2018年6月13日水曜日

‘VP’(動詞句?) その他

話が前後してばかりですが、 ‘verb’ の定義について改めて愚見を述べることに致します。またしても ‘tense’ どころか ‘marked’ の話さえ先延し。何せ全部無計画に書いてるもんで、毎度恐縮の限りとは存じつつ。
 
                  

さて、これまではいちいち「単語としての動詞」とか「単体の動詞」などと断っておりましたが、前回も申しましたように、実は英語の書籍などでも、 ‘verb’ という言葉を、単語に限らず、複数の語の連なりにも充当する例は少なくありません。それは、まあこの語に限ったことではないとは申せ、文法用語としての多義性の故ではあるのですが、前回の主旨であった、 ‘finite’ か否かという話においては、1つ以上の助動詞にいわゆる本動詞が連なった複数の語の集合についても、その構成要素たる個々の単体を ‘verb’ として扱わなければあまり意味がない、との了見の下に、そのような前提でいろいろ書き散らしてはおったのでした。相変らず何言ってんだかよくわかんないとは思いますが。


しかしまあ、いずれにしても、複数の単語が1個の動詞として機能するものをも単に ‘verb’ として括る例は以前から珍しくはなく、その場合は ‘tense’、「時制」も何憚ることなく、動詞単体の語形ではなく、助動詞との組合せによる「未来時制」もあれば、過去・現在・未来のそれぞれに「完了」や「進行」のくっついた時制もある、ということにはなるのでしょう。でもやっぱりそいつぁ今どきはちょいと古い理屈……というのも既に申しましたとおり。

この ‘verb’ という語に対して ‘verb phrase’ という、結構重宝な言葉がございまして、通例 ‘VP’ と略記されるのですが、「動詞句」という訳語は、 ‘phrase’ と「句」の語義の齟齬により、指すものが同一ではなかったりもするので、それが日本での普通の言い方なのかどうかは、相変らず判然と致しません。てえか、あたしゃ存じません。高校辺りでは、いわゆる「述部」の同義語のようにそう言っていたと記憶するのですが、ここでは飽くまで今どきの英語における ‘VP’ の基本的な用法、ってことでひとつ。「句動詞」と訳される ‘phrasal verb’ はまったくの別物ですが、その話についてはまたいずれ(たぶん)。

前回までは、自分が‘verb’、「動詞」と呼んでいるのは飽くまで単語のこと、って言い張っていたわけですけど、 ‘VP’ こと ‘verb phrase’ には通常その単体動詞も含まれます。1語であろうと複数語であろうと、1個の動詞として機能するものが ‘VP’ であり、単に ‘verb’ と言ったらそれは単語としての動詞を指し、2語以上から成るものは ‘complex verb phrase’、すなわち ‘complex VP’ とも称する、てなところかと。

ああ、でもそれを言うなら、‘noun’ と、 ‘NP’ こと ‘noun phrase’ との関係もおんなじでした。 ‘adjective’ や ‘adverb’ なんかだと、 ‘AdjP’、 ‘AdvP’ などと表示されたりして。単体としての「名詞」「形容詞」「副詞」は、単語の区分である品詞名であると同時に、統語上の機能による呼称でもあり、後者の場合は、単体とは限らず、複数語の集合でもあり得るため、単複を問わず ‘phrase’ とは称する、ってところでしょうかね。

おっと、それどころか、たとえば

 ‘It's silly to say so.’
 ‘You've got no right to say that.’
 ‘I'm sorry to say this.’

のように、肝心の各品詞が含まれないものさえ、そうした各種 ‘phrase’ とはなるのでした。上記の ‘to say so/that/this’ は、順に ‘NP’、 ‘AdjP’、 ‘AdvP’ ではあるのですが、それぞれ ‘N’、 ‘Adj’、 ‘Adv’ は不在という仕儀。

それが、‘verb’ についてはちょいと事情を異に致しまして、前述の如く ‘verb phrase’ が、「主部」こと ‘subject’ (まあ必然的に ‘NP’ とはなりましょう)に対する「述部」こと ‘predicate’ (/ˈpred ɪ ˌkət/;動詞だと /ˈpred ɪ ˌkeɪt/)と同じものを指し、言わば意味より形態に重きを置いた言い方、って場合もあるけれど(日本ではたぶんそれが今も普通)、 ‘NP’ その他に対応する用法での ‘VP’は、その「述部」全体のうち、目的語や補語や、各種修飾語句を除いた、それこそ「動詞」に相当する部分だけを指すことになり、いずれにせよ、品詞としての ‘verb’ が含まれない ‘VP’ はない……筈です。
 
