2018年3月27日火曜日

無声母音と歌メロ(3)

前回、説明を試みて結局また脱線しちゃった無声母音の話です。自分の名前[キチロー]の[キ]を例にとったんでしたが、声帯の振動を伴わない無声音である(有声≒濁音、無声≒清音……って感じ)カ行だのサ行だのタ行だの……の父音(頭子音)に挟まれた狭(せま)母音たる[イ]と[ウ]が、前後の影響により、概ね本州の西半分と四国を除く地域では自動的に無声化する、ってことなのでした。

その話から、いつものようについ枝葉末節に分け入ってしまい、本来なら無関係の英語の音韻談義に堕してしまったという仕儀だったわけですが、やっとのことで国語におけるその無声母音問題に立ち至ることができる(かも知れない)という運びに。

あれ? 主旨は国語問題なんてエラそうなもんではなく、飽くまで、メロディーを付された歌詞にとっちゃあ、アクセントの高低なんぞよりよっぽど深刻な(ほんとは誰も気にしちゃいない)、この無声母音を不可避的に閑却せねばならぬ場合が多い、っていう実状についての与太話だったんでした(思い出したように)。それにつきまして、この期に至って漸くという感じではありますものの、とりあえずは改めてざっとご説明などを(毎回こればっかり)。
 
                  

この無声母音の欠落に関しては、結構子供の頃から、ぜんたいどういう理屈なのかは知らぬまま、たとえば「父」という語を(「乳」でもいいんですけど)、1つめの[チ]を有声にして発音されると、妙に居心地の悪い思いにとらわれていたのでした。これ、東京発音では(東北最北端の青森も同断)、なんせ前後を[チ]の父音、2つの/tɕ/に挟まれた最も狭い(舌と口蓋との隔たりが最も小さい)[イ]という母音でありますれば、自動的、不可避的に無声化せざるを得ないってことなんですよね。それを、その[チ]が2つとも有声ってことにされちまっちゃあ、何となく耳障りでどうにも落ち着かぬではありませぬか。耳障りなんてのはこっちの勝手だけど。

当然と言うべきか、日常そのような発音をする人たちは、この「ちち」という語を頭高型で、すなわち1つめの[チ]を高く発音するため、違和感は弥増すという寸法なんですが、東京アクセントでは尾高(おだか)型で、すなわち「父が」などと言う場合は、下接語の「が」で下がり[チ‐↑チ‐↓ガ]という塩梅。ただし、最初の[チ]は無声、最後の[ガ]は鼻音なので、何気なくこの文句、当該の話者が東京風の発音法を共有するか否かを如実に示す好個の例だったりして。

これで最大の問題となるのは(俺が勝手に問題にしてるだけ)、無声音にはピッチの高低がない(聴き取れない)ってところ。まあ音である以上は、振動数(周波数)とか波長とか(同じ現象を時間的に見るか空間的に見るかの違い)ってものが皆無ってこたないんですが、明確な高さの違いを聴き分けることは不可能、とでも申しましょうか。結局どういうことになるかと言うと、それこそこの「父」の東京発音では、単語として発せられた場合、高さを有するのが第2音節、2番目の[チ]だけなので、つまるところ2つ並んだ[チ]のいずれが高いかわからない、ってことなんです。

高低が識別できぬとなれば、単体ではアクセントが存在しない、ということになってしまいますものの、実際の発話においては、前後の語句のピッチにより、自ずとアクセントの型が知れるという仕組み。最初の音節と2番目の音節は常に高さを異にするのが東京語の(最大の?)特徴ですので、たとえそのいずれかがピッチを欠いていても、通常の発話においては前後との相対関係により、その高さ不明の音節が、言わば観念上のピッチでは高低どちらに該当するかがわかっちゃう、ってところですかね。まあ錯覚と言えなくもないような話ではありますけれど。

