2018年6月18日月曜日

‘7 sentence patterns’ 対 「5文型」その他

前回も丸ごと逸脱ネタではありましたが、毒を喰らわば何とやらてえ風情で、今少しさらなる蛇足を加えときます。

日ごろ己が身のほどをも顧みず揶揄しております日本式英文法における「動詞」としては、例の「5文型」の説明で用いられる大文字の ‘V’ ってのもありましたね。 ‘S’ だの ‘O’ だの ‘C’ だのと同様、文を構成する要素を指すやつで、当然単語の動詞とは限らないのはご承知のとおり。この場合の「動詞」、つまり ‘V’も、あたしが勝手に専ら ‘verb’ として語ることにしているものと違うのは、もはや言うに及ばざるところかと。

まあ、その5つの文型(文の型というより動詞の種別?)というのも、やはりまたかなり旧式の「粗い」理屈ではあり、今日の英語圏では、初歩的な文法でも常に ‘A’、すなわち ‘adverbial’ という要素の有無が構文の区分には必須、ってのが通例なんです。ところが、これもやっぱり、たまたま日本の英文法サイトを見たら、「7文型なんていう分類に意味があるのか」などと、寝ぼけたことぬかしてる野郎がいやがって、いったい何をどうすりゃそこまでものがわからないまま暮してられるのか、などと、またも冷笑を禁じ得ませず。いや、暮してるだけじゃなくて、己が蒙をも顧みず、エラそうにも不特定多数に向けて規範を垂れようてんだから、屋根屋の褌も斯くや、ってほどの見上げた倨傲ぶりに非ずや、ってなもんで。

……威張り腐ってんのはどう足掻いても俺のほうじゃねえか。まあ、そいつぁ生れつきってことでひとつ。
 
                  

閑話休題、ひとまずは昔懐かしいその「5文型」を並べときますと、 ‘SV’、 ‘SVO’、 ‘SVC’、 ‘SVOO’、 ‘SVOC’ ……だったかな。どう習ったか、順番は忘れちまったい。だから「第何文型」なんて言われてももうわかんなかったりして。

とにかくまあ、 S、 V、 O、 C の4つの要素を適宜組み合せて都合5つの文型とはなるという理屈。でもこれ、まず2種類の ‘O’ と ‘C’ が同じ表記になっていて、果然それぞれの組合せに応じた4種、およびそのいずれとも無縁の1種を合した5種類の ‘V’ も全部一緒くた。まあ、略記ではあるわけだし、「文型」の違い、ってより動詞の種別を説く上では、やれ「完全自動詞」だの「不完全他動詞」だのと、5つに言い分けてんだから、まあいいかってところではありますけども。

いずれにしろ、これに加え、第5の要素たる ‘A’、 先述の ‘adverbial’ ってのを閑却したのでは、画竜点睛を欠くどころか、不完全の極みであろう、というのが、本場ではここ数十年の間に、初歩的文法でさえ前提となっている理屈なんです。日本的な旧式5文型教義では、「副詞(相当語句)」なんざ、単なる付加物扱いで、構文要素とは見なされません。 ‘modifier’ =「修飾語句」ってんで、 ‘M’ と略記して添える例もありますが、依然旧来の4要素と対等の身分ではないってのがその「5文型」主義。
 
                  

で、これのどこが「粗い」のかってえと、たとえば

 I live.

とだけ言うと、それは紛う方なき第1文型(それだけは順番間違える気遣いもなく)、 ‘live’ は「完全自動詞」てえやつでげしょ? でもこれが、

 I live here.

となったら、その ‘live’ の意味が明らかに変っちまうじゃねえか、ってことなんですよ。「生きる」と「住む」がどちらも ‘to live’ ってわけで、それを分つのが ‘A’ たる ‘here’ の有無という次第。これがたとえば

 I live in London.

でも事情は同じ。だけど

 I live this way.

