2018年4月21日土曜日

町奉行あれこれ(21)

前回予告した永井氏受難の話。

まずこの元禄6(1693)年当時、土佐藩邸の隣に住んでた永井靭負って人自身は、ふつう「能登守直圓(なおみつ)」と記される1万石の小大名なんですが、まだ「靭負」って表記だということは、名乗(なのり)もその前の直好(なおよし)または直員(なおかず)だったんじゃないかと思われます。後者のほうがより古く、その実名(じつみょう)を名乗っていた時分の通称は「大善」だったかも。幼名は「萬之丞」……などといった無益な情報も、悉く例の『寛政重脩諸家譜』からの受売りです。因みに、いつも図書館で覗いてんのは『新訂 寛政重修諸家譜』というやつで、「脩」の字が「修」という表記。

ウィキぺディアでは、ほかにも「尚貞」という名乗を挙げておりますが、どうやらそれは新井白石の『藩翰譜』の記述らしい。伝聞によりかかった著作とのことでもあり、『寛政譜』にないのであれば、これは無視してよいのでは……ったって、あたしがどうこう言うべきことでもないし、またしても無用の事実、まことに相済みませず。

……と思ったら、なんと、『大武鑑』の記載では天和3(1683)年から宝永2(1705)年まで一貫して「直貞」または「尚貞」、その次に示された宝永7(1710)年の武鑑で「直圓」という具合。こはいかに?みたいな。これ、後からわかったんですが、ここに追記しときます。
 
                  

まあいいでしょう。ともあれこの永井靭負さん、寛文11(1671)年の生れで(何気なく『樅の木は残った』のネタ、仙台藩伊達騒動、寛文事件における原田甲斐刃傷の年だったりして)、元文(げんぶん)元(1736)年卒、享年68ってことなんですけど、大名になったのは満10歳にも満たない延宝8(1680)年8月7日。『寛政譜』では〈あらたに大和國新庄にをいて一萬石をたまひ〉となっているものの、先代だったかなり年上の兄、尚長は丹後宮津7万3千石余の殿様なのでした。その兄さんが、

〈延寶八年增上寺にをいて嚴有院殿〔四代将軍家綱;同年5月に死去〕御新葬の法會をこなはるゝのとき、その事をうけたまはり、六月二十六日かの寺にをいて内藤和泉守忠勝がために殺害せらる。年二十七。〉

という目に遭ったため、

〈延寶八年八月七日兄尚長不慮に横死せしにより、その城地をおさめらるといへども弟あるよしをきこしめされ……〉

て、先代が無嗣のまま殺されちゃったから7万石は没収されたけど、改めて1万石を賜り名跡を継承、辛くも家名は存続、っていう小大名だったんでした。しかしこれには疑問を呈する向きもあり、その後も依然新庄藩主は「桑山美作守一尹(かずただ)」であったため、永井は名目上の領主に過ぎず、裏には何か事情があったのでは、ってんですよね。
 
                  

その前新庄藩主、桑山氏が改易になるのは2年後の天和2(1682)年。〈さきに東叡山にをいて嚴有院殿の法會行はるゝのとき〉、またも、と言うべきか、今度は上野の寛永寺で、やはり四代家綱の法要(三回忌でしょうね)に際し、〈御佛殿にをいて不敬のことありしかば御気色蒙り、所領没收せられ〉、2人の弟に〈めしあづけられ〉、終生蟄居の身となってしまった、という不運な顛末。しかも約1年後に死亡。享年39。

その2人の弟ってのは、数年前、本人が当主となった折に領地の一部を〈わかちあたへ〉て独立させていた旗本なんですが、その弟たちにお預けになっちゃうとは、いったいどんなしくじりをやらかしたんだか。これも図書館にあった新人物往来社の『三百藩藩主人名事典』っていう本を見たら、〈『断家譜』には法事場で陸奥八戸藩主南部直政と出入りがあったとする〉って書いてあったんですけど、喧嘩口論のようなものだとすれば、入れ代りになった永井氏の兄貴と事情が重なりそう。ただ、こっちは乱心どころか刃傷沙汰でもないので、腹までは切らずに済んだってところかと。

