2018年3月26日月曜日

無声母音と歌メロ(2)

早速ながら、件の「無声母音の欠落」について。あ、でもまずはその「無声母音」自体が何物なのかをざっと語っておきたくなりました。

……とは言ったものの、いったいどう語りゃいいんだか。とりあえず例を挙げれば、あたしの名前[キチロー]の第1音節[キ]の母音[イ]がそれに該当します。カ行の父音(頭子音)もタ行のそれも、無声音(声帯が振動しない息だけの音)で、それらに挟まれた母音の[イ]が、東京(と言うより、中部から中国、四国を除いた、東日本や九州一帯の)発音では、自動的に無声化する(つまり前後の父音と同様に息だけとなる)っていう現象なんです。

以前この[キ]を有声にして我が名を呼ばれ、ギョッとしたことがございました。住込みの新聞屋の後輩だった女子奨学生があたしの名前をそう発音するんですが、毎回ちょいと不快で、あるとき2つの発音をしてみせながらそれを指摘するも、「どこが違うのさ?」って言われちゃって。なるほど、鼻濁音と同様、もともとこの音韻を欠く人には、そもそもその有無の峻別ができないのか、ってのを痛感。

因みに、あたしはその前に無声母音などない(ことになっている)英語などをやっていたために、両者を容易に発音し分けることもできるのですが、それでも[チ]の前の[キ]を有声でやるのは、何と言うか、ちょいと力が要ります。普段東京式の発音でしか話すことのない普通の東国人(や九州人?)にとっては、恐らくより困難なのではないかと。
 
                  

老婆心ながら言い添えますと、全体的に囁く場合は和英を問わず母音も悉く無声となります。それぞれの峻別が可能なのは要するに息の鳴り方の違いによるもので(無声母音もまさにそれ……なんですが、日本語の場合は父音自体がイ段は他段と違うんでした)、子音(ここは国語本来の語義とは異なり ‘consonant’ の意)の有声無声については、「強音」と「弱音」(‘fortis’ と ‘lenis’)の違いによって識別されるのでした(これについては、「姓氏問題」などというものについての記事でも言及しておりました)。

この「強」「弱」は、破裂や摩擦の度合の差で、有声音のほうが弱く、無声音が強いというのが法則。/d/ は /t/ より舌が歯茎を離れる勢いが弱く、/z/ は /s/ より舌と歯茎との間の摩擦が弱い、という具合です。日本語における[タ]と[ダ]、[サ]と[ザ]も同様……と言いたいところだけど、後者についてはまたも父音(頭子音)自体が違うんでした。「サ」の濁音は「ザ」、ということにはなってますけど、その「濁音」、少なくとも語頭ではもれなく「ヅァ」っていうのがほんとのところ。いずれにしろ、声帯の振動を欠く囁き声でも各音韻が聴き(言い)分けられるのはそういうカラクリによるものだってことで。
 
                  

英語の子音(しつこいけど ‘consonant’ の意で、国語では父音ってこってす)は、有声と無声に区分されてはいても、直後に母音が付されない限り、有声音とされるものも通常はまず有声のままで発音されることはありません。と言うより、母音を伴わずに有声音として発するのはかなり厄介、というのが英語の特徴の1つってのが実情。

たとえば ‘hit’ の /t/ は紛う方なき無声音であるに対し、‘hid’ の /d/ は隠れもなき有声音……の筈なんだけど、これが ‘hid in ...’ とかなら何憚ることなくその /d/ を有声で発音することができるのに、後続の /ɪ/ という母音がなく、発話の末尾がこの ‘hid’ だったりすると、最終音である /d/ はほぼよんどころなく無声化する、ってことなんです。じゃあどうして ‘hit’ の /t/ と聴き分け(……の前に言い分け)が可能かと申しますと、それがつまりは「強弱」の差ってことで、上述の如く、舌っ先が歯茎を離れる強さ、およびそれに伴う息の強さの違いが決め手、って寸法。

