2018年8月4日土曜日

‘Have you a cigarette?’(4)

承前……とでも言っときましょうかね、早速話の続きです。

18世紀も後半の1762(宝暦12)年、規範英文法の大家、ロバート・ロウス(Robert Lowth)が、自著の文法指南書で、本来の過去分詞が過去に取って代られるという「昨今」の風潮は実に嘆かわしい、とこぼしてるってんですよね。 ‘get’ の過去分詞も飽くまで ‘gotten’ であって、これを過去と同形の ‘got’ で間に合わそうなどとは言語道断。それが世俗の口語にとどまらず、一部の著名な書き手の使用によって公認されるとは……みたようなことを言ってるそうな。

その時点ではまだアメリカは植民地、つまりイギリス(既にイングランドとスコットランドの連合体)の一部ですので、やはりその後の英米の語法対立はまったく無関係。いずれにしたって、いくらそんなこと言ったところで、既にその百何十年も前に、かの沙翁、シェイクスピアを始め、高名な文筆家がその「嘆かわしい」語法を使ってんじゃごぜんせんか。

日本じゃ『ガリバー』で知られる風刺作家、ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)なんざ、1745(延享2)年には死んじゃってますから、いずれにしろこの時点ではとっくに故人。それが既に ‘have got’ ってのを、それも現代語とまったく同じに ‘have’ と同義で使ってるてえし、その点では既に件の沙翁も実は同様で、 ‘have’ とだけ言えばいいところに、その疑似完了形、ただし過去分詞が本来の過去と同形たる ‘have got’ を用いているとのこと。今さら(17世紀後半)そんな愚痴言ったって遅過ぎらい、とは思わざるを得ず、ってところですね。

あ、てえことは、もうシェイクスピアの時分、16世紀末には、 ‘I have’ ってのが面倒だから ‘I've’ で済ますようになり、それだとはっきりしねえから、ほんとは意味のない ‘got’ を挿入しとく、っていう横着語法が横行してた、ってことなんですかね。あるいはやっぱり ‘get’ の「過程」は閑却し、「結果」という状態だけに言及しようっていう、「新たな」過去分詞 ‘got’ の、旧来の形 ‘gotten’ との差別化が発端……だったとか? どうせ今じゃあ確かめようもありませんが。
 
                  

それはそうと、ロウス言うところの「一部の優れた物書き」ってのは、同時代の商売敵(?)、18世紀随一の、と言うより英文学史上屈指の「何でも屋」的大御所ってな風情のサミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson)博士のことじゃねえか、って話なんですが、この数年前の1755(宝暦5)年に刊行した名英語辞典、 ‘A Dictionary of the English Language’ (またの名を ‘Johnson's Dictionary’)では、過去分詞としての ‘got’ と ‘gotten’ をまったく同等に扱っており、さらには ‘have got’ の2つの用法、すなわち ‘have gotten’ に代る純然たる現在完了と、 ‘have’ と同義のそれとについても、

‘He has got a good estate’ does not always mean that he has acquired, but barely that he possesses it. 

と記しているとのこと。 ‘has got’ が ‘has acquited’、「獲得した」とは限らず、単に ‘possesses’、「所有している」という意味にもなる、って言明してんです。今となっては知名度が遥かに低いロウス如きがどれほどエラそうに嘆こうと、18世紀半ばにはもう現代語と何ら変らぬ語法が確立していたということで。

両人とも、過去分詞の ‘got’ と ‘gotten’ における「静」と「動」の違いには言及していない、とのことですが。同じ過去分詞でも、完了ではなく受動に使われた場合は、とりあえず「静」的な意味合いにはなろう、とは思量致すところではございます。
 
                  

因みに、スウィフトもジョンソンも「啓蒙主義者」との括りだったりもするんですが、科学的態度を欠いた傲然たる規範主義こそ愚かしい、という立場だったとは思われます。わかんないけど。前者はかなりの政治好きで、後の保守党の取巻きだったりするし(長らく野党ではありましたが)、後者はアメリカの独立に飽くまで反対だった、とかいう話もありますものの、ここは飽くまで言語的思想が眼目、ってことで。

ロウスが示したジョンソンへの難色ってのとは裏腹ですが、それで思い出したのが、1926(大正15)年の初版以来、英語の語法書として、後継者たちによる数度の改訂を経た今日も、英語圏では依然名著の誉れ高い、 ‘A Dictionaary of Modern English Grammar’、 別名 ‘Fowler's (Modern English Usage)’ (または単に ‘Fowler’)を著したファウラー(Henry Watson Fowler)に対し、当時の大物言語学者、イェスペルセン(Jens Otto Harry Jespersen……英語じゃあ[ジェスパスン]って感じだけど)が、傲慢なる規範主義者である、として辛辣な批判を加えたって話でして。因みに、さっき掲げたジョンソン英語辞典の引用句も、実はそのファウラー(第2版)からの孫引きなんでした。

