2018年7月7日土曜日

‘come’ が「行く」?

以下は、既に1年ほど前の2017年7月23日、SNS に書き散らした愚文なんですが、前回の投稿でちょっと言及した ‘go’ と「行く」、 ‘come’ と「来る」の違いについての、結構念入りな与太話。どうせのことに、それを再録しとこうかと思っちゃいまして。 ‘tense’ についての言いがかりはまだ続きますが、ちょいと一休みってことでひとつ――

➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢

自分にとっては遥か昔に決着のついていたことながら、昨夜調べ物をしていたら偶然目にしてしまった、よくある「自称英語の達人」サイトの記述で(読まなきゃいいのに)、ああやっぱりそうなのね、と今さらのように気づいたことことがございまして。

まあ、これも少なからぬ類似の誤謬(と言っては厳し過ぎ?)におけるほんの一例ではあるのですが、「行く」と「来る」が英語では逆転する場合がある、ってんですよね、その「達人」の言によれば。ほんとはもっと長ったらしく書いてたんだけど、勝手に趣旨をまとめるとそれだけのことではありました。

だってあぁた、「行く」も「来る」も日本語じゃござんせんか。どっちも英語の知ったこっちゃあるめえよ。それを言うなら、「行く」が ‘go’ で「来る」が ‘come’ だと思い込んじゃならねえぜ、ってこってしょう。
 
                  

しばしば引合いに出される、性的絶頂に達するときの(主にご婦人が――多分に演技で?――発するとされる)「イク」っていう言辞が、英語では ‘I'm coming’ だっていう古典的ネタで知られるように(どうもこういう話柄は厄介な割に実効は薄いようで……)、日本語の「行く」が英語では ‘go’ ではなく ‘come’ になる場合がある、ってことなんですよね。

ここ数十年の間に英和辞典も長足の進歩を遂げ(かつて最大の権威だった研究社の化けの皮が剥がれ、大修館の『ジーニアス』って辞書が評判になって早30年ほど)、その辺りの現実的な事情はかなり詳細に説かれるようにはなったんですが、あたしが不満なのは、個々の事例をいちいち並べるより、基本法則をこそ示すべきに非ずや、ってところ。

で、私が(無意識のうちに)習得したその法則とは何かと言うと、日本語では「行く」と「来る」が徹頭徹尾一人称(話者)の立場を基準としているのに対し、英語では、話者の視点ではなく、言うなれば発話内容における基準地点が決め手。場合によっては、話者が今の位置から離れるときも ‘go’ ではなく ‘come’ とはなる、ってことで。
 
                  

相変らずこれじゃ何言ってんだかわかりませんな。日本語だと、しゃべってる本人の今いる場所からどっかに移動するのが「行く」で、別の場所からそいつの所へ至るのが「来る」ってのが基本。英語の ‘go’ と ‘come’ も大抵はそれと同じなんですが、それは話者だけに関わる話の場合。自分が(勝手に)どっか行くってんなら ‘go’ で間違いないし、帰って来るのもやはり ‘come’ で何ら問題はありません。

ところが、たとえば誰かに呼ばれて「今行く」って答える場合は、 ‘I'm coming’ としか言わないんですよね。自分の現在位置から別の場所に移動するのだから、日本語としては「行く」としかならんわけですが、英語では自分の居場所とは関係なく、当面の眼目となる到達点はどこか、ってのが ‘go’ と ‘come’ の分れ目、とでも申しましょうか。やっぱり何だかよくわかりませんでしょうけど。
 
                  

えー、日本語では、誰かに自分との同行を求める場合、「一緒に来てくれ」とも「一緒に行ってくれ」とも言いますよね。違いは、話者自身を基準にしているか、目的地のほうに重きを置いているか、ってことでしょう。いずれも内容的には大差なく、実際は各人の言い方の癖によるってだけのことだったりして。

