2018年4月22日日曜日

町奉行あれこれ(22)

またぞろ随分と余談が長引いちゃいました。いよいよ当面の本題に戻……るつもりだったんですが(「本題」なんてもんがあるのかどうかはさておき)、その後またも真砂図書館で余計なもんを覗いちゃったために、まずそれについて言っときたくなりまして。

前回の話の続き、ってより駄目押しみたようなもんです。「駄目」って言うならこれ全体がそうなんですけど、そこはひとつ。いずれにしろ、本旨たる②の図についてはまたも少し先延ばしってことで。
 
                  

さて、またいつもの図書館行ったのは、仕事絡みで別の調べ物があったからなんですが、つい思い出したように、てえか実際思い出したんだけど、ついでに赤穂の浅野内匠頭についてもあれを覗いとこうか、ってんで、例の『寛政重脩諸家譜』を開いたのでした。

実情はどうあれ、浅野は乱心ではなく、当人が飽くまで意識的な犯行だと言い張ったばっかりに、養子、すなわち既に嫡男として認可されていた弟にまで類が及び、改易(所領没収)に加えて名跡廃絶という厳罰に処された、ってことがよくわかる記述でした。なかなか明快に(見て来たように)まとめられてるんで、以下にその一部をご紹介。

〈(元祿)十四年三月十四日勅使饗應の事をうけたまはりて登營するのところ、遺恨ありとてにはかに自刃をふるひ吉良上野介義央に傷けしにより、田村右京大夫建顯にめしあづけらる。時に長矩、私の宿意ありとてをりからをも辧へず、營中にして卒爾に刃傷にをよびし事、其罪かろからずとて、即日建顯が第にをいて死をたまふ。〉

「登営」の「営」は、「幕府」という言葉とも意味が重なり、ほんとは戦時の野営陣地のこと。武士ってのは太平の世においても建前は軍人、兵士であり、当時のお堅い言い方では、江戸城への出仕をこのとおり「登営」、そこでの勤務を「営中勤仕」などとなるって次第。

それはさておき、〈折柄をもわきまえず〉ってのが、なるほどそうに違えあるめえ、ってところではありますが、江戸前期、3代家光、4代家綱の頃、すなわち知恵伊豆こと老中松平伊豆守信綱と下馬将軍こと大老酒井雅楽頭忠清の時代は、いろいろと理由(言いがかり)をつけては大名を取り潰し、それによってさらに德川政権を盤石のものにしようとしていた、という話は夙に聞かれるところ。結果的には浪人者が世に溢れ、余計な社会不安を惹起するに及んで方針の転換に至った、とも申しますが。

酒井大老は仙台藩をも潰そうとしたんだけれど、忠臣原田甲斐が大逆臣の悪名を背負って命と引換えにそれを阻止した、ってのが山本周五郎の『樅の木は残った』。だいぶ無理のある物語だとは思われますが、とにかく17世紀半ばまではそんな感じではありましょう。それでも、片っ端から容赦なく廃絶ってのはさすがに忍びないってことなのか、凶悪事件を起した大名、旗本が、多くの場合「乱心」とされてんのは、むしろ当人の切腹および改易(除封)と引換えに、家名だけは残るようにしてやろうとの「温情」の表れ、と見ることもできそうなんですよね。

これ、簡単に「発狂」って現代語訳されてる場合が多いんですが、どっちかって言うと「心神喪失」ってのに近いかと。今なら刑事責任能力の有無が争われるところでしょうけど、さすがにそこは簡明直截。罪は行為そのものにあるのだから、計画的だろうが発作的だろうがやっちまったもんに対しては腹を切るしかない。因みに、この時代にはとっくに儀礼化し、腹は切る格好だけで首だけ落して貰う……んだけど、幕末にはまたほんとに切るのが流行ったようで。それを「切腹の作法の堕落」と評した歴史家もかつてはいたそうで。

ともあれ「乱心」、つまり心神耗弱ってことになれば、改易は免れずとも名跡の存続は許される、ってのが通例で、ほんとは明確な動機、犯意が認められた場合でも、乱心ってことにしとけばとりあえず遺族は救われるって仕組み。遺臣の失業は避けられないにしても。

殿様の凶悪犯罪ってのは被害者も大抵殿様なんですが、罪もない臣民を恣意的に処刑(手討ちだとか成敗だとか)したってことで腹を切らされた者もおり、それも大抵は乱心ってことで落着してます。動機についてだけでなく、そうした残虐な犯行内容自体が、「乱心」を裏付けるための捏造、歪曲ではないか、と言われる例もあるぐらい。どのみち実情は誰にもわからないとは思いますが。
 
                  

