2018年8月19日日曜日

完了は受動から派生、とかいう話(5)

『風と共に去りぬ』こと ‘Gone with the Wind’ の ‘Gone’ が、動詞の完了ってよりは、名詞を修飾する形容詞ってのが本来の役どころ、って話です。

いや、この題名の語列だけだと、何せ被修飾語たるべき名詞の呈示がないから、自ずと別儀とはなりましょうが、映画の冒頭付近、かの壮大な主題曲の終りに付されて、南軍の軍歌的存在たる ‘Dixie's Land’ が切なく侘しいアレンジで奏でられる中、それに乗せて示される文言の最後に出てくる ‘gone with the wind’ は、その前にある ‘a civilization’ を後ろから修飾するものにて、つまりは形容詞句たるは灼然、てなところでして。相変らず何言ってんだかわかんないかも知れませんけど、とりあえずウェブの動画で確かめました。

これ、数行にわたる詩(?)の末尾で、その前に

 Look for it only in books, for it is no more than a dream remembered.

って文があり、その後に1行空けて

 A Civilization gone with the wind.

という「名詞句」が付されてるてえ寸法。でもこれじゃやっぱり何言ってんだかわかりませんでしょうね。

 それはもはや書物に見られるのみ。

 既に昔日の夢、風と共に去りし伝統に過ぎず。

とでもいうような、古き良きかつての南部を謳った文句なんでした。文の切れ目や語句の繋がりが原記と異なるのは、まあ和英の構造的な違いってことでどうか。仕事でなきゃそんなこた気にしません。
 
                  

これ、40年ばかり前にテレビで観たときは(栗原小巻がビビアン・リーの声出してた)、訳は字幕ではなくナレーションだったと思うんですけど、なんでも最後は「南部の栄光、風と共に去りぬ」てな台詞だったような。

配役その他のクレジットの後に示されるこの冒頭の詩(なんですかね)は、他人の書いた長過ぎる脚本を5日で書き直したとかいう Ben Hecht の仕事。 BGM たる ‘Dixie's Land’ の歌詞とも通ずる文言も盛り込まれ、敗戦による南部人の悲哀を叙したものとはなっています。

でも書いた本人はニューヨークの出身で、早くから公民権運動に加わったという反差別主義の多角的文筆家。映画の台本は請負仕事のほんの一部でしかなかった模様。しかしこの映画にはクレジットもなく、大当りの結果アカデミー脚色賞を受けたのは、どう足掻いても上映時間が6時間に及んでしまうという長大な本を書いてしまった Sidney Howard のほう。公開前に事故死したため、どうやら本人へのはなむけと、未亡人への配慮による措置だったらしい。
 
                  

それはそうと、この映画のしょっぱなでは、それこそ風にたなびくかの如き ‘GONE WITH THE WIND’ というバカでかい題字が右から左に流れてくんですけど、その文字に施された装飾を見るに、この題目が流れ行く左側から吹く風を受けているかのような図。まあ、後方に尾を引いてるようにしないと、そりゃかなり間の抜けた絵にはなりましょうが、これじゃあ風下から風上に動いてることになっちゃいます。つまり「風と共に」ではなく「風に逆らって」去りつつある、ってことに。

……てなどうでもいいことにいちいち引っ掛かるから、「お前はおかしい」とは言われるってことなんでしょうけど、なあに、こっちがつまんねえやつだと思ってる相手におかしいと言われたって、何ら痛くも痒くもないばかりか、「そいつぁ望むところよ」って気にもなろうてえもんで。
 
                  

ちょいと話を戻します。この映画、というよりその原作たる大河小説の題名は、19世紀英国のデカダン詩人兼作家、 Ernest Dowson による ‘Cynara’ から採ったものである、とする記述をウェブで見ちゃったんですが、どうでしょうねえ。

その ‘Cynara’ てえ詩を検索して覗いたところ、単に ‘gone with the wind’ って文句が途中に出てくるってだけで、それも特に新奇な言い回しだったとも思われませず。まあ自分が19世紀の英米人じゃないんだから、今の感覚で勝手なこと言ったってしかたありませんけどね。あるいはマーガレット・ミッチェル自身がそう語った、ってことなんでしょうかしら。いずれにしろ別にパクリでも何でもないのは明らかかと。

それより、そうした情報を勝手に拡大解釈(ってより曲解)し、映画に出てくる文句とはまったくの別物であるその Dowson の「恋愛詩」(長いし)の一節が、(Ben Hecht による)冒頭の文言そのものである、などという寝言を堂々と書いている者が、我が日本のサイトには散見されるのです。日本版ウィキの「風と共に去りぬ(映画)」のページにも、〈ディキシーの調べと共にこのダウスンの詩の一句が出てくる〉などと書かれておりました。そりゃなかろうぜ。いずれ典拠など調べもせぬ知ったかぶりには違いなく。

