2018年8月3日金曜日

‘Have you a cigarette?’(3)

唐突に何ですが、あろうことか(ってこともないけど)、‘gotten’というアメリカ弁特有の「古語」が近年、他の英語国と同様、イギリスでさえ復活の兆しを見せ始めている、という現状もあるのは、前回触れた統計からも知られるところではあるのですが、それはまあさておくと致しまして……。

イギリスにおいて、ったって、アメリカなんて国はハナはなかったんだから(ブリテンとか UK ってのも同様)、英語と言えばイングランド語のことに決ってはいたわけですが、とにかくこの、過去と同形の過去分詞 ‘got’、早くも16世紀末には姿を見せており、シェイクスピア[William Shakespeare:1564(永禄7)- 1616(元和2)年]だのホブズ(Thomas Hobbes:1588(天正16)- 1679(延宝7)年]だのは、‘gotten’と併用していたと申します。

それ以前は、 ‘got’ と ‘gotten’ との峻別に揺るぎはなく、過去分詞として機能していたは後者のみ。1386年(北朝の至徳3年、南朝の元中3年)頃の作とされるチョーサー(Geoffrey Chaucer)の詩には ‘geten’ という表記が見られ、90年ほど後、1477(文明9)年のジョン・パストン(John Paston)の手紙には ‘gothen’ と記されているとのこと。

それが、70年足らず後の1535(天文4)年にマイルズ・カバデイル(Myles Coverdale)が訳した聖書で、 漸く‘gotten’ というお馴染みの語形が使われ、さらに約半世紀後の1591(天正19)年頃、シェイクスピアは、デビュー作(?)の『ヘンリー六世』三部作の第3部で ‘got’ と書いてるってんです。

同年の(とされる)同作第2部(つまり1つ前の作)では ‘gotten’ を使ってるんですが、いずれも ‘hath got’ に ‘hath gotten’ と、三人称単数主語の直説法現在完了、ってところはおんなじ。いずれにしろ、まさにこの16世紀末のエリザベス朝、シェイクスピアの頃が、過去分詞の ‘gotten’ が ‘got’ へと転ずる過渡期の始まりだったのがわかる、という次第。

でもこれ、他の少なからぬ作品と同様、クリストファ・マーロウ(Christopher Marlowe)との共作だというから、実は両人の普段の言い方が混淆してるだけ……だったりして。わかんないけど。

因みに、この15世紀を背景にした「時代物」からの引用、順番に従って並べますと、第2部のほうが ‘Jack Cade hath gotten London Bridge’ という注進者の台詞で、「ジャック・ケイドがロンドン橋を攻略しました(?)」、第3部のほうが ‘The Army of the Queene hath got the field’ 「王妃の軍に制圧されてしまった(?)」って感じ。すみません、いちいち「(?)」を挿入したのは、ウェブで見つけた戯曲全文の当該部分しか見とりませんもので。ほんとは話の筋もわかっちゃいないんです。長いんだもん。
 
                  

ときにこれ、 ‘army’ という集合名詞の主語に対して ‘hath’、つまり今で言う ‘has’ を用いてるんですが(複数なら今と同じ ‘have’)、こういう、集団を表す主語を単数扱いするのも、何気なく今日では米国式って雰囲気だったりします。人間の集団を指す場合、個々の集りと見なせば複数動詞で、全体を1つの単位を見なせば単数、って理屈ではあるんですが、現実には、これもまた書き手が英米いずれの人物かを示す好個の例、ってところがありまして、アメリカでは形が単数の集合名詞は大抵単数扱い、イギリスでは圧倒的に複数扱い、って感じなんですよね。

軍隊についても、将兵の集合として言うなら複数だし、単体の組織とすれば単数、ってことにはなるんですが、やはり英では複数扱いのほうが目立つようだし、米では単数、という印象ではあります。警察、 ‘the police’ については英米を問わず常に複数扱いなんですが、組織というよりは個々の警官の集り、って感じなんですかね。