それにしても、とにかくこの浅野が異常なのは、犯行時の非合理な行動もさることながら、自ら乱心ではないと言い張ったところ。まあ、その記録自体もどこまで事実を伝えるものかはわからぬにしても、本人が動機を個人的な「宿意」だって言ってんじゃあ、そりゃもうどうしようもない、ってことなんです。

増上寺事件の犯人、叔父の内藤和泉守忠勝の場合は、何より犯行自体が言わば効率的、合理的に遂げられており、事後も当人が「乱心」を認めたため、分家たる旗本の弟には累が及ばず、甥の浅野よりはよっぽど冷静(てえか普通)だったとも言えます。それを、犯人どうしが親類縁者であったというだけで、どちらも精神異常による凶行であったと決めつけるとは、やっぱりあまりにも軽率なんじゃござんせんかね。いや、あたしゃ浅野のほうはかなりおかしいとは思ってんですけどね。
 
                  

内藤に殺されたほうの永井については、なんせ殺人事件の被害者なんだから、もし既に嫡男がいたら難なく家督が認められたことでしょう。改易となったのは無嗣故の自動的処置で、それでもほどなく幼少の弟、例の元禄の絵図に「永井ユキヱ」と記された後の靱負氏が〈あらたに大和國新庄にをいて一萬石をたまひ〉、小身大名として家名存続を許されたのは、やはり廃絶は忍びないっていう判断によるものではないかと。あるいは、このような場合には既にそうした措置が暗黙の慣例だったとか。わかんないけど。

当初は名義だけの領主であった(らしい)という点でも、とにかく御家断絶だけは免除してやろうとの「温情」が感じられなくもないわけですが、しかしそうなると、わずか2年後に、その名目的領地の実際の主であった桑山氏が、ご丁寧にまたも先代将軍の法事でのしくじりで改易となり、やっと永井の弟が実質的な新庄藩主となった、ってのも何か怪しい、って言う人もいらっしゃるわけで、穿ち過ぎなのかどうか、到底判断はつきません。

ともあれ、その桑山さんもまた、旗本だった2人の弟に〈めしあづけられ〉、翌年の死去に伴いその本家は廃絶となるも、その弟たちの家、庶流の旗本2家は、無事幕末まで存続しているのは前回申し述べたとおり。領地はいずれも、かねてその兄貴、美作守一尹(『寛政譜』の仮名だと「かづたゞ」)から分けて貰っていた大和新庄の一部。こちらの事例はそもそも凶悪事件でもなかったから、果してその兄さんに対する処罰が厳し過ぎたのかどうかも、やっぱり全然わかりゃしませんけど、いずれにしろ「乱心」を言い立てるようなことではなかったってことで。
 
                  

えー、叔父と甥の関係にある2人の大名による2件の刃傷事件やその後日談にまつわる冗文はとっくに切り上げ、本来の主題であった筈の、『図説 江戸町奉行所事典』の図②について書いていなければならないところながら、実はもう1つ、ついでのついでって感じで覗いてしまった『大武鑑』で、新たな情報の錯綜を見つけてしまいましたので、それについてもひとくさり。既に前回の投稿にも追記を施して言及済みではあるのですが、後世の公式文書である『寛政譜』と、リアルタイムの民間出版物である各種武鑑との不可避的な(?)齟齬とも思われる、主に名前の表記についての混乱……って、これじゃ何のことかわかるまい、とは承知しとります。とりあえず以下にその内容を概説。

問題は、(先ほどもちょっと触れましたが)元禄6年の『江戸宝鑑の圖大全』に「永井ユキヱ」と記された、増上寺刃傷事件の被害者、尚長氏の弟、永井靱負さんの実名(じつみょう)=名乗(なのり)が、『大武鑑』に載録された各武鑑の記述では、『寛政譜』には記載のない「直貞」または「尚貞」になってるってことなんです。前者の表記は、この兄弟の叔祖父、祖父(尚政)の弟にまったく同じ名の人がいますので(それも『寛政譜』の情報ですが)、たぶん後者の「尚」の字のほうがほんとなんじゃないかとは思われます。
 
元禄6(1693)年刊『江戸宝鑑の圖大全』より
いずれにしろ、あたしゃ前回これを、『寛政譜』にないから無視していいんじゃないか、って書いたんですけど、それは、伝聞を主体に編まれ、『寛政譜』より杜撰であるとされる『藩翰譜』、略して『藩譜』によるもの(前回触れた『三百藩藩主人名事典』に記載)……って話だったからなんでした。後から図書館で(ついでに)覗いた『大武鑑』では、軒並みその当てにならないほうの「尚(直)貞」ばっかりだったんで、ちょっと考えちゃったという次第。