だいたいなんでイギリス人の唯美主義者(?)がアメリカ南部の誇りだの悲哀だのを謳い上げるかってのよ。ちったあ話がおかしいた思わねえもんかね。それをまあ、例によってこういう不用意な記事を掲げる人ってのは、どうせ自らはまったく確認しようなんざこれっぽっちも思わねえんだろうけど、よもや知りもしねえことをそんなに堂々と書き記していようとは、普通は思いも及びませんよね。知らない人が見たら信じちゃうじゃねえかい。かくして誤謬が拡大再生産されるという毎度おなじみの仕儀。

まあ、書いてる本人が、何の根拠もなく勝手な勘違いでそう信じ込んじゃってるからこそ平気でそう書き散らしてるのは明白なれど、「またか……」との疲労感は免れ得ず。かかる事例はもはやウェブ上に蔓延する、宛然恐るべき無思慮と驚くべき誤認の誇示。今さらどうこうしようもあらばこそ、ってところですね。

因みに英語版ウィキでは、小説の題名についてこそ「Dowson の詩から採った」とは言っているものの、映画のほうでは一切 Dowson に言及せず。もちろん冒頭の文句が「ダウスンの詩の一句」だなんてこたおくびにも出しゃしない。出す筈もない。そもそも「句」じゃなくて、短くとも文章だし。つまりこれ、(またしても)オタクになど到底なり切れない半知半解のともがらによるどうしようもねえ与太話。ほんとどうしようもねえ。どうする気もないけれど。
 
                  

いけねえ、調子に乗ってまた随分と話が逸れちまった。自(動詞)他(動詞)ともに完了を表す、もともとは専ら名詞を修飾する形容詞が過去分詞の本義、てな話だったんでした。他動詞の場合はその「完了」がすなわち「受け身」てえことにもなる、ってことで。

なお、「完了」って訳は、支離滅裂な訳語が溢れ返る我が国の英文法用語では、「形容詞」と並び、珍しくちゃんと意味を成す例。どのみち原語とは随分違うんだから、どうせならこういうふうに日本語として意味が通るようにして貰いてえもの。

これ、むしろ英語の ‘perfect’ ってほうが、英語の解説書にも「‘complete(d)’ の意」と断り書きされるような判じ物。ラテン語に倣った古い文法用語は大抵そうなんですが、だからと言って「格」だの「態」だの「法」だのという、ふざけてんのかってほど意味不明の国語訳の数々は未だに腹に据えかねまする。まあそれもしかたねえんだけど。

さて「国語訳」とは書きましたものの、なんせ素っ気ない漢字ばかりだから、ひょっとすると中国語訳をそのまま流用したのか? って気も致して参ります。それについては確認の方法が思い浮かびませず。まあそれもいいや。どうやら明治期の「国語」訳ではあるようだし。
 
                  

英語における英文法の言葉がちょいと妙なのは、今は文法一般を意味する ‘grammar’ が、元来はラテン語文法、ってより、学問としてのラテン語そのものを指し、 ‘grammar school’ とはすなわち「ラテン語学校」のことだった、てな経緯によるもののようです。だもんで、その ‘grammar’ を英語の文法にも充当するようになった近世以降も、用語はラテン語式のまま。 ‘perfect’ だと「完了」てえより「完璧」なのでは? って思うのはあたしが日本人だからってわけじゃなかったんでした。

ラテン語の動詞には、既に終えた(済んだ)ことか否か(未だに、ってより結局やらずじまいだった?)による語形の使い分けがあり(現在とか過去とかとは別に、それもまた「時制」に区分される由)、その「もう済んでる」ほうを表す形を指すのが ‘perfect’ という寸法。 ‘perficere’ とかいう動詞の派生形(活用形) ‘perfectum’ が、英語の文法用語 ‘perfect’ の語源なんだそうな。ふうん。

たびたび申し上げておりますとおり、ラテン語なんざまったく知っちゃいないんですが、英語の本とかウェブの記事なんかを見ると、そんな感じにはなってんです。語形は ‘perfect’ であっても、現代英語のそれは原義とはちょいと趣を異にする、ってところかと。
 
                  

ところで、件の『風と共に去りぬ』に絡む「‘gone’ はその前の名詞を修飾する形容詞」って話でまた1つ余計なことを思い出してしまいました。例の「ドリカム」っていう2人組(3人組の1人がマズって抜けちゃったんでしたっけ?)についての与太話なんですが、いい具合にまた講釈さながら、この続きはまた次回、って雰囲気になりましたんで(今勝手にそういうことにしました)、今宵はここまでに致しとうござりまする。

もう夜半は過ぎてますけど。

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