2018年7月10日火曜日

改めて「時制」または ‘tense’ について(4)

さて、またぞろ繰り言ではありますが、2語以上の「動詞句」は埒外とし、飽くまで単体の動詞の形についてのみ ‘tense’ とは言う、ってな立場からは、英語の ‘tense’ は「現在」か「過去」しかない、ということになるわけではあります。

しかも、と言うか、しかるに、やはり何度も申し上げておりますとおり、その「現在」と「過去」という2つの ‘tense’、とっくに原義たる時間的な区分からは遊離し、先日言いかけていた『現在が「無標」で過去が「有標」』ってのも、決して「現在」や「過去」という時間についてのことではなく、飽くまでそれぞれの語形が表す意味、と言うより、それぞれに表れる話者の感覚についての話……って、これじゃやっぱり何のことかわかりませんね。毎度話が下手ですみません。
 

                  
 
‘tempus’ という語源に照らせば、飽くまで時間的状況を示すのが ‘tense’ ではあるものの、これが多くの場合、時間とは無関係の意味を表すものであることは昔から認識されている、ってことも既述のとおりなんですが、本来は意味より形をこそ指すのが ‘tense’ ではあり、その伝だと、数百年前には現状のとおり「現在」と「過去」の2つの「時制」(という語形)しかなくなっているのが英語の単体動詞、ってことなんでした。で、その2つの ‘tense’ の意味するところは、決して「現在」か「過去」かの区別なんていう素朴なものではない、というような与太話をしようとして、「現在時制」こと ‘present tense’ が「無標」/  ‘unmarked’ 、「過去時制」こと ‘past tense’ が「有標」/ ‘marked’ だとする分類について申し上げようとしておりましたる次第。

両者とも、「時制」の語義どおり、たとえ時間的な意味合いで用いられる場合であっても、それぞれ単純に「現在」と「過去」の話に特化したものではない、ってわけで、実際にどういうふうに使われるかというと、たとえば

 If she comes tomorrow ...

でも

 If she came tomorrow ...

でも、それぞれの「時制」が言及しているのは「明日」という先のこと。「現在時制」「過去時制」がともに「未来」のことを言ってるってわけです。

おっと、しまった。不用意にこういう例を示すと、前にしつこくやっつけといた筈の「仮定法」っていう亡霊の如き曲者がまたよみがえってきちまうじゃねえか。

しかたがねえ。またも繰り言にはなるけれど、これについても後でちょいとばかり駄目押しをしとこうとは思います。「仮定法」自体にはさんざん悪態をついたと記憶致しますので、飽くまで「時制」絡みの駄目押し。そもそもこの「時制」ってのが気になり出したのも、その「仮定法」に対する言いがかりが誘因だったような。まあいいか。
 
                  

とりあえずこれ、「和式英文法」ではいざ知らず、上記の例はいずれもまったく ‘subjunctive (mood)’ には非ず、単純に「直説法」の「現在時制」と「過去時制」の使用例ではあります。いや、こういうふうに「法」だの「時制」だのって漢字で書くと、そこんとこがどうにも通じなくなっちゃいそうなんですけど、上のほうを擬古調で ‘If she come tomorrow’ とすれば、それが ‘subjunctive’ ってことにはなるものの、そんなことより、とにかく当面はまず、この2例のうち ‘comes’ってほうが ‘unmarked’ で、 ‘came’ のほうが ‘marked’ だって話を済ますことに致しましょう。

「過去」も「未来」も無限であり、その一瞬の境目である「現在」をどう切り取るかは、実に恣意的であると同時に、ことによっては相当に長期の「今」もあり得る、ってことは既述のとおり。それでもまだ、客観、主観を問わず、そういう時間的な区切りに対応するなら、まだ「時制」って言い方も腑には落ちるってところではあるものの、それが多くの場合そうは行かねえ、ってことでして。それも既に繰り返し述べておりますけれど。

「現在時制」、‘present tense’ が実際に表しているのは、過去や未来からは切り離された「今」のことではなく、実は時間的な区別などはなきに等しく、飽くまで話者にとっての現実的な時間に属する状況……とでもいうようなもの、って感じなんですね。やっぱり何言ってんだかわかんないとは思われますが。

