2018年4月29日日曜日

町奉行あれこれ(29)

前回まで、『図説 江戸町奉行所事典』が掲げる町奉行所移転の推移を示す5図中、3つについて長々と文句を言い募って参ったわけですが、残る2つが下記の2例ということに。以前にも申しましたが、〈 〉内は各図に付された説明句であり、また丸数字は拙が勝手に付したものです。

④〈元文年間江戸切絵図による南・北両町奉行所の位置〉
⑤〈天保版江戸切絵図による文化三年以後の南・北両町奉行所〉
 
                  
 
この事典で自分が最も撞着を感じたのが(初めは立読みなのでごく一部しか見ちゃいなかったんですけど)「中町奉行(所)」というものについての説明で、それこそがこの長大かつ不毛なる駄文を書き綴るきっかけとはなったのでした。

暮に吉良邸討入りのあった元禄15(1702)年の秋(閏8月)から、享保4(1719)年正月までの17年(16年数ヶ月)の間だけ存在したとされる、第三の町奉行(およびその役屋敷)が、つまりは今日「中町奉行(所)」と呼ばれるものなんですが、そのたった十数年間の事情がよくわからないまま、わかっていないこと自体がわかっていない人たちによる著述やサイトがあまりにも多く、ぜんたいどういうことなのよ、って悩んじゃったんです。別に悩む必要もないんだけど。

その《中》、すなわち「中(の御)番所」、今は通例「中町奉行所」と呼ばれる役所兼官舎については、自分なりに一応の決着がつきましたので、追ってその結論っぽいものも開陳致すつもりではございますが、ひとまずは残る2つの図についての言いがかりをやっつけちまおうかと。

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④〈元文年間江戸切絵図による南・北両町奉行所の位置〉

 

享保4(1709)年、鍛冶橋内の坪内能登守退職後、後任を補充せずに2交替制へと復帰した後の状態を示すもので、《北》が常盤橋内、《南》が数寄屋橋内という配置になっておりま……せん。いきなり間違えてんです、このイラスト。なお、元文は享保の次の年号(1736~41年)ってことで。

この④図自体はトンチンカンなことになってるわけではありますが、常盤橋門内は、もともと数寄屋橋へ移転した松野壱岐守の屋敷があった場所で(つまり《北》が《南》に転じたって寸法)、宝永4(1707)年から享保2(1717)年までの10年ほどは一般の大名屋敷、先日触れた本多兵部邸になっていたという次第。
 
                  

④のトンチンカンぶりについては後述するとして、ひとまずざっと次の最終図、⑤についても。こちらは④(がそれに「よる」という絵図)の元文期からいきなり百年ほど後の絵図に依拠したイラスト(……の筈)です。

⑤〈天保版江戸切絵図による文化三年以後の南・北両町奉行所〉

 
 
文化3年は1806年ですが、天保は1830年代初めから40年代半ばに当ります。常盤橋に90年近くあった《北》が久しぶりに火事で焼失し、すぐ南の呉服橋に移って30年ほど後の絵図に基づく図、ということになりましょう。《南》は数寄屋橋のまま変らず、《北》が呉服橋番所となったわけですが、両者とも位置は幕末まで不動。

呉服橋門内は、元禄11(1698)年まで《南》があった場所(当初の位置より少し南)で、それが「勅額火事」により鍛冶橋の吉良・保科邸跡に引っ越して4年後の元禄15年、成行きで《中》に名を変え(たぶん)、さらに16年余り後の享保4年、担当者の辞職とともに廃止……って、そりゃ今さっき言いましたな。

文化3年に《北》となったこの呉服橋の元《南》の辺り(厄介なこって)は、百年以上前、その《南》と入れ代るように常盤橋から移転した上述の吉良屋敷があった場所だったりもするんですけど、その南隣の区画、常盤橋と呉服橋の間(の常盤橋寄り)が第三の町奉行、丹羽遠江守の屋敷となる1年前に吉良氏は本所へ引っ込み、翌年そこに討入りをかけられる……てえ筋書きなんですが、それはまあ別の話。