                  

で、そうした、旧来の品詞名としての ‘verb’ と、それが単体で、あるいはそれを包含する複数語によって機能する ‘VP’ とが、どちらも単に ‘verb’ と呼ばれている、ってところがちょいと厄介なんですね。前回の終りに、改めてこの言葉の定義について能書きを垂れたくなったのも、その厄介さを思い出しちゃったからなのでした。ほっときゃよかった、と今ちょっと後悔してるところ。ほんとに厄介だったのね。

因みに、この ‘predicate’ の眼目たる ‘VP’ に対しては、‘verb’ の代りに ‘predicator’ なる言い方を用いて峻別を図ろうという流儀もあるんですが、その語もまた一義に限るものではなく、結局それほど流行っちゃいないようです。文法という、本来厳密たるべき議論において、両義性が明らかなこの ‘verb’ という語が、依然いずれの意味でも使われ続けているのは、まだ誰にもいい知恵が浮かばない、ってことだったりして。

それでも問題があるということは夙に認識されており、下拙が毎度高みから腐してる日本の学校英文法では、そこがまったく無頓着のまま。ってより、その混交に気づいてすらいないのではないか、と、またも改めて威張っとくことにしときましょう。
 
                  

どうにも段取りが悪くて、話の順番がいちいちなっちゃいねえ、とは重々承知しとります。ひとまず「述部」ではないほうの ‘VP’について例示しますと、

 I act this way.
 She acts this way.
 They acted this way.

ではいずれの ‘verb’ も単体で、すなわち最小の ‘VP’ であるのに対し、

 You can act that way.
 We will have acted that way.
 He should have been acting that way.

などはいずれも、主語に続く部分が残らず ‘predicate’ =「述部」であるのに対し、下線部が ‘complex VP’ (とか ‘predicator’ とか) という塩梅。で、そのいずれもが ‘verb phrase’ とは呼ばれ、日本では専ら前者の意味で「動詞句」というのがどうやら普通らしいのだけれど、英語の本見てると、どうも後者のほうがよほど多い、ということなのでした。もちろん、自分が好んで読むここ数十年の本に限った話なので、「今どきの英語では」という言い方も恣意的なものであることは重々承知。

なお、 ‘this way’ だの ‘that way’ だのという ‘A’ こと ‘adverbial’ (副詞相当語句?)を取り去れば、いずれの例においても、2種類の ‘verb phrase’ が指すものは等しく主語の後の全部ということになります。ただし、この ‘A’ の有無により、各 ‘full verb’、すなわち助動詞(群)の後に添えられた ‘act(ed/ing)’ の意味と「区分」がちょいと変ります。そこもまた、ここ数十年における今どき(また言っちゃいましたが)の文法と、日本では未だに衰えを見せぬ旧式英文法との乖離を示す事例とはなっているのですが、それについてはまたいずれ(たぶん)。

そう言えば、この ‘this way’、 ‘that way’ って、昔懐かしい「副詞目的格」ってやつなんですね。つまり、本来は ‘in this/that way’ たるべきが、その前置詞が不要となり(もちろん依然あったって構わないけど)、決定詞 ‘this/that’ を付された名詞 ‘way’ という体でありながら。そのままで副詞に成りおおせるという寸法。で、その場合の「格」は何かと言えば、元来は ‘in’ という前置詞の目的語なのであるから、その前置詞が姿を隠しても依然目的格ではあり、斯くしてこのような副詞用法の名詞(名詞の副詞用法?)を称して「副詞目的格」(adverbial objective case?)とは言う、ってことなんでした。でもさ、英語がもはや屈折語であるとは断じ難くなって数百年、形の変らぬ名詞の「格」の違いを論ったって詮無いこと、ってことは以前述べました。
 
                  

