2018年4月12日木曜日

町奉行あれこれ(11)

さて、山内薫さんのこと。『大武鑑』の明治2(1869)年の項(それが最終)にその名はあるものの、そっけなく「御定府」とあるだけで詳細は示されず、上屋敷の所在地は「あさぶ古川丁」(麻布古川町)となってます。同じ明治2年でも、件の地図2枚、すなわち『明治二己巳年改正 東京大繪圖 全(春三月新刻)』および『明治二年東京全図(初秋新刻)』よりさらに早い時期の記述なのでしょう。でもそれが手がかりとなり、やがて何者かが判明。

江戸初期には、幕閣を除くと水戸家が例外的な定府大名だったのが、中期(17世紀末~18世紀中盤)以降は、分家によって生じた小規模な大名の「御定府」が少なくなかったのだとか。それと、屋敷が麻布(から鍛冶橋内に引っ越した?)ってことから、これは土佐の支藩、高知新田(しんでん)藩最後の当主、豊誠(とよしげ)のことに違いあるまい、と判断するに至った次第。

先代の豊福(とよよし)という人は、この前年、慶応4=明治元年の正月早々、細君とともに自殺してます。それをかなりの期間にわたって隠蔽した後、末期養子として跡を継いだのがこの豊誠氏。先代の豊福氏は、他家からの養子(土佐から九州へ養子に行った殿様の息子)だったとのことですが、佐幕論者から薩長側に転じていた本家(容堂)とは袂を分って徳川方にとどまりながらも、抗戦には反対し、それも容れらぬまま、結局板挟みとなって自殺に追い込まれたのだとか。

その跡継ぎたる豊誠、つまりこの薫氏は、一転して官軍について戦功をあげ、大いに面目玉を施したてえことなんで、その結果として、麻布という「郊外」から鍛冶橋内の土佐藩邸の隣、元の徳島藩邸に移ることになった……とか? わかりませんけどね。てえか、その点についても情報がないんです。武鑑その他の記述と東京の絵図だけ。

それにしても、「薫」とはまた殿様とも思えぬお洒落かつスッパリしたお名前、って感じですが、尾張の「元千代様」同様、記すべき官名がまだなかったんでしょう。従五位下侍従とのことなんですが、明治2年のこの時期よりは後の任官だったんでしょうか。後年には子爵、貴族院議員となったてえんですがね。
 
                  

大武鑑にある麻布の屋敷ですが、春三月版の絵図では「山内遠江」(コマ番号4/7を参照……見つけるのは厄介でしょうけど、表示全体のちょうど真ん中辺りにあります)、初秋版では「元山内遠江」となっておりました。「遠江守」は高知新田藩の山内家当主がほぼ世襲していた官名なんですが、この薫氏自身が既に遠江守だったら、薫などという、ちょいと粋だけどそっけない仮名(けみょう)を用いることもないだろうとは思われる一方、実は自殺した先代の豊福氏も晩年は「摂津守」となっており、大武鑑に遠江守として記載されていたのは文久元(1861)年が最後。元治元(1864)年の項には既に摂津守と記されています。

慶応4年正月の自殺はその後数ヶ月隠したままだったとは言え、明治2年の地図に「遠江」とあるのが何故なのかは相わかり申さず。初秋版で「元」の字が付されているのは、その時点ではその上屋敷を引き上げ、すっかり鍛冶橋内の本家の隣が本拠となっていたってことでしょうかしらね(同図の右下辺りです)。

偶然と言うべきか、鍛冶橋内の南、数寄屋橋門西隣の「松平トノモ」、すなわち前回触れた島原藩主の深溝(ふこうぞ)松平の屋敷も、この「(元)山内遠江」から遠からず(あまり近いとも言えないけど)、東方の三田に中屋敷があります。間に1つ大きな屋敷があって、それは慶応4年までの会津藩下屋敷、明治2年の春三月には「德川新三位中将」(宗家の家達)、初秋には「尾州」と記されている区画です。つまり、明治以前には西から順に山内遠江守上屋敷、(町地と川を挟んで)松平肥後守下屋敷、松平主殿頭中屋敷、という按配だったんでした。

前回、大名小路部分を切り取って示した幕末の絵図を掲げておきます。
 
万延元(1860)年刊『萬延江戸図』より(これは通常どおり北が上)
 
右上(北東端)の大名小路に土佐藩(松平土佐)、島原藩(松平トノモ)の上屋敷があり、左下(南西端)の麻布辺りに高知新田藩(山内遠江)の上屋敷、川を隔てて会津藩(松平肥後)、島原藩(松平主殿)の下屋敷が並んでいます。
 
