2018年5月21日月曜日

‘subjunctive’が「仮定法」?(5)

引き続き「主節」についての与太話を。肝心の「仮定法」に対する言いがかりの続きは、次回から何とかってことでひとつ。後回しにした2つめの話題、「法」と「叙法」の「叙」についての愚考は、既述のとおりいずれ然るべきところでまた書き散らす(たぶん)所存。

そもそもなんで「主節」なんてもんに引っかかっちゃったのかと申さば、件の「仮定法」ってのが、本来は複文における従属節で用いられるべきもの、と言うより、英語の原義には「仮定」なんて観念は微塵もなく……ってなことをこそ述べるのが主旨であった筈が、その従属節を従属節ならしめる存在ってことで、この「主節」について「ちょいと」言っとこうかと思ったのが運の尽き。未だに自分の性癖を把握していなかったようで。
 
                  

度重なる言いわけは切り上げまして、当面の課題である「主節」、 ‘main clause’ という用語の曖昧性についての愚論を再開致します。前回「従」を欠いた「主」だけが並ぶ重文の例を挙げましたが、それ、自分も中高では専ら「等位節」または「独立節」などと習いまして、一方複文を成す2つ(に限らないんだけど)の節には「主従」の別がある、ってな話だったかと。つまり、英語における ‘main clause’ とは異なり、日本語の「主節」は専ら複文における従属節に非ざるほう、という説明。それどころか、「節」というものには、「等(独)」「主」「従」の3種しかないかのような言いようだったりして。それもまあ文法理論の1つではありましょうが、やっぱり随分と粗い括りですぜ。当時は全然知らなかったけど。

まあ「重文」ってのは、もともと複数の単文を接続詞で繋いで1つにまとめたもんだから、そりゃあ接続された個々の「等位節」は、切り離せば皆1つの文。互いに依存せざる「独立節」たるは当然至極なれど、英語の本読むとそれちょっと(だいぶ?)意味合いが違うんですよね。
 
                  

‘main clause’ であることと ‘coordinate clause’ であることは、別段撞着するものではありません。前者の基本的定義は既述の如く「従属せざる節」といったものであり、互いに「独立」し、いずれが主でも従でもない「複数の」節どうしの関係を指して、 ‘coordination’ とは申します次第。でもそれ自体は、「節」に限らず、言語単位の並立関係全般に用いられる語ではありますけどね。

この ‘coordination’、 ‘to coordinate’ という動詞から派生した名詞で、その動詞の意味はてえと、自動詞なら複数の節が互いに同等の立場にある、ってのを表し、その場合の主語は節自体、他動詞であれば、そういう関係を生起する、ってよりそれを示す、とでもいった意味となり、たとえば複数の節を繋ぐ等位接続詞が主語、繋がれる節が目的語、ってなことろかと。

形容詞(や名詞)の  ‘coordinate'  は、同綴ながら音は異なるんですが、いずれにしろこの動詞に対応するものが日本語にはないんですね。そこが諸々厄介の元凶……か?
 
                  

因みにこの ‘coordinate’、もともとは「順序よく並んだ」といった意味の形容詞 ‘ordinate’ に、「共に」というほどの意味の接頭辞 ‘co-’ を付したもので、初出は1640年代の由。「同等の」といった意味であり、「同等にする」というような意味の動詞は、少し遅れて1660年代が初出とのこと。しかし名詞用法の初出は遥か後年の 1823(文政6)年、数学用語(「座標」?)としてだそうな。

誤読を避けるため、‘co-ordinate’ と書かれることも多いのですが、かつては ‘coöperate’ という、ちょっと英語とは思えない表記も使われてました。以前は英和辞典にもよくそう書いてあったけれど、どうやらとっくに廃れた模様。イギリスよりアメリカのほうがかなり後まで使っていたようで、だから英和辞典にもしつこく載ってたのか。一方、ハイフン入りにするのは今どきはイギリスのほうが多いですね。
 
                  

ときに、日本では「コーディネート」なとど申しますが、動詞は[コウオーディネイト]、形容詞、名詞は[コウオーディナット]とか[~ニット]って感じ? てえか、カタカナで表すのはもとより無理なんでした。

