元禄11(1698)年に《南》(「南番所」、いわゆる「南町奉行所」のことを勝手にこう表記しとります)が呉服橋から鍛冶橋に移転した後の様子を示す筈の②図が依拠する(ったって記載内容ではなく図の形だけなんですけどね)元禄「6」年版『江戸図正方鑑』(なんで5年前のやつに「よる」んだか)と、同一の作成者、版元、出版年の『江戸宝鑑の圖大全』から、「さらなる蛇足情報を示そう」としたところ、その蛇足がまた到底蛇足などと名乗るもおこがましき冗長ぶりを呈してしまった、という恐るべき仕儀とは成り果てたのでしたが、やっとのことで何とか気を取り直したてえ塩梅です。
毎回自分でさえ予測もできぬ制御不能に陥ってしまうのは、まあ人間としての決定的な瑕疵によるものなんでしょう。自覚はあってもどうしようもないんです。何か書くんだったら、全部書き終えてから編集を施し、ひとに読んで貰うのはそれが完了してから、っていう手しかなさそう。自分の厄介さが未だに把握できてはいなかった、ってことで、まことにどうも……。
今となってはもはや唐突の感をも免れないってところですが、とにかく強引に話を戻しまして、その《南》が引っ越して来た元吉良・保科の屋敷跡の向い、鍛冶橋門内南側の区画について申し述べると致します。
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火事で南番所が呉服橋から鍛冶橋に移転した元禄11年以後の状況を示す……筈なのに、〈元禄六年版江戸正方鑑による南北両町奉行所の位置〉と題されたのがこの②図、ってのが言いがかりの眼目であり、それについては既に書いてますので、結局のところ、やはり蛇足の続き、ってことにはなります。
ともあれ、この区画がやがて南北に二分され、私有する享保18(1733)年の絵図では北が「松平とさ」[近代以降は山内豊敷(とよのぶ)と呼ばれる殿様]、南が「松平あハち」[淡路守:同じく蜂須賀宗員(むねかず)]ってことんなってまして、その位置関係は幕末まで不動。明和8(1771)年の絵図では、それぞれ「松平土佐守[山内豊雍(とよちか)]、「松平阿波守」(蜂須賀治昭)となっておりますが……それがどうしたと言われれば、相変らずそれまで。
享保18(1733)年刊『御江戸繪圖』より |
明和8(1771)年刊『明和江戸図』より |
元禄6(1693)年刊『江戸宝鑑の圖大全』より |
それがどうしたと言われれば、またしてもやっぱりそれまでなんですけど。
それでも、「元禄十一寅年以前之形(コマ番号65/130を参照されたし)」では、鍛冶橋門内のすぐ北側の角の辺りに、「保科兵部少輔」と「吉良上野介」が南北に並んで示されているのに対し、「元禄十一寅年之形(コマ番号53/130)」および「元禄十一寅年十一月之形(コマ番号54/130)」では、それが「町奉行 松前伊豆守 御役屋敷」に変っているのがわかります。その年(1698年)の9月6日に発生した例の「勅額火事」(謂れなどの情報はウェブでも得られます)の被害により、吉良と保科が転居し、翌月に呉服橋で被災した南番所がそこへ移転されたという経緯を反映するものであり、吉良・保科の北と西にあった道がなくなっているのは、火災後の区画整理によるものなのでしょう。
また、吉良の南隣に当る保科邸は東側が随分と削られた形で、旗本の吉良よりだいぶ狭い大名屋敷になってるんですが、移転後の南番所=松前伊豆屋敷も、北と西の道路がなくなっただけで、敷地の形は吉良・保科の屋敷跡と同じ。南東の角が切り取られた状態です。鍛冶橋門の枡形が道路を狭めていたためか、あるいは門の出入りの便宜の故か、他の見附も、近接する屋敷の敷地はそうなっている例が多いようではあります。
飽くこともなく、重ねてさらなる蛇足とはなりますが、その鍛冶橋門内の南側の区画についても、この『御府内往還其外沿革図書』(……長い)を見て初めて確認し得た情報もございまして、「元禄十一寅年以前之形」だと、例の「坂部三十(郎)」も含め、既述のとおり土佐藩邸の他に3つの屋敷が建て込んでいるのに対し、「元禄十一寅年九月之形」では北半分が松平土佐守、南半分が松平淡路守と、2つの大名屋敷のみに変っており、それが幕末まで不動の配置となったのはこのときであったか、という次第。
これもやはり火災後の処理によるものなのでしょうか、旗本や小大名の屋敷を移転させ(うち1人、伊丹左京は失心、自殺により改易、廃絶ってことはやはり先般述べたとおり)、敷地全体を高知と徳島の殿様で二分することになった……とか。いずれにしろ、そうなったのが元禄11年の9月だということも、こうした記録を見なければわからないところでした。わかったから何だ、と言われればこれまたそれまでのこと。
因みに、4年後の元禄15(1702)年(つい三波春夫の『俵星玄蕃』を思い出しちゃう)に「中番所」となる場所、鍛冶橋内の呉服橋寄り区画の南東角は、「元禄十一寅年十一月之形」では「割残地」となっており、坂部三十郎邸も一旦はどこか余所に引っ越していた模様。
やっぱりそれが何だと言われれば、まったくもってそれまで。すべて無用の事実とは百も承知二百も合点。
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えー、②については何とかこれで終いにできそうな塩梅です。
ということで、次回は3つめ、③の図について書き散らす所存。やっとのことで、一番気に食わなかった中番所、いわゆる中町奉行所に関する齟齬に言及できる模様。ほんとは5図全部を1回で済まそうと思ってたんですが、とんでものうございました。読みが甘いにも程があろう、とは自分でも思っとります。
毎度申しわけも立ちませず。
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