ここで再びちょいと ‘finite’ と ‘non-finite’ の話に回帰するのですが、 ‘verb' または ‘VP’ ではなく、日本では「節」とされる ‘clause’ や、「文」とされる ‘sentence’ にもこれらの形容詞を冠し、 ‘(non-)finite clause’ とか ‘(non-)finite sentence’ と言ったりもするんですね。「(非)定形節」とか「(非)定形文」って訳になると思うんですが、 ‘VP’ と「動詞句」が別物だったりするのに似て、それだと何かと具合が悪いようで。

英語だとごくスッパリとしたものであり、単純に ‘finite verb’ を含む ‘clause’ が ‘finite clause’、それが不在で、動詞は ‘non-finite verb’ しかない(場合によってはその1語のみから成る)のが ‘non-finite clause’。そうした ‘clause’ を一部として含んだり、あるいはその ‘clause’ 全体だったり、っていうのが ‘(non-)finite sentence’、といった具合。

以下のような例がございます。

 All I can do is cry.

‘to’ を冠しても同義ですが(人によっては、それを挿入したほうが多少とも「冷めた」表現になる、と見なすとか)、これなどは動詞の原形たる ‘infinitive’ という ‘non-finite verb’ 1語だけから成る ‘non-finite clause’という次第。日本の英文法では依然「節」とは見なされないとは思われますが、今風の English grammar ではむしろそれが普通です。

かと思えば、

 If possible ...
 Though not sure ...
 When in Rome ...
 
のような、 ‘finite’ も ‘non-finite’ もあったもんじゃない、 ‘verbless clause’ というのもありました。それも当然日本では「節」を名乗れんのでしょう。それぞれ、

 If it is possible ...
 Though I'm not sure ...
 When you are in Rome ...

と言い換えることができ、と言うよりそれが言わば完全形であり、いずれも主語と述語がちゃんと揃っている、というところが旧来の、「文」に準ずる「節」ではある証拠、ってなところでしょう。
 
                  

尤も、‘finite sentence’ はともかく、旧来の(お堅い) ‘sentence’ =「文」の定義に従えば、何しろ「述語」がないのですから、 ‘non-finite sentence’ などというものはあり得ない、ということになろうとは先刻承知。先般も言及しましたように、「文」、ってより ‘sentence’ の定義は、到底古来の規範文法の言い分どおりには参らぬ、という現実に鑑み、だいぶ前からその辺りが少々緩くなってんですよね。「緩い」てえと宛も堕落したかのような響きですが、これはむしろ、文法というものがより進歩し、よほど科学的になっている証左……とかね。

かつてのエラそうな、おっと規範的な定義では、とにかく発話や文章における、「1つの明確な意味内容を有する完全な表現形式の最大単位」みたようなものが ‘sentence’ であり、その下位区分たる構成要素が、つまりは ‘clause’ だの ‘phrase’ だのということんなってたんでした。

‘sentence’ > ‘clause’ > ‘phrase’ > ‘word’

ってなところで、こういう素朴な図式だと、対応する訳語にも何ら齟齬は生じず、

「文」>「節」>「句」>「語」

ということで問題ありません。で、何はともあれ「文」たるものにはどうでも主語たる名詞(句)や述語たる動詞(句)、さっき言ってた ‘NP’ や ‘VP’ が不可欠、ということにはなるんですけど、実はその「主述」の揃い踏みってのは、一段下の「節」の成立条件なのであるから、「文」であればなおのこと、ってな理屈にはなるという次第かと。もう1つ下の「句」は、そうした「主述」関係の見られない、「節」の材料となる「語の集合」、みたような感じで。
 
                  

しかしそうなると、まず「1つの明確な意味内容」云々って前提が崩れましょう。複数の節から成る1個の重文だの複文だのでは、当然それぞれの節が明確な意味を持っていることになるし、他方、そうした、先述の如き1語のみの ‘clause’ とは懸隔した旧来の「節」を1つも含まず、「句」や「語」だけでも充分に明確な意味内容を伝える例だって枚挙に堪えません。そういうのは「文」ではあり得ないってことになっちゃいますね。

かと思うと、1つの「正統な」節がそのまま1つの「正統な」文になっているという素朴な例だってごく普通だし、それは何ら件の古臭い規範にも抵触せざるに、いきなり「文」>「節」ならぬ「文」=「節」ってことんなっちゃうじゃござんせんか。

とにかく、現実には

 ‘Go.’

だの

 ‘Stop.’

