2018年4月6日金曜日

町奉行あれこれ(3)

さて、勝手に話を続けることに致しますが、前回触れた、町奉行とその役屋敷の位置と名称についての知見は、実は偶然得るに至ったもので、神田神保町へ「調査」に行ったのは、既述のようにほんとは八丁堀同心の制服(?)、すなわち着流しに巻羽織(三つ所紋の黒い羽織の裾を帯にたくし込んだ例のあれ)ってのが、いったいいつからそうだったんだろう、っていう長年の疑問を解消したかったからなのでした。
 
                  

実は私、小学生の頃から江戸時代の風俗(服装髪形刀装など)が気になって、子供なりにいろいろ調べて遊んでたんです。と言っても、小学生が参考にできる材料なんて皆無に等しく(まだ漢字も碌に読めないし)、よくはわからないままではありましたものの、テレビの『水戸黄門』に出てくる格好が元禄時代にしちゃ新し過ぎるのに面喰ってしまい、化政時代ならわかるけど、ほんとにこんな早い時代にあんなだったのかしら、って悩むような子供だったんです。まさかテレビの時代劇を作る人たちが臆面もないデタラメを垂れ流してるなんて思ってもいなかったもので。

テレビ放送の初期には、NHKのみならず、民放も自主制作によるスタジオ時代劇に取り組み、考証にも万端抜かりがなかったものの、それは「本編」たる映画界からの「電気紙芝居」なる侮蔑(斜陽産業の遠吠え?)への対抗心から。当初は、歌舞伎その他の非現実的演出を明治以降も踏襲し続けた娯楽時代物映画なんかより遥かに実証的なドラマも少なくなったとのことです。それがやがて、あまりの非効率と、当の映画界の困窮が進んだことも相俟って、60年代後半には映画会社への丸投げ方式が定着するに至った……ってことらしい。

かくて、考証無視の「なんちゃって歴史ドラマ」が蔓延する仕儀とは相成ったわけですが、69年放送開始の水戸黄門などは、昔懐かしいご存じ映画の因襲をそっくり踏襲した典型例で、どう言い繕っても百年以上は後の服装、景観ばかり。それも飽くまで雰囲気がってだけで、決して百年後の風俗が再現されてるってわけでもありません。映像制作の実質的な主体は、ご存じもの全盛の50年代に月形龍之介の黄門シリーズを量産していた東映で、放送局のTBSも、制作請負業者のC.A.Lも、出来上がりの絵がどれほど間違っていようと知ったこっちゃない、っていうのが実情。よくある話です。

しかし、そういったことが追々わかるようになったのは中学に行ってから。高校生の時分には、日本史の教師なんざまったく知らない(興味もない)多くの具体的な知見を密かな誇りとするまでになり、腹の中ではほくそ笑んでたりしたんですけどね。とは言い条、どうしても調べのつかない事柄ってのはあって、その1つが八丁堀同心の巻羽織だったてえわけで。

それを、32歳のある日、発作的に思い立って、まず近所の真砂図書館(結構内容豊富)を冷やかしてみたものの、その点について明示した本は見つからず。しかたがねえってんで、自転車で神田の本屋を覘きに行く作戦に変更したという次第。因みにその自転車、その後区役所に持ってかれちゃいました。引き取りに行かなかったのでそれっきり。

そんなことはさておき、知りたいのは黒の巻羽織がいつからか、ってことだけでしたので、例の病的な(?)記憶力を発動することになろうとは寸毫も思わぬまま、まずは三省堂の日本史関係売り場を覘いてみると、運よく刊行されたばかりの『江戸町奉行所事典』てのが目に入ったのでした〔実はそれ、その10年あまり前に出た『図説 江戸の司法警察事典』の改題新装版だったというのが後に判明。それについては後日改めて

今とは違い、曲りなりにも堅気のサラリーマンでしたから(英語塾の講師……って、そりゃやくざ稼業か)、中身によっちゃ奮発して買って帰ろうかとは思ったものの、パラパラめくってみるに、無駄に厚いだけ……ってこともないけど、内容は結構希薄。「そんなの知ってらい」ならまだしも、「そりゃ辻褄が合わねえぞ」ってなことも平気で書いてある。
 
                  

時代考証関係の書物で最もガッカリするのが、「いったいそれいつの話なのよ」ってのがわからない記述。町奉行についても、しばしばいろいろなことがまるで江戸時代を通じてずっとそうであったかのように書いてあります(少なくとも読む人の大半はそう思っちゃう……俺のように充分ひねくれてない限り)。でもそうは行くもんけえ。百年以上も時を隔てた大岡越前守と遠山左衛門尉がおんなじ格好してるわけもなけりゃ、奉行所の仕組みや様子もまったく変らず、なんてことがあってたまるかよ。テレビや映画じゃいつもおんなじだけど、それを真に受けるのは無知な視聴者、観客だけ(殆どみんな……って、俺もまた随分と失礼なヤツだな)。