それと、この例で言えば、本来有声の筈の /d/ は、初めから無声の /t/ に比べ、その前の母音 /ɪ/ が長めに発音される、っていう法則もありました。それもまた何気なく重要な差異。/ː/ ってのは長音記号ということになってはおりますが、もともと国語のように音節の長さが一定ということはあり得ず、長短はごく相対的なもの……どころか、多分に意識上の問題で、/hɪd/ と表記される ‘hid’ のほうが、/hiːt/ と表記される ‘heat’ より、実際は母音が長く発音されたりする、ってのがほんとのところ。もちろんその差は微妙……ながら結構明確です。いずれにしても、国語における音引きのように、1音節分伸ばして都合2音節の長さになる、なんてこた金輪際ござんせんので、そこはどうかひとつ。
 
                  

まあそれはさておきまして、とにかく下拙の名前である[キチロー]の[キ]、母音の[イ]を有声にされると、あたしも落ち着かないけど、つい「あんた毎回そんな余計な労力を要する発音しててくたびれないのかね」って思っちゃう。区別がつかないんだから、くたびれようもねえなあわかっちゃいるけど、聞いてるこっちがくたびれるじゃねえかい。因みにその彼女、新潟の出だったんですが、その訛りが出身地の俚言に起因するものなのか、当人の個人的な癖なのかは知りません。いずれにしろ、青森と埼玉と東京にしか住んだことのないあたしは、そのとき(21歳)まで、自分の名前をそのように発音されたことがなく、内心「わしゃケテロやないわい!」とは思ったのでした。
 
                  

さて、無声父音に挟まれたこの無声母音、無声化するのはイ段、ウ段の「狭(せま)母音」だけで、この「狭」は口の開きではなく、口の中の狭さ、つまり舌の高さ、と申しますか、舌の比較的後方と(軟)口蓋との距離の問題、って感じなんですけど、つまるところ[イ]と[ウ]は、その他の[ア][エ][オ]より必然的に舌が持ち上がり、口中が狭くなるという寸法。

分けても最も狭いイ段は、狭過ぎて(?)、その前に父音があると、その父音が他段とは別音となるのが避けられず、実は英語でも ‘car’ と ‘key’ では、子音(さっきも出てきましたが、この場合は ‘consonant’、国語では本来「父音」と呼ばれるもの)が厳密には異なり、前者は否応なく「口蓋化」(舌が口蓋に接近)し、音韻論的にはどちらも /k/ という同一音素ではあるものの(つまり母語話者の意識では区別なし)、より客観的、科学的な音声学上は別音なんですよね。口蓋化を示すのが [ʲ](上付きの [j])で、‘key’ の子音をより細かく音声表記すれば、[k] の右肩に小さく [j] を付したものとなります。
 
                  

今さらですが、さっきからいちいち断ってる英語の ‘consonant’ と、国語における本来の子音との違いを述べておくことにします(遅いか)。

前者は「共に発せられる音」てな意味合いで、「声」を表す ‘vowel’ に対し、摩擦だの破裂だのという、言わば何らかの阻害要素を伴うのがその成立条件……みたいな。いや、むしろ素直な母音に何らかの阻害を加える「邪魔者」ってのが正体かも。

いずれにしろ、それぞれの訳語に当てられる「子音」「母音」は元来国語音における区分であり、母音はまあ英語と同じく「声」と見なすこともできましょうが(無声化もするけど、英語だってそれは同様)、通常子音と呼ばれる ‘consonant’ は、数種類の鼻音を包摂する[ン]を除くと(これも日本人には単一の音素、つまり全部おんなじ「ん」ですけど)、むしろ国語でこそ母音と共にしか発音されず、それがほんとは「父音」とされるもの……なのでした。江戸期の国学者には「父字」「母字」などという語を用いた人もいます。

‘consonant’ は「共音」とでも訳し得るものであり、‘con-’ がつまりは「共に」ってな意味。‘consonant’ という語自体が、概して母音(または有声音?)が今の英語よりよほど明確であろうラテン語由来なれば、この ‘con-’ は、国語の父音と同様、「母音と共に」発せられる音、ってのが原義ではございましょうが、それよりよほど子音、おっと ‘consonant’ の主張が強い(今の)英語の実際においては、むしろ種々の「夾雑因子と共に」、という意味にも解し得ます。いや、現実に母音とは無関係に発音されるものばっかりで、そこが日本人の多くにはなかなか難しいところ……のようで。

