2018年2月17日土曜日

「フルヘッヘンド」の思い出

先に投稿したハッカー談義の中で、愛用する英ロングマン社の辞書 ‘LDOCE’ における動詞 ‘to crack’ の定義をご紹介申し上げました。基本義以下多数挙げられた定義中、やっとその9項め(10番め以下は熟語)に、

《違法にソフトを複製したり、純正版の機能を一部欠くような無料ソフトが純正版と同様に使えるよう、その無料ソフトを改変したりする〔……長えな〕:to illegally copy software or change free software which may lack certain features of the full version, so that the free software works in the same way as the full version》

とあり、また別掲の句動詞‘crack into’として、

《特にシステムを損壊したり保存された情報を盗んだりする目的で、他人のコンピューターシステムに忍び入る:to secretly enter someone else’s computer system, especially in order to damage the system or steal the information stored on it》

と記載されていたことを述べたのですが、ついでのように、この拙訳が妙にまどろっこしくなってるのは、原記と同じ一続きの「句」にしたからであり、2つに分けるという手もあるとは言え、そうすると少なくとも1つは述語を含む「文」とせざるを得ず、元の形とは異なってしまう、という言いわけも添えといたのでした。

さらに、その ‘LDOCE’ では、95年の第3版以降、「定義句」ではなく文による説明という手法も採用しており、〈〇〇すると(←当該の動詞)、これこれこういうことになる〉とか、〈〇〇な(←当該の形容詞……「~な」は形容動詞の連体形なれど、ってな弁解も記しつつ)人や物は、かくかくしかじかである〉という具合になってるって話もしたんですけど、最初それ(こないだから勝手に「原文」って言ってるやつ)書いたときには、続けて以下のくだりも書き足してたんです。それを、今さらながらここに掲げようという、またも無用の思いつき。すみません。生来の貧乏性の故か、なんかもったいなくなっちゃって。

以下、その「原文」を、主に体裁に対する調整を施しつつ再録致します。

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〔‘LDOCE’ の定義記載法の話の後、段落を替えて〕……と書いてたら、杉田玄白の「蘭学事始(ことはじめ)」の有名な一節、「フルヘッヘンド」のくだりを思い出してしまいました。唐突で恐れ入りますが、しばしさらなる寄り道をお許しくだされたく(「玄白」って「くろしろ」って意味だったんですねえ。今気づいた)。

有名……かと思ってたら、結構知らない人が多いのに後から驚いたんですけど、最初にこの話を知ったのは小学校の5年か6年のころ。国語の授業中、いつものように授業は無視して、教科書のもっと後のほうに載っていたこの話の口語訳(あるいは菊池寛の小説を流用? それ未読ですが)を勝手に読み、たいへん感銘を受けた(「結構おもしれえじゃん」って思った)のでした。授業がこの部分に追いついたときには、それに呼応したテレビドラマ(教育番組)も見せられ、二度楽しめたという思い出も。

1969年かその翌年、文京区立明化小学校でのことで、扉に鍵のかかった箱に納まったテレビが各教室にあり、ときどき授業中に見せられてたんですけど(うちの教室にあったのがマスター受信(像)機だったようで、よくほかの組からスイッチを入れてくれるよう頼みに来てました)、そのときに見たドラマはNHKの教育テレビではなく、NET、すなわち(かつての)10チャンネルだったかも知れません。もちろん後のテレビ朝日なんですが、元来は「日本教育テレビ」を標榜。だけど教育番組なんか殆どやってませんでしたね(アニメも情操教育?)。自分にとっては「重厚な時代物が多い局」でした。

                  

実は、当時既に時代考証に強い関心を持っておりまして、学校の教師はもちろん、周囲のどんなおとなよりも詳しく知っていたのですが、時代劇で見る風俗はどう考えても自分の認識とは懸隔した衣装、髪形ばかり(その後さらにひどいことんなってましたが、ここ数年は一部にかなり現実的なものも)。でもそこはまだ子供のこと、よもや映画やテレビの人たちがそんなに無知だとは思いもよらず、自分の研究(とは大袈裟な)が間違っているのかと思い悩むこともしばしば。

このときに見た教材ドラマもまさにそうで、どう足掻いたって18世紀後半の絵ではないし、なにしろ医者ならみんなスキンヘッドなのでは……ってなことも、今なら全部笑って終りなんですけどね。肖像画の玄白が禿頭なのは、決して年寄りだからってわけではありません。……とも言い切れません。すみません。

                  