このイェスペルセンって人、デンマーク人ではありながら、英語のいわゆる記述文法においては、当時の第一人者みたような存在で、もちろん英語に関してはハナから英語で書いてます。いずれにしろ、あたし自身がその『ファウラー』(80年代に購入した65年が初版の改訂版)には随分と惚れこんじゃいまして、文法研究は飽くまで客観的、科学的なるべし、というイェスペルセン先生には不倶戴天の敵とも言える「語法学者」なのかも知れないけれど、18世紀のロウスに代表されるような、鼻持ちならない規範至上主義の自称作法指南者とは対極の、徹頭徹尾実際の用例に依拠した「正しさ」を説く、純然たる、それも稀に見るような論理家。

むしろ、ロウス的な作法指南者やその信奉者どもが垂れる「規範」の多くを、迷信、偏執、あるいは学校教師のでっち上げなどとして、容赦なく切り捨ててんです。既存の「理論」を振りかざすのとは正反対の、飽くまで「論理」の人。どう足掻いたって非科学的な規範主義者などではあり得ません。主に構文、統語法則を指す「文法」に比して、個々の物言いについて論ずるものと見なされる「語法」の辞典、なんていうもんで大当りをとったのが、客観的な観察と科学的分析をこそ絶対正義とする(?)イェスペルセンには気に食わなかった、とか? そんなこたねえか。
 
                  

ところで、先般の投稿で、「少なくとも現代語としては、 ‘You haven't to go.’ だの ‘Have you to go?’ とはまず言わねえ」などと申しとりましたが、そのファウラーが、1927(昭和2)年、S.P.E. (Society for Pure English) の冊子に、

 ‘Have we not now to recognize that ...?’
 
と記しているってことが、件の語法辞典の序文で紹介されとりました。 ‘Don't we now have to ...’ とか、でなくとも ‘De we not now have to ...’ などとするのが今どきなんじゃないか、って気は致します。1965年の第2版なんですが、基本的には ‘Fowleresque’ ぶりを損なわぬよう、1926年の初版の記述を尊重した、という改訂者ガウアーズ(Ernest Gowers)の記述です(翌66年に死去)。

しかもそれ、規範主義的だというイェスペルセンの論難にはビクともしないながら、「我々イングランド人は、何世紀にもわたってラテン語の作法に基づく文法を教えられてきたため、ラテン語の要素が自らの文法意識と不可分になっていることに、そろそろ気づかねばならぬではないか」といった内容(大意)なんです。

ときに、よんどころなく「ファウラー」っていうカタカナ表記の因襲に従ってそう書いてますけど、音引きは要りませんね。「ファウラ」ってほうがよっぽど英語っぽい。それは「ガウアズ」も同様。でもこっちの ‘Gower(s)’ って名前は、ひょっとすると[ゴー(ズ)]って発音かも知れません。なんせ50年以上前にあの世に引っ越した人なんで、当人がどう名乗ってたのかはちょっと確認できませず。ま、いいんだけどさ。

……てえか、またも余談でした。
 
                  

その、ファウラーが念入りに扱き下ろした迷妄の類いが、我が日本では百年を経ようという今もなお「正しい」英語として居座っているというのが実情ではあるのですが、まあ、その話もいいでしょう。

とにかく、そうこうするうちに、「正しい」 ‘gotten’ はいよいよ ‘got’ に駆逐され、 1795(寛政7)年、 アメリカ生れながら故地の独立後にイングランドへ移住した文法家(健康上の理由だってんですが)、リンドリ―・マリー(Lindley Murray)は、大当りした著書、 ‘English Grammar’ の中で、 ‘gotten’ は「廃語」である、と言い切ってるってんです。

さすがにそれはちと大げさで、 ‘gotten’ がすっかり消滅したってことでもなかったようですが、いずれにしろとっくに標準的語法ではなくなり、スコットランドやアイルランド(当然「北」を含む島全体のことです……って、わざわざ言わなきゃならねえことかな、と思うんだけど、日本じゃ実際わかってない人が存外多くて……)の俚言でなければ、古典的な慣用表現に限られる、っていうのが既に実態。その後2世紀にわたって、過去も過去分詞も ‘got’ ってのが標準英(国)語とは成りたる次第。

それについては、独立して他国とはなったけれど、アメリカでも標準的にはまったく変らず。細々と ‘gotten’ も生き残っちゃいたとは言え、やはり地方の訛りを伝える者の割合が旧本国より大きかった、ってことでしょうかね。どうせわかんないけど。
 
