さて、この土佐藩主の松平ですが、既述のとおりこれもほんの一例に過ぎず、長門(+周防)の毛利、薩摩(+大隅)の島津も当主は代々松平。加賀(+能登+越中)の前田も、仙台の伊達も、大物外様大名は大抵松平なんです。江戸の前期から幕末までの絵図にやたらとこの松平の名前が目立つのは、つまりそういうわけなんでした。
それが一転するのは慶応4年、すなわち明治元(1868)年。前年秋の大政奉還、暮の将軍辞任で、既に幕府なんてものは名実ともになくなってはいるんですが、新政府(の体を成していたか否かはさておき)はその年の初め、朝敵徳川をありがたがるたあけしからねえ、ってな塩梅で、先祖代々「下賜」されていた松平を名乗るのはまかりならん、ってことを言い出し、名誉松平家は悉く元の苗字へと戻すことに。戊辰戦争[終戦は翌年、己巳(きし)の年になっちゃいましたけど]の序盤で、急造の、つまり偽物の錦旗をはためかせてまんまと官軍に成りおおせた薩長側が、一挙に優位に立って暫く後の発令です。
官軍も賊軍も、殿様は結構実の兄弟がそれぞれ別々の家の養嗣子になってたりして、成り行きで敵味方入り乱れてんのは既述の如し。ひとごとながらちょっと辛いところだったりして。戦争は下っ端のほうが勝手にやってた、とまでは言わないまでも、殿様主導とは程遠かったのが実情ではありましょう。
ともあれ、三省堂の古地図売場で立ち読み(立ち見?)したところ、「官版」と記された『明治二年東京全図』では、それまで2世紀以上「松平土佐(守)」と記されていた鍛冶橋内の屋敷も、北半分が「土州」、その南隣一帯が「山内薫」となっておりました。数寄屋橋門のすぐ北側、かつての南町奉行所までがその敷地に取り込まれた形。ただし、19世紀の初めまでは、奉行所の北に屋敷が1つ隣接し、道を1本挟んださらに北側が松平阿波(蜂須賀)と松平土佐(山内)の並んだ区画、って状態だった模様。これは自分が所有する絵図で確かめました。
文化8(1811)年刊『文化江戸図』より(西が上) |
なお、「江戸図」に年号を冠しただけのこうした表記は、その絵図固有の表題ではなく、便宜上付された名称と思われます。ウェブ上でそうした表記がある例は、このようにそれをそのまま用いることに致しました。以後も同様。
それはさておき、その明治2(1869)年の『東京全図』だと、道を隔てた「土州」の西隣もまた単に「因州」となってるんですが、それ、10年足らず前の絵図には「松平相模」と記されていた鳥取藩邸なんですよね。今の言い方だと当主は池田慶徳ということになりますが、実はこの人、水戸から養子に入った殿様で、あの最後の将軍、慶喜氏の実兄なんでした。
万延元(1860)年刊『萬延江戸図』より |
ついでにもひとつおまけ。これも私有する絵図で、この一帯の「切絵図」、つまり区分地図です。
慶応元(1865)年改訂『大名小路絵図』より |
「南町 御奉行所」(という表記は幕末ならでは?)に添えられた「根岸肥前守」という名前についてもちょっとした話があるんですが、それはいずれまた改めて。
とにかくまあ、その他、同じく松平だった島津や毛利の屋敷も、明治2年にはそっけなく「薩州」とか「長州」という表記になっており、代々「松平土佐守」の南隣だった「松平阿波守」、すなわち蜂須賀屋敷は丸ごとその「山内薫」になっちゃってるって寸法。じゃあその蜂須賀は?って思ったら、だいぶ北西方向の、東西を神田橋と一橋に挟まれた外濠のすぐ南側、ちょっと前までは御三卿の一橋邸だったところに「阿州」とありました。今は気象庁だの経団連だのがある区画です。
しかし、もともと松平だった殿様は既述のとおり明治になっても松平のままで、たとえばその山内薫邸、つまり元南町奉行所から見ると道を挟んだ南西の向い側、数寄屋橋門の西隣には「松平トノモ」との表示が。これは代々「主殿頭」を継承した島原藩主で、17世紀後半からずっとその場所に屋敷を構える「深溝(「ふこうぞ」または「ふこうず」)松平家」という戦国以来の名家。この時点では忠和という人が当主なんですが、またも水戸からの養子で、こちらは慶喜の実弟でした。親兄弟でみんな苗字が違うところは、平安鎌倉の武士と大して変ってなかったりして。
当然この人が最後の藩主ということになりますが、版籍奉還はちょうどこの明治2年の7月ですので、それ以後だと「知藩事」ってことに。2年後には廃藩置県によってそれも解任され、島原県自体が数ヶ月で長崎県に吸収、という経緯だそうで(島原市のサイトの受売り……だったんですが、その記事、今は見当りませんね。あれ?)。
ただしこの深溝松平家、江戸の初期から後期にかけて領地はあちこち変っており、17世紀後半に一旦島原の領主となるも、18世紀半ばには一時期配置換えとなり、30年足らずでまた島原藩主に逆戻りという塩梅。以後、明治2年のこの当時まで1世紀近くそれは変らないのですが、いずれにしろ「主殿頭」という官名と屋敷の場所はずっと不変。
