることが少なくありません。文意は変らず、複文の場合は2つの節の「主従」関係もそのまま。間にコンマを挿入するのが普通の表記法だとは思いますけれど。これはまあ、仮定法の説明で頻用される ‘If I were you, I wouldn't do that.’ とかも同じことか。 ‘I wouldn't do that(,) if I were you’ と言っても内容に違いはなく。話の流れによる口調の違い、ってことはあるかも知れませんが。
これも言わずもがなとは思われますが、上記はごく素朴な例に過ぎませず、実際には複文も重文も、2つの節だけを連ねたものとは限らず、ってより、文章では多数の節がさまざまに絡み合った文ってのが頻出し、型どおりの文法知識だけでは、いわゆる長文読解問題で難儀する生徒が多いのもそのためかと。たぶんそうした、多少とも複雑な(実はごく普通の)文を構成するそれぞれの節(およびその節内の語句)どうしの、それこそ「主従」関係の如きものを掌握するのがまず難しいのであろう、ってことを、昔塾で受験生たちに教えてたときに痛感したのでした。今思い出した。
エラそうにそう言ってはみたけれど、それはそのまま高校生時分の己が姿だったりして。当り前って気もするけれど、現実の言語現象は、とても教科書に載ってるような、つまりは取ってつけたような都合の好過ぎる例文のようには行かない、ってところですね。
それより、改めて「主節」という言葉のいいかげんな点を述べますと、まずは上述のように、それ自体が「従属せざるもの」というだけの定義に従う限り、それを「主」たらしめるべき「従」に当るものがなくても「主」でございってことんなっちゃうところ……ですかね。最初の複文の例を端折って言うと、
He was fifteen at the time.
という、これまた随分と簡便な単文(simple sentence)になってしまい、この場合は紛う方なくこの1文全体を主節と呼ばざるを得ない、って寸法。しかし問題はむしろ、従属節に対しての「主体」が主節、という理屈を通そうとすれば、
He was fifteen when he first met her.
における主節は果して前半の ‘He was fifteen’ だけなのか、後半の ‘when he first met her’ を自らに従属する一部分として成り立つこの文全体なのか、という迷いも生じてくるってところかと。「主」には「従」も含まれるのか、飽くまで「従」とは別の部分を指すのかは、当該の文法書により記述の分れるところ……なんです。
まあ単にこれ、文法なんてもんが所詮は各研究者による「案」に過ぎないってことを如実に示すものに過ぎず、何らまごつくこともないんですが、学校の授業じゃそんな前提は聞かされた憶えがありません。飽くまで憶えてないだけで、先生はちゃんと言ってたのかも知れないし、教科書にもひょっとして書いてあった? やっぱり憶えがねえな。
おっとそれより、たとえば
That you exist is a miracle.
というような、これもまたありがちな複文の場合、こりゃもう選択の余地もなく全体を主節として括るしかないでしょう。前節である ‘That you exist’ のほうが「本体」である後節に従属するわけですが、そうなると、全体ではなく飽くまで部分が文中の節である、という理屈に義理立てする限り、この従属節に対する主節は、 後半の ‘is a miracle’ だけってことになってしまい、もはや主か従かどころではなく、節の体すら成しておらぬではないか、という難癖さえつけることができます。どう足掻いてもこれ、従属節を主節の一部とするしかなさそうで、果然文全体が主節とは相成るてえ仕儀。
ことによると、このような例こそが、 ‘main clause’ は ‘subordinate clause’ と併存するものではなく、それを「包含」する節全体(しばしば文全体)を指すものである、とする文法流儀の根拠だったりして。わかんないけど。
さて、「比較的話が早く済みそうな」などとはとんでもなかった、ってことを改めて思い知りつつ、まあしかたがねえ、ってことで、今回はとにかくこの「主節」談義だけにはケリをつける覚悟で臨んではおりましたものの、まだまだ当分決着がつきませんので、今回もまたひとまずここで区切り、続きは次回ということに。
いつもほんとにすみません。
0 件のコメント:
コメントを投稿