とにかく、言わば添え物の如き ‘consonant’ と、本体とも見える ‘vowel’、すなわち「父母」が一体となって生れる[カ]だの[シ]だの[ツ]だのという音節が、国語における正統の「子音」……だった筈が、とっくに ‘consonant’ の意味でしか通用しなくなっており、それがしばしば誤解、混乱の元凶だったりして……。
 
                  

と、ひとまずまたぼやいときましたが、英語の /k/ と同様、狭母音の筆頭たる[イ]の前のカ行音が、その母音の構えを先取りして口蓋化するのは日本語も変らず、と言うか英語よりその度合が強く、「かきくけこ」と並べてはいるけれど、「き」の父音だけは前後の4段とは別音で、ほんとはこれ、拗音とされるキャ行にこそ組み入れられるべきものなんです。それは取りも直さず、「キャ」「キュ」「キョ」っていう表記につられて、日本人自身が宛も[キ]という子音(国語における本来の子音、すなわち父音 /k/+母音 /i/ のことです)にヤ行音を連ねたものだと思ってはいるけれど、錯覚ってことなんです。[イ]という母音自体がヤ行の父音に近似する故の現象なのですが、ヤ行音そのものが発せられるわけではなく、飽くまでそのヤ行に近いイを先取りした父音=頭子音の [kʲ]([ʲ] はもっと上付きのつもり)に各母音を連ねた音、ってのが実情。つまり、表記としては「キァ」「キゥ」「キォ」ってほうがまだ実態に近いってことで。

なお、今さらではありますが、/  / で表示されるのは、当該言語の母語話者には同一音と見なされる音韻、すなわち音素を包括的に、個々の差異に留意した複数の異音(これは誤訳っぽい)を一視同仁に示す簡略表記で、より客観的に、母語話者には判別し得ない相違をも表すのが [  ] で示される精密表記……ということにはなっているものの、精粗ってのもまた主観の所産には違いなかろうし(実際、細分化は際限もなく可能)、この一連の駄文では、特に両者の違いを明示せねばならぬ場合を除き、全部 /  / に入れちゃってます。ほんとはめんどくさいからってだけなんですけど、しばしば日本語と英語の両方にまたがった記述も為しておりますれば、一貫性、整合性を保った使い分けは極めて困難、という事情もあったりも致しまして。

あ、日本語については、「語」として目立たせる場合は「 」を、「音」として記す場合は、音素か否かなどは考慮せず全部[ ]に入れてます(たぶん誤植もあり)。……って、何また言いわけしてんだか。
 
                  

えー、またぞろちょっと(だいぶ)本旨からは逸脱しちゃってますが、まあ行きがかりってことでひとつ。上述の事例については、英語の ‘can’ を「キャン」だと思っちゃあ間違いよ、ってのがなかなかご理解頂けず、発音指導ではしばしば難儀したところだったりもするんです。別にそれで話が通じないってこともないからさほど問題にはならぬとは存じますが、やはり英語音としてちょいと違うってのはバレちゃいますね。/kja/(というより /kʲa/) ではなく、飽くまで[カクケコ]の父音と同じ /k/ に /æ/ という母音を付した音なんですが、「堅気」の日本人にはまずこの /æ/ っていう母音が厄介な代物。

簡単に言っちゃえばこれ、[ア]と[エ]の抱合せ、つまり両者を同時に発音したようなもんなんですけど、そう説明すると、今度は熱心に「アエ」っていうのを速く言うよう努力し出す人もいて、いや、いくら速くやったって、絶対に「同時」にはなりませんから、って感じ。同時なんだから「エア」って書いても同じことだし……。難しけりゃ全部 /e/ で代用すりゃいいんですけどね。ってより、北米では初めからそう発音する人も多く、それこそが標準的米音になってたりして。