同図の麻布部分を拡大
 
3者の表記がいずれも縦になるよう、東を上にした図
 
大武鑑の最終情報、明治2年の項にも、「德川中将殿」の上屋敷は「あさぶ」と記載されており(前年春までだったら「御城」が住居)、その記述とは一致するんですが、数ヶ月後の「初秋」には、官軍だった尾張と屋敷を交換するように、元尾州下屋敷の「おおくぼ外山」[コマ番号3/7の上端左寄り、「辛」(真西よりちょっと西北西寄り)という表示のすぐ下に「戸山 尾州」とあり]に移転し、麻布のこちらが「尾州」になってるって寸法。なお、「外山」とは高田馬場近くの戸山のことで、当時は依然田園地帯とも言える完全な郊外でした。敷地の北東方向一帯には、その「馬場」のほか、「田」だの「畑」だのという文字が並んでおります。今の池袋だの目白、あるいは中野だのが田んぼや畑だったってことで。

とにかく、徳川っていう苗字が何気なく絵図に記載されるところに、いかにも御一新後(德川側に言わせりゃ瓦解後)って雰囲気が感ぜられるところであるとは申せましょう。もはや一大名に過ぎなくなったのを改めて思い知らされるような。別に俺が思い知ることもねえんだけど。

しかし、さっさと降参した德川本家とは違い、元はと言えばむしろその本家に引きずられてとんだ目に遭った形の会津藩なんぞは、抜き差しならなくなった挙句大逆賊と成り果て、そのためか、大武鑑の明治2年の記載では「松平」としか記されておりません。武鑑の発行者は別にどっちの味方ってわけでもなかったでしょうけれど、さすがに苗字だけってのは珍しい。無位無官で個人名すらないってのは唯一の例かも知れません。それでもまだ三田の下屋敷は記載されており、やはり「德川新三位中将」と記された春三月版の絵図よりは前の情報を記したものなのでしょう。

それがいったいどうしたと言われれば、相変らずまったくそれまでですが。
 
                  

「山内の筈が松平とはこれ如何に?」ってのが、この一連の長大極まる駄文の発端だったんでした。決して忘れたわけでは……。で、それが明治早々(実はまだ慶応4年)、特例松平は全部元の苗字に戻すべし、ってことんなったのを示すために、またぞろ無用の事実を並べ立ててしまったという次第にて。

ほんとはそれだけではなく、この松平「土佐守」だの「薩摩守」だのってのが、大名の官名としては異例だったって話もするつもりだったんですけど、それもまた無駄に長大なものと成り果てるが必定なれば、できるだけ簡単に済ましときます。
 
                  

土佐藩主なら土佐守、薩摩藩主なら薩摩守ってのは当然だろう、とお思いの向きもおられましょうが、こうした古代の国司の職名は、他の官職と同様、中世には勝手に名乗るやつらだらけになっていたのを、一応は正式に「源氏長者」だとか「征夷大将軍」だとかってことんなった徳川政権が、これも一応はちゃんと朝廷の裁可による正式の称号とすることに改めた、って感じなんでした。

でも実際は、なんせ律令時代の官職なんだから、殆どの場合もう意味なんかなさないのが道理。「雅楽頭(うたのかみ)」ったって別に宮廷楽長ってわけでもなければ、「掃部頭(かもんのかみ)」ったって清掃や鋪設の担当長官ってわけじゃないのと同様、例えば会津の領主なのに「肥後守」だったり、直参なのに「越前守」だったりする上、同じ官名の殿様が複数いるのも珍しかなかったってのが実情。

因みに「掃部頭」で一番有名なのは、たぶん幕末の大老、直弼で有名な彦根の井伊じゃないかと思われますが、「かもん」とは「かにもり」、すなわち「蟹守」だってんですよね。豊玉姫の御子の生誕に当って海辺に設けられた室に侍り、蟹を掃いたのがその始まりの由。語源が神話の世界とはまた古いネタですこと。でも掃部寮の設置は平安時代になってからだという話です。

ああそれから、「かみ」は長官で「すけ」が次官、その下に「じょう」、「さかん」が続くってわけですが、表記は実に多様。下の2つが和語じゃないのがどういう経緯によるものかは知りませんけど、よく間違えられるのが「正」の字。これも典型的な「かみ」の表記なんですが、例えば尾張家の附家老(つけがろう)、つまり補佐役兼監視役の世襲名「成瀬隼人正」を、「なるせはやとのしょう」って言ってる時代劇は昔から少なくありません。飽くまで「はやとのかみ」ですから。

