‘VP’ すなわち ‘verb phrase’ については、対応すべき訳語である「動詞句」が概ね「述部」全体を指すのに対し、英語の文法書ではむしろ、その述部の中の動詞部分(述語動詞?)のみを指す場合が多く云々……という、またぞろどうでもいいことを長々と書き連ねたのが前々回の投稿……だったと思いますが、その「動詞句」に対し、「句動詞」と訳される、いずれにしてもまったくの別概念である ‘phrasal verb’ というやつについて、さらなる無用の書き込みをしようとの、またしてもまったく要らざる目論見。
この ‘phrasal verb’、中高の時分には、なんか「熟語」とかいう言い方もされてたような気がするんですが、単体の動詞(単語としての、つまり基本的な品詞名としての ‘verb’ ってことで)に、単体の副詞あるいは前置詞、またはその両者が連なって、それぞれ特定の意味を表すもの……とはまた、相変らず要領を得ない言いようで毎度恐縮ではありますが、とりあえずその場合の副詞や前置詞は ‘particle’、あるいは ‘adverb(ial) particle’ とは呼ばれます。 ‘particle’ の原義は「粒」ってほどのものなんですが、文法では「非活用小辞」とでもいったところかと。
「句動詞」の素材だけではなく、不定詞に冠せられる ‘to’ のこともしばしば ‘particle’ と呼ばれるのですが、不定詞、すなわち動詞の原形は、どう足掻いても名詞には見えないので、その前の ‘to’ は、名詞や代名詞(の目的格)の前に置かれるべき「前置詞」とは名乗れまい、というご尤もな理屈。かと言って、これを副詞ってのも妙だし、ってんで、まあ「粒」扱いとはしておくか、ってところですかね。知らないけど。ああ、こっちは ‘adverb(ial)’ と区別するため ‘infinitival particle’ とも言うようですね。
それより ‘phrasal verb’ の話。ちょっと例を挙げればこれ、 ‘come on’ や ‘go away’ のような朴訥そうなやつから、 ‘come off’ =「うまく行く」とか ‘go down’ =「意見が通る」というような、ちょっと癖のあるものまで、まあいろいろではあります。とにかく、そういった連中が大雑把に ‘phrasal verb’、「句動詞」とは総称されているというわけでして。
ただし、流派によっては、ちょっと想像のつかないような意外な意味を有するもの以外は ‘phrasal verb’ の名に値せず、とする見解もありますものの、そいつぁちょいと文法的じゃない、てえか、明らかに統語論ではなく意味論的な拘りに過ぎぬは明白。てことで、ここではひとまず意味は度外視し、専ら構文的な見地からあれこれ述べる所存。だいいち、何が意外かなんてのは、もとより人それぞれじゃねえか、てなもんで。
いずれにしても、 単体の動詞、あるいは1つ以上の助動詞の末尾にそれが連なって1個の動詞、と言うより述語として機能する ‘VP’、 ‘verb phrase’ ≒「動詞句」と、この ‘phrasal verb’ =「句動詞」とがまったくの他人どうしだってことはご承知頂けましたでしょう。前々回「またいずれ(たぶん)」と、先延しにした話は2つあったんですが、先に言及していたのはこの「‘verb phrase’ と ‘phrasal verb’ は別物」ってほうでしたのに、改めて触れるのはこっちが後回しになっちゃったんでした。まあいいでしょう。
あれ? てことは、以上で今回の与太話はおしまい……かと思うとさに非ず。実はそれより、その ‘phrasal verb’、「句動詞」という括りが随分と粗っぽいものだということのほうが、どうやら今回の主旨のようでして。……と、自分で書いときながら相変らずの場当り方式。重ねて恐縮には存じつつ。
とまれ、今回無益にも論おうとしておりますのは、単純に「句動詞」として括られている種々の固定句に対し、またぞろ英語の文法書なんかを見てると、当然のように結構細かい分類が施されてる、ってな話でして。
‘phrasal verb’ という言い方は、いわゆる ‘umbrella term’ (総称? 包括的用語?)というやつで、複数の概念または用語をひっくるめた、やはり大雑把なものと言わざるを得ない代物ではあります。当然、訳語である「句動詞」もまったく同じなんですが、自分が疎いだけなのか、その包括された下位区分、あるいは細目といったものが、それぞれ本邦でどう呼ばれているのかはまたも存じませんので、以下、いちいち英語で記して参ることになります。ちょいとめんどくせえけど、まあしかたがねえ。