とにかく、その頃から百年は後の状況を示すのがこの⑤図、ということにはなるわけです。大御所時代、すなわち化政天保期を背景とする多くのテレビ時代劇で「北町」だの「南町」だのと言っているのも、この配置による町奉行(所)を指すものである、ってことに。なお、「大御所」ってのは隠居した将軍のことなんですが、11代家斉の時期を、現役時代も一緒くたに「大御所時代」とは呼びます。
 
                  

さて、④図には前述の如く致命的な間違いがあるわけですが、それを措いても、この残り2つの図には前の3図同様、やはり批判(言いがかり)の余地がございますれば、以下それを書き散らす所存。④のズレっぷりがいかなるものかもじきにわかりますんで、ちょいとお待ちを。

①~③図に対する難癖は、途中「中町奉行所」に関わる齟齬を執拗に論ったためにとんでもない駄長文とは成り果てたものの、この④と⑤はもはやその問題とは無関係。それでもやっぱり文句を言っておきたいのが、まずその図示のやり口。それは①~③も同断ではあったんですが。

既述ですけれど(再三?)、5図とも西を上にした横長の形で、示す範囲や縮尺は(意味もなく)異なるのに、④までは図の寸法が同じで、⑤だけが(これも無意味に)大きめっていう、あたしにとっちゃ何とも不快な一貫性の欠落。各図の題目(説明句)も、④までは図の右に縦組みで付されているのに対し、⑤だけは図の上部に横組みで表示というのもまた不可解極まる不統一、ってな塩梅。

たとえ何らかの事情があってのことだとしても、かかる一貫性の放棄は極力避けるのが出版物の作法……だと思うんですが、もちろんこれ、わざわざそうする理由なんざまったくないどころか、上でも申しましたとおり、⑤は南(左)が数寄屋橋、北(右)が呉服橋という、②や③と共通の表示範囲であるのに対し、その前の④はそれよりさらに北の常盤橋も描かれなければならないのだから、よんどころなく横を広げるとしたらむしろその④のほう。数寄屋橋から常盤橋までが表示範囲となるのは5図中その④だけなんです。

いや、その前の③図、《中》を含む3番所が示されたイラストなどは、呉服橋すらまったく示されておらず、確かに呉服橋門内に町奉行役宅がなかった時期の図とは申せ、位置関係を明示するには当然それも含むべきに非ずや、とは思ったんでした。いったいどういう基準でそれぞれの図を作成したものやら、こちらにはとんと推知し得ず。まあ著者もとっくに故人、どのみち如何ともし難く(どうせ買いもせず、立読みで済まそうとしてたし)。
 
                  

ともあれその④図、上述のとおり、これこそ《南》が数寄屋橋、《北》が常盤橋という時期を示す(べき)ものですので、5図中最も横(南北)方向に広い(長い)表示範囲となるが道理。それが、いかなる勘違いによるものか、呉服橋門の絵が右端の下部に追いやられ、門内の区画は北東角(呉服橋の右隣)が切れてんです。常盤橋はおろか、その南を東西に流れ、呉服橋門内との境を成す道三堀の姿も見えません。いったい何が〈元文年間江戸切絵図による〉ってんだか。

まあその点は5つの図すべてに通底するところで、「~による」とは言いながら、それは各古地図の「内容による」のではなく、それらを言わば作図の叩き台に使っただけ、ってことに過ぎぬとは先刻承知。それにしたってこの④はひどい、ってことなんです。

③に呉服橋すら描かれていないのは、まあ不親切ではあっても(その不親切のせいであたしゃ勘違いして早まった言いがかりをつけちまったわけですが)、表示内容にはとりあえず虚偽はない、ってことにはなりましょう。でもこっちの④はもう弁解の余地とてございません。余地も何も、描いた本人がもうこの世にゃいないわけですけれど。