とにかくも、どれほど昔のことだろうと、また先のことだろうと、話者当人にとっては一視同仁に「今」として括られる事柄、話者が自らと何ら懸隔せざる「時」と見なすものには、実は時間を一切超越してこの ‘present tense’ が充当される、とでもいったところでして、その意味で、これは「無標時制」、 ‘unmarked tense’ とはされる、ってな塩梅なんです。

‘past tense’ はそれとは対極を成し、これまた現在だろうが未来だろうが、話者にとっての「遠い」話であることを示す形、ってことになるわけで、果然こっちは ‘marked tense’、「有標時制」とは相成ります次第。やっぱり意味わかんないだろうとも思いつつ。どうにも上手いこと言えなくて、毎度恐縮には存じます。
 
                  

単純な時間的前後関係に沿った「現在」と「過去」の使い分けにおいても、たとえば

 I go to school every day.



 I went to school yesterday.

では、現在時制たる ‘go’ が、実際には数年前から、場合によっては数年後に及ぶ ‘every day’ という、話者にとっての「今」の話であるのを示すものであるに対し、過去時制の ‘went’ のほうは、話者にとっては(てえか誰にとっても)容赦なく「現在」とは切り離された ‘yesterday’ という歴然たる「過去」についての言及であることを明示する形、ってところでしょうかしら。

で、これが、実際の時間的な状況とは無関係に、現在時制が過去や未来への言及に用いられるともに、過去時制もまた現在にも未来にも使われるってことでして、それらはすべて、話者にとっての遠近、あるいは親疎、または蓋然性の有無だとか現実的か非現実的かだとかといった、言わば感覚的な区分によるもの、って感じなんですよね。自分にとっての「共時性」を示すのが「現在」で、それとは別枠に属するのが「過去」とでも申しましょうか。どう言っても下手な譬喩にしかなりませんけれど。
 
                  

もうちょっと例を挙げときましょう。「時間を超えた」 ‘present tense’ としては、まず明らかに過去の話なのに、 ‘historic present’ とか ‘narrative present’ と呼ばれる使用例が存外多く、小学校の国語でも、過去形の文章の中に現在形を交ぜると緊迫感が出せる、みたようなこと習ったような気もするんですが、それ、英語ではたぶんもっと普通の言い方なんです。

以前投稿ネタにしたビートルズの公式伝記本の初めのほうに、戦後まもなくの話として、5歳のジョン・レノンを別れた父母が軽く取り合う場面が出てくるんですけど、それを20数年後に父親が回想して語る一節に、

 I shouted to John. He runs out and jumps up on my knee. He clings to me, asking if she's coming back.

ってのがあるんです。下線を施した ‘runs’ 、 ‘jumps’、 ‘clings’ はいずれも ‘He’ すなわち5歳の ‘John’ を主語とした動詞の ‘present tense’ ですが、何しろこれ、この父親が語ってんのはそのジョン・レノンが既に二十代半ばを過ぎた60年代後半ですから、どう足掻いたって普通なら「現在」の扱いになりようはありません。しかし、話の内容からも、こういうふうに「歴史的」あるいは「語り的」な「現在」を用いるのは、特に凝った言い方ってわけでもなく、結構普通ってことなんです。決して歴史や物語の描写だけに限ったことではなく。
 
                  

歴史上の著名人の台詞なんかも、

 Shakespeare says, ‘there is nothing either good or bad but thinking makes it so.’

と、何百年も前に死んだ人の文句であっても平気で「言った」の代りに「言ってる」とするんですが、やはりそれも日本語だって同じでしょうかね。これも、このシェイクスピアの名句を伝える話者にとっての感覚では、数世紀後の今の自分と言わば繋がった時間枠の中、ってことで「現在時制」とはなる、ってところかと。さすがにちょいとこじつけのような気もしてきましたが、肝心なのは、シェイクスピアのような歴史上の有名人の台詞だから ‘said’ じゃなく ‘says’にしなくちゃならねえ、なんて決りはない、ってことでして。