さて、その蘭学事始の挿話、例の解体新書執筆にまつわる苦心談の一席なんですが、その話がまさに翻訳、あるいは語釈の基本を示すような内容だったのでございます。それで突然思い出したってわけですが、もちろん当時は自分が長じて翻訳なんぞをやることになろうとは夢想だにせず。それでも「言葉の意味は文脈の中にこそある」という真理に触れて感じ入ったのでした。そんな自覚など毛頭ありませんでしたけど(代りに今は頭毛が……)。

因みにこの解体新書、ご存じ「ターヘル・アナトミア」の訳書なんですが、もともとはドイツ語の本をオランダ語に翻訳したものだとか。で、その中の「鼻」について書かれている部分に出てくる「フルヘッヘンド」(これもかなりの誤読のようで)の意味を判じ兼ね、苦労してそれを考究する、って話なんですよね。その解明の顛末がまさに語義解釈の手本、ってな感じだったのですよ。

どういうことかと申しますと、「鼻は顔の真ん中でフルヘッヘンドするもの(うろ覚え)」の「フルヘッヘンド」がわからず、オランダ語の本を覘いてみると、「庭を掃くと落ち葉(土?)がフルヘッヘンドする」(当然うろ覚え)とあり、あれこれ考えた末、これは「堆(うずたか)く盛り上がる」てえ意味に違えあるめえ、と思い至り、「鼻は顔の真ん中で堆く盛り上がるものである」(やっぱりうろ覚え)という訳文ができあがった、という感動秘話。

「鼻は顔の中央にありてフルヘッヘンドせる(せし?)物なり」てな文言も記憶にあるんですけど、小学生向けにはそぐわず、恐らくもっと後、中学あたりで目にしたものでしょう。その頃はもっと容赦なく授業なんざ何も聞いてませんでしたから。今ならウェブでいくらでも検索可能ではありましょうが、本稿の主旨に非ざれば深追いはよしときます。ますます脇道に分け入ってしまいそうなので。

                  

ときにこの蘭学事始、だいぶ後で知ったのですが、元来は解体新書から数十年後に玄白が弟子に宛てて残した手記であり、実は書名も異なっていたのだとか。やがて原本はおろか写本も散逸し、漸く幕末に偶然見つかった写本を基に、明治になってから復刻されたものなんだそうな。ずっと前に何かで読んだ記憶が。

しかも、ネットでたまたま読みかじったところによると、肝心のフルヘッヘンドのくだり、原書のターヘル・アナトミアの鼻の項には該当語句が見当らないそうで、さては玄白爺さんのホラ話かてえ疑いも浮上。ほんとは鼻じゃなくて女の乳房のことだったのを、穏当を得んがため敢えて鼻の話にすり替えたのではないか、とする穿った向きも。玄白先生、実はオランダ語があまり達者ではなかったてえし。う~む。

とまれ、言葉の意味を伝えるのに、その言葉の同義語や定義句を掲げる代りに、具体例を示す説明文も遠慮なく使おうというロングマンの流儀は、この逸話によってもその妥当性が裏づけられるのではないかと(エラそうに)。文による説明ならば、無理して1つにまとめずとも、必要に応じていくらでも補足の文を追加することができるし、簡素性が減じるとは言え、なかなか合理的、実用的なのではないかしら、とね。

                  

蛇足ではありますが、「ターヘル」の「ヘ」はほんとは「フェ」だってんですけど、ハ行は江戸中期までファ行音だったてえから、ここはひとつ[フェ]ということで、ってつもりだったのかも。どのみち原著のドイツ語でもオランダ語版でも、題名はまず語順が異なるてえし。後者の扉にはラテン語で ‘Tabulæ Anatomicæ’ と記され、それが現地の俗称では ‘tafel anatomie’ となり得るというのですが、いずれも単に「解剖図」というほどの意味たる由。で、その共訳本「解体新書」にある「打係縷亜那都米」との表記はそれを音訳したものであろう、というのが、日本版ウィキペディアからの受売り。すみません。〔気になってさっき(2018年2月17日)覗きました。〕

これ、後半だけが「アナトミー」ではなく「アナトミア」とラテン語風になっているのは、ちょっとした混乱の表れってことらしいですね。今日、これほど外国語学習の便が発達しているにもかかわらず、発音の習得は依然困難を極め、綴りの間違いというのも、多くはそれと音韻との関係に対する認識不全に起因するもの、という実状を鑑みれば、如何な碩学と言えども、当時の蘭学者が強いられた不利は想像に難くなく、到底彼らを嗤うこたできんでしょう(まして玄白さんは……てえか、誰も嗤っちゃいねえか)。

