先般投稿の拙文に好意的反応を示してくださった粋な江戸っ子の姐さんと、江戸弁および東京における関西弁問題(そんなのあるのか?)について交したやりとりに触発され、東京語の発音とアクセントについての断片的な考察をまとめてみようと思い立ちました。どうせまた長い話になるのは必至ですが、なるたけ枝葉を除くとともに、適宜区切りを施し、複数の文章に分けるよう努めるつもりです。努めは致しますが、うまく行くかどうかは知る由もなく。
さて、近年NHKのラジオアナウンサーの物言いがどんどん妙なことになっておりまして、ニュースを聴いていても、例えば「駅舎」を「易者」の如く言うかと思えば、返す刀で「船体」を「千体」のように発音するといった無法が罷り通っております。
前者では、本来第一音節だけが高い頭高(あたまだか)型であるべきを、逆にそこだけが低く後は下接語(助詞)も含めて高いままとなる平板型にしており(ただし「シャ」の前の「キ」は母音のイが無声化し、高さの違いは聞きとれません……本来は)、後者はその反対といった具合。これほどの違和感は数年前まで経験したことがありませんでした。初めはてっきり一部の未熟者による疎漏かと思ったのですが、ほどなくほぼ全員が毎回そのように原稿を読んでいることがわかり驚愕。どうやらNHKの基準自体が改められたようです。
かつては「正しい日本語」の卸し元として諸人が尊び、そのアクセント辞典は依然多くの信奉者を擁すると思われるNHKではありますが、昨今は信用なりませんぜ。まさか標準アクセントを恣意的に改変せんとの陰謀を企てているなんてこたないでしょうけど、なんでこんな妙ちきりんな真似をするのかと訝っていたところ、当のNHKのお人が深夜のラジオ番組で語っておりました。曰く、NHKアナウンサーたちのアンケート結果で最も多かったものを採用している、だってさ。
それはなかなか客観的、科学的な姿勢のようにも見えますが、騙されちゃいけやせん。たとえ国民投票の結果であったとしても、到底多数決で決められるような事案じゃあるまいし、そもそも標本が少な過ぎるばかりか、初めから偏りがあるのはわかり切ってるじゃござんせんか。まさか全国の全地方、全地域、あらゆる村々、集落から1人ずつ漏れなくアナウンサーを採用し、その1人ずつがまたまったく同水準の言語認識能力を有している、なんてこたあり得んでしょう。既定の基準を遺漏なく習得してそれに準拠すべき筈の立場にある者から、それぞれの恣意的な私見を募り、それを均して基準そのものを調整しようたあ、どう足掻いたって本末転倒。
さては「尼」が平板型で「海女」は逆なんて寝言もそのせいであったか。これ、何年か前の『あまちゃん』てえドラマに絡んで、[ア↑マチャン]ではなく[ア↓マチャン]が正しい、って言い張るやつが妙に多いので、何かと思ったらNHKのアクセント辞典(およびその亜種)の記述に従えばそうなる、ってオチだったという話でして。
少なくとも40年前の東京語には、「亜麻」だの「阿媽」だのも含め、平板型のアマという語はありません。私が勝手に断定しているのではなく、アクセントの鬼、故平山輝男の労作、東京堂出版の『全国アクセント辞典』、および同じく平山がアクセント表示を監修した『角川国語辞典』に明記されております。つまり「尼」も「海女」も等しく頭高型(だった)ということです。
ただしそれは単体での話で、「さん」が付けば「甘ちゃん」同様、平板型に転じます。だから「海女ちゃん」だってアが低くマ以後が高くなるのが伝統的東京語の流儀。「尼」と「海女」はアクセントが逆で、「尼さん」と「海女さん」もそれぞれに「さん」を加えただけ、なんてのは大間違い……だったのに、今じゃあ後者を平板型で言うと訂正してくださる方までいらっしゃいます。
しかし、だいたい「尼さん」ならともかく、「海女」は「あま」り(わざとです)「さん」づけにゃせんでしょう。話しかける機会でもあればそうしますかねえ。でも「尼さん」は「坊さん」と一緒でそれ自体が普通名詞だし。
