2020年4月22日水曜日

ソーシャルディスタンス?

久しぶりにして唐突ではありますが、今般のウィルス禍騒ぎから図らずもまた余計なことを想起してしまいまして、それを少々記したいと存じます。

何やら、またぞろ急に「ソーシャルディスタンス」とか言い出して暫くになるわけですが、 ‘social distance’ てえと、社会学とかで言う、当該の社会における各集団の隔たり、とでもいったようなもんじゃないかしらと。問題の感染症に関わるのは ‘social distancing’ の筈であり、しばしば ‘physical distancing’ と併用されるようですが、あるいはその ‘social distancing’ の実施に伴って求められる互いに保つべき距離、とでもいうつもりで「ディスタンス」とは言ってんですかね。でも、「離れた」って意味の形容詞 ‘distant’ の名詞形である ‘distance’ と、それをさらに動詞化した ‘to distance’ の、これまた名詞形である ‘distancing’ は自ずと別物じゃん、とは思っちゃいまして。

いずれにせよ、「社会的距離」ってだけじゃ見当外れだろうし、「社会的距離をとる措置」とかってのも何だか迂遠な感じがするのは、やっぱりあたしがズレてるからでしょうかね。どうも、‘social’ すなわち「社会的」っていう安直な置換が気に入らねえような。じゃあどう言えばいいのか、ったってどうせ何の知恵も出ちゃこないわけですけれど。「社交」のほうがまだ近いか、とも思えど、やっぱりそれじゃいかにも間抜けだし。

ひとまず仕事の原稿でなくてよかった……と一瞬思ったけど、仕事なら遠慮会釈なくマスコミその他に流布する言いようをなぞっときゃよかったんだ。やっぱり俺の勝手な、てえか無益極まるわけの知れねえ拘泥ってやつだったか。何を今さら、とも思いつつ。
 
                  

とりあえずは、やはり、と言うべきか、ラジオで英米人の DJ なんかが喋ってんのを聞いてても、 ‘social distance’ とは言っておらず、今の状況に関わるのは専ら ‘social distancing’ という、いわゆる動名詞ってやつなのは間違いないようで。

「ソーシャルディスタンシング」という言い方も使われてはいる筈ですが、実際に聞こえてくるのは圧倒的に「ディスタンス」という素朴な名詞のほう。「個人間の距離を確保すること」といった意味で「ソーシャルディスタンスをとる」などと言ってたりもするようですけど、どのみち「社会的距離」では何とも釈然とせず、と思うのはあたしだけ? 「互いに一定の距離をとる(こと)」とでも言うなら、まあ何とかわけもわかりましょうが。

‘social distancing’ に対する、いずれ違わぬ無理やりっぽい訳語の中には、「社会距離戦略」などといういかめしいやつもありますが、いずれにしろ「社会的距離」ってだけでは、 ‘distance’ には対応しても ‘distancing’ の訳にはなりませんね。「社会的距離をとること」ってんなら、まあ意味は通るか……とも思いかけたけど、やっぱり何か変ですぜ。

そもそも ‘social distance’ 自体が、この感染症に絡む ‘social distancing’ とは次元の異なる概念に用いるのが基本で(これまでにやった和訳仕事に出てきたのはいずれもそうでした)、それはつまるところ ‘social’ が必ずしも「社会的」という連体修飾語に置換し得るものではない、というところに帰するものではないかしらと。

何のことかと申しますに、通常「社会的距離」と訳される ‘social distance’ の ‘social’ は、現下の難局における ‘social distancing’ の ‘social’ とはちょいと趣を異にする、って感じなんですよね。どのみちあたしの勝手な感じに過ぎないわけですけども。
 
‘social distance’ という名詞なら、確かにそれは「社会的距離」(という訳語に該当するもの)、つまり、件の感染拡大問題とは無関係に、社会の構成員どうしの言わば観念上の距離、すなわち階級だの年齢だの性別だの、あるいは人種、民族などに起因する、文化や思想、習慣や規範その他における意識や情緒の相違、対立といった、各集団や個人にとっての内と外、彼我の別とでもいった心理による乖離とか分立とかを指す語、といった感じではありましょう(長えな。てえか、何言ってんだかわかんねえじゃねえか)。

要するにこの「ソーシャルディスタンス」……じゃなくて ‘social distance’、通常は既述の如く医学ではなく社会学の用語であり、こちらのほうが、複数の特殊な用法を包摂する ‘social distancing’ よりは一般的な言葉であろうとも思われます次第。
 
