2018年4月5日木曜日

町奉行あれこれ(2)

早速ながら、町奉行のお仕事ですが、さすがの遠山金四郎とて相手が武士では裁けない、ってんで(ほんとは将軍家御直参、すなわち旗本御家人以外はその限りでもないんですが)、悪者が偉そうな侍だったりすると、そいつを白洲に同席させといた上で(呼ばれてノコノコ出てくる悪玉ってのも人が好過ぎるような)、最後には例の桜吹雪でやり込め、「評定所より追って沙汰があろう」ってなことを言ってたりもするんですけど(松方弘樹がやってたやつです。何度か観たことあるのは殆どあの人のだけ。もちろん江戸弁っぽさは遊び人としても旗本としてもバッチリ)、そりゃまた随分とひとごとのような言いようで。

町奉行所という役所の上に評定所があるんじゃなくて、既述のとおり町奉行の役屋敷(職場兼官舎)が今日専ら町奉行所と呼ばれているものであるに過ぎず、評定所は文字どおり評定、合議の場(まあ、町方役所よりは上位にありましょうが、民事訴訟も対象だったようで)。その評議員には、ほかならぬ町奉行も含まれます。

実は町奉行自身が役宅から定期的に(かなり頻繁に)評定所へ「出勤」し、江戸庶民の民事訴訟や軽犯罪の処理は配下に任せといて、より厄介な問題についての評議に携るのが通常業務……だったりして。部下任せとは言え、たとえ形ばかりではあってもいちいち決裁は下さねばならぬし、結構激務ではあるんですよね。過労死した者も少なからず、ってんだけど、それはまあ、世の中全般に早死にする人が多かったから。
 
                  

何にしても、この「北」だの「南」だのってのは、飽くまで庶民による勝手な俗称であり、その役宅も普通は「奉行所」ではなく(北の/南の)「御番所」または「御役所」と呼ばれてたってんですよね。あるいは単に「北番所」とか「南番所」とか。

で、町奉行のことも、「北御町奉行」とか「南御町奉行」、または「北町御奉行」、「南町御奉行」(それどころか「御町御奉行様」とか)、つまり「南北」は飽くまで「町奉行」という役職に冠されているのであって、決して江戸の町を「北町」と「南町」に分かち、それぞれを別々に管轄していたわけではない……とは既に申し上げました。住居(兼職場)の所在地に呼応して、それぞれの「お町お奉行さま」に「北」や「南」を付して区別してたってだけで、公式にはやっぱりいずれもただの「町奉行」およびその役屋敷、すなわち役宅なんでした。

で、その役宅、すなわち今日では単に「(町)奉行所」としか呼ばれない施設の呼び分けも、当然その位置関係によってなされた俗称だったわけですが、火災による数次の移転に伴い、18世紀の初めには混乱が生じ、やがて修正され(たということになっており)ますものの、それにつれて居住する町奉行の呼称も動揺し(たことになっ)ております。妙に歯切れが悪いのは、そうした状況を伝える記述自体に混乱があり、どうも鵜呑みにはし難いからです。

正式には飽くまで「町奉行」とその役屋敷であり、位置関係がどうあれ、北だ南だ、いや中だ、などという騒ぎは何らお上の関知せざるところ……だった筈で、今日ウェブや出版物で見ることのできる記録は、明らかに後世(明治以後)にまとめられたものであり、呼称の混乱についても、その当時の実況を正しく伝えるものかどうかは疑わしい、ってより、どうやらだいぶ後から生じた誤認による混乱に過ぎぬのではないか、と勝手に思ってるんです。またぞろ誰もそんなこた言っちゃいませんけど。
 
                  

ええい、ここまで脱線したんじゃもうしかたがねえ、ってことで〔当初は飽くまで国語音についての難癖が主旨だったもので……〕、その移転に伴う名称の変動という問題につきまして、自分なりに整理、判断したところを申し上げとう存じます(俺も大概しょうがねえな)。
 
                  