てえと、「生きる」でも「住む」でも「暮す」でも、結局どれでもいいような話で、そこはまあ、元が同じ ‘to live’ っていう動詞ですから。

ともかく、単語だろうが複数語だろうが、1個の副詞として動詞あるいは文の作りに多少とも影響を及ぼすやつは容赦なくこの ‘A’ という第5の要素ということになり、近年の(何十年も前から)英語の文法書の類いでは、

 1. S + V
 2. S + V + O
 3. S + V + C
 4. S + V + A
 5. S + V + O + O
 6. S + V + O + C
 7. S + V + O + A

の7種に区分するのがほぼ共通のやり方になっとるわけです。 ‘O’ に関しては、上記7つの型のうち、唯一それが2つ並んだ「第5型」における2つめを ‘IO’、すなわち ‘indirect object’、それ以外は悉く ‘DO’、 ‘direct object’ と明記した例もあり、 ‘C’ についても、「第3型」のやつを ‘Cs’ 、 「第6型」を ‘Co’ のように書き分ける方式もあります(本当は ‘s’ や ‘o’ は下付き)。小さい ‘s’ はもちろん ‘subject’ の、 ‘o’ は ‘object’ の略ってことで。

で、旧来の(日本では未だ旧態依然?)「5文型」方式では、この ‘A’ をどこまでも修飾部分、つまりあってもなくても動詞や文の根幹には関りない枝葉末節として切り捨ててるってわけです。まあ場合によるとは言え、それがあるとないとでは、動詞自体の意味が変る(こともある)ってなもんで、「飾りじゃないのよ、副詞は」とでも言いたいところ。本当に必須か否かは、飽くまで当該の事例による、とも言えそうですけど。

定義の仕方にもよりましょうが、単に ‘A’ と言った場合は、何気なくいくらでも並べることもできますね。

 I live here in this part of London quite happily.

とか。でも、文型とか動詞の別を決するのは、この例だと最初の ‘here’ だけで、残りの2つ、 ‘in this part of London’ および ‘quite happily’ はただの付足し。 ‘here’ を言わなければ、次の ‘in this part of London’ がそれに代って必須の構文要素とはなるてえ寸法で。

それが、我らが5文型宗旨の下では、副詞に類する文句は悉く景気づけのおまけに過ぎない、ってことになるので、上のちょいと諄い文も、最初に掲げた ‘I live.’ っていう素っ気ないやつも、ともに「第1文型」であることに変りなく、動詞の ‘live’ も等しく「完全自動詞」とは相成るという仕儀。

なお、 ‘A’、 ‘adverbial’ は、飽くまでその必須要素を指し、それをも含んで、それこそ単に「副詞相当語句」、つまり付足しの修飾語句をも包摂する、言うなれば機能より形態を指す言い方としては、前回述べた ‘VP’、 ‘verb phrase’ だの  ‘NP’、 ‘noun phrase’ だのと同様、‘AdvP’ = ‘adverb phrase’ として峻別する場合が多いですね。たぶん、必須要素以外にも ‘A’、 ‘adverbial’ を用いるのは、より初歩的な学習者向けの表記、って気もします。わかんないけど。

‘NP’、 ‘noun phrase’ や、 ‘AdjP’、 ‘adjective phrase’ (‘AP’ とも)だって、やっぱり ‘S’ だの ‘C’ であるとは限らず、単なる修飾部分である場合も少なくない、って感じですね。前回も申しましたように、 ‘VP’、 ‘verb phrase’ を除くと、単語としての各当該品詞、つまり ‘noun’ だの ‘adjective’ だの ‘adverb’ だのが一切含まれなくても、‘NP’、 ‘AdjP’、 ‘AdvP’ とはなり得るという次第でして。
 
                  

どうも堂々巡りになってるような。この話は切り上げることと致し、この「文型」云々における「補語」、すなわち ‘C’ こと ‘complement’ って言葉についても、和英では以前からちょいとした祖語がありますれば、それについてまた要らざる御託を少々。

先ほど、 ‘SVC’ 型の場合は ‘Cs’、 ‘SVOC’ 型なら ‘Co’ のように書き分ける場合もある、てなこと言いましたけれど、別の流派ではまた、 ‘PCs’ とか ‘PCo’ (‘s’ と ‘o’ はほんとは上付きなんですが)という表記も用いられ、この ‘P’ は何かと申しますと、 ‘predicative’ の略なんです。

で、日本では今も昔も単に「5文型」における ‘C’、主語や目的語たる名詞の「補語」たる形容詞や別の名詞を ‘complement’ とは言い慣わしてんですが、それもまた随分と粗い括りで、英語の本見てると、大抵はそれ、 ‘predicative complement’ って言ってんですよね。「述部補語」とでもなるのでしょうか、またぞろ日本語じゃどう言うのか存じませず。

‘predicative’ ってえと、若い時分には専ら形容詞の用法、ってより位置を指す語として認識しとりました。 ‘attributive’と対語を成すものにて、前者がいわゆる「叙述用法」、後者が「限定用法」とかいうんじゃなかったでしたっけね。国語における「終止」と「連体」の違い、てなところかと。

 The girl is young.