だのという、1語だけから成る文も珍しかありません。しかしまあ、これはまだ主語が「隠された」動詞なのだから、主述関係が含まれないわけではない、と強弁することもできましょうが、

 ‘Nice.’

とか

 ‘Quick!’

とかはどうなりましょう。もちろん1語のみとは限らず、

 ‘How long?’



 ‘So much better!’

という例にもまた、主述関係どころか、名詞も動詞も一切含まれませんけど、これは文じゃなく、節でもない、ってことになるんですかね。まあ2語以上なら「句」だとは言い張れるにしても、なら最初の4例は悉く「語」でしかないと?

一方、

 It Bites

だの

 Frankie Goes to Hollywood

だののように、体裁は紛う方もなく文の要件を満たしながら、終止符の付かない「名詞句」とか呼ばれるやつもありますし(いずれもバンド名なんですが、ちょっと例えが古過ぎましたかね)。新聞や雑誌の見出しだって、しばしばそのまま「文」として通用しやしませんかしら?

……と、少々意地悪く言ってみましたが、ことほど左様に、旧来の文法規範は現実の言語現象に対応し切れてはいない、ってことでして。で、今どきは(って言い方ばかりして恐縮ながら)、何を指して ‘sentence’ と呼ぶかは容易には断じ難い、という態度のほうが妥当ではあり、かつては単純にその構成要素であった ‘clause’ と ‘phrase’ の語義もかなり変じている、というのが実状なんです。前回からあれこれ言ってたのはそういうことなのでした。変ってないのは ‘word’ だけってところですかね。

以前の定義では、言わば「文中の文」、主語と述語を備えた ‘sentence’ 未満のもの、すなわち「文」と「句」の中間に位置するのが ‘clause’、「節」ということにはなっとりましたものの、1つの節がそのまま1つの文となる場合も少なからず……ってことはさっきも言いましたが、その ‘clause’ の中にあって、「主述」を欠く ‘clause’ 未満のやつが ‘phrase’、「句」という理屈ではあったかと。

でもその流儀だと、先述の ‘non-finite clause’は、何しろ述語の要件である ‘finite verb’ を欠くわけだから、どう足掻いても ‘clause’ を標榜することは許されず、かつては容赦なく ‘phrase’ とされていたんです。日本ではそれ、大抵は未だに「句」ということになってますから、おいそれと「非定形節」なんて言い方は使えないんじゃないか、と思ったんですよね。相変らず日本の事情には疎いもんで(「和式英文法」とか言って揶揄してるし)、どういう扱いになってんのか、ほんとは知らないんですけど。
 
                  

これもちょいと例を示しときましょう。前回用いた粗雑な例文を流用しますが、

 When acting as CEO, she received $500,000 a year.

という、日本では「分詞構文」とかいう括りで説かれる例(participle? participial? ... construction? structure?)では、後半部分に ‘she’ という主語と ‘finite verb’ たる ‘received’ という述語がちゃんとあるから、「節」を称するも苦しからず、ってことんなるのに対し、前半には ‘acting’ という ‘non-finite verb’ しかなく、それ自体が述語でもなければ、その動詞に対応する主語などもないのだから、これは「節」を名乗ることは許されず、それに満たない「句」という身分にとどまるものである、っていう、一見ごもっともな理屈。

これをちょっと諄い言い方にして、前半を

 When she was acting as CEO ...

とでもすれば、それは旧来の理屈でも、後半の「主節」に先立つ「従属節」とはなり、全体は2つの節から成る「複文」ということに。

でもその場合は、後半の主語がまた ‘she’ の繰返しじゃいかにも野暮で、敢えてそういう諄い言い方をするなら、後のほうは代名詞じゃなくて当人の名前にするとかじゃないと、何となく落ち着きません。日本語の感覚だと、名前を示す前にその者を指す人称代名詞を出すのは意外かも知れませんが、英語だと結構普通。と言うより、この例だとむしろそうでないとちょいと不自然。

通常の、まず誰のこと、何のことかを述べた後で、繰返しを避けるために代名詞その他(there とか then とか the +名詞……とか)を用いるのは、‘anaphora’というやつでして、そういう場合の代名詞その他は ‘anaphor’ と呼ばれます。それとは裏腹に、上掲のような代名詞の先出し技は ‘cataphora’、別名 ‘forwards anaphora’ ってんですが、日本語じゃどう言うんでしょうね。2014年に出た大修館の『ジーニアス英和辞典第5版』には、順に「前方照応」(ただし修辞学では「首句反復」ですと)、「前方照応語(句)」、それに「後方照応」と載ってました。2001年の第3版には ‘anaphora’ しか見当りません。まあ、いいけど。