てえか、やっぱり何言ってんのかよくわかりませんでしょう。ざっと申さば、動詞に副詞や前置詞を付したのがその「句動詞」ってことんなってはいるけれど、副詞と前置詞じゃ一緒くたにゃできめえよ、ってなもんで、英語の記述では多くの場合、とりあえず ‘phrasal verb’ は ‘verb + adverb’、つまり「動詞+副詞」 にのみ用い、前置詞と抱合せのほうは ‘prepositional verb’ (前置詞動詞?)として区別するのが、割と初歩的な文法でも普通になってまして、ここでもやはり日本語の英文法における「句動詞」の粗放ぶりは明らか……とはまた、相変らず言い方がエラそうなのは重々承知。すみません。
いずれにせよ、単語としての ‘verb’ に、先述の ‘partilcle’ を(1つ以上)連ねたものを指して ‘phrasal verb’ とするのは、かなり粗い総称に過ぎない、という認識がまずは肝要ではないか、ってことなんです。 ‘umbrella term’ としての類語には ‘compound verb’ (複合動詞?)なんてのもあるんですが、今どきはそれ、 ‘multi-word verb’ (複数語動詞?)ってほうがよほど普通。文法用語も不断に、より現実的、実用的なものに改められているってことで、その流れに日本の英文法はなかなか追いつけずにいる、ってところかと。
まあいいや。とにかくその ‘multi-’ って言い方だと、 ‘phrasal verb’ は完全にその下位区分となり、概観すれば、 ‘phrasal verb’、 ‘prepositional verb’、 ‘phrasal-prepositonal verb’ の3種を包摂するのが ‘multi-word verb’、ということにはなりましょう。順に、「動詞+副詞」「動詞+前置詞」「動詞+副詞+前置詞」のことであり、前2者は ‘two-part verb’、 後者は ‘three-part verb’ とも称されます(‘two-part word’、 ‘three-part word’ とも)。
重ねてお断り致しますが、それぞれ日本語にはどう訳されてんのか、寡聞にして存じません。日本語の「句動詞」に当る大雑把な ‘phrasal verb’ に対する、もうちょっと気の利いた言い方が ‘multi-word verb’、ってことにはなるような。
さて、ここまでは、大雑把な総称としての ‘phrasal verb’、「句動詞」の分類などについて、これまた大雑把に申し述べて参ったわけですが、そういった仕分けのような話より、実は「動詞」としての挙動の違いってほうが気になるのでした。以下、それについてまたちょいと所思を開陳して参ろうかと。どこまで行っても場当り式を脱すること能わず……ま、それはしょうがないですね、もう。
ひとまず、英語の動詞には ‘transitive’ と ‘intransitive’ という2つの大きな区分がある、ってなところから申し上げることに致しましょう。 ‘transitive verb’ が「他動詞」、 ‘intransitive verb’ が「自動詞」とは訳されておりますものの、いずれも国文法におけるそれらとは別物、ということについても、なかなかちゃんと認識されてはいないようで、結構それも厄介だったりはします。
実は今ちょっと、ロングマンの辞書に倣って、 ‘transitive (verb)’ を [T]、 ‘intransitive (verb)’ を [I] と略記しようかと思ったんですが、読みづらそうなので止すことにしたんでした。
それより、国文法と英文法の共通用語の違いなんかについて言い出した日にゃ、またぞろ止め処もなくなっちまいそうなので、ごく大まかに述べとくだけにしときます。
国語の「自他」が、言わば徹頭徹尾意味論的な区分であるのに対し、英語では飽くまで統語論的に二分される、ってなことになるかと。「を」は目的格助詞かと思って油断してると、「越える」はそれに連なっていても自動詞、「越す」なら「を+目的語」なんかなくったって他動詞、ってなもんで、そこが、‘object’、「目的語」 の有無で ‘transitive’ か ‘intransitive’ かが画然と分れる英語とは大違い、という次第。