『寛政譜』のほうは、なんせ幕府の公式家譜なんだから、新井白石が、後の六代将軍家宣ではあるものの当時は甲府藩主だった綱豊に言われて拙速に編纂したという『藩譜』よりは確かだろう、との予断。しかしそれが、その『藩譜』だけではなく、(そのネタ元の?)武鑑にそう書いてあるとなれば、果して子孫の呈示した系譜と、当人の存命中に民間が発行した名簿とでは、いったいどっちが実情に近いのか、ってことんなっちまうじゃありませんか。

とは言うものの、既述のとおり、「尚貞」だけでなく「直貞」という表記も用いられているばかりか、同じ武鑑の同じ項目でさえ、その両者が混用されていたりするので、やっぱりかなり杜撰ではあろうとも思われ、結局どっちがほんとなんだか、今となっては判断のよすがとてないというのが実情。昔の人は名前の表記に今よりゃよっぽど鷹揚だった、とも言いますしね。まあ、とりあえずそういう情報も目にしてしまった、という報告ってことでひとつ。
 
                  

何はともあれ、『大武鑑』ではこの人、大名としての初出は天和元=延宝九(1681)年、増上寺事件の翌年で、「永井萬之允」としか記されておらず、領地についても〈在所 大和之内〉とのみ。住居は〈御やしきかぢ橋内〉と記載。

それが、2年後の天和3年には初めて「直貞」という名乗も示されてはいるものの、やっぱり「尚貞」の誤記でしょうねえ。あるいは、『寛政譜』にある「直員」の「員」が「貞」に間違えられ、辻褄合せで今度は「直」が「尚」に変えられた、とか? まあ、自分の名前でさえいろいろな書き方をしていた時代ですから、その点は今よりよほど大らかではあったでしょうけれど。

その実名の前には、時期によって変遷する仮名(けみょう)または官名(?)が示されてるんですが、元禄元=貞享5(1688)年には「永井大膳允 尚貞」、元禄4年には「永井靱負佐 尚貞」、宝永2(1705)年には「朝散太夫 永井能登守 直貞」となっており(「太」は「大」の誤記?)、宝永7(1710)年に至って漸く「永井能登守 直圓」との表記。因みに「朝散大夫」は従五位下に対応する「唐名」とのことで、「大夫」は「たいふ」の由(実質的な官職名だと「だいぶ」だとか)。

「大膳」ではなく「大膳允」、「靱負」ではなく「靱負佐」ってことは、あたかも官名のようではありますが、これに関しては、後世とは言え、『寛政譜』の記述のほうが正確なんじゃないでしょうか。〈元祿十四年十二月十八日從五位下能登守に叙任〉というのが官名を叙された最初ってことんなってるし、通称としても、「~のじょう」だの「~のすけ」だのはつかないほうがスッパリしてて粋なんじゃないかしらと。あたしが勝手にそう思ってるだけだし、どのみち知ったこっちゃないんですけどね。

領地についても、当初は「(在所)大和之内」とか「大和奈良」とか言ってたのが、宝永2(1705)年に初めて〈大和新庄 江戸より百卅六里七丁 葛上葛下忍海三郡、延寶八年ヨリ〉と記されておりました。なお、その項では、まず「直貞」と示しておきながら、「御嫡」、つまり跡継ぎの直之助についての記述で〈當主 永井能登守尚貞〉としてるんですよね。昭和の編纂者はこの「尚」の字に「ママ」と付してるんですが、どっちかってえとこれ、「直」のほうが間違いなんじゃないかと。やっぱり知ったことじゃありませんけれど。

『大武鑑』からは、その後の子孫についてもいろいろわかったんですけど、それについてはもう黙ることにします。既にあまりにも逸脱が長くなっちまってますから(とっくに手遅れ)。とりあえず明治2(1869)年の武鑑までこの永井家の記載はございました。屋敷も、天和元(1681)年の「デビュー時」には〈御やしきかぢ(=鍛冶)橋内〉だったのが、宝永2(1705)年に〈上・下谷池ノはた〔=池之端〕、中・こんたはら〔(=権田原〕、下・谷中〉に変り、明治初年には〈上・かうじ丁一丁め〔=麹町一丁目〕、下・こんた原〉という次第。領地も、文久元=万延2(1861)年に〈和州〔=大和〕新庄〉だったのが、元治元=文久4(1864)年に〈和州葛上郡櫛羅〉に変ってます。「葛上郡」は「かつじょうぐん」と読むようですが、幕末当時はまだ「かつらぎのかみのこおり」だったのでは。領域は不変ながら、その前年、文久3(1863)年に陣屋(藩庁)を新庄からその櫛羅(くじら)に移したとのことです。
 
                  

毎度懲るを知らざるが如き見当外れの愚文、まことに相済みませず。次回こそは当面の主題たる②の図について書くつもりですので、今日のところは何卒ご容赦。

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