1991(平成3)年のこと、子供の頃から確かめたくていろいろ調べてもわからなかった(実は未だにしかとはわからない)町方同心の格好について、図書館じゃ埒が明かず、神田へ「立読み調査」に出かけたことがございました。以前言及した『官職要解』のような手頃なものなら「とりあえず購入」って気にもなり、結構後から「やっぱり買っといてよかった」って思うことも多いんですが、高価な大冊などは初めから対象外。たった数行の情報のため何千円もする本なんか買ってられるか、という極めて穏当なる庶民感覚(でしょ?)。

貧すれば鈍するってのとは裏腹に、貧しさ故の才知が閃く場合もなくはない、って感じで、あたしの場合、若い頃(四十ぐらいまで?)は妙にもの覚えがよく、電話番号とかの数字の組合せなどは言うに及ばず、数行の引用文などはすぐに諳んじ、2日ぐらい何度か頭の中で復習しとけば以後決して忘れない、っていう便利なやつだったもんで、必要な知識・情報は本屋の立読みで仕入れて間に合わせる、って手をよく使っとりました。一銭も使わずに確実な成果を得んがため、情報量によっては暫時相当な集中力を注ぐことにはなりますが、ロハだと思えばそれもまた苦にならず、むしろそれ自体が愉楽の如し、みたいな。
 
                  

今思えば妙な楽しみだとは思うのですが、中学生の頃には、何の必要もない(てえか意味もない)数ページ分の文章を短時間で記憶し、それを寸分違わず暗唱して見せては級友を驚かす、ってこともときどきありました。基本的には自分一人の孤独な遊びで、人前でやるのは飽くまで座興。いったい何がおもしろかったんだか。親や教師からは当然のように「どうしてその記憶力を勉強に使わない」って嘆いたり叱ったりされてましたけど、「ケッ、俺の頭脳は俺の楽しみのためにあるのさ」っていう不敵なガキだったんです。

小学校5年の10歳のときには、中2の姉の机にあった日本史年表っていう教材の巻末に年号の一覧ってのを見つけ、10分ほどで江戸時代の年号および改元の西暦年度を覚えちゃいました。ほんとは大化から慶応まで全部覚えちゃおうかとも思ったんだけど、途中で南朝と北朝の2本立てに分れ、その錯綜がいかにもめんどくさそうだったし、好きなのは江戸時代だったから、それだけで容赦してやっといたんでした。

江戸の年号だけは今でもスラスラ出てきます。それどころか、例えばスコッチやバーボンの瓶に18世紀や19世紀の創業年が書いてあると、無意識にそれを日本の年号に換算してたりします。惜しむらくは、あのとき全部暗記しときゃ今頃は……ってところ。恐らく1時間もかからずに憶え込み、今でも容易に諳んじていたことでしょう。

算数は大の苦手でありながら、数字の羅列は簡単に覚えられるってのも、実はこのときの年号遊びの副産物。日本の年号でも、それに対応する西暦でも、結局2桁だけ憶えればいいわけで(明治以前は中世の応永35年ってのが最長で、3桁の年号なんかないし、西暦でも上2桁は百年おき)、ある程度の標本が揃うと、偶然とは言え、その2桁の組合せにも頻出するやつがあったりして、いつの間にか自分の中でそれぞれが1つの単位と化していたって寸法。そうして単位化された(あるいは「キャラづけ」された?)2桁ごとの順列がどう並んでるかを憶えてけば、何桁あろうと百戦危うからず、って感じ……ですね、どうやら。

それがどうした?
 
                  

ええと、さらなる蛇足ながら、あたしが「年号」って言うと、「元号と言え」って威張るやつもおります。現代語としてならまだしも、考証的にはそっちのほうがよっぽど間違い。時代劇の台詞で「ゲンゴウ」なんて言っちゃいけやせん。「改元」の「元」は「元年」の「元」と同義で(字音は異なりますが)、「はじめ」って意味。改元ってのは、年号を改めて新たに始めることであり、決して「元号を改める」なんて意味じゃないんです。