                  

いずれにしろ、そのアメリカでさえ、1828(文政11)年、かのウェブスター(Noah Webster)の辞書が「通常の用法においては ‘gotten’ はほぼ廃語である」と言っているとのこと。それどころか、 ‘forgotten’ だの ‘swollen’ (‘swell’ の過去分詞)も同様だって言ってるんだとか。それもやはり、「忘れる」だの「腫れる」だのっていう「動的」な過程を重視するか、「静的」な結果のみに言及するか、っていう使い分けの意識の表れか、とも思われるものの、ありようは恐らく地域的な習慣の差異なんでしょう。やっぱりわかんないけど。

まあ、英米を問わず、今どきのポップソングでも、殆どは歌詞としての語呂のため、通常は使われない過去と同形の過去分詞ってのは出てくるし、『蛍の光』の原曲たるスコットランドの古謡(18世紀?)、 ‘Auld Lang Syne’ も、いきなり ‘Should auld acquaintance be forgot’ って始まるじゃござんせんか。まあ、完了ではなく受け身の意味だから、もともと「静」的なほうではあり、だから「動」的な ‘gotten’ でなくとも苦しからず、ってことなのか知れないけど(シェイクスピアの用法とは対立?)。まあ、そんなこと言ったら、そもそも完了表現ってのも、もともとは受動の意の過去分詞を、言わば拡大解釈によって無理やり(?)意味を捻じ曲げたものだった、って話もありますし。それについてはまたいずれ

とにかくまあ、民謡なんかじゃなく、もっと格調高い韻文詩などにも結構そうした、 ‘get’ の派生動詞の過去分詞を ‘-got’ っていう「不正確」な言い方でやり過す、って用例は見られ、すべて韻律、要するに「語呂」の都合でしょう。……って言ったら、詩人の方々は機嫌を損ねましょうや。へっ、知るもんかい、ってね。

でもやっぱり、普段の世間話で、 ‘I have forgot that.’ とか言われたらちょいとまごつきますぜ。いくらシェイクスピアもそう書いてるったって、あたしも「今」の人ですから。でもそれ、ウェブでは結構散見されるんですね。それも、なんか英より米のほうが多いのは、 ‘got’ と ‘gotten’ の話とは裏腹のような。日常語あるいは現代語としては、口語、文語ともに、やはり ‘get’ という基本形に対応するもの以外、過去分詞は悉く ‘-gotten’ である、ってのが英米ともに標準的ではございましょう。

そのウェブスターの記述からさらに数十年を経た1869(明治2)年でも、リチャード・バーシュ(Richard Meade Bache)は、 ‘Vulgarisms and Other Errors of Speech’ (「卑語やその他の誤った話法」?)で、依然 ‘gotten’ は「ほぼ廃語」と言ってるそうで、まあアメリカでも19世紀後半まで、 ‘gotten’ が古臭いって認識だったことは覆いようもないような。
 
                  

……などと呑気なこと言ってるうちに、そのアメリカでは独立後百年ほどになるその時分、ことさら旧宗主国に張り合うつもりでもないんでしょうけど、結構独自の「標準」が形成される機運が高まりつつあったのでした……みたいな感じで、翌年の1870(明治3)年、リチャード・ホワイト(Richard Grant White)が、‘Words and Their Uses’ (「語とその用法」?)で、 ‘gotten’ は現状決して廃語などとは言えない、と記し、約10年後の1881(明治14)年、アルフレッド・エアズ(Alfred Ayres)は、 ‘The Verbalist’ (「言葉の達人」?)の中で、「‘eaten’、 ‘written’、 ‘striven’、 ‘forgotten’ などと言っている以上、 分詞としては ‘got’ などよりよほど響きの良い‘gotten’を用いぬ法はなかろう」てなこと言ってるそうな。一見合理的ながら、あたしゃこういう安直な了見が何より嫌いでして。そりゃ俺のわがままか。

まあ、かくして、アメリカでは19世紀も終盤に至って漸く、それもいくぶん急激に、この ‘gotten’ という古語がぶり返し、それがその後代表的なアメリカ語法として定着するのみならず、前世紀(20世紀)後半以降、徐々に他の英語国をも侵食するに至ったのは、やはり例の仮定法とも通底する奇妙な復古現象、って感じではありましょうか。
 
                  