しかるに、英語ではこういう場合 ‘Will you COME with me?’ というような言い方しかあり得んのです。 ‘go’ を使うのは「一緒に行こう」と誘うとき、でなきゃ「あたしゃ行かないけど、お宅は?」って場合かと(「一緒に」ってところが欠けちゃいますが)。

つまりこれ、「~へ行くところなんだけど、一緒に来ない?/行かない?」の「~へ行く」は、話者自身にとってもその相手にとっても、等しく今の位置から別の場所への移動だから ‘go’、それに対し「来ない?/行かない?」のほうは、両人にとって既に確定した目的地、すなわちその話題における共通の到達点への移動を指すから ‘come’、っていう寸法。

この ‘come’、日本語の「来ない?」に対応してはいるものの、日本語の場合は相手との共通認識だからってんじゃなくて、言わば徹底的に自分自身の所在(今いる場所だけではなく、移動中、移動後の位置も含めて)が基準、ってことでしょう。
 
                  

誰かを訪問するときも、自分が今の地点からその相手の居所へ移動するのだから、日本語ではやはり「行く」としか言わないけれど、英語ではそれも、移動先が自分にも相手にも共通の場所(自分にとっての訪問先、相手にとっての自宅)なので、その移動に対しては、相手にとってと同様、自分にとっても ‘go’ はあり得ず、 ‘come’ としか言いようがない、って理屈なんですよね。

なんせ、あたし自身がこれを理解、ってより無自覚に感じ取ってから既に40年。今さら改めて説明しようとするのがかなりの難事であることを、ここまで書いてきて遅れ馳せながら痛感しているところ。

改めて思うのは、中高時代の英語教師にはたぶんそういう明確な認識がなく、単に規範として使い分けの型を覚えてただけなんじゃないかしらと。でなかったら、初めから明快に説明してくれた筈。

ま、英語に限らず、こんな枝葉末節に拘るようなやつぁ、所詮受験戦争に勝ち残る余地などないでしょうな。おりゃあどうせ高3の早い時期に大学受験は放棄しちゃったもんね。

……相変らずくだらねえなあ、との自覚はありつつ。

➣ ➣ ➣ ➣ ➣ ➣ ➣ ➣ ➣ ➣ ➣ ➣ ➣ ➣ ➣

という、相変らずくだらねえ話でした。1年経っても生来のくだらなさには寸毫のブレもなく、ってところですかね。毎度ご無礼。

……と、ここで話を終えるつもりだったのだけれど、ついまたさらに余計なことを思い出しちゃったので、それを改めて以下に書き散らすことにしました。
 
                  

上記、 ‘come’ と ‘go’ (順番がまちまちですみません)に通底する、ってよりちょいと逆方向の取り合せに ‘yes’ と ‘no’ の使い分けってのがありました。これも、ほんとは実に簡単なことなのに、いちいち相手の質問が肯定形か否定形かで「はい」と ‘yes’、「いいえ」と ‘no’ がひっくり返ったりする、てなこと言ってる物知りが多くて……。

この ‘yes’ と ‘no’ って、「行く」「来る」と同様、相手の意向はまったく無関係、徹頭徹尾自分の答えに連動してるだけじゃん、って感じです。答えが肯定文になるなら ‘yes’、そうでなければ容赦なく ‘no’ ってだけの話。

それを、わざわざ質問と答えの「対応表」まで掲げて説明しようとするご苦労千万なる愚かしさ。いや、あっちは勝手にやってんだから構わねえだろうけど、そんな無意味極まる迂遠な教わり方する生徒こそ憐れ(俺もじゃねえか)。向うの質問がこうで自分の答えがこうだからこの場合は……って、ばんたびそのありがてえ「公式」に当てはめて ‘Yes.’ か ‘No.’かを確かめなきゃならないなんざ、バカバカしいにもほどがあらあ、ってなもんで。