で、この「父」について申し上げれば、[チ(?)‐チ(高)‐ガ(低)]という言い方から、単体ではピッチ不明となる最初の[チ]が低い(筈)と判断されるということなんですよね。判断ったって、もちろん皆さん無意識のうちに、それも瞬間的にわかるってもんでしょう。これについては「乳」もまったく同様ですが、「遅々」の場合は東京語でも昔から尾高型のみならず頭高型も併存し(どっちが古いんでしょう?)、あたしも「遅々として」ってのを[チ‐↓チ‐ト‐シ(無声)‐テ]って言われても何らの違和も不快も感じませず。でも自分じゃ[チ(無声)‐↑チ‐↓ト‐シ(無声)‐テ]としか言わないような気はします。2音節目の[チ]には[↑]を付しておりますが、これは話者がそのつもりってだけで、聴いてるほうには次の[ト]で下がるまでは未だ高低定かならず、ってのがほんとのところ。実際には文脈でバレますけどね。
 
                  

あ、でも、これは自分だけじゃないんですが、「父」だの「乳」だのは、下接語が付されれば尾高型とは言い条、下接の助詞が「の」の場合だけは例外的に平板化する、という東京アクセントの通則に反し、たとえば「父の歳」なんて言うときには尾高型のまま、すなわち「の」で下げちゃうんですよね。たぶん数十年前までの東京語では、[チ‐↑チ‐↓ノ‐ト‐シ]ではなく、[チ‐↑‐チ‐ノ‐ト‐シ]という平板型にしかならなかったんじゃないかと。でもそれだと、その後の音節(「父の歳『は』……」とか)で下がらないと、無声のため高さ不明の最初の[チ]が実は高い(つもりの)平板型と区別がつかないってことんなりますねえ。それを無意識に避けようとしてつい「の」で下げちゃうのかしら?

そう言えば、数年前、「うまくもねえ酒を……」って言った瞬間に、「あれ? なんかヘン」って思ったことがございまして、つまり、以前の自分なら間違いなく「起伏型3音節動詞の連用形は頭高型となる」っていう原則どおり、[ウ‐↓マ‐ク‐モ……]って言ってた筈が、そのときは思わず世間の風潮に流されて[ウ‐↑マ‐↓ク‐モ……]って言っちゃったってことなんでした。言った瞬間に違和を感じたわけではありますが、これほど(無駄に)うるさいあたしでさえこうなんだから、知らず知らずのうちに自分本来の言い方が変っちゃってても気づかない人が大半なんでしょう。「言葉の乱れ」などと言うけれど、止め処ない言語の変容は、決して若い世代だけのせいではないってことで。それがどうしたと言われれば、またしても返す言葉とてございまんが。てえか、この話は前にもしておりました。昔の江戸っ子なら最初は[ウ]じゃなくて[ン](/m/)だったろうし。
 
                  

う~ん、相変らず枝葉に引っかかりどおしで、相変らず恐縮の限り。ともあれ、ここで何とか再び本旨に立ち戻ると致しまして、こうした無声母音を含む歌詞に付されたメロディーが直面せざるを得ないのが、まさに高さなくしてメロディーは成り立たず、ってところなんです。「言葉を大切に」して、正しい(古い)アクセントの[アカトンボ]への義理を貫いた山田耕筰先生だって、この無声母音という、江戸、東京語にとってはよほど不可欠の要因はものの見事に閑却しているのが、その『赤とんぼ』の一番の末尾でどうしようもなく知れる、ってなことについての話がしたかったんでした、初めっから……つまり1年以上も前から。

とにかく、その一番の終りってのが〈いつの日か〉ってやつで、問題は最後の「日か」の[ヒ]なんですよね。これが狭母音[イ]が無声化する典型的事例で、前門の/ɕ/([ヒ]の父音)と後門の/k/に退路を断たれたその母音[イ]は、無声音たる両者に屈するが如く、自らも無声化し、母音でありながら声帯の振動を伴わぬ囁き声に変ずるという現象なのでした。

因みに、「ヒ」ならハ行なんだから‘hi’ではないか、と思う心の徒桜……じゃねえや、ええとこれ、前回申しましたとおり、現代国語におけるイ段の父音は、マ行その他の両唇閉鎖音だけを例外に悉く「口蓋化」し、この[ヒ]などはその度合が甚だしく、英語における‘he’なんかとは相当に違うものになっちゃうんですよね。英語にはこの音はなく(田舎の訛りはさておき)、ドイツ語の‘ich’なんかの/ç/とおんなじってのが実情。「イッヒ」の[ヒ]は、後半の母音[イ]を除けばそのままドイツ語の発音になるってことで。