たとえば、「歌う」という動詞は、何を歌うかを示さなくとも、歌うからにはとにかく何らかの歌うべき対象(ったって、十中八九「歌」に決まってっけど)がある筈だから他動詞には違いない、ってのとは裏腹に、英語の ‘to sing’ の場合は、 ‘Sing a song.’ なら ‘transitive’、 ‘Sing.’ だけなら容赦なく ‘intransitive’、 ということなんです。
「歌え」って言われたら、歌うことができるのはどのみち「歌」だけだし、日本語で「歌を歌え」ってのと同様、‘Sing a song.’ も ‘Sing.’ も意味はおんなじじゃん、とは思われますものの、日本語の「歌う」は、その「歌を」があろうとなかろうと常に他動詞であるに対し、英語ではこの ‘a song’ がなければ不可避的に ‘intransitive’、って理屈。英語では意味は関係なく、徹底的に文法的、と言うか統語的な基準によってのみ、 ‘trnsitive’ か ‘intransitive’ かが分れるという仕組みで、要するに英語と国語の「自動詞」「他動詞」(順番逆ですけど)を一緒にしちゃいけねえよ、ってこってす。
いけねえ、結局また話が長くなりかけちまった。国語のほうはもういいでしょう。英語の話に専念致します。
これ、語形から知れるように、「他」と訳される ‘transitive’ のほうが基準で、「自」ということになっている ‘intransitive’ はその対義語、ってより否定形。「~を越える」とか「~を通る」とかってのが語源で、言わば「他方に渡る」「他者に及ぶ」のが ‘transitive’、そうじゃないのが ‘intransitive’ ってな雰囲気。その、「及ぶ」先の「他者」が ‘object’、「目的語」ってことになるわけですが、これもまた、前回いろいろ申しました「補語」に限らない ‘complement’ という観念に包摂されるもので……ってなこと言ってるとまた話が厄介になるだけなので、ここではその言い方には触れぬことにしときましょう。
さて、「ひとまず」などと言いつつ、そもそもなぜこの「自他」談義なんぞを始めたかと申しますと、懸案である ‘phrasal verb’ こと ‘multi-word verb’ の細目を成す3つの区分にも、 ‘transitive’ か ‘intransitive’ かの峻別が肝要ではないか、みたようなことでして。ちょいと言い方が大仰だし(そりゃいつものことか)、何せこれ、意味ではなく統語上の区分でありますれば、「熟語」としての使いようを習得する上ではあまり用のない観念……とも思われますけれど。
単に慣用句ってんなら、中高生の頃にもいくつか目ぼしいものは習い覚えたし、当時は意味がわかりゃそれで充分だったから、いちいち統語則に照らした区分なんてもんにゃ一向頓着せず。てえか、教える側が大雑把に「句動詞」とか言っちゃってんだから、そりゃしょうがねえでしょ。試験にもそんな議論は関係なかったし。
とにかく、その ‘transitive verb’ と ‘intransitive verb’ の別が、個々の事例、つまり各「句動詞」の意味や用法によって分れるってことなんですが、やっぱりこんな言いようじゃ何のことやらわかりませんね。また例を挙げて述べることに致しましょう。
まず、形態としては簡素とも見える ‘two-part verb’ ですが、先述の如くこれは‘(lexical/full) verb’、「(本)動詞」に ‘[adverb(ial)] particle’ を添えたもので、その添え物には(単体の) ‘adverb’、副詞もあれば、 ‘preposition’、「前置詞」もあるという次第。その2種に加え、 ‘adverb’ と ‘preposition’ を連ねた ‘three-part verb’ もあり、順に、(狭義の)‘phrasal verb’、 ‘prepositional verb’、 ‘phrasal-prepositional verb’ とも称する……って、そりゃさっきも言ったっけ。
例を挙げるんでした。たとえば、
give up
というごく素朴な ‘two-word verb’ の場合、この ‘up’ は基本的に副詞であり、副詞には、 他動詞だの前置詞だのには必須の目的語ってものがないから、この慣用句もまずは ‘intransitive’、「自動詞句」とはなります。
