2018年4月15日日曜日

町奉行あれこれ(15)

「中町奉行所」と呼ばれるものについての繰り言の続きです。まずはこの『図説 江戸町奉行所事典』による奉行所移転の推移に対する説明を、ざっと以下にまとめてみることに致します。
 
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① 江戸初期の寛永期以来、常盤橋門内と呉服橋門内(銭瓶橋の北詰と南詰)にそれぞれ北町奉行所と南町奉行所があったのだが、元禄11(1698)年に後者が1つ南の鍛冶橋門内北側へ、吉良(東)・保科(西)の屋敷を上地して移転〔東西ではなく、正確には北が吉良、南が保科の模様〕
 
1980年刊行の旧版『図説 江戸の司法警察事典』より(以下同)

 
② 4年後の元禄15(1702)年には、坂部三十郎の屋敷跡(先日判明した移転後の屋敷)に中町奉行所が新設される〔これが、図版ではその前に越して来た南町奉行所と同じ場所だったので、ついまごついちゃったてえ次第〕
 
 
③ 次いでその5年後の宝永4(1707)年、今度は常盤橋の北町奉行所が鍛冶橋より1つ南の数寄屋橋門内に移動。これにより北から順に中・南・北ということになり、実際の位置と名称に齟齬が生ずる件の図版ではそうなってません〕

④ さらに10年後の享保2(1717)年、中町奉行所が元北町奉行所のあった常盤橋門内に移転〔実はさっきから文句つけてる図版はこの状態を示したものだったのでした……と思ったら、単にこの年の絵図に「よる」ものでした。示されていたのは上の③の状況だったんですが、いずれにしろ「~による」ってのがとんだ曲者で〕

 
⑤ その2年後の享保4(1719)年、約20年間鍛冶橋門内にあった南町奉行所を廃止したのを機に、北の常盤橋にある中町奉行所を北町奉行所、南の数寄屋橋にある北町奉行所を南町奉行所へと、それぞれ実態に合せて改称〔でもその2年前の状況を示した筈の上の図版では、実際の位置どおりに北、中、南と表示。だからわけがわかんなかったんです。この段階を示す図は示されてませんし〕
 
⑥ 87年後の文化3(1806)年にはその北町奉行所が、1つ南の呉服橋門内〔当初南町奉行所があったところ……って言ってるけど、ほんとはそれよりちょっと南〕に移り、以後明治までそのまま。


 
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……って感じなんですね。よく観光案内とかで北町奉行所跡って言ってんのは、この最終地点、最初は南町奉行所があった辺りの呉服橋交差点の西側で、南町奉行所跡は数寄屋橋交差点近くの、昔は朝日新聞、今はマリオンとかイトシアとか言ってる辺り。銀座方面には何年も行ってないので、イトシアなんざ知らなかったけど。

なお、最終移転の前まで門内に北町奉行所があったという常盤橋は、今日の常盤橋(南)と新常盤橋(北)の間にある常*磐橋の前身とのことです。明治初期に石橋となり、「盤」ではなく「磐」と表記。老朽化のため以前から歩行者専用だったところ、2011年の地震により使用禁止となり、その西側、つまりかつての常盤橋門内にある常盤橋公園ともども2017年初めには工事中でした。門の石垣がその公園内、橋の西詰に残っているそうなんですが、なんでも常盤橋一帯が再開発の対象となっていて、今後数年間は工事で落ち着かない模様。ネットのカラ知識ですが。

それから、これは言わずもがなのようでもありますけれど、常盤橋門内と呉服橋門内を隔てる道三堀は明治の末に埋め立てられ、そこに架かっていた銭瓶橋もとっくにありません。日本橋の西方に当るこの辺りは外濠が交差点を成していたのですが、今ではその西側と南側の部分がビル街や道路になっていて、濠は北と東しか残っておらず(それが日本橋川)、橋も北側の、北西方向から南下して来る濠の残存部分に架かる常盤橋と、そこで流れが東方の日本橋方向に曲がったところに架かる一石橋だけが生き残っているという具合。

この一石橋、かつては「八ツ見の橋」などと呼ばれ、それ自体も含めて8つの橋が見渡せるという名所だった由。その景色、見てみとうございました。8つの内訳は:①一石橋(起点);②日本橋、③江戸橋(東);④銭瓶橋、⑤道三橋(西);⑥呉服橋、⑦鍛冶橋(南);⑧常盤橋(北)。
 
八ツ見の橋
 
本当に鍛冶橋まで見えたかどうか、と疑問を呈する向きもあるとのことですが、どのみちもはや確かめるよすがとてございませず。濠の両岸は道路だったし、建物も皆今より相当に低かったわけですから、存外よく見えたのではないかという気は致します。
 
                  

いや、それはさておき、この『江戸町奉行所事典』、やっぱり言ってることがところどころかなりヘンなんですよね。妙なところはいろいろあるんですけど、何より気に食わないのは、「北町奉行(所)」だとか「南町奉行(所)」だとか、ついでに「中町奉行(所)」だとかって言葉を当然のように使ってるところ。