で、とにかくあたしが知りたいのは、例の中村主水スタイルがぜんたいいつからなのか、ってことなんですけど、これがわからんのですわい。とりあえず当初から一貫して考証を怠らない(でも大半は不可避的に不完全な)NHKの番組では、享保年間(西洋ではバロック音楽の最盛期)、それこそ名奉行大岡越前の時代が「初出」なんですよね(自分が見た限りってことですけど)。どうやら大岡の町奉行就任の頃にそうなった、っていうことにしている模様。

考証関係の出版物でよく見かける町奉行所の図面などは19世紀以降のもので、それより古い具体的な史料は見たことがないため、NHKが正しいのかどうかは結局わかりませんけど。って言うか、正しくないのは後からわかっちゃったんですけどね。

まあそれでも、関ヶ原が終った途端に幕末の格好をし出し、大坂戦争になるとまた戦国に逆戻り、っていうような、民放の「なんちゃって江戸時代」ドラマとは当然一線を画し、戦国武士がまだ生き残っていた初期の話に平気でこの巻羽織同心がしゃしゃり出てくる、などというシュールな映像はさすがに見られませんね、NHKでは。江戸/徳川時代だの、安土桃山/織豊時代だの、室町/足利時代だのっていう政治史区分と、北山だの東山だの桃山だのという文化史区分がごっちゃになってんじゃないでしょうか、ダメな時代劇制作者の頭の中では。

忠臣蔵絡みの大河ドラマなどで、NHKに町奉行配下の役人が出てくるときは、ヅラの髻(もとどり)が長めで位置も低め、っていうのと同様、元禄期の記号的衣装(のつもり?)である、襟と袖だけ色と柄の違う羽織を着てたりします(それも地は紫とかだったり)。これ見よがしに十手を持ってなきゃ、いくら着流しでも町方同心とは気づかない。でもそのほうが黒羽織なんかよりゃ遥かに現実的。十手を見せびらかすのは誤り、ったって、そうでもしなきゃ何者だかわからんし。
 
                  

因みに安土(信長)と桃山(秀吉)を抱き合わせた安土桃山時代に対し、単に桃山時代てえと、戦国末期から江戸初期にかけての文化史区分となります。「桃山」って地名は江戸時代になってから、それもだいぶ経ってからのもので、肝心の(安土)桃山時代には、桃山なんて場所はないんですよね。秀吉が没した伏見城が、関ヶ原のドサクサで焼失し、家康によって再建されるも、諸般の事情から家康没後に廃城となり、やがてその跡地に桃が植えられ、それがまたやがて桃山とは呼ばれるようになった、というのが実際の沿革。「(伏見)桃山城」という呼称は、既に城などなくなって久しい現代のものに過ぎない、ということに。

いずれにしろ、家康が成り行きで征夷大将軍てえもんになった途端、世間の風俗が一朝にして「江戸文化」に変じる、なんてこたあり得ないのは、ちょいと考えりゃ、いや何ら考えるまでもなくわかり切ったことじゃねえか、と思うんですがねえ。「明治時代」ってのを勘違いして、慶応4年が明治元年に変った9月8日(1868年10月23日)に突然世の中全部文明開化、などと思い込むのと同じですぜ。間抜け過ぎます。でもその大間抜けが、テレビの時代劇では昔から大威張り。観ている時代劇ファンも大半は気づきもせず。ふぅ……。

毎度蛇足ではありますが、江戸が東京になったのは改元の前だから、明治が来る前に江戸時代は終ってたってことになりましょうか。その改元に際しては、遡って慶応4年元日から明治元年、ってことにしたってんですけどね、王政復古新政府は。「維新」(=これあらたなり)と「復古」が一緒くたってところがまた何とも……。
  
                  

ひとまず巻羽織に話を戻しましょう。実は50年あまり前の7歳の時分、NHKが金曜夜に放送していた『大岡政談・池田大助捕物帳』(原作は『銭形平次』の野村胡堂。でも「捕物帳」って言葉自体がまず間違いだったりして)では当然のようにその衣装だったんですけど、ちょっと普通と違ったのは、その羽織の紐。

江戸末期の絵画史料や幕末の写真などを見ると、町方役人その他の羽織の紐は、中村主水式の、すなわち端が房状になった組紐ではないにしろ、織紐を括る形のものが一般的であるのがわかります(落語の師匠などは格別ですが、現代の和服でもフックの付いた括り済みの織紐が普通?)。しかし、そもそもその形状自体がいつごろ考案されたのすら、どうにもはっきりせんのです。

それが、その『池田大助』に出てくる同心たちの黒羽織はもっと古い様式になっていて、組紐でも織紐でもなく、羽織の地と同じものと思われる布〔「ともぎれ」または「ともぬの」(共布/共切れ )というそうですね。SNSを通してさる江戸っ子の粋な姐さんからご教示頂きました〕を縫い合せた平らな紐を、普通に結んでたんですよね。

