まずは以下の投稿を再録。
一向に懲りることを知らぬ我らが安倍晋三、かのプーチンのことを(台本どおり?)気安く「ウラジミール」と呼んだとかいう記事を見て思い出したことを少々。どう呼ぼうがまともに相手にしちゃ貰えないのは毎度お馴染みの図で、既に食傷気味ではありますが。
それより、昔から「ウラジミール」だったり「ウラジーミル」だったりして、いったいどっちなんだよってんで以前ちょっと探ってみましたら、ロシア語の模倣としては「……ジーミル」で、「……ジミール」はチェコ語の真似らしゅうございます。プーチンの場合はやはり「……ジーミル」のほうが日本でも穏当ということにはなりましょう。てえか、ニュース記事とかだと大抵そうなってたような。
英語ではいずれも ‘Vladimir’で、Longman Pronunciation Dictionary の音素表記では /ˈvlæd ɪ mɪə/(米音は最後の /ə/ が /r/ って感じ)。まあテキトーにカタカナにすれば「ヴラディミア」とか「ヴラディミル」みたようなもんだけど(「ラ」が強勢)、その辞典の補足表示によれば、ロシア語が [vɫʌ ˈdʲi mʲiɾ]、チェコ語が [ˈvla dʲi mʲiːɾ]] なんですと。ふぅん。音引きの位置は、長さより強勢の違いを示そうとの悪足掻き……だったりして。
因みに、ロシア語のほうの [ɫ] は、英語の音素 /l/ を細分した場合の「暗いエル」ってやつで、 ‘well’ とか ‘milk’ とかに表れる(母音に続き、後ろには母音のない)、念を入れたような有声音。舌を歯茎につけるだけでなく、後方の軟口蓋方面まで持ち上げたような /l/ であり、(英音では?)しばしば母音だけで代用されたりもします。 ‘clear’ とか ‘play’ とかの(やはり英音における)無声の [ɬ] はこれとは対極の如き /l/ で、前後を特定の無声子音と母音に挟まれた場合に発現する歯茎摩擦音(ジョージ・ハリスンの歌う ‘while my guitar gent*l*y weeps’が結構顕著な例かも)。無声母音に連なってそれ自体が無声化しちゃうという寸法なんですが、ウェールズ語ではこれ、語頭にも頻出し、いきなり「エル」の字2つで始まる綴りがその音だったりとか。
チェコ語の精密表記は [l] なんですね。英語だとそれ、 ‘light’ だの ‘blog’ だの、要するに母音の前の有声の /l/ に対応し、上述の [ɬ] とは違って無声化はしないけれど、‘dark L’ に対して ‘light(明るい? 軽い?) L’ という次第。有声、無声をひっくるめて、舌の後方を持ち上げない歯茎音の /l/ ってことになるかと。米音では無声化は生じぬようで、つまり /l/ はいずれも有声だから、「ひっくるめる」も何もないわけではありますが。というより、英語母語話者にとっては全部が同じ1つの ‘L’ であり、決して意識的に区別して発音しているわけじゃないってことで、そこは日本人にとっての日本語の音素も同じこと。ともあれ、英語的にはロシア語のほうが厄介そうではあります。どのみちどれも日本語とは無縁だからどうでもいいようなもんですけど。
一方、第1音節の母音は、チェコ語のほうが日本語と似たようなもん、つまり[ア]でよさそうだし、第2、第3音節の [i] もまた日本語の[イ]と同工の上、英語も含め [i] という母音に先行する子音は、しばしばその母音の舌の構えを先取りするように多少後方が持ち上がってヤ行音的様相を呈し、てえか、英語なんかよりゃ日本語のほうがよほどその度合いが強くて、元は[ディ]だった筈のダ行イ段音もとっくに[ヂ]になっちゃってるぐらいですから(さらに摩擦音も加わった破擦音であり、現行表記は「ジ」だったりもしますが)、 [dʲi] っていうめんどくさそうな表示も特段恐るるに足らず。フツーに[ディ]のつもりで言っときゃ間に合いそう。違うとすればむしろ、ダ行音の父音と [d] の微妙な舌の具合、破裂の強さだったりして。
……と思ったけど、現代標準国語では専らカタカナ表記の外来語に用いられる「ティ」とか「ディ」とかって連中、何せかつてはそれこそが父音の一貫したタ行やダ行の音だったのだから(今と違って父音が5段に共通だったのは他の行も同様)、今どきの日本人がこれを発音するときも、母音[イ]を先取りして舌が歯茎より後方の口蓋に接し、余計なヤ行的音が加わるという「口蓋化」は生じない模様。自分がやってみたらそうでした。
てことは、やっぱりロシア語やチェコ語の [dʲi] って、普通の「ディ」とは異なり、舌の先のほうを歯茎につけるのではなく、もうちょっと奥、中ほどを口蓋に触れさせるようにしなくちゃならねえ、ってこってすね。さほど難しくもないけど、意識してやらないとそうはならない、ってのがほんとのところだったようで。
おっと、もひとつ、両方(ロシア語名、チェコ語名)に共通で、3音節めにも [mʲi] ってのがあったんでした。 [m] は両唇閉鎖の鼻音だから、後続母音の影響は無関係。てことは、母音の前に舌の後方を持ち上げりゃいい [dʲi] とは違って、母音を発するのと同時に舌がそうなってなきゃならねえわけで、そりゃちょいと厄介か。