それが正式な名称ではないってことはこの事典にだって(別のところに)書いてあるのに、奉行の「歴任表」には何の挨拶もなく南北の別が、それもご丁寧に一部混乱したまま表示されているかと思うと、これまた当然のように、「北町奉行所」だの「南町奉行所」だのってのが各奉行所の名称であり、しかも移転によって実際の位置関係と食い違ったままになっていたのを、1つ廃止したのをきっかけにやっと名と実が合致するよう改めた、てな与太話を痴れ痴れと並べてやがる。

新設された中町奉行所の場所が南町奉行所と一緒、っていうシュールなおまけ付きってことも既に複数回触れたとおりではありますが、それについては単に、移転後の実態に名称の変更が追い付かずシッチャカメッチャカになってた、という記述に真っ向から反する図と説明句を、これまた何の挨拶もないまま自ら堂々と掲げていた故の混乱……だったってことを漸く確認したところだったのでした。それについてもまた後ほどご説明致したいとは存じまする。
 
                  

さて、こうした杜撰な記述については、上述の如くその後の調べで実情を確認(確信?)し得たとは言え、こうも書いてあることが混乱に満ちていたのでは、「それで『事典』を名乗るたあ了見が太過ぎやしねえか」と思わずにはいられない、ってところではあります。著者もとっくに故人ではあり、死屍に鞭打つような真似は慎むべきであろうとは承知しつつ。

3人目の町奉行の役屋敷として新設された「中町奉行所」の位置についての説明も杜撰または非合理なら、それが15年後に移転し、真ん中だった「南」が廃止されたのに伴い、南北の呼称をも入れ替え、やっと名と実が一致した、などというのもまったくの虚妄。

いや、あたしとて先天的にひねくれてたり威張ってたりするわけではなく、むしろ聞いたり読んだりした話はとりあえず素直に受け止める純朴なたちなんです。だからこそ、どう考えたって間尺に合わねえとなれば、「何寝ぼけたこと言ってやんでえ」とはなるてえ次第でして。

この町奉行所事典も言わばその典型例で、初めのうちは、「するってえと、ハナは江戸庶民の俗称に過ぎなかった各奉行および役宅の名前が、屋敷の引っ越しによって実際の位置関係とはズレてしまい、それでもなぜか呼び名はそのままだったのを、真ん中になっちまってた南町奉行所の廃止を機に、残る2つを実際の配置に合せて中を北、北を南に改めた……ってことかい? てこたあ、そのときから北町奉行(所)だの南町奉行(所)だのってのが正式名称になったってんだな」などと、義理もねえのになんとか辻褄が合うよういろいろ気を回してたんです。
 
                  

でもねえ、やっぱりどう足掻いたっておかしいでしょ。どうせ屋敷の場所による俗称に過ぎねえなら、その場所が変った時点で呼び名も自動的に変るが道理。どうしてもともと俗称に過ぎねもんに、実態と懸け離れちまった後にまで義理立てしなくちゃならねえ。誰がそんな有害無益な言い方に固執するかよ。同じ俗称なら、古くて意味のなくなっちまったものはさっさと捨てて、実状に合致した新しい呼び方に鞍替えすんのにいったい何の躊躇が要るものか、ってなもんさね。

で、実際そうだったってことは、多数の参考資料(どれも多少の齟齬を含有)によって後から確認(確信)できたわけですけど、その手間自体が要らなかったわけじゃねえかい、このエラそうな事典が妙なことを言い張りさえしなけりゃ。

尤も、幕末の絵図には、「北町(御)奉行」や「南町(御)奉行」と表示されておりますし、例の御用提灯にも、「北」の字を図案化したものと、「南」を表す3本の波形が記されていたと言いますから(武術や武具を得意分野とする時代考証家、名和弓雄の本に書いてありました)、末期にはそうした区別も一般化していたものとは思われますものの、それが正式の呼称となっていたのかどうかは相わかり申さず。国会図書館のデジコレサイトや自分が持ってる絵図を見る限り、「南北」の表示は天保期(1830~40年代)が最初で、文化8(1811)年の須原屋版大絵図では、それ以前のものと同様、単に「町御奉行」としか記されてはおりません。
 
天保(1830~44年)江戸図より
文化8(1811)年刊『文化江戸図』より
 
その表記に「所」が付加された「北/町御奉行所」という表示が見られるのは、慶応元(1865)年改訂の尾張屋版切絵図、『御曲輪内 大名小路絵図』だけで、開国後急速に洋式化した幕府の軍制を反映するかのように、同図には「歩兵屯所」というものも記されております。少し前までは一貫して大名屋敷だった場所ですが、それに呼応して「奉行所」という表記を採用したものでしょうか。4年後には北が「刑部官」、南のほうが「元南裁判所」となっちゃうわけですが(こちらのコマ番号4/7参照)。

慶応元(1865)年改訂『大名小路繪圖より
 
いずれにせよ、末期以前は「町御奉行」を当該の奉行名と併記していたり、他の旗本屋敷と同じく個人名だけだったり、逆に名前は示さず「町御奉行」だけだったりと、表記はいろいろながら、「御」の字がないのは、自分が確認し得る範囲では万延元(1860)年の岡田屋版大絵図のみで、それには個人名の表示もなし。
 