が前者、すなわち ‘predicative position’、

 a young girl

が後者 ‘attributive position’ ということにはなります。で、前者の ‘predicative’ って、一見 ‘to predicate’ という動詞の形容詞形のようにも思われるものの、動詞としてはこれ、今じゃあ受動表現の ‘to be predicated on ...’、つまり「~に基づく」「~に依拠する」というほどの意味でしか普通は用いられず、それは独立当時のアメリカで使われ出した、結構新しい言い方なんだとか。

より古臭い語義では「断定する」とか「宣言する」とかってのもあるけれど、いずれも、前回も触れましたように、同綴ながら発音がちょいと違う文法用語の名詞 ‘predicate’ は、その古いほうの意味の動詞と同時期、16世紀が初出で、「主題について述べられたもの」というほどの意味だったとのこと。文法ってってな具合でして、そんでいちいち ‘PC’ のように表示したりする、ってことにもなるという次第。
 
                  

じゃあほかにどんな ‘complement’ があるんだよ、てえと、そもそもこの言葉、何かを ‘complete’ すなわち「完全」にするもの、ってな意味で、一般義としてはまず「他者の美点を際立たせるもの」みたような感じ。ロングマンの辞書、‘LDOCE’ には次のような用例が載っております。

 This wine would be a nice complement to grilled dishes.
 このワインがあれば、網焼き料理もグッと美味くなるね。

この意味の ‘complement’ は、同音同綴で動詞としても使われるんですが、ウェブには次の文言がありました。

 John and Paul did balance and complement each other magnificently, ...
 ジョンとポールは実際よく釣り合っていて、互いを見事に引き立てていたし、……

てな塩梅。さてその ‘complement’、 この「引き立てる(もの)」という語義に次いで、「(員数や数量の不足を)補完する(もの)という意味でも多用されるのですが、そっちのほうがより古くからの語義に近く、「充分な数量」という名詞は1600年頃が初出とのことです。でも、原義たる「完全にすること」という意味では、既に14世紀末から用いられていたとも言います。

なお、1字違いで同音の、「社交辞令(を交わす)」、ってより「お世辞(を言う)」って意味の ‘compliment’ も同根であり、その表記自体は1650年頃からとのことなんですが、その「お世辞」に類する名詞 ‘complement’ は、早くも1570年代が初出。「補完する(こと/もの)」を通り越して「不要な物を付け加える(こと)」というところからその意になったとは言うのですが、今どきの「盛る」ってやつにさも似たる言い方だったりして。動詞化されたのはこっちの「儀礼的な挨拶を交わす」「(心にもない)世辞を言う」ってほうが先で、初出は1610年代だそうです。

「補完する」という意味の動詞はちょいと遅れて1640年代が初出とのことですが、「挨拶」または「世辞」のほうがやがて ‘compliment’ と書き分けられるようになった、ということですね。その ‘compliment’、現代語では、口先だけの挨拶とかお追従の類いではなく、純粋な賛辞とか称賛の意味でも使われるんですが(てえか、そっちが基本義?)、それは19世紀初頭が初出ってことでした。
 
                  

……と言うか、またも油断して余談に溺れてしまいました。眼目は飽くまで文法における ‘complement’ だったんだ。で、いったい何にケチをつけようとしていたのかと言うと、日本的「5文型」方式の因襲では、 先述の ‘predicative complement’、「叙述的補語(?)」あるいは「述部補語(?)」を単に ‘complement' = ‘C’ と称し、宛然それだけが文法上の ‘complement’ であるという態度に対してなんでした。それ、またも今どきは随分と日本的な、ちょいと立ち遅れた認識なんじゃないかしらと。

もう40年近く前、イギリスで自分への土産として気紛れに買ってきた文法書を見てたら、中高で「目的語」として習ったものを ‘complement’ って言ってるじゃありませんか。当時は現地の学校で習ってたのもまだちょいと旧式の文法ではあったし(日本で習ったのよりゃだいぶ進んでたけど)、「目的語」が「補語」とはこれ如何に? と、ちょいとまごついたことではありました。