末尾の、これも両者に共通する [ɾ] は、スペイン語とかにも出てくる音なんですが(勿論スペイン語はまったく知らず)、日本語でも語中のラ行音にはこの記号が当てられてんじゃなかったかしらと。勿論、我が日本語では他の父音(頭子音)と同様、後ろに母音をくっつけずにこれだけを発音するってこたないから、「ル」という表記も言わば気分的なものに過ぎない、ってことにはなりましょう。
「エルとアールの違い」って前に、その「母音と切り離して発音」ってところがまず厄介なのであり、母音がつかない場合はとにかく何でもウ段音になる、とでも思い込んでるかのような人たちは依然少なからず。もともと日本語にはない発音なんだから、カタカナなんかじゃ書き表しようがないわけで、そりゃもうしかたがねえ。
てえか、またぞろいってえ何の話をしてやがんだかなあ、とは自覚。すんません。
……ってんですが、言語ネタとしてはこれと通ずるところもありそうな、実は上記より先に書き込んだ他人の投稿への所感を記した一文から、一部を省略、「編集」して以下に。
江戸っ子でもあるめえに、「まっつぐ」って言いたくなるのを、ときどき我慢して「まっすぐ」と言ってたりします。落語好きの盟友(目黒区生れ)と二人きりの所では、遠慮なく「おっことす」どころか「おっぺしょる」(「折る」で事足りるのに)とも言ってたり。非効率とは承知ながら、なんか楽しくて。
同じく促音という同じ括りではありながら、舌と歯茎による閉鎖とその開放、つまり破裂による「まっつぐ」とは異なり、「まっすぐ」の「っ」は[ス]の父音=頭子音である摩擦音のみを1拍分持続させたもので、だから江戸弁的要素とは無縁……なんてことは誰も言わねえか。なにしろ毎度ご無礼。それでもやっぱり、「おとっさん」じゃなくて飽くまで「おとっつぁん」ではあるってこって。
これ、「おとっさん」の「っ」が「まっすぐ」の[ス]と共通する[サ]の頭部を成す摩擦音であるのに対し、「おとっつぁん」および「まっつぐ」の「っ」はまったくの閉鎖状態、つまり無音で、それを開放、すなわち破裂させると、[ツ] だの [タ] だのになるという寸法なんですね。
なお、タ行父音の破裂音 /t/ に、サ行父音の摩擦音 /s/ を連ねたのが、現行の破擦音「つ」の父音 /ts/ ということになるのですが、これは後世の音韻変化の結果であり、元来は「ち」(父音後半の摩擦音がまた /s/ とは別ですけど)と同じく、5段全部の父音が同音で、「ち」「つ」の本来の音も、今日専ら外来語に用いられる「ティ」「トゥ」といった表記に該当するものだった筈。前者はともかく、後者の表記には子供の頃から不満で、なぜ「テゥ」と書かないのかしら、と思ってました。てえか、実は今でも思ってます。
いずれにしろ、共通語としては飽くまで「まっすぐ」なんですね。それもそうか、とは思いますけど、もっとスッパリ行って貰いてえや、なんてね。タ行だのパ行だのという無声破裂音こそが江戸弁の真骨頂……とはやっぱり誰も言っちゃいませんが。
……という、毎度懲るを知らざるが如き愚文。わかっちゃいるけどどうしても、ってことで。
毒を喰らわば何とやら、ってつもりでもないけれど、ついでのことにその割愛した話柄についても記したくなっちゃいました。しょうがねえな、もう、とはやはり先刻承知。
これ、江戸っ子ならぬ東京っ子の女性が、下記のサイトを覘いて、その間違いだらけぶりに苦笑しちゃった(とは言ってないけど)っていう投稿に対しての拙論……みたようなもんだった、ってことでひとつ。その内容もさることながら、「小塚原」は「コヅカハラ」ではなく「コヅカッパラ」、てな正統の東京人ならではの言語的指摘に対して(勝手に)我が意を得たる思い、って感じで。
そういうあたしゃ東北も最北端の青森の生れなんですがね。そりゃまあいいか。
https://www.youtube.com/watch?v=25ay9Bq-yi0
【前略】それより、残酷な公開処刑の見物はこの上ない庶民の娯楽であり、そこは西洋諸国と同様。ハイドパーク北東端のマーブルアーチなんぞは、ロンドン中心部の観光名所ですから、あちらのほうがその点はもっと容赦ない感じ? とにかく、あんまり(まったく?)見せしめの効果はなかったのが実情ではありましょう。未だ廃止には程遠い現代日本の死刑制度もそこは同断。犯罪抑止効果云々ってえなら、とりあえず公開にしなきゃ間尺に合うめえ、とは思うんですが、それはまあいいや。
いずれにせよ、首や死骸を晒すのは被処刑者に対する付加刑ってことでしょう。獄門とは違い、死罪、つまり斬首による単なる死刑は日本橋の伝馬町牢屋敷内で(より頻繁に?)行われ、いろいろ陰鬱な話も未だに聞かれるようですが、跡地はマンションが見下ろす公園や隣接する保育園なんかになってたりしますね。
そう言えば、千住に比べ、東海道の鈴ヶ森の刑場後はなんだかパッとしない感じですが、偏見でしょうか(前者は近年、散歩でたびたび通るようになったからより馴染みがあるだけかも)。小塚原という地名についても、よほど古くからのものに違いないようで、江戸前期に設けられた処刑場に因む、というのはただの訛伝ってやつでしょう。「コツ通り」の由来と同様、「骨ヶ原」なんて駄洒落こそ後世の付会に過ぎぬようで。
……という塩梅にて、返す返すも滅裂なる記述、まことに申しわけとてなく。やっぱりどうしようもねえな、おりゃあ、とは充分自覚。毎度恐縮至極。
0 件のコメント:
コメントを投稿