でもそういう子音(国語における)から母音だけを外して父音だけを残すってのが、多くの日本人には存外難しいんです。まあ、英語の ‘it’ を「イット」、 ‘pop’ を「ポップ」って言うのも、外来語という国語の音韻してはごく穏当ではありますが、それ飽くまで日本語ですから……って、今さら言うのも何ですけど。
 
                  

さてこの[ヒ]というやつ、「コーヒー」や「珈琲」といった表記に付随する現代音は、せいぜい三百年ほど前からのものだとかいう話で(もちろん地域差は今どきより甚だしかったでしょう)、かつては「ヒ」の字の表す音は今日の「フィ」だったのだから、実は江戸前期の日本人のほうが原語(?)の ‘koffie’ によほど近い発音をしていたことになり、近代まで用いられていたという仮名表記「カウヒー」の「ヒ」も、当初はその正しい音韻を示すものであった……とかね。

狭母音の無声化などという、恐らくは東国の田舎訛りのようなものであった音韻自体が、あるいは歴史的な父音変化の結果に過ぎないのかも知れません。「はひふへほ」という表記が示していたのは、5段すべてに共通の/ɸ/(英語の/f/に類似)という父音を有する子音だったものが、今ではその音を保っているのはウ段の「ふ」のみ。イ段の[ヒ]が帰属すべきは、やはり拗音とされるヒャ行であるのみならず、そもそも[ハ]も[ヘ]も[ホ]も、少なくとも全国的な音韻としては、わずかここ数世紀来の新参者であったということに。

/h/という父音自体が昔の日本語にはなかったんでしょうかね。フランス語を始め、この音韻自体を欠く言語は少なくないようで、そういう人たちは訓練しなければこれを発音できないし、聴き取ることはさらに困難……って、それ日本人にとっての英語の音韻には多数の類例があるんですけど、とにかく/h/の有無が判別できず、母音だけの場合とどこが違うのかわからない、ってんですよね、フランス人その他は。堅気の日本人なら俄かには信じ難い話かも知れませんが、なあに、世界的に見れば、明確な別音である(らしい)/l/と/r/の区別がつかない(どちらも同じラ行音にしか聴こえない)我々のほうがよっぽど不思議な存在(らしい)。お互いさまってこって。

ハ行全段の父音が近世前半までは英語の/f/に似た/ɸ/であったとして、その前にはさらに/p/、すなわちパ行音であった、とも言いますが、果してどっちが先なんでしょう。諸説あるんですが、どうも判然と致しません。何となく、比較的労力を要する破裂音の/p/よりは、ごく軽く発音できる/ɸ/のほうが、原日本語(やまとことば?)には似つかわしいのではないか、と勝手に思ってんですがね。

漢字の伝来にくっついて、和語にはなかった中国語風の発音も入って来た、ってことにはなってますんで、あるいはこの/p/もそうだったりして(その有声音/b/も?)。いずれにしろ、今の英語その他と同様、と言うか、それより遥かに条件は厳しかった筈ですから、どのみち正しい漢字音(中国語音)の使える者など殆どいなかったとは思わざるを得ません。あらゆる父音が(表記の簡略化により数種類の鼻音を包含する[ン]を唯一の例外として……それもまた、前回述べたように日本人の大半は全部一緒だと思い込んでますけど)母音と不可分に発音される(その結果が国語における「子音」の原義)という日本語音の特徴は古来のものであり、破裂に至らぬ閉鎖のまま(したがって無音)にした/p/だの/t/だの/k/だのっていう、英語にも現れる発音法などは、なんせ先述の「イット」だの「ポップ」だのって例からも明らかなように、結局は母音と抱き合わせでなければ日本語として使い物にならず、その点は古代以来の字音についてもまったく同じ筈……ってな話をし出すと、またぞろ長~い逸脱必至ですので、それは何とか思いとどまることに。