厳密には、この /e/ っていう記号、英語音としては[エ]よりちょっと舌が低い音を表す [ɛ] の言わば代用で、音声学的には別音とは言い条、やはり英語母語話者自身に区別がないため、音素表記としての /ɛ/ は既に廃され、古い辞書だと /ei/(現行表記は /eɪ/)だの /eə/ だのといった二重母音(1音節内での2つの母音の連続技。これもときどき母音だけの音節が2つ続いたものだと思ってる方が日本にはいて、結構くたびれます)の前半にしか用いられていなかった /e/ に収斂されているというのが実情。しかしまあ、件の ‘can’ の代役として、少なくとも米音(およびロンドン下町訛りたるコクニーとか)の模倣なら「ケン」で何ら構わず、ってところではあります。「キャン」ってよりゃ遥かに英語(米語)的。

一方、ポップソングの歌詞ででもなければ、英国(の標準発音)では飽くまで /æ/ ですので、実はそっちのほうが堅気の日本人にはよほど難物。この /æ/ ってのがまた、英米共通の音素ではありながら、英音は米音のそれよりよほど /a/ に近く、そこが[エ]で代用可能な米音との違い。米音ではかなり /e/ に近く、それどころか上述のとおり初めから決然とそう発音される語が多い、ってことなんでした。通常は二重母音の前半としてしか現れない英語の /a/ は、[ア]とおんなじようなもんとは言え、英国音の /æ/ は飽くまで /e/ よりそれに近いということであって、代用にはならんのです。まあ大抵はそれで通じないってこともないけれど、やはり英語音としては不完全。
 
                  

……てな話はどうでもよござんした(今さら)。ちょっと話を戻しまして、これはさっきもちょこっと触れましたが、カ行音イ段の[キ]に限らず、実は現代国語における実際の音韻は、五十音図の配列からは相当にズレており、イ段音は、両唇閉鎖(とその開放)による鼻音であるマ行音(/m/)、およびそれの非鼻音版、つまり鼻は鳴らさずに両唇の開放(破裂)によって口だけから発せられるパ行音とバ行音(/p/、/b/)を例外として(閉鎖音ってのは口中の様子が無関係なもんで)、他段の子音(つまり[カ]とか[ス]とか[テ]とか)とは悉く父音(それら子音の前半部分で、「頭子音」とも称されるもの……って、しつこいけど)を異にするのです。なお、/p/ と /b/ は調音法を共有する無声対有声の関係で、ハ行の半濁音とか濁音などと称するのは単なる因襲。音声だの音韻だのの認識にはまったく意味を成しません。経時的な音韻変化による実際の現代音と、昔からの表記との齟齬に因る錯覚、誤認の類い……でしょうか。
 
                  

えぇさて、もう1つの狭母音たるウ段音についても、タ行とハ行はまた他段とは別音で(ハ行はそのウ段音こそ唯一生き残っている古形)、ヤ行はイ段が、ワ行はウ段が昔から欠番です。今日、ほぼ外来語にのみ用いられる「イェ」だの「ウィ」「ウェ」「ウォ」だのという表記(後の3者は元来「ヰ/ゐ」「ヱ/ゑ」「を/ヲ」)が示すように、ヤ行の父音は母音の[イ]に、ワ行のそれは[ウ]に近似することに起因する欠落であり、万葉仮名でもそれぞれのイ段、ウ段が欠けているのは、やまとことばには古来それらの音がなかったから、ってことでしょう。なお、母音[ウ]の調音における地域差は、そのままワ行音の違いにも反映され、上方落語の師匠が用いる[ウ]と[ワ]は、実は江戸落語の発音とはかなり異なるということに。

いずれにせよ、/m/、/p/、/b/ 以外のイ段父音にはもれなく先述の「口蓋化」が伴うわけですが、サ行、タ行などはそれがさらに高じて、シャ行音、チャ行音という、これまた拗音という、言うならば誤解による区分を施された音になっちゃってるわけです。「シ」は[サ][ス][セ][ソ]ではなく[シャ][シュ]([シェ])[ショ]という一派こそが本来の居場所。「チ」もまた[チャ][チュ]([チェ])[チョ]の一味であると同時に、このタ行の場合は、ウ段の「ツ」もまた([ツァ][ツィ][ツェ][ツォ])という、またしても今日では専ら外来語にしか用いられない音の仲間。おっと、「とっつぁん」ってのがありましたな。あまり「今日」的とは言い難く、時代物でなければルパン三世の銭形警部を指す以外にはとんと聞かなくなりましたが。