団体の名称が複数形なら否応なく複数動詞を使うのはいずれも同じですが、企業名とかバンド名などが単数形の場合、アメリカの記事では概ね(すべて?)単数扱いなのに対し、イギリスでは常に複数、というのが我が認識ではあります。実際、どっちの執筆者によるものかはそれで知れることが多く、宛も ‘got’ か ‘gotten’ かってのにさも似たり、ってところだったりして。

the Beatles だの the Rolling Stones だの the Animals ってんなら、英米いずれも文句なく複数だけど、Led Zeppelin だとか Black Sabbath だとか Pink Floyd だとか、それに Fender だの  Gibson だのってのが、40年前に毎週買っていた音楽紙では常に複数扱いだったのに、アメリカの Guitar Player Magazine のインタビュー記事だけを集めた本ってのを買ったら、ものの見事に全部単数動詞が使われていて、なるほどこんなに違うんだ、と思ったのでした。

むしろ、それまでの中高の教科書なんかには、単数形の主語に複数扱いの動詞を付す、なんてのは見たことなかったから、たったそれだけのことでも、おお、イギリスじゃん、みたいな感じだったりして。

毎週水曜に発行されていた昔懐かしい ‘Melody Maker’ って音楽新聞には、毎週後ろのほうにロンドン西部のフェンダー専門店の広告が載っていて、その見出しが確か ‘If Fender make it, we store it’ ってんじゃなかったかしらと。もちろんそれ、例の「仮定法」なんかじゃなく、‘Fender’ という「集合名詞」を主語にした「直説法現在」です。フェンダーさんっていう個人名ではなく、企業という団体の名称なので、動詞は複数扱い、っていう理屈。なんせそのちょっと前まで高校の(アメリカ的な?)英語しか知らなかったから、初めはちょいとまごついたのが今や懐かしいところ。
 
                  

ところでその本、アメリカの雑誌社の編集によるとは言え、ジミー・ペイジもジェフ・ベックも、綴りはともかく用語や語法までが米国式で書かれていて、なんかマスコミのいかがわしさってなもんも痛感しましたる次第。なぜかクラプトンの記事ではそうでもなかったんですが、とりあえず両人ともロンドン近辺の、つまり共通語地域の出です。

前者のペイジは、うちが金持ちだったとかで、ちょいと古典的なぐらいの上流風のしゃべり、後者ベックは、クラプトンほど顕著ではないけれど、コクニーの亜流とでもいった、ごく平均的なイングランド南東部庶民の口調で、いずれにしたってアメリカ人にとっては典型的なイギリス弁の筈。それをそのまま文字にしろたあ言わぬまでも、いくらアメリカの読者向けだからって、本人たちは絶対こうは言わねえだろ、ってな台詞が書かれてると、やっぱりちょいと興ざめではございました。

その本、結構厚くて判も大きかったんですが、紙はペラペラの藁半紙みたようなもんだし(その分紙数は多く内容は充実)、写真も不鮮明な白黒ばかり。それが10ポンド(当時5千円ぐらい)ほどだてえんで、そいつぁボリ過ぎだろう、と思ってよく見たら「ドル」だったんでした。アメリカの本なんだから当り前、ってのにもすぐには気づかない英国暮し、ってところですね。じゃあいくらなのよ、と思ってちょいと表紙をめくってみると、端っこに鉛筆で5ポンドほどの値段が書き込まれてたんで、これならいいか、と思って迷わず購入したのでした。どのみち親からの仕送り暮しではあったのですが。
 
                  

その話はさておき、この集合名詞が単数か複数かってのもまた他の事例と通底するところで、カナダも含め、アメリカ以外は概して英国式というのがかつての傾向だったと思われるのですが、ひょっとすると昔よりは単数扱いが増えてんのかも知れません。当のイギリスも例外ではなかったりして。わかんないけど。