                  

先ほどは「素朴な名詞」などと申しましたが、これを感染症絡みの動詞として用いる例も無くはないようで、1つだけではありますが、ウェブで見かけた投稿式辞書サイトには ‘If you can social distance, you should.’、 「できれば他人との接触を避けるように」という用例だか例文だかがありました。

でもこれ、もともとはそれ自体が名詞の派生用法である動詞の名詞形からさらに派生した熟語様の動詞ではあり、いわゆる逆成(back formation)というのに類する例ではありましょう。その辞書サイトの記事で語釈あるいは定義として記されていたのも、つまるところ「‘social distancing’ をする」というような、いささか間の抜けた同語反復的なものではありました。まあ、辞書の記述なんてのは概してそんなもん、という気も致しますが。

いずれにせよ、 ‘distance’ だけでは今般の感染症騒動に特化した動詞ではあり得ず、そもそも形容詞 ‘distant’ の名詞形である ‘distance’ を動詞として用いること自体が副次的派生用法であるのは上述のとおり。人や物を他の人や物から遠ざける、といった意味の他動詞ということなんですが、今流行りの「ソーシャルディスタンス」よろしく、即物的な距離を置く(それが ‘physical distancing’)のではなく、飽くまで、言うなれば観念的な隔てを施すことをこそ指すのが基本ではないかと。

しかも、通常は ‘distance oneself (from)’ という体の再帰他動詞(ってのかしら)としての、「~から自分を切り離す」「~と関らないようにする」といった譬喩的用例が大半とは思われます。日本語でも、「~から距離を置く」てえと、大抵はむしろそうした譬喩的な、言わば心理的な「距離」に言及する表現なんじゃないでしょうかね。

動詞ですので、直接これを修飾するのは副詞であり、「社会的(に)」というような意味を添えるなら、 ‘socially distance’ とでもなるが道理。尤も、 ‘social distance’ 自体を一体の動詞として用いることも可能(らしい)のは既述のとおり。結構錯綜してんのね。まあいいか。

あ、錯綜してんのは俺の話か。これは失礼。毎度の如く。
 
                  

とにかく、 ‘social distance’ が「動詞」として用い得るとしても、それは感染症騒ぎで流布した ‘social distancing’、つまり ‘distancing’ を ‘social’ という修飾語によって限定した動名詞からの逆成であり(たぶん)、本来の名詞用法としては感染症とは無関係の社会学用語であると同時に、「社会的距離」という訳が多少とも妥当するのはそちらのほう……てなことをあたしゃ言ってたんです(たぶん)。で、感染症絡みのほうの ‘social’ を「社会的」ってのはちょいと間尺に合わねえんじゃねえか、という、例に漏れざるあらずもがなの御託が眼目なのでした(たぶん)。

とは言い条、ダンスでもあるまいに「社交的」なんてえんじゃ、それもまたいかにも間抜けとは先刻承知。でもやっぱり、「世間的」でも「共同体的」でもなく、飽くまで「人間どうしの」って意味合いの ‘social’ なんじゃないかしら、とは思量致すところでして。

因みに、社交ダンスは「ソーシャル」ってより「ソシアル」ってほうが風情ありそうな気もするんですが、どのみちこりゃ和製語ですので、社「会」だろうが社「交」だろうが、 ‘social’ という形容詞とは直接関係ないのでした。他者との「交わり」を極力避けるべし、てな意味では、「会」より「交」のほうがまだ近いか、って感じもしますけど。……ほんとかしら。
 
                  

さて、こういった具合にて、またも策然極まる記述とは相成り、恐懼に堪えざるところではございますれど、今1つ蛇足を付しときますと、どうやら連日耳にする「ソーシャルディスタンス」に相当するのは、即物的な距離を意味する ‘physical distance’ のほうであり、その「物理的距離」を、感染拡大軽減のために各人が互いに保つ(べしとする)のが、 ‘physical distancing’ ということになる、といった塩梅ではありましょうか。

その物理的離隔を含んで、言わば包括的な概念として用いられるのが、人的離隔とでもいった ‘social distansing’、ってことになるんでしょうかね。これもまた急激に流行り出した例の「テレワーク」なんかも、実はその ‘social distancing’ の一例である、ということが、英語の記事の何気ない記述からわかってきた、てなところなんです。こないだまでそんなこた知らなかった、ってより考えもしなかったんですが、語句の意味は文脈の中にこそある、ということを改めて実感した次第にて。