かと思うと、早乙女主水之介のことを間違えて「さおとめもんどのしょう」って言う人もいます。それなんか、まず「主水(之)介」って職はなく、「正」の下は「佑」(じょう)だっていうし、とりあえず「主水正」だと階級が持ち上がった形ではあるものの、その「正」の字が誤読っていう二重(三重?)の間違い。でも、70年代の深夜放送で聞いたお笑い投稿ネタ、「旗持ち退屈男」の主人公、ガマの油売りをやってる貧乏浪人の名前が「早乙女ナントショウ」だったのには笑いました。二重の間違いであるのが残念なほどの秀逸さ。
 
                  

う~ん、結局簡潔に述べるってのとは程遠い仕儀とはなっておりますが(半ば以上想定内)、「守」と表記される国司名を冠する殿様について今少し申し述べとこうかと。

薩摩や土佐のように、一国丸ごと、あるいは複数の国を領する国持大名(国主)ってのもいるとは言え、大半は1つの国を細分したのが大名領であり、それでも国司名を名乗る殿様は数知れず。だって殿様の数自体が六十余州なんかより遥かに多いんだから、そりゃしかたがない。果然、土佐守や薩摩守のように、実際の領国が代々そのまま官名となるのはごく少数の超大物級ってことに。高知城主の松平土佐守にとっては分家、支藩に当る山内薫の先代などは、本家の遠祖が領地としていた掛川の所在国、遠江の国司名たる遠江守から摂津守に転じていたってわけですが、そういう具合に、縁もゆかりもない国名を称する例がよっぽど普通だったのでした。

……という塩梅にて、この調子でやってたらまたいくらでも長くなってしまいますから、かなり中途半端ではあるけれど、この話はここで切り上げることに致します。相も変らず恐縮至極。
 
                  

ほんとはこれの前の本来のネタであった「町奉行役宅の位置や名称について」ってところまでひとまず戻らなければ、と念じながら、またぞろかくも長き与太話の連環とは成り果てり、ってところでございます。

実はその話についても、その後意外な事実を知ってしまい、先般大威張りで「虚偽または誤謬と断ずるしかない」と切り捨てた『江戸町奉行所事典』の記述の「一部」が、実際は誤りではなく、半分はこっちが間違ってたってことに気づいちゃったんでした。まあその半分の間違いってのも、残り半分の、つまりは先方の誤記によって惹起されたものではあったんですけどね。

う~む、我ながらこれは潔くないか。むやみに威張るからこういうことになる、って、多少は反省しつつも、どうせこの性根は治らんだろうとの確信もまた揺るぎなく。治るも治らないも、もとより性根ってもんは病気じゃねえんだし、本気で慙愧の極みでございなんてことんなったら、そもそもこうした投稿なんざ恐ろしくて一切できなくなってしまうでありましょう。ネット上のみならず、古今の名著、名作にも明らかな誤りは溢れてるんだから(件の奉行所事典もその一例)、俺の如きが遠慮したところでしかたがあるめえ、と居直っとくことに致します。
 
                  

てことで、ひとまずその「半分」の間違いが何だったか、ってことだけ明かしときやしょう。

坂部三十郎邸跡が中町奉行所ってこたあるめえ、ってのがあたしの早とちり。坂部屋敷が引っ越してたんでした。引っ越し後の地所に3人目の町奉行役宅ができた、ってのがほんとのところだったんです。

ただ、その場所についての記述、およびそれを示した図が妙だってところは変らず。実はSNSにこの文章を投稿した2017年1月17日、また歩いて三省堂へ行き、その『江戸町奉行所事典』を覗いて確かめて来たんです。馴染の真砂図書館で見られることに気づく前だったものですから。前年の暮にも、古地図売り場を冷やかしに行った折にその事典を覗き、一応確認はしていたんですが、なんせ元が20数年前の記憶ですので、書く前にはいちいち確かめとこうという算段。

とは言っても、記憶の正確さと時間の隔たりはあまり関係ないようですね。初めからちゃんと憶えていなければ、10分前のことだって曖昧だし、しっかり憶えてしまえば何十年経ってもそのまま。この奉行所ネタの場合は、20何年前の立読みの折に「こりゃヘンだぜ」って思ったから憶えちゃったわけで、そういうのは大抵一生忘れません。いや、それも加齢により、昨今はそうも行かなくなっちゃってんのがいささか寂しいところ。

とにかく、中町奉行所(という名称はともかく)の位置が坂部三十郎の屋敷跡ってところは間違いではなく、その位置の表示が間違っていて、その前に移転していた南町奉行所と同じ場所じゃん、ってところがヘンだったんでした。
 
                  

次回、ちょいとそれについて詳述しますんで、何分よろしく。こないだから暫くそれが気になっていたため、この際とりあえず弁解しとこうかてえ姑息な了見。ま、そこはどうかひとつ。

0 件のコメント:

コメントを投稿