それより、16世紀末の沙翁の‘hath’、果して軍隊を1個の単位と見た台詞だからなのか、かつてはそのほうが普通だったのか、到底判断はつきませんが、後者だとしたら、ここでもやはり現代米国用法のほうが古形を残している、ということにはなりましょう。それがまた徐々に他国でも復活しつつある……とか? やっぱりわかんないけど。

……って言うか、そんな話はどうでもよかったんでした。そんなこと言ったら全部丸ごとそうんなんですけどね。
 
                  

さて、改めて考えてみるにこの‘hath gotten’と‘hath got’、前者は‘get’という行為の完了という「動的」な意味で、後者は既にその状態にあるという「静的」な意味を表す、っていう使い分けによるのかも、って気もして参りました。(後の)アメリカ弁における、「獲得」その他と「所有」その他の言い分けは、既にこのシェイクスピアの時分から何気なく為されていて、同じ年の同じ戯曲で両者が使われてるってのも、単なる気紛れ(あるいは執筆者が別?)の故ではなかった……のかも。どのみちそれもまったくわかりませんけれど。

……と思って、その後何気なく他のシェイクスピアの戯曲をいくつか冷かすように覗いてみたところ、完了に使われる不規則動詞の過去分詞が過去と同形って例がかなり散見され、これって別に‘got’に限った話じゃなかったんじゃん、ってのに気づいたのでした。‘I have forgot’とか‘Thou hast spoke’とか。 今どきの歌の文句で過去分詞が過去になってたりするのは、語呂の都合による苦肉の策だろうと思ってたんですが、沙翁も平気で使ってたんじゃありませんか。

で、思うにそれ、単なる気紛れや横着による語法の「堕落」などではなく、‘have got’と同様、結果である「静」の状態を表すのがこれら過去と同形の分詞、対して‘forgotten’や‘spoken’だったら、「忘れる」だの「言う」だのの「過程」を含意する、っていう、より精細な表現の使い分けを試みるようになった結果であった……とか(?)。

とするとそれ、件の‘Jack Cade hath gotten London Bridge’という、第2部に出てくる注進は、「ロンドン橋に迫りつつあったジャック・ケイドがついにそこに達した」という、多少とも「動的」な状況を伝えるものである一方(その前に別の注進者が「反乱軍は今サザック [Southwark] です。お逃げください!」てなこと言ってたんでした)、 第3部で、敗軍の将たるヨーク公リチャード・プランタジネットの吐く台詞‘The Army of the Queene hath got the field’ってほうは、「王妃の軍勢が既にいくさ場を制している」ってな「静的」な言い方で、つまりは「(ダメ王ヘンリー六世のかみさん)マーガレット軍がいくさに勝った」という意味にはなる……って感じですかね。

ってことは、いちいち‘you have’だの‘it has’だのっていうのがかったるいからって、‘you've it’と言うのはまだしも‘it's it’じゃわけが知れねえから、‘you've got it’だの‘it's got it’だのって言うようになったってのも、既に‘have got’と‘have gotten’の使い分けが明確、ってよりもともとが別々の意味だったから、ってのが実情で、だからこそ前者が単なる‘have’と同義の「静的」な状況を表すのに用いられるに至った……とか? どうせわかんねえけど。

一方、当然かとも思われますが、受動の意の分詞(元来はそっちが先)は、どうやら本来の形(gotじゃなくgottenとか)だけのようです。到底虱潰しに確認するなどは不可能、ってより、ほんのちょっと覗いてみただけですので、何ら断定的なことは申せませんし、申すつもりもまったくないのですが、あるいはそういうことだったのかも、とは思いましたる次第。惜しむらくは、ざっと覗いた沙翁の戯曲、過去分詞は規則動詞のほうが遥かに使用例が多く、つまり初めから過去も過去分詞もおんなじだから多くは参考にならず、ってことでして。
 
                  