しかしその後、別の本を読んでいても、頻繁に ‘complement' が、いわゆる5文型方式の「補語」のことなんかじゃない、って記述に触れ、すぐに認識を改めたてえ次第。さっきまでの余談でいろいろ申しておりました、「他を補完するもの」というのが、文法においても ‘complement’ の基本義でありますれば、単純に、あれこれさまざまな「補完語句」がその ‘complement’ とはなり得る、ってオチなのでした。

と、またも何言ってんだか要領を得ない書きようだとは承知しとります。上述の「目的語が補語って何よ」ってのはこっちの勝手な思い込みだったということでして、それは、中高で習った、つまりは日本語で説かれた英文法における ‘O’ と ‘C’ の話に過ぎず、 英語じゃあそうは行かねえ、ってだけのことなんですよね。

「あれこれさまざまな」と上で申しましたが、一例を述べますと、他動詞の目的語、 ‘object’ ってんだって、言わばより大局から見れば、 その他動詞にとっての必須要素たる「補完物」、つまりそれがなくちゃ話にならねえてえ ‘complement’ には違いなく、って理屈なんでした。

何にしろ、統語上他の語句にとってなくてはならぬものはすべて ‘complement’ であり、動詞のみならず、名詞や形容詞に対する ‘complement’ は枚挙に堪えませず。他動詞と同様、前置詞の目的語も、やはりその前置詞の ‘complement’ には違いない、という理屈。
 
                  

下記の例は、まったく恣意的なもので、用法も順不同ってところですが、ボールドで示された部分はいずれも、それぞれ斜体を施した直前の語句にとっての ‘complement’、ということなんです。
 
 Daddy you're a fool to cry.
 Pleased to meet you.
 I'm sorry that I made you cry.
 They're fond of each other.
 The fact that I have no money is too clear.
 Her decision to quit the group shocked me.
 on the surface
 out of the blue
 
どれもまったくいいかげんに思いついたものですが、最後の2つ以外は何とか文の体裁に致しました。3つめまでは歌の文句からの引用ですけど。

流儀によっては、従位接続詞が従属節を「目的語」とする前置詞であると論じ、その場合は従属節が接続詞の ‘complement’ ということに。また歌の文句を使いますが、

 Wake me up before you go.
 Though I see, I don't stare.

といった具合です。さらには、主語が動詞にとっての ‘complement’ であると説く例もあり、いずれにせよ、日本古来の5文型式の「補語」が ‘complement’ だと思い込んだままでは、話がわかんなくなっちゃうこと必至、とは申せましょう。

で、その日本式「補語」のことは、 ‘predicative complement’ と呼ぶのが普通で、単に ‘complement’ とだけ言ったのでは、上述の如き「大局的」な ‘complement’ と区別がつかない、ってところですかね。
 
                  

……調子に乗ってまたぞろああだこうだと余計な話にばかり興じてしまいました。結局のところ、今回は ‘complement’ がいわゆる「補語」だと思っちゃいけねえよ、ってことが言いたかったのかしら?

そもそもこれ、 ‘tense’、「時制」って言葉についてあれこれ書き散らすつもりだったのが、その話の前にまず ‘finite’ と ‘marked’ ってもんについて言っときたくなり、その1つめの ‘finite’ の話を始めたところ、今度は ‘verb’、「動詞」という用語の定義が気になり始め、引続きそれについて書いてたら、今の ‘predicative’ がどうの ‘complement’がこうのてえ与太話にまで流されちまったという体たらく。野放図にも程があろう、と承知してはおるのですが、無計画を極めている上、生来の貧乏性のために、途中で思い出したことは極力詰め込みたくなっちゃうもんで。そりゃ収集がつかなくなるのも当然か。

可及的早期に決着をつけようとは思ってます。ひとまずは所期の話柄たる ‘marked’ って語についての能書きはやっつけとかねえと、とは思いつつ、なんかこないだも「いずれまた」とか言っちゃった、「動詞句」≒ ‘verb phrase’ と「句動詞」 = ‘phrasal verb’ はまったく別、って話にも、とりあえずは片をつけとかなくちゃなるめえ、って気がするんで、次回はちょいとその話を。そんなに長くはならねえ筈です。

……あまいか。

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