外来語としては何やら服飾関係で用いられる名詞またはサ変動詞の語幹、ってところですが(?)、英語における動詞では、「人を仕切って事に当る」みたいなのが第一義っぽいですね。「コーディネーター」てえと、やっぱりファッション関係その他、どうも業界っぽい風情が付随するカタカナ語って気がするんですけど(俺が野暮ってだけ?)、 ‘coordinator’ は「まとめ役」とか「調整係」ってところじゃないかと。

おっと、肝心の文法ではこれ、 ‘coordinating conjunction’、すなわち「等位接続詞」のことですね。果然 ‘subordinator’ は「従位接続詞」ということに。
 
                  

またも余談が過ぎました。さて、重文においてこの「等位」関係を成す2つ以上の節が、‘coordinate clauses’ ってことで、「主節」「従属節」に対し「等位節」または「独立節」とは訳される、というのも既述の如し。で、これも既に申し述べましたように、原語たる英語の文法書を見てると、そいつぁどうも話が違うんじゃないか、としか思われませず。って言うか、実際違うんですけど、その違いについてまたひとくさり。ほんと、話が長えな。ま、しかたがねえ。

「独立」てえ訳に対応するとしたら、さしずめ ‘independent’ って語が該当するであろう、とは容易に想起されるところ。でも、英語の解説書を読んでると、 ‘independent clause’ は、当然と言うべきか、 ‘dependent clause’ との対語で、旧来の(素朴な)文法ではその2つ、単純にそれぞれ ‘main clause’ と ‘subordinate clause’ の同義語として通用してたってんです。この場合の ‘main clause’ は、日本で言う「主節」と同一ではなく、前述のとおり「等位節」をも指します。だからまあ、その「等位節」が ‘independent clause’ であっても何ら矛盾はないんですが、しかし両者がまったくの同義語じゃないのは、 ‘main’ が「主」とすっかりおんなじってわけにゃ行かないってのに相似たり、って感じですね。どう言っても厄介だけど。
 
                  

しかるに、英語でもその旧来の分類だと間尺に合わぬ場合も少なからず、ってんで、今どきはこれら2系統の用語は画然とその用法を分つのが、まあ多少とも「オタク」仕様の文法……といったところでしょうか。いずれにしたって、 ‘independent clause’ の訳であろう「独立節」を「等位節」の同義語としちゃったら、その対義語である ‘dependent clause’ は身の置きどころがなくなり、先述の如く、英語の節には等位節(または独立節)、主節、従属(従位)節の3つしかない、っていう古来の日本式英文法(?)の言い方だと、随分と話が食い違うことに。

まあ、身の置きどころったって、 ‘subordinate clause’ の同義語だとする古めの定義の下では、どのみち「従属節」という訳がそれを兼ねていることになろうから、こっちが気に病むこともないんですけどね。てえか、そもそもこの長大な愚文の主旨は、もともとそういう「和式英文法」全般に対する言いがかりだったんだし、とりあえずはその本旨からもさほど逸脱してはおらぬ筈、と強がっとくことに。
 
                  

おっと、じゃあその、英語における旧来の用法がもたらす不都合たあ何なんでえ、ってところを述べますと、たとえば
 

The more I see you, the more I want you.

 
なる例においては、前節も後節もそれぞれ単独では意味を成さず、というより形として成り立たず、両者は互いに ‘dependent’、すなわち「依存」の関係にあるわけで、いずれも「非依存節」が原義たる ‘independent clause’ すなわち「独立節」とは見なされませず、さればとて、双方とも何ら「従属」するものに非ざれば、 ‘subordinate clause’ でもあり得ず、つまりは、‘independent’ と ‘main’、 ‘dependent’ と ‘subordinate’ をそれぞれ同義とするのは不当、ってな理屈なんでした。

他方、たとえば
 

The food was delicious and the wine was excellent.