関係ないけど、そう言や、その負けたリチャード・プランタジネットの息子の1人が、やがて劣勢を挽回したヨーク家の跡目を簒奪したとかいう、悪名高いリチャード三世なんでした。もう20年は前だと思うけど、アル・パチーノが ‘Looking for Richard’ とかいう映画でいい味出してたような。実は高校のときにクイーンの歌で知った ‘My kingdom for a horse’ (馬をくれ! シマをやる!)っていう絶望名言がいっち有名? 討ち取った側のチューダー朝の天下、16世紀の時流に乗ったシェイクスピアが、とんでもねえ醜怪な悪玉に仕立てただけ、っていう噂も昔からあったそうで、地元(?)のヨークシャー(岩手県辺り?)では名君扱い、ってところは宛然吉良上野。……って、そんなこたまたぞろどうでもよかった。
 
                  

まあ、何はともあれ、その後もこの2つの過去分詞は共存し、30年ほど後の1618(元和4)年には、ウォルター・ローリー(Walter Raleigh)が手紙に‘I had gotten my libertye’と書いているのを始め(この例では既に‘liberty’以外は現代表記と変りませんね)、約1世紀にわたって併存状態だったのが、17世紀末には ‘got’ が優勢となり、 ‘gotten’ は18世紀以降すっかり廃れちゃった、という顛末なのでした。

その時点ではまだアメリカという「国」はないので、英語、米語の別も成り立ちません。まあ、北イングランドとかスコットランドからの移住者が多かったので、既に方言の差は小さくはなかったでしょうし、「古語」たる‘gotten’が北部の俚言として生き延びており、それが彼の地ではむしろ標準的となった要因だったかも……と思ったら、ほんとはどうもそうじゃないらしい。

どのみち文章には訛りの差は現れないから、口語とはまた別儀ではあろうし、18世紀の時点では後世の正書法は未だ確立に至ってはいなかったとも思われ、それが、近代以降の英米の相違、まあ多くは専ら米側の「勝手な」流儀によるものだとは思ってんですが、とにかくそういったところが、近代以降の両者の対立をもたらした犯人ではあったかと。

「勝手な」と言っても、宛も近代以降の国語における「標準語」だの「共通語」だのってやつの基盤である江戸・東京弁(の一部に過ぎない山の手のいわゆる殿様言以外は「訛り」、ってところはロンドン語と一緒だけど)がせいぜい18世紀も後半以降のものであるというのと軌を一にするが如く、音韻的には、現今の標準的英国発音こそ、アメリカ独立の頃までは存在しなかったような、比較的新しい、高々この二百年ほどの間に生じたかなりの変転の結果、ってのが実情ではあるようです。つまり、これは英米人の多くが知っていることだとは思いますが、どっちかってえと、今の北米訛りのほうが、よっぽど本来のイングランド語の発音を残している、ってことで。

いずれにしろ、やがて旧植民地のほうが旧宗主国の勢威を凌ぐようになり、二次大戦中には両者の立場もすっかり逆転、と言ったら大袈裟かも知れないけれど、いずれにしろ戦後は、政治的経済的な優劣はさておいても、アメリカの文化風俗がそれ以前より容赦なくイギリスを浸食し出したのは明白。テレビでは連日アメリカのドラマが放送され、戦後育ちの英国人で日常的にアメリカ語を聞くことなく暮すことのできる者は皆無と思われます。それでもまだ、言語的「被害」のほどについては、陸続きのカナダや、オーストラリア、ニュージーランド、それにアイルランドなどに比べればまだまだかなり持ちこたえている、とは言えましょうか。
 
                  

とは申しましても、当のイギリスでさえ、18世紀以降も暫くはその‘got’と‘gotten’の「混同」に難色を示す向きも皆無ではありませず、それについてまたひとくさり。


……と思ったんだけど、調子に乗っていろいろ思い出話などしてるうちにまた無駄に長くなっちまったんで、続きはまたも次回に持ち越しってことで。

結局3回続きの寄り道でもケリはつけられませんでした。自分でも想定外。ほんと、すみません。

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