おっと、早くも枝葉に絡め取られてしまいました。この辺で何とか本題に入ろうと思います。
ここでちょいと言いわけを。ハナから「方言」って言っときゃいいものを、つい癖で「俚言」などという言葉を使ってしまいましたが、これは一種の職業病のようなものでして。何の話かと言うと、「方言」が専ら地方語や地域語といった意味で使われるのに対し、それが訳語として充当される ‘dialect’ は必ずしもそういう意味ではなく、多くの場合、地理的な要因よりも、話者の社会的存在、帰属する階層、職業、世代、性別、それに場合によっては全世界を網羅する共同体(各種のオタクどうしとか)に特有の言語体系を指すのです。そういう場合は社会(的)方言などと訳されるのですが、単純に国語における「方言」と英語における ‘dialect’ は等価とは言えない、というのがほんとのところ。 ‘social dialect’ やそれを縮めた ‘sociolect’ ほど、「社会的方言」や「社会方言」は一般的ではない、ってことで。
ああ、 ‘dialect’ の派生語には ’idiolect’ ってのもありました。これは地域だの集団だのではなく、一個人に特有の言葉遣いってことで、「個人言語」などと訳されるんですが、何のこたあねえ、人それぞれの変った口癖(あるいは間違った言い方とか)のこと。これも英語では結構一般的な言葉なのに、日本じゃ「個人言語」なんてまず言わんでしょう。決して珍しい現象でもないんですがねえ。
いずれにしても、方言って言ったら東北弁とか関西弁のことじゃないの?って思ってる人(フツーです)にとっては、「社会方言って何よ」ってなもんでしょう。だから、その種の ‘dialect’ は、躊躇せず「術語」だの「符丁」だの「隠語」だのとやっときゃ遥かに穏当であるのはわかり切っているのですが(もちろんそれぞれに対応する英語はあります)、困った人たちってのは遍くこの社会に生息し、たまたま発注元のお偉いさんの中に「自分だって英語ぐらい知っとるわい」って思い込んでるのが1人でもいると、後から「‘dialect’ が正しく『方言』と訳されていない。翻訳は正確にやって貰わねば困る」てなことを言ってきやがるんですよ。困るのはこっちじゃねえか。
俺はそんな頓痴気の知ったかぶりを満足させるためなんかじゃなくて、できあがった訳文を読まされる「現場」の人たちが難なく読めて、かつ必要な情報を、それこそ「正確」に得ることができるよう、さんざん工夫して個々の訳語を捻り出してんだぜ。それがあぁた、そういうおエラいバカが1人混ざってるだけで、大抵それまでの苦労が徒労に変じ果てるのみならず、肝心の文意が曖昧模糊たるものとなってしまいますのさ。でも客は実際にその訳文を読んで何らかの仕事をさせられる人々ではなく、てめえらは仕事なんざひとつもせず、毎日「エラい」をやってりゃいいだけの愚者ども。
いや、ほんとはそれも違うんだけどね。個人ならいざ知らず、金払うのは企業であって、バカな重役どもなんかじゃないでしょう。てなことを言ったところで、所詮こちとらにゃ如何ともし難く。そういう重役だか何だかに余計なことを言われれば、先方の担当だって従わざるを得ず、こっちも冷笑しながら敢えてよくわからねえ文章に書き換えなくちゃならねえてえ寸法。変更料でも取れるってんなら構わねえようなもんだが、そんな直訳だか何だかでいいってんなら、ハナからよっぽど簡単じゃねえかい。甚だ以て度し難き限り。
因みに、日本における普通の意味の「方言」、つまり「俚言」のうち、特に音韻に限った事象、要するに「訛り」のことを、英語では ‘accent’ って言うんですが、そうなると「アクセント」というカタカナ語もまた、呼応する英語とは意味が違うということに。世俗的には「訛り」と同様、 ’dialect’ と区別なく使われてたりもしますしね。こりゃあキリがねえや。
てことで、続きはまた次回。
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