 
といった、ごく素直な重文においては、前後の両節とも ‘dependent’ でも ‘subordinate’ でもなく、自動的に ‘independent’ であると同時に ‘main’ である、ということになるのですが(「等位節」が「主節」の対立概念であるかの如き日本の一般的な英文法とは相容れない文言?)、こうした、前後両節に共通の動詞を含む重文では、しばしば後者のそれを示さず、
 

The food was delicious and the wine excellent.

 
という節約表現が頻用されます。‘ellipsis’(省略?)ってやつ? まあ、言わずと知れたことは言わぬが花、ってことでもなかろうけれど、同語の重複を避け、1つありゃ充分じゃん、ってんで繰返しになるほうを端折っちゃうのは、特段横着ということもなく、口頭でも文章でもよく用いられる言い方ではあります。

で、この場合、その動詞を省かれた後節が、依然として ‘independent’ であり続けるのか、そうではなく、これを前節に依存するものとして ‘dependent’ とすべきか、というのが研究者の間でも意見の分かれるところなんだとか。前者の説では、単に自明の動詞を敢えて示していないだけで、別に消滅したわけではないのだから、依然 ‘independent’ であるは明白、ということになり、後者の言い分だと、その省略された動詞は前節のほうに含まれるため、これは前節に依存するものであると見なすが至当、みたような塩梅かと。

あたしゃどっちでもいいんですけどね。しかし「主語と動詞(述語)を有するのが節」との旧来の定義に従えば、動詞を欠いているという時点で、独立も依存もなく、そもそも節の体を成すまい、ってことにもなっちゃいそうなところ、実はこの「主語と動詞の揃い踏みこそ節の要件」っていうのも、既に古めの文法意識。節か否かの前に、その両者が揃ってなくたって(あるいは両方なくても)立派に文として罷り通る例は枚挙に堪えず。実のところ、「節」と「句」、 ‘clause’ と ‘phrase’ の区分も、近年は一見緩んでおるのです。いや、「緩む」なんて言い方は穏当を欠くもので、むしろより科学的な、分析精度向上の所産と申すべきかと。

単なる語の連なりが一定の意味を有するものを「句」だとすると、たとえ明示はされずとも、表される意味に主述の関係が内包されると認め得るのが「節」……って感じでしょうか。すみません、今考えて勝手にこう書きましたが、もっと精密な解説も可能な筈。ま、とりあえずはこんなところでご容赦。

とにかく、外見上動詞がない、あるいは主語がないからと言って、即座に ‘clause’ ではなく ‘phrase’ なるべし、ってのはちょっと旧弊な了見、ってこってす。てこたあ、それぞれの訳語とされる「節」と「句」も、やはり今どきは原語たる英語とは定義に齟齬があるってことになりましょうか。それもあたしにゃもうどうでもいいんですけどね。
 
                  

さてと。今回のこの「主節談義」、眼目は、前回述べておりましたように、「主節」って言い方が何かと不便なので、今どきの(ちょっと凝った?)文法書では、旧来の ‘main clause’ に加え ‘superordinate clause’ と ‘matrix clause’ という言いようが頻用され、前者が後者をその一部として包摂するものとして説いている、ってことなんでした(わかりづらいか)。とにかく、ここまで縷々(ダラダラと)述べてきて、漸く今その肝心な話に言及しようとしております次第。我ながらほんとに話が長過ぎる。毎回的を絞らぬまま思いついたことを次々と書き散らしちゃうもんで……。わかっちゃいるけど、もうどうすることもできませず、反省のしようとてございません。と、とりあえず居直っときましょう。

ではその「旧」主節に対する2種類の ‘clause’ について。これが上手く説明できれば、とりあえず当面の論題、「主節という訳語の是非」にも何とかケリがつくってなもんで……。どうでもいいけどやっぱり長えよ、とは重々承知。
 
                  

前回申し上げましたとおり、日本語ではどう訳されてんのか知らないんですが、今どきは(だいぶ前から)、複文の説明において、上記 ‘superordinate clause’ と ‘matrix clause’ という2つの用語が充当されるのが普通です。日本では未だに支配的な従来の「主節」、すなわち ‘main clause’ の定義である、複文全体を成す2つ(とは限らない筈ですが)の節のうち、従属節= subuordinate clause を従えるほう、という意味ではなく、その「主従」をひっくるめた全体をこそ ‘main clause’ とて括る流儀では、旧来の ‘main clause’ を ‘matrix clause’ と称する、って感じになってんです。

たとえば
 

I asked him what he was going to be when he grew up.