いずれにしても、普通の日本人には昔も今も、訓練なしには[ハ][ヘ][ホ]以外に/h/を発音することはできんのです。英語の ‘he’ だの ‘hit’ だの ‘here’ だのも、大半の日本人は[ヒ]で、すなわちドイツ語と共有の/ç/でやっちゃっており、しかも生涯その誤りを自覚し得ないのは普通。それでもこれは、なんせ英語にその音がないから語義に混乱を来す気遣いもなく、単なる外国人訛りってことで済みますが、問題はウ段の[フ]。こっちは/f/という英語音に近似した/ɸ/(かつてのハ行父音)ですので、たとえば ‘hood’ のつもりで ‘food’ と言ってちゃあ(両者は母音も違いますけど)、状況によっては意思の疎通に不全を来す、って寸法。 ‘he’ と同様、多くの日本人は ‘who’ も発音できないんですよね。まあ大抵は先方が文脈から意図を汲み取ってくれるからいいんですが、そうは行かない/hu/や/hʊ/も多いってことで、そこがイ段[ヒ]にはない思わぬ陥穽(?)。
 
                  

二次脱線に陥りそうにもなりつつ、思わずハ行の話にばかり耽ってしまいましたが、本題は無声母音でございました。

ミツキ・ミヤワキという日系シンガー・ソングライターが自らの名を ‘Mitski’ と表記しておりまして、これは「ツ」が無声であることを明示するためと推量致すのですが、これから察せられるように、この無声母音、実際上は母音自体を取り去った無声父音のみにしても殆ど同じ「効果」が得られます(何度もお断りしておりますとおり、普通は「父音」ではなく「子音」って言うんですけど、国語に関してはこれで通すことにしました)。世界的打楽器奏者、ツトム・ヤマシタ(この人は普通の日本人)などは、さらに容赦なく ‘Stom Yamash'ta’という表記を用い、まあそのほうが英米ではよっぽど日本語音(東京音)に近い発音で読んで貰えるってわけですが、頭にはやっぱり‘T’を残しといてもよかったんじゃないかとも。要らぬお節介か。あれ? この人京都人とのことですが、本人の「母語」でもやっぱり無声化するんでしょうかねえ。さらに大きなお世話か。

そんなこたさておき、ウェブの記事を見ていると、ときどきこの「母音の無声化」を単純に「母音の欠落」だと思い込んでいる日本人も少なからざることに気づきます。やはり間違いと言わざるを得ませんね。単純に母音自体を省いて無声父音だけにした場合とはどこが違うかと言うと、たとえば[シキ](四季、指揮、式……)と[シュキ](手記、酒気、酒器……)が、東京発音でも容易に聴き分けられるってところ。いずれも父音は/ɕ/であり、相違は飽くまでそれに連なる母音。前者は/i/、後者は/ɯ/ってわけですが、それぞれが無声音として、つまり息だけの囁きで発せられるから明確なピッチを伴わないまでも、その違いは依然明確なまま、って感じでしょうかね。もし無声ではなく無音ってことんなっちゃったら、どちらも残りは父音の/ɕ/だけってことになるので、「しき」も「しゅき」もまったく区別がつかなくなるって寸法。

尤も、イ段の父音は容赦なく口蓋化する、って理屈から言えば、[シ]と[シュ]では[キ]と[ク]との関係同様(シとスじゃ違い過ぎて如何ともし難く)、そもそも父音自体が同じではないのだから、やはり母音は初めから発せられず、違いは残された/ɕ/という父音自体の微妙な(しかし厳然たる)差異にこそあるのではないか、という論難も可能かも知れません。って、これ今思いついただけで、そんなケチつけてる事例を見かけたってわけじゃないんですけど、どうも大威張りで不正確なこと書き散らすやつが多いもんで、つい先回りして余計なことまで考えちゃって。ちくしょう、めんどくせえ。
 
                  

ええと、甚だ中途半端ではありますが、またぞろ余計な話ばかりしてるうちにかなり長くなっちゃったんで、今回もこの辺で切り上げ、次回いよいよその「歌メロにおける無声母音問題」に踏み込む予定。毎回予告ばかりで恐懼の限り。

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