そもそもこの「元号」の「元」の字がどういう意味なんだか、実は誰ひとり明瞭に答えることなんかできない。元首たる天皇の号である、って言い張る人もいるそうだけど、年号が天皇の生き死にで入れ代るようになったのは明治以後〔これ、2016年の記述ですので、そこはどうか〕。天皇の称としては飽くまで諡号(しごう=おくりな)であり、今のところ該当者は先帝までの3人だけ。ってことは、やっぱり現代語としてはそれでもいいのか。

さてそのミカド、建前としてはとっくに元首なんかじゃなくなってる筈なのに、ヘタなことをヘタなところで言うと、紛う方なき君主であるエリザベス二世を揶揄する英国人なんかよりよっぽど厄介な目に遭ったりしますが(あれ? この文章自体がヤバい?)、今どきはその天皇陛下を敬ってるつもりの若者が平気で「平成天皇」などと言うことも。当今(「とうぎん」と読まれたし)も「おりゃまだ死んじゃいねえぜ」ってこぼしそう〔来年、2019年には、その当今が4人めにして初の例外となるそうですが〕
 
                  

……でまあ、とにかく、あたしゃそういうちょいと「便利な」野郎だったもんで、何でも「憶えちゃえばいいじゃん」ってのが一貫した基本姿勢。そのため、何かを書き留めておくという習慣が身につかぬまま、この歳になってしまったという塩梅でして。

ときどき「ちゃんと書いておけ!」って怒る教師なんかもいて、「もう憶えちゃったから」なんて言っても納得しない。こっちに言わせりゃ「あんた、ほんとにたったこれだけのことも憶えられないの?」って感じ(ヤなガキだね)。でもその手の人ってのは、ほぼ例外なくいつの間にかそのやりとり自体をきれいさっぱり忘れちゃいますから。憶えといてくれれば、「ほら、忘れちゃいねえだろ」って威張り返す機会もあったろうに、と思うことも。

無文字文化には記憶術の伝承が付き物である一方、いかなる古典も誤伝は免れず、口承口伝に勝る文献はない、との説もありますが、そりゃそうだろう、って気はします。最初に正確かつ確実に憶えてしまえば、誤記や誤読の危険など生涯無縁、ということを、かつてはしばしば実感したものです。

それがまあ、あたしも寄る年波てえやつで、気づけば人並み(?)にものを忘れるようになりました。メモの習慣は欠けたままなので、長期間使わない暗証番号なんかはすっかり雲散霧消ってことも。これが加齢というものか、という感慨に浸る日々。老化は決して足腰や目だけの問題じゃなかったのね……と言ったところで、どのみち若いうちはいずれも思案の外。ま、しかたねえか。
 
                  

そう言えば、子供の頃は何でもかんでも写生するのが好きで、いつも周りのもの(よそんちの建物とか誰のだかわかんない自転車とか)を描いて遊んでたんですが、それも暗記遊びと同工かも知れません。写実的な絵というのも、結局は視覚的な記憶力の技で、これも中学生ぐらいまでは、ごく短時間で被写体の形を精密に描き取っては周囲を驚かせておりました。

それもまた、やはり寄る年波、今でもひとより絵は得意だけど、随分時間がかかるようになってしまいまして。10秒眺めて1秒描く、ってのを繰り返すような。昔は正反対で、被写体の各部は瞬時に掌握することができ、明らかに見てるより描いてるほうの時間が長かったんです。何より、暗記遊びと同じで、いつの間にか描くこと自体への情熱も失せ、今じゃ目が悪過ぎてそもそも写生なんか無理。まあ、音楽があるからいいか……。
 
                  

えー、つい見当外れの昔語りに耽り、またしても長々と寄り道をしてしまいました。いや、寄り道からさらなる脇道へと幾重にも入り込んだ状態のまま、甚だ心苦しくはございますが(ほんとか?)、やはりこうも長くなってしまったのでは致し方ありません。今回もまたここまでとしておきますが、北だ南だという町奉行(所)の錯綜については、極力次回述べることができるよう努める所存。その前に、その混乱に対する自分なりの創見を建てるに至った(?)経緯にも改めて触れることになろうとは思いますが、何卒今暫くのお付合いを賜りたく。

我ながら、ひでえな、こりゃ。

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