しかるに、そのアメリカでさえ、この合理的なんだか不条理なんだかわからねえ妙な「反動」に対して抵抗を示す向きはおりまして、 ダーナ(デイナ?)・ジェンスン(Dana Olaf Jensen)ってお人が、1935(昭和10)年の ‘Modern Composition and Rhetoric’ (「現代の作文と修辞法」?)で、結構能天気に「‘gotten’ は正式な語法では既に ‘got’ に取って代られている」と述べてるってんですよね。飽くまで文体の問題、ってことですが、現実にはそうでもなかったってのが実状だったことは明らか。

なお、 ‘A Modern Composition and Rhetoric’ っていう似たような題目のもっと昔の本(教科書?)もあるようなんですが、いずれもアメリカの本には違いなく。
 
                  

さてその後の1942(昭和17)年、ニュージーランド生れの英人「隠語博士」、エリック・パートリッジ(Eric Partridge)は、‘Usage and Abusage’(「語法と誤用」?)において、‘gotten’ の復活は認めつつも、「英国では廃語だが、米国では過去分詞として ‘got’より好まれる」としており、一方、戦前から戦後にかけてコロンビア大学の教授を務め、戦後はニューヨーク・タイムズの副編集長もやっていたというシアドー(セオドア?)・バーンスタイン(バーンスティーン?)(Theodore Menline Bernstein)は、1965(昭和40)年の ‘The Careful Writer’ (「慎重な記述者」?)で、「実のところ、大半のアメリカ人は規則的に ‘got’ と ‘gotten’ との極めて精密な使い分けをしている」として、

 We've got ten thousand dollars for laboratory equipment.

ならその資金を所有している、という状態を表すのに対し、

 We have gotten ten thousand dollars for laboratory equipment.

であれば、その金額を入手または獲得し得た、という意味になる、という例を挙げている、とのことです。
 
                  

……てな塩梅なんですが、この数世紀に及ぶ沿革を改めてまとめときますと、どういう経緯によるものか、また本当はどういう使い分けだったのかは断定し得ないものの、とにかく16世紀末のエリザベス朝の終り頃、シェイクスピアの戯曲にも見られるように、 過去分詞の ‘got’ はそれまでの ‘gotten’ と併用され始め、それが約1世紀を経て、18世紀には前者がすっかり優勢となったばかりか、19世紀までには英米を問わず ‘gotten’ は廃語と見なされるに至るも、米では完全には死滅せず、やがて一部の「屁理屈屋」の意見が幅を利かせて(?)、一時は消え去るかに見えた古形の ‘gotten’ も、同世紀末には勢いを盛り返し、以後は米国語法としてしっかり定着、ってなあらすじ、ってところでしょうか。

それが、20世紀も後半に至って、その「現代」米国語法が他の英語国にも伝播し、3世紀ほど「廃語」となっていた英国でも、徐々にそれが復活しつつあるのは既述の如し。百年前のイギリスでは「鼻持ちならない擬古趣味」としてファウラーその他に排斥されたこの ‘gotten’、どのみちいずれは抗い切れなくなるにしても、今日的な批判は専らそれが気取ったアメリカ風だから、ってことなんですね。

たびたび申し上げておりますとおり、もともと英語はイングランドという「小国」の言語だったものであり、過去分詞の ‘gotten’ が ‘got’ に席巻されたのも、未だアメリカなどという「国」が存在しなかった時分の話。今になってアメリカ的な物言いが怪しからん、ったって、そりゃもともとあぁたたち自身の先祖の言い方でしょうよ、みたいな。

似たような「内輪揉め」の事例は、我らが日本語にだって少なからずあるんですけどね。
 
                  

……と、またしてもまったく無計画に、ちょっとだけ言っとこうと思って書き始めた逸脱ネタ、 ‘have’ 対 ‘have got’、およびそこからまた派生的につい言及してしまった ‘got’ 対 ‘gotten’ などという、毎度変らぬ無益極まる与太話も、漸く終幕に至ったようではあるような。……って、ひとごとのように言ってるこの無責任ぶり。ま、それは今さら驚くにも当らず。

4回休んじゃいましたが、次回は漸く本来の(ほんとはそれも一次的な逸脱ネタ?) ‘modals’ 談義に復帰する所存。ほんとは飽くまで ‘tense’ についてこそあれこれ言うつもりだったのが、その話題に絡むものとしてその「(叙)法助動詞」ってのを持ち出したんでした。そしたらこの ‘have’ がどうの ‘got’ がどうのって話にまで流されちゃってもう。何をどこまで言ってたか、自分でもちょっと読み返さなきゃならなくなってたりもします。ほんと、何やってんだか。

そう言や、子供の頃から、散歩してるとどんどん知らない横丁に入り込んで行き、引き返すきっかけがなかなか掴めず、暗くなるまでうち帰れなくなるやつだったんでした。今それを思い出したってなあ、とは重々承知。なにしろすみません。

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