いずれにせよ、当人の死で新庄藩の桑山家は否応なく断絶(隠居していた父親はまだ存命)。弟2人の家は庶流の旗本として残るわけですが、新庄の新領主たる永井靭負さんがこのときまでは名目だけであったろう、ってのはそういう経緯によるものなのでした。しかしその後も、永井氏は代々采地へは赴かず、参勤交代免除の定府(じょうふ)または大坂城勤務という、結構身軽な殿様だった模様。

『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』という、この頃に書かれたらしい大名の紳士録(?)には、〈小身故、在所ニ給人不居、御役人居住シ、其ノ他ハ皆江戸詰也〉とあるってんですけど(またぞろ『三百藩藩主人名事典』からの受売り)、この古文書も謎が多いとのことなので、記述内容が事実かどうかはまたもわかり申さず。でも、「主君が家臣を塵芥のように見做せば、家臣も当然主君を仇敵のように見做す」っていう『孟子』の一節から採ったっていう題名は、結構好きかも。
 
                  

さんざん書き散らしといて何ですが、これらはすべて眼目の事件にとっては後日談のさらにおまけの如きもの。永井靭負氏が元禄6年当時1万石の小大名(しかも初めは名義だけ?)だったのは、7万数千石の先代だった兄貴が将軍の法事の場で殺されちゃったからであり、その結構有名な殺人事件こそが今回の主旨だったんでした。毎度すみません。

「増上寺刃傷事件」などと呼ばれるこの騒ぎ、約20年後の「松の廊下」(「松ノ御廊下」と書いて「まつのおんろうか」ですって)の傷害事件(現場はそこではなくその近くだったとも)とは、状況も似ているけれど、実は加害者どうしが何気なく親戚で、そのため「原因は精神異常の血筋にあり」などという言説が昔から唱えられてたりします。浅野内匠頭の母親(幼児期に死別)が、増上寺事件の犯人、内藤和泉守忠勝の姉、ってことなんですけど、この2例だけで血統的な障害によるものだと決めつけるのはいささか軽薄に過ぎるんじゃないかと。

浅野に対しては、吉良への同情心のようなものから、あたしゃつい冷笑的になっちゃうんですが、被害者が死ななかったために禍根が残り、結果的には集団暴力によって「君父の仇」(殿様が殺そうとした相手)を、加害者たるその主君に代って討ち取った遺臣(のごく一部)が大いに名を上げる一方、被害者たる吉良は二度も襲われたのみならず、死後数百年にわたって罵られ続けるという不条理。俺ならクサるね、草葉の陰で。
 
                  

ともあれ、いずれにしても増上寺の真相はわからずじまい。原因も動機も経緯も、結局はもう誰にもわからんでしょう。赤穂事件とは違って被害者も現場で落命しており、加害者も型どおり「乱心」として順当に腹を切らされてるわけで、両者についていろいろ伝わってるのは、やっぱり当事者以外による伝聞、風評に類するものばかり。吉良の因業ぶりが殆ど後世の付会に過ぎぬのと同工と申せましょう。浅野の異常な短気ってのもほんとはどうだったんだか、ってことにもなりますが。

その浅野の叔父、増上寺の忠勝についても勝手なことばかり言われており、その点では被害者の永井も同様。浅野に対する吉良と同じように、内藤を見下して儀式の奉書、つまり指示通達書を見せようとしなかったからやられたのだ、ってのが定説。でも父親どうしの代からご近所付合いの間柄で、言わば幼馴染。それがいつの間にか犬猿の仲になっていて(流布している不仲の理由も後からこさえたって感じ)、それがまた相役だってんだからどうしたって剣呑至極、って話になってたり、永井のほうが内藤を恨んでいて、思わず切りかかったところを返り討ちにあったのだ、との説もあったりして、まあ実にいろいろです。