相変らず「だから何?」とは自分でも思いますけれど。
因みにこの地図、版元は吉田屋文三郎で、〈明治二巳年初秋新刻〉との記載があり、多くの屋敷の名義は変っているものの、幕末の絵図と基本は同じです。前年までは江戸だったわけですし。旧暦の7月なら既に「初秋」なので、版籍奉還はこの出版時期の前後ということになりましょうか。
同じ売り場の棚には、2年後の『明治四年東京絵図』というのもあったのでそれも開いて見たところ、こちらはかなり粗い地図でございました。版元は大黒屋平吉、〈明治四未年改正 再板〉とありますので、江戸期の絵図の改訂版でしょう。しかしこの絵図の質が粗いのは、別に「官版」ではないからってわけでもなく、その数年前の「民版」(とは言ってないけど)には、その「官版」に比べてまったく遜色ないどころか、むしろもっと粋で美しい刷り物もあります。三省堂のそのコーナーにも並んでましたけど、自分でも幕末のものは2つ所有しておりまして、安政6(1859)年の「須原屋茂兵衛版」と、翌万延元年の「岡田屋嘉七版」(こちらの大名小路部分を切り取って先ほど掲げました)。どちらも実用品ながら美術品としての風格をも誇り得る見事な仕上がり(もちろん複製だけど)。
ところで、三省堂で覗いた明治2年初秋の官版、吉田屋のやつでは、呉服橋の北町奉行所が「刑部省」に変っておりました。数寄屋橋の南町奉行所跡が前記「山内薫」邸に取り込まれちゃってるのは先述のとおり。
ところが、何度か言及しております『国会図書館デジタルコレクション』サイトで見つけた同じ明治2年の絵図、それも同じ吉田屋文三郎の、同じく「官版」では、かなり表示の異同が見られるんですよね(コマ番号4/7を参照されたし)。折り畳んで本のように表紙が施されているようで、表には「明治二己巳年改正 東京大繪圖 全」と記され、裏表紙には「明治戊寅十一年十一月吉日 白井姓」との書込みがあります。中身の地図は4枚の写真に分けて掲げられ、4つ目の末尾部分には〈明治二巳年春三月新刻〉との記載が。つまりこれ、三省堂で見たのより数ヶ月前の状況を示す地図なんでした。
先ほども触れましたが、旧暦(明治5年、1872年まで現役だった最終版は天保暦)で「初秋」に当るのは、専ら月の運行に基づく暦月と、季節に対応すべく1年を二十四節気に区分した節月とではまた異なるとはいうものの、概ね7月前半、現行のグレゴリオ暦だと8月半ばで、東京辺りじゃまだまだとても「秋」とは言い難い時期。明治2年の初秋新刻ってのも、たぶん1869年の8月だったんじゃないかと。一方の「春三月」は、同じく現行暦だと4月中盤から5月前半にかけて、ってことになる勘定。
でもそれは余談。江戸時代を通じて「松平土佐守」の屋敷だった辺りがどういう具合だったかを確かめたかっただけなんでした。
上記の、先行版である春三月のほうでは、「土州」と「山内薫」が1つの区画内に並んで表記されており、その南隣が「元南裁判所」となってます。数ヶ月後には山内薫邸の一部となるその場所、まだ奉行所の跡地どころか建物も残ってたってことでしょうか。この「元南裁判所」という表記については、「南町奉行」の「町」が「南」ではなく「奉行」のほうに付くものであることを示す傍証である、とでも言いたくなりますね。
呉服橋の元北町奉行所のほうは、先述のとおり初秋版では「刑部省」なんですが、春三月版だと「刑部官」のように見えます。ちょうど紙を貼り合せた部分に当るため、横に3つ並んだ文字はそれぞれ上端と下端しか見えないんです。しかし南西に位置する「民部省」が「民部官」となっていますので、恐らくそうではないかと。橋を渡った北側、常磐橋門内(コマ番号5/7参照)の「兵部省」は「武庫」となっており、数ヶ月のうちにかなり変更のあったことがわかるという次第。変ったのは大名屋敷の位置や名義だけじゃなかったってことで。
ときにその明治2年の「官版」だと、江戸城はいずれも江戸時代の慣習のまま「御城」と表示されてるんですが、明治4年の粗いやつではそれが「皇城」に変っております。慶応4年(明治改元前)に一旦「東京城」(「とうけいじょう」だってさ)とされたのが、翌明治2年、つまりこの「官版」の年に「皇城」へと改称されたってんですが、まあ「御城」って言っときゃ間違いはないということに。
亡母は戦後20年経ってもまだ「キュージョー」(宮城)って言ってたもんだから、「どこの球場のこと?」って思ってました。今思い出した。
それにしても「山内薫」ってのが誰なんだか……。それについてはまた次回。
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