 
という、口頭でも日常的に用いられるような、つまり結構素朴な複文における ‘what he was going to be’ は、その前の ‘I asked him’ という節に対しては「従位」にありながら、後続の ‘when he grew up’ に対しては間違いなく「主位」ということになり、そうなると、もはやこの比較的単純な文においてすら、「主節」だ「従属節」だという議論は有効性を失する、といったところでして。 

因みにこの例文、実は Hunter Davies 著 ‘The Beatles’ からの引用で、 ‘he’ は5歳当時のジョン・レノン、 ‘I’ は父のフレッドなんです。ほんとはこのあと ‘that sort of thing’ と続き、つまりは「そういうようなことを話した」という回想なんでした。

それはさておき、こういう、いわゆる ‘multiple subordination’(多従属? 多従位?)状態の複文において、いずれが「主」か「従」かという曖昧さを解消するのが、 ‘main’ に対する ‘superordinate’ および ‘matrix’ という2つの語、あるいは概念の導入……なんじゃないかしらと。

一般的な日本式英文法における「主節」とはちょいと了見が異なる(と思われる) ‘main clause’、すなわち「複文における従属節と対をなす部分」ではなく「従属節を一部として包含する全体」を指すとする理論では、その ‘main clause’全体(文全体?)が ‘superordinate clause’ ということにもなり、その理屈の下で暗躍、じゃねえや、活躍するのが、もう1つ新たに導入された ‘matrix clause’ という、昔はそれも区別なく ‘main clause’ としか呼びようのなかったやつ。 ‘superordinate clause’ という全体にとっての下位区分の1つである ‘subordinate clause’ と対を成す、 と言うか、それを従える立場のもう一方の部分、つまり主たる節のほう……って、自分で書いててこれじゃわけが知れねえな、とは思いつつ。
 
                  

とりあえず上掲のフレッド・レノンの台詞に寄りかかって説明を試みましょう。この文全体、 ‘main clause’ は、それを構成する各節にとっては ‘superordinate clause’、 最初の ‘I asked him’ が、それ以降の全体に対する ‘matrix clause’で、それ以降の全部、すなわち ‘what he was going to be when he grew up’ がその ‘matrix clause’ に呼応(従属)する ‘subordinate clause’ といった塩梅。

一方その ‘what he was going to be when he grew up’ もまた複数の節から成っており、これもその複数(2つ)の節にとっては ‘superordinate clause’ であるとともに、前半の ‘what he was going to be’ は後半の ‘when he grew up’ に対する ‘matrix clause’、その ‘when he grew up’ が ‘subordinate clause’ ……という図式。

「図式」なんて言っちゃったけど、ほんとにこれ、実際に図示したほうが遥かにわかり易いだろうとは先刻承知。でもそれが存外厄介でして。まあ定義としては、 ‘superordinate clause’ から ‘subordinate clause’ を差し引いたのが  ‘matrix clause’ ってことにはなりましょう。
 

I asked him what he was going to be when he grew up: 
大きくなったら何になるつもりか訊いた [main clause (superordinate)]
 
= I asked him: 訊いた (matrix)
 
+ what he was going to be when he grew up:  
大きくなったら何になるつもりか (subordinate)
 
といったところでしょうか。で、この ‘subordinate clause’ だけを切り分ければ、それがまた以下のようにはなるという寸法。
 
= what he was going to be: 何になるつもりか (matrix)
 
+ when he grew up: 大きくなったら (subordinate)
 
……なんて書いたところであんまり意味ねえか。ふ~む。

                  