まあでも、外出が必須となる通勤を避けるための在宅勤務も、結局は物理的に他者から隔たるってことだから、感染拡大抑制に特化した ‘social distancing’ と ‘physical distancing’ が指すのは畢竟同じものか、って気もしてきちゃいました。初めは両者が対を成すかのように思ってたけど、とりあえずは何ら対立概念のような関係でもなさそうですね。

どうやら前者の具体的な下位区分が後者……なのかとも思いかけたけど、両者は言うなれば、それぞれほぼ同じ事象を別の観点から表したもの、ってことになるような(ほんと?)。いずれにせよ、この感染症絡みの言辞としては、人的離隔と物理的離隔が別段対立するものには非ず、とは申せましょう(たぶん)。

英語の記事からわかってきた、なんて言っときながら、結局ますますわかんなくなってききたじゃねえか、って気もして参りました。文脈から推すことができるものにも自ずと限りがある、ってところでしょうかね。こいつぁちょいと迂闊だったか。
 
                  

ともあれ、ことのついでにって感じではありますが、その「テレワーク」ってのもまた「ソーシャルディスタンス」と同工の、カタカナ語ならではの「何でも名詞化現象」(今勝手に作りました)の例には違いないものとは存ずるところではあります。

外来語による日本語の侵食は由々しき問題である、てなこと言う人も、昔ほどうるさくはないようですけど(うるせえのは俺か)、実際は、世界のさまざまな言語における異言語の流入ぶりに比すれば、漢語と同様、英語その他の欧語が国語化する場合、それは例外なく名詞にしかならず、どれほどカタカナ英語が蔓延しようと、それによって日本語固有の構文法、統語則が揺らぐことはないのです。

……と言ってたら、「ビューティフル」とかの「形容詞」はどうなるんだ、と反論されたこともあったんですが、だからそれ、 英語の ‘beautiful’ が形容詞だとして、それをそのまま国文法における形容詞として使えるかってのよ、てなもんでして。日本語の形容詞としてそれを用いるってことは、「ビューティフルい人」だの「ビューティフルくなる」だの「ビューティフルかった」だの「ビューティフルければ」てな言い方するってこったぜ、てな塩梅。

「ビューティフルな」とか「ビューティフルに」とかは形容動詞「ビューティフルだ」の活用形であって、名詞ではなかろう、との指摘もございましょう(それを言われたことはなかったけど)。でもね、もともと形容動詞なる区分は、形容詞的役割を有しつつも形容詞とは活用が別枠で(現代口語体の形容詞は悉く終止、連体の語尾が「い」)、形だけを見れば、語幹が名詞、語尾が助動詞(「だ」とか「な」とか)という、2つの語を抱き合せたものであり、これを1個の品詞とするのがそもそも無理やりの所業、との見方もあり、かく言うあたしも、実は学校文法に反し、そっちの了見に与するものではあるのでした。

するとまた、「私の望みは幸福です」と「私は幸福です」とでは、「幸福です」の機能が別であり、後者は、話者の名前が幸福だってんでもなけりゃ、どうしたって「幸福」と「です」は不可分となり、そのように一体を成す以上、それは否応なく形容動詞という一個の品詞なるべし、というごもっともな指摘も受けそうではあります(やっぱり言われたこたないけど)。

それについても、だいたい意味と形という本来別々の観念をいっしょくたにして品詞の区分に当てるのが無茶なんであって、形としては2語なんだから、無理やり1語として括ったり括らなかったりで辻褄合せたつもりでも、ならどうしてその他多くのどっちつかずの文法的齟齬は閑却したままなの?とは思量致すところでして。意味が違うてえなら、それは単純に名詞(この場合の「幸福」)自体の用法の別、ってことでいいじゃねえかい、なんてね。ほんとはどうだっていいんだけど。

言わずもがなとは存じますが、この外来語についての話は形容詞だの形容動詞だのに限ったことではなく、たとえば動詞 ‘to share’ を国語の文中で「シェア」に置き換えただけでは到底意味を成さず、どうしたって「シェアする」というサ変動詞にするしかないわけで、「シェア」は飽くまで語幹、つまりは名詞にしかならない、ってことなんです。それはカタカナ外来語のみならず、古来の漢語(字音語)も同断かと。