しかるに、 ‘give’ という動詞自体は ‘transitive verb’、すなわち 「他動詞」たるが身上ですので、この「2語動詞」は、 ‘transitive’ たる動詞と、目的語のない、つまりは ‘intransitive’ たる副詞が合したものである、と見做すべきではありましょう。それが、何をやめるとも諦めるとも言わず、とにかく何かに見切りをつけるという意味で ‘give up’ とだけ言ったならば、統語上は紛れもなく ‘intransitive’、「自動詞」とはなる、というわけなんです。
しかし、たとえば
give up smoking
などと言うと、この ‘phrasal verb’ は途端に ‘transitive’、「他動詞」に転ずるというわけで、その辺りは多数の「1語動詞」とも共通。この場合、この ‘up’ が飽くまで副詞なのか、副詞の皮をかぶった前置詞なのか、ってところでちょいと揉めたりすることもあるってんですが、それは、先述の、不定詞の前に置かれた ‘to’ が前置詞か否か、という議論に通ずる、まあ人それぞれの了見の違い、ってだけのこってしょう。
いずれにしても、上の例だと、 ‘give’ 自体がもともと ‘transitive’ ではありますので、 ‘smoking’ は ‘up’ (という前置詞?)の目的語ではなく、飽くまで動詞のほうのそれであり、その証拠には、
give smoking up
という言い方も可能ではございませんか。その語順だと、 ‘up’ が目的語などない堅気の副詞であるは昭然至極。なお、こうした例では、目的語が人称代名詞ならこの語順しか許容されず、指示代名詞であれば
give up that
とも
give that up
とも言えるのに、
give up it ×
ではなく
give it up
としか言わんのです。文法知識ってより、知らぬ間に憶えちゃう語呂、って気もするけれど。ついてのことに、ハナはあたし、自分が煙草はやらず専ら酒なもんで、 ‘smoking’ ではなく ‘drinking’ にしたんですが、そうすると ‘drinking up’ っていう語呂がまた余計な意味を想起させそうなので、やむなく諦めて煙草にしたんでした。根が母譲りの心配性なもので。
とにかくまあ、この(狭義の) ‘phrasal verb’、すなわち「動詞+副詞」という単純な例でも、拘り出せば上述の如き(どうでもいい)厄介さが浮上するという話ではございました。統語論などというものにまださほど凝ってはいなかった初心者(?)の時分には、単純に前置詞と抱合せなら他動詞句で、副詞だったら自動詞句か? などと、ごく粗雑な意識しかなかったような気もするんですが、そんなこたあ気にしなくたって、英語表現としての理解には何の支障もなかったもんでつい。でもちょっと考えれば、そんな簡単な話でもないってことはすぐに気づきそうなところではあります。当時は考えなかったってだけで。
この ‘up’ に限らず、元来は飽くまで副詞だったものが、形容詞や動詞や名詞、それに接続詞や、何より前置詞としても用いられるに至った例は枚挙に堪えませず。かと思うと、前置詞として括られる語の多くが日常的に、他の多数の品詞を包摂する何でも屋的な使われ方をしているのも炳乎たるところ。つまりそれ、 ‘multi-word verb’ の必須要素たる ‘particle’ こと ‘adverb’ と ‘preposition’ ってのが、何気なく厄介な連中だったってことだったりもして。
いや、そいつらが厄介ってんじゃなく、それに該当する個々の単語が、状況に応じてさまざまに立場を変えるため、ときに鳥とも蝙蝠とも犬とも猫ともつかぬ場合もなくはない、ってところでしょうか。やっぱり何言ってんだかわかんないでしょうけれど。
たとえば
ten years after
って言い方がございましょ? Ten Years After ってバンドもありましたけど、これ、文中の「句」として、後ろに「何の後か」って文言を付さずに用いれば、「10年後」という「副詞(相当語句)」となり、 ‘after’ は文句なく単体の「副詞」ということになります。しかるにこれが、
after ten years
となると、やっぱり「10年後」という意味に変りはないけれど(「10年ののち」?)、こっちの ‘after’ は「10年」という名詞を目的語とする「前置詞」に変ずるてえ具合。さらに、
after ten years (had) passed