でもまあ、とりあえずはこういう構図により、場合によっては多数の節から成る複文の分析においても、いずれを指して ‘main’ =「主」と呼ぶべきか惑うには及ばず、ってことにはなろうかと。……ってわけにもいかないか。「主節」同様、 ‘main clause’ も以前複数の語義で現役なんでした。従属節を自らの一部として包含するのではなく、それを従える立場の節が「主節」である、という理論を踏襲すれば、単純に ‘matrix clause’ は ‘main clause’ の言い換え、ってことになりますが。

[追記]おっと、さんざんエラそうにこうは記しましたが、どうもこれ、既にだいぶ遅れた説明らしいってのを、さっき何気なく覗いた英米の文法サイトで気づいちゃいました。なんせもう十数年に及ぶ貧乏暮し、数少ない道楽である、英語について書かれた英語の本を読むっていう愉楽にも無沙汰を決め込んどりまして、上に書き連ねた説明も、思えば既に30年近く前、イギリスの姉や姪を訪問したついでに、自分への土産として買って来た本の記述に基づくものだったんでした。

とりあえず、 ‘superordinate clause’ および ‘matrix clause’ の定義は、その後かなり「進化」しておりますようで、まあ同時にそれは、いよいよ相反する複数の理論が併存してる、ということでもあるのですが、いずれにせよ上述の理屈はもはやちょいと「粗い」というのがほんとのところかも。この2つの語に加え、そのどちらとも違う意味で ‘main clause’ を用いている例もあり、実は前よりもっといろいろってのが実態の模様。

今世紀になってから発表された ‘CGEL’ こと ‘Cambridge Grammar of the English Language’ も、是非欲しいところなれど、やはりこうも金がないんじゃとてもそんな贅沢は……ってんで、読まずじまいのままなんですが、どうも評判高きその文法書では、‘main clause’ を上に記したような複文全体の意で用い、 ‘matrix clause’ はやはりそれから ‘subordinate clause’ を取り去ったもの、という扱いだそうで。

しかし今どきはむしろ、他の節を包含する節、たとえばそれ自体が従属節を含むより大きな従属節、ってなもんを指して ‘matrix clause’ とは言うのがよほど普通らしい。上で述べた ‘superordinate clause’ こそが ‘matrix clause’ てえ塩梅。その場合はどうも、その ‘matrix clause’ に包摂される、言わば下位の節は ‘embeded clauses’ とされるようですが、定義の不統一は相変らずだったんですね。「主節」という訳語もピンボケになろうてなもんで。

ときに、自ら無政府主義者を標榜し、近年は革新系の思想家としての知名度が高いような米国の言語学者、Noam Chomsky が50年代に提唱し、その後の当人の著書では飽くことなく修正が加えられ続けた ‘(transformational) generative grammar’、「(変形)生成文法」においては、 ‘embeded clause’ がいわゆる ‘suburdinate clause’ のことであり、 ‘coordinate clause’ は ‘conjoined clause’ ということになるような。しかし、 ‘to embed’ という他動詞は、何によらず「~を一部として含む」という意味なので、文法では「節」に限らずさまざまな意味で使われるというのが実情。多くの文法書における ‘embeded clause’ は、 ‘subordinate clause’ と一部語義が重なるとは言え、決して同義語とは言えない、ってところですね。

チョムスキーと言えば、下拙が幼い頃には日本でもかなりの「ブーム」を巻き起こしたようで、その後は「英語至上主義者」というような浅薄な批判によってか、一時の人気は失われた、などと仄聞致します。専ら他書での引用で読み齧るのみで、本人の著書は未読です。でも、英語を例に説くのは、単にそれが当人の母語だからではないかと。いずれにしろその「文法」は、日本で未だに通用する「規範」などとはまったく対極のもので、人類を人類たらしめる、全人類共通の先天的言語能力をこそ指す、ってところではないかと了見致します次第。個々の言語における個々の文法は、後天的要因によって形成される特定の法則、とでも申しましょうか。

ともあれ、百年一日の如き日本の規範的英文法に対する揶揄という不毛な狙いにおいては、とりあえず先述の屁理屈も依然有効なんじゃないかと。負け惜しみってやつ?