そうか、この頃はまだあのフサフサ式はなかったのね、と思うとさに非ず。奉行の大岡や、その内与力(町奉行の部下ではなく家来という曖昧な身分で、「うちよりき」とも「ないよりき」とも。どっちなんだよ)たる主人公の池田は、化政期以降と同様、お馴染みのフサフサ紐。身分による格差を表したもんでしょうか。旗本の家来、すなわち陪臣(またもの)である池田と、将軍直参たる町奉行配下だと、いったいどっちが偉いんでしょうね。

いずれにしろ、その当時の実態を再現している保証はまったくなし。って言うか、まだ小2だったその時分にはもちろんまったくわからなかったけど(テレビ時代劇がウソばっかりだなんて夢想だにせず)、この番組だって風俗考証は不徹底至極。着物の形や柄はまだしも(色はどうせモノクロだったし)、髪形は決定的に享保時代のものとは隔絶しておりました。いや、着物だって時代はズレてたんですけど、いずれも中学生になるまではわからずじまい。
 
                  

尤も、いくら考証者が指導、指摘したところで、現実に再現不可能なものは看過せざるを得ず、特に頭の格好については、カツラ製作の技術的限界を口実に、そんなこと言われても無理、っていう慣習が横行していたとは、この番組の考証を担当した当の本人、稲垣史生(しせい)も書いてます(原作の小説自体がまずいいかげんだし)。でも、もっとずっと古い溝口健二の文芸ものでは、ほかではついぞ見たことのない「辰松風」ってのがしっかり再現されてますから、決して不可能ではないんですけどね。

ただしその映画、『近松物語』という元禄期の京都の話で、全体的な風俗の再現性は模範的、というより奇跡的なほどなんですが、その髪形自体はちょっと時代を先取りし過ぎてたような。実際の設定は天和(てんな)年間で、元禄より前なんですよね[天和、貞享(じょうきょう)、元禄の順]。で、その辰松風ってのは、近松門左衛門と組んでた人形遣い、辰松八郎兵衛がオリジナルってことなんですけど、その髪形が実際に流行ったのはもっと後、それこそ吉宗とか大岡だのの享保頃です。

その八郎兵衛さん、同じく近松の相棒だった浄瑠璃語りの竹本義太夫(初代)などよりは相当に年下と思われ、天和の頃はまだほんの若造の筈(生年不詳とのことですが、経歴を見ればね)。辰松風っていう結髪法はまだなかったんじゃないかと。溝口は考証の鬼とも呼ばれる(?)監督だったから、敢えて採った演出だったのだとは思いますが。
 
                  

どっちかってえと、暴れん坊将軍とか大岡越前にこそ、その辰松風の頭をしたやつばっかり出てくるのがほんとなんだけど、実際にそれやると、大半の時代劇ファンは「なんだ、このふざけた髪形は。けしからん!」って言いそう。大岡忠相だの池田大助だのが大御所時代=化政期の格好してるほうがよっぽどおかしいんですがねえ。

それを言い出すとキリがなくなり、その後に流行った文金風だの、18世紀も後半には殆どそればっかりだったっていう本多髷だの(いずれも辰松風から派生?)、たとえ技術的な問題を越えて再現し得たとしても(ったって、戦後すぐの溝口映画でちゃんとやってんじゃん)、もう誰もがあまりにも誤った風俗を見慣れちゃってるから、たぶん正当な評価を受けることにはならないでしょう。ほんとなら鬼平こと長谷川平蔵も、またその配下である先手組の連中も、全員その本多髷っていう相当に気どった(大半の現代人にとっては随分ヘンテコリンな)髪形でなきゃウソ、ってぐらいのもんなんだけど、無理してそれをやったところで、恐らくこれっぽっちもウケないんじゃないかしらと。

でも、福山雅治主演のNHK大河『龍馬伝』(2010年)では、初めて(少なくともあたしにとっては)幕末の写真に忠実な髪形を極めてリアルに再現してたのに(ただしなぜか土佐の場面でだけ)、そこはまるで評判にもなりませんでしたな。誰も気づきすらしなかったってことでしょうか。やっぱりやるだけ無駄なのか。

ああ、そう言えば、土佐弁でも鼻濁音は欠けるようなので、その点では福山龍馬も苦しからず、ってことになりましょうか。でもほんとは、ガ行破裂音の前にまずそれの鼻音、つまり鼻濁音の頭子音を挿入するのが四国方言の特徴だってことでした。九州発音では鼻音の伴わないガ行音が特徴で(それが鼻濁音の欠落)、やっぱり高知訛りとしては不完全だったのでは。四国にももちろん行ったことないし、地元の人たちに文句がないなら、もとよりあたし如きがどうこう言うべきことではありませんけれど。
 
                  

いろいろとまた寄り道してますけど、やっぱり話が長引いて予想を裏切らぬ冗漫ぶりを呈しておりますれば、今回もまたここまでと致しとうございます。中途半端にももう慣れちゃったようで、放恣、散漫の度合は増すばかり。もともとこういうやつですから。

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