一方の「フルヘッヘンド」はてえと、またぞろ実は蘭語にちょっと疎かったらしい老杉田医師が ‘verhevene’ を間違えて(ずっと間違えてた?)、「蘭学事始」に記したんじゃないかって話なんですが、これも、1つめの「ヘ」が今の国語音と同じだからいいけれど、2つめは「フェ」なんですよね。同じ‘ve’という表記が最初だけ「フ」になってんのも、やっぱり記憶違い(または初めから誤読)ってことなんでしょう。まあいいや。蛇足終り。

                  

卒爾ながら、ここでまた件の拙稿で引用した Wikipedia の記述に絡む翻訳談義も少々。蘭学事始ではありませんが、もう何年も商売にしてるってのに、未だにどうってことのない文句で動きがとれなくなることが絶えず、その訳文でも久しぶりに唸ってしまったところがあるのです。

帰属先による ‘hacker’ の3区分の3つめで、「1970年代後期にはハードウェアを対象とし、1980/1990年代にはソフトウェアを対象としている」と書いていますが、この「対象として」となっているところ、ほんとは ‘focusing on ...’ に対応した表現なんです。たったこれだけのことを思いつくのに1日かかってしまったという……。

辞書的な紋切だと「~に集中する」とか「~に重点を置く」ってなところなんですけど、それじゃハマんないし、かと言って「~に熱中する」じゃ行き過ぎだし、よんどころなく一旦は「(70年代には)関心の焦点を~に絞り、(80/90年代には)~に絞っている」てな野暮な言い方にしといたところ、翌日突然、前に仕事で使ったこの「対象」という手を思い出したんでした。なんで忘れてたかな。

ああ、あの原稿は会社案内だったんだ。業務内容だか営業品目だか、とにかく日本語じゃどう言うか悩むまでもなく明白、ってことなんでした。でもオタクってのは商売じゃないから、ちょっとそれが思いつかなかったという次第。

こういうのはいくら辞書を引いたって載ってるもんじゃござんせん。まさに文脈に応じてその都度個々に見つけなければならないのが訳語というもの。外国語の筈の元の英文の意味は明白なのに、それを母語の筈の日本語でどう言えばいいのかが思いつかない、ってのがこの商売につきまとう厄介なところ。商売でやってるときはこんなに悩みゃしませんがね、ほんとは。アベコベのような気もしますが、所詮はよんどころなく始めた居職の仕事だし。

と言いながら、やり出すとつい無駄に凝っちゃうのは、こうして勝手にやってる遊びの文章と何ら変らず。報酬に応じて時間と労力を振り分けなきゃやってらんないよ、って同業者には言われるんですが、それができるぐらいならハナからこんな苦労もあるまいに、って感じ。それより、なんせ締切がありますからね、仕事だと。

                 

またも蛇足ながら、 ‘focus’ に対応する外来語としては、多少気取った(?)「フォーカス」より、昔からの「ピント」ってほうが何となくピンと来るんじゃないでしょうか。この「ピント」ってのも、オランダ語の ‘brandpunt’ ([ブラントプント]みたいな)の後半だけを訛って真似たもんだってんですよね。「プント」よりゃ「ピント」のほうがやっぱりピンと来そう。

因みに、英語の ‘pint’ は「パイント」という容量の単位で、500cc前後なんですが、英米でかなり異なり、英のほうが600cc近くとお得。米では500㏄強と500cc弱という2種が併用されてるんだとか。イギリスもEUに加入してたりしたから、今じゃ昔とは事情が違うのかも知れませんけど、自分が暮してた40年ほど前も、その後10数年にわたって数回訪れたときも、牛乳瓶が1本1パイントでした。紙パックだと、1リットルに対応するのが2パイント入りということになり、上部が殆ど傾斜のないパンパンの状態。やっぱり何となくお得?

でもパイントと言えば何よりビールですね。 ‘Buy me a pint.’ てえと「一杯奢れ」って感じ。ちょっとした賭けで「俺の勝ちだな」ってことにも。

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……というのが、長大極まる「ハッカー考」に後から無理やり挿入した、それ自体が随分と長い付け足しのくだりでございました。ここだけ抜き出すとどうしても話が通じなくなる部分だけは書き換え、ついでに今回改めて付記した部分もありますけれど。

なにしろまたもご無礼至極。

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