2018年7月6日金曜日

改めて「時制」または ‘tense’ について(3)

さて、時間的な区切りによって分れる動詞の形が「時制」こと ‘tense’ たる筈が、実際にはそう簡単に行かない、ってことが言いたかったんですが、そもそも、いつからいつまでが現在だの過去だの未来だのかってのも、まったくその時々の事情、あるいはその人の了見次第って愚見は、前回までの投稿に記しましたるとおりにて。

とりあえず下拙の認識としては、今どき(ここ数十年)の文法の潮流に沿って、 ‘tense’ は飽くまで単体としての動詞の語形であり、したがって ‘future tense’、「未来時制」は認めず、同時に、 「いつ」のことかではなく、「終った」ことなのか「まだ終っていない」ことなのかを表す「完了」「進行」については、 ‘aspect’ とか  ‘phase’、すなわち「相」という区分こそ妥当、という了見であることもまた夙に申し上げておりますとおり。
 
                  

少々補足致しますと、この、あたしがしつこく「今どきの」と言っている、『現代英語には「現在」と「過去」の2つの ‘tense’ しかない』とする論は、むしろラテン文法に倣った ‘tense’ の原義に忠実な判断、とも言えそうなもので、 ‘tempus'  を語源とする「時制」は飽くまで単語の動詞の語形を指すものなれば、最低でも助動詞を添えて2語で表すしかない英語の「未来」はその限りに非ず、っていう理屈。それも既に何度も言ってましたっけね。

おっと、「補足」ってのはその話じゃなくて、単語以外をも ‘tense’ として扱う旧来の英文法、あるいは今日でもそれが普通であろう、いわゆる ‘pedagogical grammar’ とか ‘teaching grammar’ (外国語としての学習者向け文法)では、「現在」「過去」という単体の「時制」は ‘simple tense’、助動詞との組合せは ‘compound tense’ と称したりもする、ってなことについての御託だったんでした。

でもそれだって、30年以上前に購入したその種の「学習」文法書だの語法書だのにも、ほぼ漏れなく「ほんとは不正確なんだけど、今までどおりにしといたほうが何かと便利で都合がいいから」というような、何となく言いわけじみた断り書きが記されておりました。

近年ではまた、前者の「単純時制」に当るものを ‘primary tense’、すなわち「一次時制」とする流儀もあり、その対義語たるべき ‘secondary tense’、「二次時制」は、旧来の ‘compound tense’ と同じものを指すわけではなく、「一次」と「二次」の両者を包含するのが つまりはその ‘compound tense’、「混合時制」……って、こりゃまた何のことやらさっぱりわかりませんな。もうちょっと埒が明くよう、換言を試みると致します。
 
                  

旧来の ‘simple tense’ に相当する、ってよりおんなじものを指す ‘primary tense’の ‘primary’は、屈折、すなわち語形の違いによる、ってなところでして、結局この「時制」は「現在」と「過去」の2つだけ、ということに落ち着きます。対する ‘secondary tense’ のほうは、それとは裏腹に、別語を添えることによって成り立つやつ、みたような感じで、今度は「現在完了」と「過去完了」の2つが該当、ってなことんなるような。

で、流儀によっては「時制」ではなく「相」に区分されるその2つの「完了」が、「二次時制」であると同時に「混合時制」、 ‘compound tense’ でもある、ってことんなるんですが、いったい何のことかてえと、現在完了なら ‘have’ だの ‘has’、 過去完了なら ‘had’ という、それ自体は「一次時制」であるものと、 ‘have/has done’ だの ‘had done’ だのという「二次時制」が一体となっているから、っていう理屈……らしい。ちゃんと本買って読めばもっと詳しくわかるんでしょうけど、なんせみんな只で覗いたウェブの記事に寄りかかって言っとりますもんで。

でもそれじゃあ、‘secondary tense’ は常に ‘compound tense’ ってことんなるのか、ってえとそうでもなくて、たとえば

 Having said so, she left home.

というような例では、 ‘Having said’ が件の ‘secondary tense’ に該当するものの、これは何ら ‘compound’ には当らない、という次第。助動詞が ‘had’ という ‘primary tense’ ではないのだら、この「動詞句」、 ‘having said’ は専ら ‘secondary tense’ であり、 ‘primary’ と  ‘secondary’ が合した ‘compound tense’ ではあり得ない、ってところかと。
 
                  

ときに、こういう、いわゆる分詞構文における「分詞節」って、主語述語の揃い踏みが「節」の条件だという日本式の言い方だとどうも「節」は名乗れないようなんですが、英語では立派な ‘non-finite clause’ ……ってなをしてたのも既に懐かしくさえあるところ。それはもういいか。
 
                  

いずれにしろ、こうした近年の流派が唱える ‘compound tense’ は、旧来のそれより限られた範囲に充当されるものであり、昔からの ‘simple tense’ と同じものを指す ‘primary tense’ とはそこが違う、とは申せましょうか。旧来の「混合時制」との最大の違いは、むしろ ‘tense’ 自体を、意味ではなく形態のみによる区分、としているところにある、って感じですかね。