とでも言えば、こんだその ‘after’ は後続の「節」を前部に繋げる「接続詞」に身分を変える、ってなもんで、ことほど左様に、前置詞か副詞かあるいはそれ以外かってのは、語形でも意味でもなく、徹頭徹尾統語上、構文上の立場によってのみ分れる、ということなんです。それがどうした、って気もするけれど。
それがどうした、ってんなら、これの語源なんざもっとどうでもいい話だけど、接続詞より副詞、前置詞としての用例のほうが古いようで(副詞が先?)、 何でも元は、副詞 ‘off’ の古形に ‘-ter’ が付された「比較級」で、 ‘æfter’ とかいうやつだったらしい。「より離れた」ってのが原義ということに。その ‘off’ もまた、古くは ‘of’ を強調したもんだったとか何とか、またも蛇足のネタは尽きませんが、術語に類する ‘aft’ は、‘æftan’ が古形で、こっちは最上級だったんですと。「一番後ろ」ってことで。
やっぱりどうでもよござんした。話を戻します。さっきの ‘give up’ と同じ ‘two-part verb’であっても、前置詞としか見做し得ないものとつるんだ、純然たる ‘prepositional verb’ としては、
give of
ってのがあります。 ‘of’ の目的語は、「金」とか「労力」とか「時間」とか「我が身」とかで、他人のためにそれを提供する、すなわち奉仕、尽力するってほどの意味。この ‘of’ は副詞ではないので、語順が入れ替る気遣いもなく、この「句動詞」は常に ‘transitive’ ということにはなります。
一方これとは逆に、
give off
という例では(‘off’ は ‘of’ から派生、ってな余談に逸れちゃったばっかりですが)、 ‘off’ が、さっきの ‘up’ と同様、いつの間にか副詞から前置詞その他へ転用されるようになった語であるとは申せ、ここでは専ら副詞であり、同時に、動詞 ‘give’ の ‘transitive’ ぶりもしっかりと保持され、 ‘give up’ の場合とは裏腹に、 ‘intransitive’ の用法はない、ということになります(たぶん)。
意味は、「臭い」だの「香り」だの「音」だの「熱」だのを「放つ」といったところですが、 ‘give up’ と違う点がもう1つ。こちらは結構語順が固定されていて、 ‘off’ は副詞ながら、目的語は、代名詞でない限り、まずその後にしか置かれないようですね。
……という具合に、あまり考えもなく例を並べてたきましたけど、どうもこれ、 ‘transitive’ か ‘intransitive’ かってだけじゃなく、どういう言い方、使い方が可能かってのが個々の事例によりさまざま、って話だったようで。そもそも最初に ‘give up’ なんていう、 ‘transitive’ でも ‘intransitive’ でも意味が変らないやつを例にとったのが不覚であったか、と、今ちょっと反省してるところだったりもします。やっぱりダメだね、おりゃあ。
「副詞句動詞」(?)たる ‘phrasal verb’ と、「前置詞句動詞」(?)たる ‘prepositional verb’ の対比をもっと明快に示す例はないかと、今1つ考えついたのが、
look for
と
look ahead
てえやつ。前者の ‘for’ はどうしたって前置詞でしかありませんので、これは専らご存知の「~を探す」という意味の ‘transitive’ にしかなり得ないのに対し、後者の ‘ahead’ はどう見たって副詞ですから、こっちは専ら ‘intransitive’ という寸法。意味は「先を見越す」ってなところですかね。
ああ、「何の」先を見越すのかっていう「目的語」を示したければ、
look ahead of
って言やあいいんでした。それこそ第3種 ‘multi-word verb’、 すなわち ‘three-part verb’ たる ‘phrasal-prepositional verb’ (諄えな)の例でもありますし。
そう言や、さっきの ‘give up’ だって、その後に ‘on’ という前置詞(こっちは ‘up’その他とは逆に、後から副詞その他にも転用されるようになった例?)を付して「副詞前置詞動詞句」(?)とする手もありました。ロングマンの ‘LDOCE (Longman Dictionary of Contemporary English)’ には下記の用例が見られます。
He'd been in a coma for six months, and doctors had almost given up on him.