それより、どうもこれ、前後の順番がどうこうって前に、「本体」は主節の主語とし、従属節には、たとえそっちが先でも、とりあえず代名詞にしとく、ってことなんじゃないかと。前後を入れ替え、後半の「主節」を先にしたら、どう足掻いたって代名詞ではなく名前のほうを先に言わなきゃ妙ですぜ。そうでないと、もはや「照応」などではなく、主節たる前半の ‘she’ は、従属節たる後半のお人とは別人か? とも思われるような。
 
                  

また余談に耽ってしまった。さて、旧来の文法では、とにかく「主述」を含まければ「節」とは呼べない、ってことなんでした。でもね、今どきの、ってまた言っちゃいましたけど、ほんとはもうずっと前から、英語の文法書なんぞを見てると、上例(の初期状態)の前半、つまり主語のない半端な ‘non-finite verb’ だけって部分のことを ‘phrase’などとは言わず、 ‘non-finite clause’ ってんですよね。 ‘as CEO’ とか ‘$500,000 a year’ とかは難なく ‘phrase’ ってことになりましょうが、それより、いずれも単体の ‘verb’ である ‘acting’ も ‘received’ も、さっき言ってた ‘verb phrase’ の例であり、前者が ‘non-finite VP’、後者が ‘finite VP’という塩梅。

件の CEO 代理の話が、過去のある時点からさらに遡った時期のことを言っている場合には、後半の動詞は ‘had received’ や、さらには ‘had been receiving’ ともなりそうですけど、それもまた ‘VP’ には違いなく。既述の如く、その場合は ‘complex VP’ とは称されるという寸法でして。

つまるところ、 ‘clause’ の指すものが、旧来の「節」よりは広い範囲に及び、かつての「句」、 ‘phrase’ の一部をも包含するものとなっているということです。場合によっては、何せ1語だけの文だってあるんだから、当然1語のみの ‘phrase’ もあれば ‘clause’ があっても何ら不思議はない、ってことで。

まあ、文法も昔よりよっぽど流々、見方によっていろいろ言うことが違うのは当然でもあり、かつての厳格な定義では「表現形式の最大単位」ともされる ‘sentence’ だって、接続詞その他でいくらでも個々の ‘clause’ ≦ ‘sentence’ を多数(無数に?)連ねることが可能で、明らかに「最大単位」などという定義も意味を失ってはおります。やはり今どきの ‘sentence’、 ‘clause’、 ‘phrase’ の定義は、旧来の「文」「節」「句」とおんなじだと思っちゃあならねえ、ってこってしょう。わけても ‘clause’ という語の出番は昔に比べて相当に多いようで、それだけ用法も多様化している、とは申せましょう。
言うなれば、

‘sentence’ ≧ ‘clause’ ≧ ‘phrase’ ≧ ‘word’

ってところですかね。依然として

「文」≧「節」≧「句」≧「語」

とは参らぬにしても。

斯くして、「(非)定形節」って言い方じゃあ、日本的には「節」ならぬ「句」と呼びならわされている ‘(non-)finite clause’ のことだとはちょいと気づかねえんじゃねえかしら、という要らぬお節介とはなったわけでして、ま、そりゃ俺が英語の文法に対する日本語の言いようを知らねえってだけのことなんだろうけど、ときたまウェブの解説なんぞを見ちゃうと、やっぱりどうにも言ってることが妙だったりするんですよね。俺の知ったことじゃねえ、ってのが本音ではございますれど。
 
                  

う~ん、当初はまさかここまで諄い話になろうとは微塵も思っちゃいなかったんでした。しかも、ここまで言ってもまだ、と言うよりむしろ、つい余計なことにまで言及してしまったがために、以上の能書きだけでは多少中途半端なところもあるような気が致しますので、ってより実際中途半端ですので、次回も引続き「動詞」または ‘verb’ 談義をもうちょっと書き散らそうかと。このまま続けてるとまだ暫くは終りそうもないので。

無益極まる「逃避行動」に過ぎぬは重々承知。重ねて恐縮。

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