ともあれ、さらに付言致しますと、これも既にちょこっと触れてはおりますが、サ行の濁音とされるザ行音も、実は「ヅァ行音」とでも呼ぶべき音にて、語頭では(少なくとも東京語では)絶対にサ行音に対応する有声音ではありません(清音・濁音ってのも多分に情緒的な言い方で、しばしば誤解を惹起)。つまり、サ行音とは違い、まずは必ず舌が歯茎に触れるってわけですが、語中ではその接触が緩み、語頭とはまた異なるとは申せ、依然舌先は極めて歯茎に接近(あるいは微かに接触)するため、/s/ の純然たる有声音である英語の /z/ とは明らかな別音なのです。したがって、‘zoo’ などの発音はおろか、‘cars’ と ‘cards’ の峻別も困難、ってのが堅気の(っていちいち断るのも何ですが)日本人にとっての現実。日本語的に「カーズ」って言うと、どうしようもなく後者の ‘cards’ 寄りになってしまうというのが実のところ。
 
                  

つい英語のほうに話題が引き寄せられちまって困ったもんですが(誰が困るかよ)、もともとそっちが本領なもんで。口蓋化音、あるいはヤ行音に関わる問題としては、たとえば ‘wish you’ における「(ウィッ)シュー」(/ʃjuː/)と、‘issue’ における「(イ)シュー」(/ʃuː/)が、多少とも英語の話せる日本人でも多くが一緒くたになっちゃってる、ってのもありました。前者には「ユー」という明確な発音が伴うのに対し、後者は国語音において[シ]の母音を[イ]から[ウ]に差し換えたもの、いっそ「シゥー」とでも書いたほうがまだ実態に近いような「シュー」に類似しております。

あ、すんません、あたし自身は未だに後者の ‘issue’ を敢えて時代遅れ(?)の /ɪsjuː/、「イスュー」てな発音でやってますし、人によって(土地によって?)は、折衷方式(?)で /ɪʃjuː/ と、つまり余計な(?)/j/ を挿入して発音するようではありますね。

いずれにせよ、日本語では[キュ]と同様、[シュ]もまた、「ュ」という表記に惑わされたかのように、実際にはそれぞれ[イ]という母音を[ウ]に差し換えただけの音、つまり /j/ という明確なヤ行の父音は発せられないってのが実際のところなんです。多くの日本人は英語におけるこの /kjuː/ だの /ʃjuː/ だのが生涯発音できないってことなんですが(他の英語音と同様、発音自体が難しいんじゃなくて、単純に違いがわかんないから)、それで意思の疎通が妨げられるわけでもなく、単に何となく訛ってるな、と思われるだけのことではありましょう。

おっとその前に、シャ行の父音自体が、英語の /ʃ/ とは別音の /ɕ/ なのでした。舌尖のみならず、もう少し後方を含む舌端が持ち上がり、歯茎だけではなく硬口蓋にも接近するため、摩擦は英語の ‘sh’ より強いってこってす。

五十音図の表示と実際の音声区分との齟齬は、表記(仮名文字)が何世紀もそのまま用いられているのに対し、それが表すことになっている音のほうの経時的変化が存外甚だしいものであるのを示すとも申せしょう。現代の英語における綴りと発音との関係とも少々通底するようではありますが、最大の違いは、日本人の大半がそうした表記と音韻の齟齬にまったく無自覚であるところかと。
 
                  

だから何だって話ばかりで恐縮至極。そろそろ主眼である無声母音の欠落問題について……と思ったら、またしても思わず迷走が過ぎて随分と長くなっちまいやした。続き、ってえか、本題についてはまたぞろ次回ってことでひとつ。今回はほんとに「思わず」でした。逸脱は図らずも成行きでつい、って感じです。いずれにしろまたしても恐れ入谷の何とやら……。

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