それにつけても、今どきはウェブを念入りに覗けば、金がなくても結構な情報が只で得られる、ってのがわかったのはちょいとした怪我の功名……だったりして。
 
                  

さて、この長談義の眼目って、実は今言ってた部分のみ、たったこれだけの話だったんですね。自分でもビックリ。思いついたことはとにかく全部書いとこうとするのは、やはり生れついての貧乏性によるものと思召されたく。ほんとにそんな気がしてきた。

ついでのことに、あらずもがなの蛇足を今1つ。 ‘subordination’ と言うと、文法では専ら(たぶん) ‘subordinate clause’、すなわち「従属節」の従属ぶり、他に従う(be subordinate to ...)状態を表すのに対し、 ‘superordination’ と言った場合は、どうも「節」という統語論(syntax)的な話とは無関係に、専ら意味論(semantics)の用語として使われてるんですね。

何のことかと申しますと、語彙の階層における上位(つまり ‘super-’)の語が、下位(‘sub-’)のものに対して ‘(be) superordinate to ...’ ということになり、そういう状態を指して ‘superordination’ とは称するということなんです。でも下位のほうはその上位のほうに対して ‘subordinate to ...’ とは言わないような。それは専ら ‘clause’ どうしの関係に用いられる言い方であると思われます。

それもその筈、意味論におけるこの ‘superordinate’ の対義語は ‘subordinate’ ではなく ‘hyponymous’、 ‘superordination’ の対義語は ‘subordination’ ならぬ ‘hyponymy’ なのでした。
 
                  

てえか、これじゃ依然何のことかわかりませんな。

たとえば「動物」という語は「犬」や「猫」に対して ‘... is superordinate to ...’ という「立場」にあり、その立場を表すのが ‘superordination’ という名詞、ってことなんですね。そんで、「動物」は「犬」「猫」にとっての ‘hypernym’、「犬」「猫」はそれぞれ「動物」にとっての ‘hyponym’、「犬」と「猫」は共に「動物」に対する ‘co-hyponyms’ てな塩梅。

‘superordination’という言葉自体は、17世紀初頭に形容詞の ‘subordinate’ をもじって考案されたという ‘superordinate’ の名詞形であり、当然昔からあったわけですが、これが意味論の用語として登場したのは 1977(昭和52)年。John Lyons という英国の言語学者が自著において、上記 ‘hypernym’ に付随する性質を表す ‘hyperonymy’(‘hypernymy’ とも)が、その対義語である ‘hyponymy’ に語形が近似し混乱を来し易いため、前者を指すのにこの ‘superordination’ を提唱した、ということなんでした。 ‘subordination’ とは異なり、言語学用語としてはこの  ‘hyperonymy’ の代替用法と撞着する例が稀だったから、とのことらしい。40年ほど前、高校出たての下拙が遊び暮らそうと……ではなく、英語修行のために渡英した年の本なんですね。ちっとも知らなかったけど。
 
                  

いやまた、ついでにしちゃあ随分と長えな、とは百も承知。でも毒を喰らわば何とやら、もうちょっと余談を続けちゃいます。この ‘hyper-’ と ‘hypo-’(ギリシャ語由来) は ‘super-’ と ‘sub-’(ラテン語由来) に対応する接頭辞で、要するに「高」「低」とか「上」「下」みたような感じ。でもこの2つ、北米では ‘r’ が容赦なく発音されるから問題ないんだけど、英音の場合はぞんざいに言うと区別がつかなくなっちゃったりするんです。 ‘hypertension’ も ‘hypotension’ も似たような音ってのは、ちょいとあぶねえような話ではあるような。なんせ「高血圧」と「低血圧」ですぜ。 ‘hyper(o)nymy’ と ‘hyponymy’ の混同よりよっぽどヤバいのでは、って気もするけど、言語自体を議論の対象とする(机上の?)学問よりは、基本的によほど臨床的なのであろう医療関係のほうが、音声言語への依存度は低い、ってことでしょうかしら。そんなこた知らないけど。

                  

蛇足終り。てことで、次回は本当の本題だった筈の「仮定法」についての駄論に戻ります。たぶん。

0 件のコメント:

コメントを投稿