ああ、「ディスる」だの「ググる」だのは、紛う方なく日本語動詞の体裁を満たしてはおりますが、見てのとおりこれは、原語の断片だけを借りた、駄洒落に類する無理やりの動詞ですので、まあここではひとまず埒外と思召されたく。
 
                  

閑話休題。まあ、これと同様に、「テレワーク」(や「ソーシャルディスタンス」)も、どう足掻いたってそのままでは用言とはなり得ず、国語における外来語(含漢語)がどこまで行っても名詞(含形容動詞語幹)でしかないという掟(?)に違うことなく、原語における動詞 ‘telework’ に似てるのは見た目だけ、ってことにはなりましょう。

「テレワーク」ならぬ ‘telework’ は、 「在宅勤務」、すなわち「仕事」ではなく、「通勤せずに働く」という動詞であり、名詞としては ‘teleworking’ とせざるを得ません。 ‘social distancing’ に比べればごく普通の、ごく素朴な理屈による基本的な事例に属するとも思われますが。
 
                  

……てな塩梅で、またしてもつまらぬことばかり無秩序に書き散らしてしまいました。特にオチのようなものがあるわけではなし、まさに索然寡味といったところ。甚だ忸怩たる思いにて(ほんとか?)。
 
                  

……と、ここでまた余計なことを思い出しちまいやした。

そもそもこれ、  ‘social distancing’てえと、自分にとっては感染拡大云々とは無縁の文法用語であり、基本的には、それこそ「社会」ならぬ「社交」上の遠回し表現として、何ら過去のことでもないのに過去形を使う、てな事象を指すもの、ってことなんでした。そういう場合の過去形(過去時制)を ‘attitudinal past’ などと称するのですが、それについてはだいぶ前にくだくだと書き散らしております。

で、思い出したってのは、そうした「社交的な隔て表現」に属するのは、必ずしも過去形だけではないじゃないか、ってことなんです。単純な過去形(や過去進行形)を、単純な現在形で充分間に合うところに用いることで、ことさら率直さを封じ、極力現実から遠のくような言い方にして、相手に対する遠慮や謙譲の姿勢を演出する、ってのがその ‘social distancing’ と呼ばれるやり口なんですが、過去形に限らず、現在形で済むところに敢えて未来表現を当てる、ってのもまたよくある例なんでした。

「~でよろしかったでしょうか」っていう店員の言い草なんぞは、その ‘social distancing’ の基本的事例たる ‘attitudinal past’ にさも似たるもの、とも言えそうですが、たとえば

 ‘I have to say this.’

の代りに

 ‘I'll have to say this.’

と言ったり、’

 ‘When are you leaving?’

ではなく

 ‘When will you be leaving?’

と言ったりするのも、‘social distancing’ という一種の敬語表現に類するものではないかしらと。もちろん、未来の皮をかぶった現在なのか、素直な未来なのかは、状況とか文脈によって分れるわけですが、 ‘You'll nedd to ...’ と言われたからって、「いずれ~せざるを得なくなろう」ってんじゃなく、「今やって貰いたい」ってのを婉曲に言われてるだけ、ってことも少なくはない、てな具合ではあります。

尤も、上の ‘When are you leaving?’ って例だと、数十年前の中学では恰も ‘When are you going to leave?’ と言わねばならぬかのように習った、初めから未来についての疑問文ってことになるわけですが。つまりはこれ、現在の事柄に対して未来の形を用いるだけでなく、もともと未来の話により諄い未来表現を施すのもまた言語的な離隔、 ‘distiancing’ の例ではある、ってことで。

あるいは、これもまた「~でございます」とでも言っときゃいいところにいちいち「~になります」って言うような「怪しからん」部類の物言いに似ていなくもないと思うんですが、

 ‘That's ...’

という、現在についての率直な言い方を避けんがため、わざわざ

 ‘That will be ...’

とする場合などもありまして、そうした、極力直接的な物言いを避けて丁寧さを醸すため、敢えて現実の時間的要因から離れた時制を用いるという言語現象こそが、つまりは自分にとっての‘social distancing’の第一義、ということなのでした。

なお、旧来の言い方を踏襲して「過去形」だとか「過去時制」だのと言っとりますが、上述の如く別に時間的関係を示すものとは限らず、だいぶ前から ‘tense’ って用語自体の意義が薄れている模様。まあいいんだけどさ。
 
                  

なにしろまあ、当初思ってたよりだいぶ長くなっちまいやして、毎度ながら恐縮至極。

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