でもそれ、わかってないまま「英会話できます」って人が、ときにかなりの齟齬を誘起していいる……という自覚を欠いたままって例も少なからず、何気なく侮れない勘違いではあるのでした。
 
                  

[~してくださいますか?」でも「~してくださいませんか?」でも、してやるつもりなら「はい」、その気がなければ「いいえ」で答えの意味は変らないのに対し、英語だと ‘Would you please do ...?’ って訊かれることも、‘Would you please mind doing ...?’ って訊かれることもあり(後者のほうがより慇懃あるいは他人行儀)、それぞれに対する ‘Yes.’ と ‘No.’ は正反対の意味になっちゃうという寸法。前者なら ‘yes’ は「はい」と一緒だけど、後者に ‘yes’ で答えたら、相当に意地の悪いやつってことんなっちゃったりして。断るにしたってもうちょっと穏やかな言いようもあろうに、ってなもんで。

実は斯く申すそれがしとて、40ほど前、イギリスで暮し始めて半年ばかり経った頃、そのいかにも日本人的な間違いをやっちまったんでした。電話ボックスの前で空くのを待ってたら、後からやってきた女性に順番を譲ってくれないかと言われ、思わず「ええ、どうぞ」ってつもりで ‘Yes.’ って言っちゃったら、その人が「急いでるんで、そこを何とか」って言うんで、そこで初めて気づいたんですが、文法的な取り違えじゃなくて、単純に相手がどう尋ねたか、ちゃんと聞いてなかったってだけ。

以来、そういう日常的、断片的なフレーズほど、しっかり聴いてなきゃならねえ、という教訓を胸に、せいぜい気をつけるようにはなったんですが、結局は単なる慣れの問題なんでした。ほどなく、別に注意なんかしてなくても、間違える気遣いはなくなりましたから。
 
                  

でもそれ、考えたらもっと単純明快(かも知れない)例がありましたね。何のことかと申しますと、国語では「お気に召しませんか?」に対して、「いえ、好きです」だの「はい、ちょっと好みに合いませんね」ってな具合に、「はい」「いいえ」は、「行く」「来る」とは裏腹に、自分の答えではなく、徹底的に相手の質問、ってより「意向」に対する肯定/否定を表すという仕組み。

英語ではこの場合、‘yes’ が「いいえ」、‘no’ が「はい」に対応するってんで、やっぱりその組合せを表のように並べて、宛然公式のように説明してくれる教科書だの参考書だのってのが、昔はよくありました(今も?)。さっきも言ったように、そういう質問と答えの対応関係を並べて、こういう場合はこうで、またこういう場合はこう、ってなこと言われると、随分とめんどくせえもんだなあ、って思っちゃうし、そういう組合せの決りなんか憶えたって、いちいちそれを個々の事例に当てはめなきゃならねえんじゃあ、結局はいざてえときに使いもんにゃなるめえ、とは思量致します次第。

まったく単純素朴な話で、英語には ‘Yes, I don't.’ だの ‘No, I do.’ なんて答えは金輪際あり得ない、ってだけのこと。相手の質問がどうであれ、自分の答えが肯定文になるなら ‘yes’、否定文なら ‘no’ って、最初に教えりゃすぐにわかるじゃねえか、と思うんですけどねえ。‘come’ と ‘go’ の使い分けよりゃよっぽど簡単。ま、「行く」と「来る」なら、「はい」と「いいえ」ほど和英の逆転現象は頻繁ではないから、まだ「実害」は少ない、ってことなのかも知れないけれど。
 
                  

とにかく、そういう根本の法則をこそ最初に納得させりゃ、百戦危うからず、ってぐらいのもんなのに、教えるほうがわかってねえんじゃどうしようもねえ。それで「正しい文法」なんざ振りかざされてもなあ、とは思わざるを得ませず……って、結局はまた悪口だったか。
 
                  

次回は何とか ‘tense’ 談義に復帰の予定。

0 件のコメント:

コメントを投稿