万延元(1860)年刊『萬延江戸図』より
 
なお、上掲の慶応版切絵図ではそれぞれの町奉行の名も記されており、南町御奉行所には「根岸肥前守」の名が。これ、一般には怪談本として知られる個人的雑文集『耳嚢(みみぶくろ)』の著者と、役職も官名も同じであり、岩波文庫の同書の表紙にもこの絵図が使われてはいるのですが、時代が違います。こちらはその『耳嚢』を書いた肥前守鎮衛(やすもり)の曾孫、衛奮なんでした。
 
岩波文庫『耳嚢』カバー
文字は逆さですが、左下に「南町 御奉行所 根岸肥前守」とあります。
 
ついでのことに、この「衛奮」って名乗(なのり)、新人物往来社の『幕末維新大人名事典』には「もりいさむ」って載ってんですけど(その項目の執筆者は歴史・文芸作家とかいう故人の池田直一)、その読み方自体の典拠は示されず、どこまで信用できるかはわかりません。いずれにしろもう誰にもわかりゃせんでしょう。

なお、御用提灯の南北を示すマークは、前面の上部に横長に描かれ、「御用」の文字は提灯の左右2箇所に書かれており、正面に1つだけ大書されているのは時代劇の小道具や浅草辺りのみやげ物。今と同様、歩行者は道路の端を通行するので、横に書いたほうがよく見えるという理屈。今と違うのは、刀の鞘当てを防ぐため、と伝えられますが、左側歩行が古来の習慣ではあったってところ。
 
                  

そう言えば、戦後の1949(昭和24)年、GHQの指導により日本も漸く対面交通制が採用され、以後一貫して「人は右、車は左」……の筈が、この10年か20年ほどの間に、左を歩くのが正しいと思い込んでる人が増えちゃったようで、こちらが右によけると同じ側に寄り、あまつさえこちらを睨みつける者さえいるというのはどうしたことやら。「常識を知らないのか」って罵ったり、それどころかものも言わずに引き倒そうとするやつまでいやがる。え? 常識? さては自分の知らない間に道交法が改められたか、と不安にかられ、確かめてしまったではありませんか。もちろんそんな筈もないのは、依然車線が左だということからも明らか。

ひょっとするとそれ、駅の構内など、一部の屋内通路の表示を勘違いして普遍的なものだと思い込んじゃってる、ってことなんでしょうかねえ。それにしたって、自分の知る限りそういう場合は例外なく「『ここでは』左側通行」となっていて、つまりそれ、取りも直さず「そこ以外はその限りに非ず」ってことになりましょ? そもそも何のためにそんな表示が必要かと言えば、それが通例に反する例外措置だからでしょうに。でなかったら、町中至る所に「左を歩け」って書いてなきゃ間尺に合いますまい。

いや、そういう勘違いが原因かどうかはわからないんですけど、道を歩くだけのことですら安閑とは為すことのできない昨今、皆さんはいかがお過ごしで? なんちゃって。
 
                  

また道を踏み外してしまいました。『町奉行所事典』の悪口だったわい。

実を申しますと、この『図説 江戸町奉行所事典』と同じく、ウェブや図書館や神田の本屋(の立読み)で仕入れた情報はどれも一長一短を免れず、ってより、単純に「それじゃ話が合わねえじゃねえか」って部分が必ず含まれるというのが実情ではございます。何だかはっきりしねえなあ、と思っていたところに、件の国会図書館デジコレサイトで当時の絵図を多数発見という僥倖が到来、それでやっと埒が明いたてえ顛末だったてえ次第でして。
 
                  

同時に、自分が大威張りで書き記した難癖こそ間違いだったということも明かされた仕儀については、既述の如し。

でもまあ、何度も言いわけしておりますように、あたしのその勘違いだって、もとはと言えばこの事典の杜撰な記述に誘発されたもの、って言うのもちょっと悔しいけど、シロートたることを誇示せんが如き下拙と先方とでは、鰯と鯨ほども立場が違うじゃござんせんか。いずれにしたって、本にして世に出すぐらいなんだから、何度も校閲した筈。それでこういう齟齬、矛盾を放置したままってのは、まあこの手の(どの手の?)人たちの通弊……って、また威張っちゃったよ。我ながらほんと懲りねえやつ。
 
                  

てことで、懲りずに次回も難癖を続けることに致しますが、とりあえず、自分にとっては懸案の如きものであった、「『坂部三十郎の邸跡』は間違いではなかったけれど……」っていう話について記す予定。これは、先述の①から④、すなわちこの事典が説く、南町奉行所の移転から、中町奉行所の設置と移転に至る位置関係の変遷、およびそれを図示したイラストの不可解ぶりについてのさらなる言いがかり、ってことになりそう。

まあ、こっちの早とちりって言われりゃ、部分的にはそのとおりなんですがね。ともあれ、今回はこれにて。

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