それについてはちょいと逆のような話もあります。それもまた我が日本式英文法では、まるでそう言わなければ誤りとでもするが如き(てえか、実際試験では×にされちゃうというバカな)事例を思い出しちまったじゃねえかい。ちっ、いつもながらしゃらくせえ。
 
                  

……と、いったいまた何に対して毒づいてるのかと申しますと、「時制の一致」(という言い方からして杜撰だけど)の「例外」として、主節の動詞が過去でも、それに連動すべき従属節内の動詞が「恒久的真理」だの「自然法則」だのを表す場合は「常に」現在形、っていうあれよ、みたいな。まったく以て一知半解の所産。どうやら今でもそうやって威張り腐った「正しい」文法を教えてくださるありがたい教材や教師には事欠かぬのがこの国の実状のようで。相変らずダルくなります。

これもだいぶ前に、そのまたさらに前の恨み言を並べた投稿がありまして、その2回目で、この問題について言及しておりました。その折に掲げた例を再利用してざっとご説明申し上げますと、

 Copernicus concluded that the earth went round the sun.

と言おうが、

 Copernicus concluded that the earth goes round the sun.

と言おうが、それは言うやつの勝手であって、コペルニクスの地動説が昔も今も真理たることを言っときたいなら、そこを現在時制にすりゃいいし、とにかく奴がそう言ったのは何百年も前のことで、その歴史上の話をそれとして伝えるだけなら、その後の地球と太陽の関係がどうあれ、当時の当人にとっての話で「あった」ことには変りなく、つまりは ‘proximty agreement’ とか ‘proximity concord’ (近接一致?)の法則により、自動的に台詞の中身も過去時制にはなるのがむしろ普通、ってことですのよ。

さっきのシェイクスピアの台詞だって、

 Shakespeare tells you (that) there is ...

とも、

 Shakespeare said (that) there is ...

とも、

 Shakespeare said (that) there was ...

とも言えるってこってす。

「誰かがこう言った」ってとき、その「こう」の中身が今も昔も変らぬ「永遠の真理」(誰が決めるんだよ)なら過去にするのは間違い、なんていうとんでもねえその間違い、俺も高校じゃそう習ったもんけど、大嘘だもんね……っていうことにだって、ちょっとイギリス住んでただけですぐ気づいたし。驚くのは、折角そういうほんとの英語を知る機会を得たってのに、「文法間違えてる」などと本気で抜かす一部の日本人留学生どもの存在。十八のおりゃあほんとに驚いた。

それから既に40年、ウェブでたまたま見ちゃう日本語による英文法解説って、今でもそんなんばっかりなんですよ。そもそも、こうして益体もない英語ネタを投稿したくなった契機自体が、そうした大威張りの頓痴気どもに対する無用の瞋恚、てえか身勝手な私憤に発するものなのでした。
 
                  

おっと、またどうでもいい恨み言を連ねてしまった。ちょいと話を戻します。シェイクスピアだのコペルニクスだのという大昔の大物の台詞でなくたって、たとえば

 She said she lived in London.

って言ったら、言ったのが過去で、言った中身もそのときの状況であり、その後のことには触れていないってだけのことで、いわゆる主節と従属節の時制は「一致」しなきゃ間違い、なんてこたござんせん。こういう言い方が最も普通ではあるけれど、それは単に、この彼女がそのときこう言った、っていうことを後から述べているだけで、述べている「現在」とは切り離した言い方ではある、ってだけのこと。

でも、話者が、発話時点においてもその彼女が依然ロンドンに住んでるってことを盛り込みたければ、当然のようにこれ、

 She said she lives in London.

とはなるてえ寸法。
 
                  

簡単には済まないな、との予覚はあったんですが、やっぱり書き出すと思った以上にいろいろ言うことがあるってのに今さらながら気づいているところです。次回もこの与太話の残りを続けます。

その前に、現在時制だの過去時制だのが、実際の現在や過去とは無関係に使われる例をもうちょっと考えとかないとなりませんな。当面「現在」のほうについて書き連ねてきたわけですが、それもまだ一部を紹介したに過ぎぬ……ような気がしまして。

相変らず無計画、場当り的にやってるもんで、果然五月雨式にならざるを得ず、ってところですかね。なにしろ申しわけござんせん。

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