尤も、これすべて、拙がしつこく申して参りました ‘tense’ は単体の動詞の語形のこと、っていう理屈の下では、どのみち ‘aspect’ とか  ‘phase’ という区分に相当するものをも ‘tense’ に組み込んでいるわけで、まあハナからこの一連の駄論とは相容れない部分が大きなご説ではあるのでした……って、また何を今さら言ってんだかな。重ね重ねも恐縮至極。すみません。

そう言えば、さっき例に使った ‘having said’ ってのだって、 ‘non-finite verb phrase’ の典型の如きものであり、「‘tense’ を有する、すなわち ‘tensed’ たるが ‘finite’ の前提」っていう定義にあっさりと背を向けたような ‘tense’ の例ではあるのでした。だからまあ「二次」って扱いではあるんでしょうけど、これこそ、文法というものが本来、言語の仕組みに対する科学的な考察をこそ指すべきものであり、決して万古不易の規範などというあまりにもバカげた(てえか、金輪際あり得ない)ものなんかじゃない、ってことを如実に示す事例ではございましょう。なんちて。

ああ、その ‘finiteness’ に関してもまた、そもそもこれを動詞単体の形や意味について論うのが穏当を欠くやり方で、もっと大きく、‘clause’ (日本語の「節」より意味が広いことも既述の如し)に対して用うべき概念であろう、という論も、最近のウェブの英文記事で見ちゃったりもしたんでした。こりゃもうキリがねえな。
 
                  

……などと、思わずまた随分と寄り道をしちゃいまして、まことにどうも。ま、そういう割と最近の知見はさておくことに致しまして、まずは伝統的なほうの ‘compound tense’ について申し述べます。

その言わば代表例が、 ‘will’ だの ‘shall’ だのに不定詞を連ねた ‘future tense’ ということになりましょうか。英語ではこれ、完了も進行も伴わない「単純な未来(時制)」ってことで、 ‘future simple’ とか ‘simple future (tense)’ と言うんですが、ときどきこれを、日本特有の「単純未来」ってやつと混同する方もいらっしゃいまして、それはもちろん「意志未来」の対義語なんでしょうけど、いずれも英語じゃそんな安直な言い方はしてません。

それより、「未来」ってのは「現在」や「過去」とは初めから対立概念の如きものであり、つまりは対等の立場なんだから、今の英語には単体の動詞にそれを表す形がないからと言って、それだけを ‘tense’の仲間には入れてやんない、ってのも多少融通に欠ける態度ではなかろうか、とは自分でも思わないではないものの、この(旧来の) ‘compound tense’ ってやつには、その「未来時制」に限らず、実にさまざまな「動詞句」の形態が含まれることになる、って実情もあったりしまして。

その「未来時制」と概括されるものにだって、中学でまず習う「be going to +不定詞」だとか、「be +現在分詞(-ing form)」 だとかがあるわけですが、それに加え、「完了」や「進行」という、「時間」とは間接的にしか関りのない「相」はおろか、「法」や「態」という、「時制」とは本来まったくの別概念にもまたがるのが、その「混合時制」だったりする、ってことでして。
 
                  

と、またしても何だかわけの知れねえこと言ってますけど、とりあえず日本語の「時制」って訳語だと、「時」って字がどうしようもなく「時間の話」を想起させるものになっているのに対し(「制」の了見は謎にしろ)、フランス語経由で移入されたラテン語由来の英語 ‘tense’ の語感にはそういうところがないってことなのか、昔から、たとえば ‘subjunctive mood’ の代りに ‘subjunctive tense’ と言う人は、特に普段あまり文法用語なんか気にしない、要するにごく普通の英語国人には珍しくないんですね。

「相」はおろか、「法」だの「態」だのも広義の「時制」に包摂される、ってのはどういうことかと言いますと、まあざっと下記のような例が悉く ‘tense’ として扱われる(こともある)、ってことでして。

 I have/had done it.
 I will/would be doing it.
 I will/would have done it.
 I will/would have been doing it.

これに加え、たとえば

 Nothing is/was being done.

なんてのもまた ‘coumpound tense’ のうちには違いなく、さらには、いずれも最初の助動詞(本来はそれだけが ‘tense’ を成す)が、

 shall/should
 can/could
 may/might
 must

などといった、いわゆる(叙)法助動詞になっている動詞句は、例外なく ‘compound tense’ とは呼ばれる(こともある)、ってな具合なんです。「仮定法」の話に「時制」が絡んでくるのも道理、ってところでしょうか。
 
                  

因みに、今さっき「(混合)未来時制」の一例としてちょいと触れた 「be ~ing 形」ですが、それって「現在進行形」じゃないの? とは、塾の生徒にも昔よく「指摘」されました(今じゃみんなそろそろ中高年?)。自分だって中学の時分には、 ‘I am going to go to school.’ なる例を教わり、 ‘I am going to school.’ だと、「未来」ではなく、今現在通学途上にある、という意味にしかならないかのような認識。だってそう教えるんだからしょうがない。