「見下す」ったって、石高の違いがそのまま身分の差になるわけでもなく、位階はどちらも従五位下(普通の大名)で対等だし、それを言うなら数千石の旗本である吉良が数万石の大名である浅野より威張ってたってのはどういうこったい、ってことにもなりましょう(ほんとに威張ってたかどうかもわかんないし)。それどころか、最高権力者たる幕閣の連中なんざ、みんな大名としては小規模なのに(権力と財力が反比例っていうのが德川主義だったりして)、わずか数万石の井伊大老なんざ、御三家の水戸や尾張を始め、大大名を平気で処断しとるではありませんか。まあ、そのせいで水戸の連中に殺されちゃったようなもんだけど。

永井の官名「信濃守」が内藤の「和泉守」より国司の格としては上、っていう記述も見ますが、近世にはどちらも実際の領国とは関わりのないまったくの名誉官職だし(単なる「よそ行き」の通称)、果して関係あるんですかねえ、この違い。「国会デジコレ」で延宝3(1675)年の絵図を見ると、神田の筋違橋門内に「永井右近」、道1つ挟んで南に「内藤飛彈守」が並んでんですけど、前者は被害者尚長の亡父たる尚征(なおゆき)の官名、「右近大夫(うこんのたいふ)」、後者は加害者忠勝の亡父、忠政の官名なんですよね。この時点ではそれぞれ増上寺事件当事者どうしの代になっており、なぜその表記なのか、またも謎が増えちゃったんですが(出版時点より以前の状況を表示?)、いずれにせよ、両者にはやはりさほどの家格の差があるとも思われず。
 
                  

それぞれの敷地も同程度……どころか、その20年ほど前の明暦3年正月発行『新添江戸之圖』に示された両家の地所を見るに、「永井信濃」と「内藤伊賀」(後者はやはりその当時の先代、つまり忠勝の祖父、忠重の称号)が南北に隣接しておりながら、どうも内藤のほうが広いんでよね。隣どうしだったのが諍いの原因、ってことにはなってますけど、ムカついてたのは広いほうに住んでた(?)忠勝だったてえし、親父どうし(永井はこの「信濃」の息子、内藤はこのとき既に当主)は仲よしだったてえし。奇しくも歳は親子ともども永井が内藤より1つ年長だったりして。
 
明暦3(1657)年刊『新添江戸之より
表示範囲の中央辺りに、永井と内藤が縦に並んでいます。
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因みに、明暦3年時点の「永井信濃守」は尚長・直圓兄弟の祖父さん、尚政であり、「内藤伊賀守」に該当するのは同じく忠勝の祖父さん、上述の忠重。後者はこのとき既に故人だった筈です。翌明暦4=万治元(1658)年の『大武鑑』の記載では、「永井信濃守 尚政 殿」および「内藤飛彈守殿」となってました。20年足らず後の延宝3年、つまり事件の7年前の記事だと「永井土佐守殿 尚長」に「内藤和泉守殿 忠勝」、つまり当人どうしという次第。
 
                  

やっぱり気になっちゃって、後からさらに『寛政譜』も確認したところ、被害者の永井氏、尚長は〈(延寶)三年十二月八日信濃守にあらため……〉とのこと。武鑑の情報は「土佐」から「信濃」に改称する直前だったということですね。また加害者の内藤氏、忠勝のほうにも、〈寛文十一年十二月二十八日從五位下和泉守に叙任す〉って書いてあって、これも武鑑の記載と一致。ではなぜ同年、延宝3年の絵図に、既に故人であったそれぞれの親父、尚征と忠政の称、「永井右近」、「内藤飛彈守」が記されているのか、その疑問は解消せず。〈延寶三乙卯天五月吉日〉発行って書いてはあるけれど、内容は初めからその当時のものではない、ってことなんでしょうかねえ、やっぱり。まあ内藤のほうについては、十数年前の明暦の絵図も1代前の古い表示になっていたわけですけれど。

こんなことががわからないからと言って何が困るわけでもなければ、そもそもなんでそれが気になるのか、自分でも多少あきれる思いにて。
 
                  