昏睡状態が6ヶ月に及び、医師団も氏にはもはや治癒の見込みがないものとほぼ諦めていた。
At that point, I hadn't completely given up on the marriage.
その時点では、私もまだ完全に結婚生活を諦めてはいなかった。
……と、今回も無秩序にいろいろと述べて参りましたが、「主旨」と呼べるものはいったい何だったのか、自分でもわかんなくなっちゃってたりして。 ‘verb phrase’ と ‘phrasal verb’ は別、っていう話だけでやめときゃいいものを、その ‘VP’ こと ‘verb phrase’ が日本語の「動詞句」とはしばしば異なる、っていうこないだの話につられたかのように、つい ‘phrasal verb’ とその訳語である「句動詞」の指すものもまた一筋縄では行かない、ってことを言おうとしたら、かくもダラダラと要らねえことばかり書き散らす仕儀とはなり果てにけり、という体たらく。
特にオチもつかまま、いつに変らぬ索然極まる駄長文、多少忸怩の念を抱きつつも、今日のところはこれまでと致しとう存じます。次回こそは、もう自分でも忘れつつある ‘marked’ てえ言葉について、何とかやっつける所存ではございますれど。
そもそもの問題が奈辺に存するかはわかり切っておりまして、何かについて書いてると、ついそれに関連する諸々の事項が想起され、それが当該の話柄にとっても手頃な補足情報とはなろう、との了見の下に、毎回ちょっと寄り道するつもりでその脇道に入り込んだが最後、なかなか戻って来られなくなってしまうという、宛然蟻地獄。うっかり入り込んでしまったそのその脇道にも漏れなくさらなる枝道があり、その枝道にもまた……っていう具合で、初めから当面の話題に対する必要最小限の言及にとどめておけば容易に避け得ること、とは先刻承知ながら、目についたものは何でも詰め込もうとしちゃうっていう、言わば生得の貧乏性の為せる業……のような。
今回の話だって、どういう経緯でこんなことんなっちゃったのかは自分でもわかっとりまして、最初は「英語が屈折語?」ってな愚論の途中で思い出した「仮定法」って言い方についての無益極まる一連の言いがかりから、さらに ‘tense’、「時制」ってもんについても言いたくなっちゃったのが、まあ発端ではあったのでした。
で、それに当って ‘finite’ と ‘maked’ っていう言葉についても「一応」詳らかにしとこうかと思ったところ、 ‘finite’ の話から ‘VP’ すなわち ‘verb phrase’ と「動詞句」は必ずしも一緒にはできねえ、とか、 ‘clause’ が「節」で ‘phrase’ が「句」だと思うなよ、ってな難癖に流れ、そこからまたさらに、「5文型」は古いだとか ‘complement’ だけじゃ「補語」かどうかはわからない、だとかいう与太話に転じたのが前回の投稿。
眼目たる「時制」の話から何重にも逸脱しちまってるってわけですが、その一次的逸脱ネタの2つめである ‘marked’にすら到達できぬまま、今回はまたも1つ後戻りするが如く、前々回の ‘verb phrase’ ≒「動詞句」とは似て非なる、てえか全然別物の ‘phrasal verb’、「句動詞」というものについてまたも長々と無用の能書きを垂れ流してしまった、っていう仕儀なのでした。
次、 ‘marked’ (有標)ってやつについての存念を吐露した後は、何とか本題(?)の筈の ‘tense’、「時制」について、何となく言い足りなかったような事どもを記し、当面の愚論の連環にもケリをつける所存ではございます。そうして漸く一応の決着がついた暁には、以後、極力余計なことには言及せず、その時々の主旨にのみ専心して記述して参る覚悟にて。
……できるかな。
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