でもそれ、軽く笑いをとろうというのでもなければ、普通はそんな冗語表現は用いません。この ‘go’ や ‘come’については特に、現在進行か未来かの違いは文脈により明らか、ってより、前者の意でわざわざ言わねばならぬ状況はあんまりないんじゃないか(?)とも。

この、「現在進行」的な言い方が「予定」を表す、って話は、むしろ基本知識に属する事項だと思うんですが、発話時点たる今現在の描写か今後の話かってのは、前後の文脈もさることながら、その動詞自体の意味(意思による「動作」を指すのか、ときに永続的な状況という場合もあり得る「状態」を表すのか、など)からも、容易に判断はつく、ってところでしょうかね。

さらにはまた、前回まで申しておりましたように、そもそも現実に「現在」として括られるのは、場合によっては相当な昔から相当な未来にわたる時間の連続であり、現在進行ったって、その「現在」は決して発話の瞬間の前後に限るものに非ず、とにかく便宜的に区切った「今」のことなれば、ときには数日はおろか数年にも及ぶ期間を指している場合だってあり得る、という次第。それでもその長期間を「一時的」なものと見なせば、やはり「現在進行」の出番とはなる……とかね。やっぱり何言ってんだかよくわかんないとは存じつつ。
 
                  

ところで、上で何気なく言及した ‘go’ と ‘come’ って動詞について、実はまた非ずもがなの蛇足を思い出しちゃいまして、それをまたちょっと以下に。

‘go’ が「行く」、 ‘come’ が「来る」とは限らないのは、もちろん両者が初めから日本語の動詞とまったく同義ではないからで、それはあらゆる日常語に通底する現象ですよね。‘yet’ が「まだ」だったり「もう」だったりとか。

とりあえずこの ‘go’ と ‘come’について概説すると、日本語ではとにかく話者自身にとっての移動方向によっていずれかが決するのに対し、英語では、言わば当該の話題における客観的な基準地点、つまり語る自分にとっても聞く相手にとっても共通の中心的位置が原点、って感じなんですよね。自分が今いる場所から離れるなら、日本語ではまず「行く」としか言わないけれど、当面の基準地点がたとえば相手の家で、「今そっち行く」って言うなら、‘I'm coming.’ とはなるという寸法で。

毎度、だからどうした、って話ではありますが、こういう、暫く英語やってれば自然にわかってきそうな事柄も、なぜか一向にその法則自体は把握せぬまま、個々の表現の使い分けとしてだけ認識しているベテラン英語屋ってのも結構多いようでして。そりゃまあ、辞書にも教科書にもそんな端的な説明は載ってないし、もちろん中高の教師は誰一人わかってもいなかったんじゃないかと。

これについては、たしか去年、SNS でもっと諄い書き込みをしていた筈ですので、それを見つけて、次回の投稿で再録しようかなどと思いついちゃいました。その場合は、この ‘tense’ 談義は1回休みってことに。ほんと、場当りだけが我が人生、とでも申しましょうか。これじゃ稼げないのも道理か、などとちょっと思ってるところです。
 
                  

……てえか、結局はまたおんなじような話を蒸し返しながら、いちいち見当外れの話柄に揺れ動いてばかりいやがる、って心地ではあります。実を申しますと、眼目たる筈の ‘tense’ というものに関して、どうにも言いそびれていたような気がしていたのは、上で述べていたような事柄とはまた別の話なのでした。何なんだよ、今さら、とは自分でも思いつつ。

さっきつい言及してしまった ‘primary tense’ と ‘secondary tense’ の話もそうでしたけど、いいかげんにウェブを冷かしているだけでも、英語による英語関係の記事には、知らない間に英語圏では流行ってるらしい(?)新たな知見も何気なく書かれてたりして、ちょいと見ぬ間に浦島気分、ってこともしばしばではあるのでした。そんなこと言ったって、なんせ金もないし、どうせ只で覗けるものしか見ちゃいないのは既述のとおり。それでも日本語の英語サイトなんかよりゃよっぽどおもしろくてよっぽどよくわかる、ってのもこないだから言ってますよね。毎度ご無礼。

とにかくまあ、 ‘tense’、「時制」ってものについての、徹頭徹尾散漫を極めたこの駄論にも、今1つばかり言い残していた(ような気のする)蛇足を加えて、何とかけりをつけたいとは思っとります次第。

先般、この ‘tense’ 談義を「再開」するに当り、補足的な情報というつもりで、 ‘finite’ に ‘marked’ という、お互いはまったく別次元の用語について要らざる御託を並べてましたけど、前者については、まあ ‘tense’ という語形を成す動詞の区分ってのがその定義ってことで、前回の駄文にも一応は顔を出してはおりましたものの、後者の ‘marked’ のほうは結局その後置いてきぼり。「現在」が ‘unmarked’ で「過去」は ‘marked’、 ってなことはチラッと言っとりましたが、まずはそれについて言上致そうかと。
 
                  

いずれにしろ、またしてもあれこれ無秩序に書き散らしてるうちにやっぱり随分と長くなっちゃってますんで、今回はここで一区切りと致し、本論はまた改めてじっくりと、ってことでひとつ。

相も変らぬ段取りの悪さ。それはもう如何ともし難く。どうもすみません。

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