とりあえずこれについてはさておきまして、実はこの永井の祖父さん、尚政って人は、何気なく「信濃町」の語源でありました。下屋敷がそこにあったからなんだとか(ウィキのカラ知識)。伊賀守より信濃守のほうが本来は格上、なんてのも既に関係ない時代ではありますが、この祖父さんどうしは永井のほうが位階は高かった模様。老中経験者でもありましたたし。でもその息子の代、つまり増上寺事件当事者の親どうしは仲のいいお隣さんだったてえから、忠勝の「乱心」が格下をバカにされたためってのは、やっぱりどうかしらねえ。役目の席次にも落差があるとは思われませぬし。

親父どうしも位階は同じ「従五位下」。ただし右近大夫は飛騨守より上席、ってな記述もありますけど、そりゃやっぱり既にアナクロでしょう。そういう比較なら、上野介と内匠頭なんざ、元来の官職としては同格ってことになるようですぜ。
 
                  

加害者たる内藤のほうについてはさらに、その血統的な異常性を言い立てんがため、長男である兄、忠次が廃嫡されて次男の忠勝が嫡子となったのも、「病気のため」という理由は表向きで、やはり精神異常故の廃嫡であった、とする著述、サイトが実に多いんですよね(後者は前者の受売りか)。でもそれ、明らかに、「異常者たる浅野の血縁なんだから、同様の事件を起していた忠勝もそうだったに違いなく、ということは取りも直さずその兄貴の廃嫡も精神病によるものに決っており、それで少しはまともだった弟にお鉢が回ることになったのだ」などという、見事なまでの予断と邪推の積み重ねって感じ。いや、あたしだってちっとも知りませんけどね、ほんとのところは。

でも、同じ血を引く浅野の弟、時代劇ではよく「大学様」って呼ばれてる長廣って人にそんな問題があったとは聞きません。兄(養父)の短慮のせいで、その嫡子の立場だけでなく、旗本の身分さえ取り上げられちゃったと思ったら、やがて将軍の代変りで恩赦となり、めでたく殿様に復帰、幕末まで代々続く旗本の祖となってます。もちろん精神障害による刃傷沙汰など無縁。まあ、途中他家からの養子で繋いでるのかも知れませんけど(未確認)、子孫の長栄という人など、維新後は明治帝に仕えております(ウィキに書いてありました)。

それについては叔父の内藤だって同じこと。「狂気の質」を有するどころか(だとしたら先祖にも事例がありましょう)、やはり分家の旗本だった弟、忠知は何ら「発症」することなく、本家たる兄貴が断絶となった後も、旗本としてそのまま代々(少なくとも『寛政譜』の編纂時までは)続いてますから。尤もこの人は兄の忠勝とは母親が違うようではありますけれど、その精神障害とやらの遺伝が(そんなもんがあったとして)父母のいずれからもたらされたものかはわからぬであろうし、同母から生れた数人の姉は皆大名や旗本に嫁し(その1人が浅野内匠の母という寸法)、いずれの子孫も特に異常を発したという話はなさそうですぜ。もちろんあったかなかったか確認のしようなどありませんけれど。

被害者のほう、永井靭負の兄貴についても、やはり吉良になぞらえて尊大な野郎だったってことにされてたりするんですが、実は学問好きのインテリ大名だったとの情報もあり。まあ、インテリだから意地悪も喧嘩もしない、なんてこたありませんけど、いずれにしろ両人とも事件当時はまだ二十代半ば。被害者側もすぐに改易となったのは、既述のとおり嗣子がいなかったから。殺され損ではあったけれど、弟の直圓、すなわち靭負さんが後を継ぐことを認められ、永井家は1万石の小身大名として継続、ということも既に申し述べたとおり。
 
                  

だからいったい何?と言われれば、いつもながらまったくそれまでと申すよりほかにございません。と言うより、この話、ほんとは『図説 江戸町奉行所事典』に掲げられた、町奉行所の位置の変遷を示す5つの図がヘン、っていうのが趣旨であり、漸くその2つめの②について書き始めたところ、またも飽くことなき迷走を重ねる仕儀とは相成れり、みたいな……。

いや、そもそもこの奉行所の話自体が、本題である(あった?)「東京語の音韻問題」からの連想に発したものだったんですが、もはやそんな話も遠い思い出のような。

とりあえず次回は当面の主題であった図②についての難癖をまとめる予定です。毎度恐縮。

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