とにかくこの④、不親切にも右下が切れた呉服橋門内の右(北)側に、縦1行で「北町奉行所」と書かれてるってわけですが、そのような配置だった時代は一度もなかった筈なんですよね。南北2番所制の最初期を示す①図の頃、すなわち町奉行の役屋敷が各自の私邸ではなく、常盤橋と呉服橋に固定されていた時分の寛永期なら、呉服橋番所はこの④の《北》と同じ場所、すなわち門内の北側、道三堀に近い位置にあったことが古図から知られ、その当時はもちろんそこが《南》。いずれ数寄屋橋に町奉行が住み着くことになろうとは、誰も思っちゃいなかったでしょう。

その後、移転だの増設・廃止だのを経て、19世紀初頭に再び《北》として呉服橋番所ができたのは(つまり⑤図の時代)、同じ呉服橋でも寛永時代の初期南番所より位置は南で、17世紀末から18世紀初頭までの一時期にはかの吉良上野介が住んでたところ…‥って、こりゃまた繰言ばかりで失礼。しょうがねえな。

でもまあそういう次第にて、④図がダメなのは、常盤橋にあるべき「北町奉行所」が呉服橋内になっちゃってるだけでなく、その位置(ったって、縦組みの文字が書いてあるだけですが)も間違ってるってところ。まあ、前提が間違ってたら、どのみちその後の話はすべて無効ではありましょうけれど。

④図におけるこの根本的な疎漏、実は「中町奉行(所)問題」に気を取られて長らく気づかなかったんです。でもまあ、結局気づいちゃったんだからしょうがない。

その《中》問題にも関わる事項として以前にも申しましたが、②の図、〈元禄六年版江戸正方鑑による南北両町奉行所の位置〉と題されたイラストには、呉服橋内の「南(左)側」に〈元禄十一年までそして文化三年より北町奉行所〉と書かれており(それ自体がかなり杜撰な言いよう)、上述した④における《北》、すなわち元文期の絵図に「よる」イラストに記された「北町奉行所」の位置は、もちろんその②とも真っ向から撞着致します。
 
                  

「前提が間違いならすべて無効」ってなことを言ったばかりではございますが、やっぱり途中でやめるのもつまんないので、このまま無益な苦言を続けることに致します。

常盤橋門内にある筈の《北》を示すべき図で(元文頃の絵図によるってんならどうしたってそうなりやしょう)、肝心の常盤橋が描かれておらず、あるべき筈のない呉服橋門内、それも、どのみち江戸前期以外にはついぞ番所などなかった北(右)側に「北町奉行所」と書かれたこの④の誤りは灼然……と言うそばから、まことに執拗とは承知しつつ、その虚偽または誤謬を(無駄に)証する知見も以下にご紹介。またぞろ「国会デジコレ」で見つけた古地図の情報です。

●元文5(1740)年発行 分間江戸大絵図(コマ番号5/5および4/5を参照されたし);須原治右衛門版[元文五年歳次 庚申」
 数寄屋橋内  水野備前守
 呉服橋内   ホリヤマト(南側)/千ノスケ(北側)
 常盤橋内   石河土佐
色付きの文字はまたも町奉行以外の駄目押し情報ってことで。

《南》の町奉行は水野備前守勝彦、前年の元文4年秋に就任し、この5年の暮に1年余りで退任。一方の《北》は石河土佐守政朝、2年前の元文3年2月から4年後の延享元(1744)年6月まで在任の由。いずれにしろ《北》は常盤橋にあり、呉服橋門内は一般の屋敷であったことは確認されます。

④図では「北町奉行所」と記された呉服橋内北側の「千ノスケ」とは、松平千之助という少年大名のことで、この前年に三十代で卒した父の遺領を満12歳で継いだばかり。この翌々年の寛保2年暮(現行暦では1743年1月半ば)に、亡父と同じ市正(いちのかみ)に叙されるのですが、この時点では未だ無官。親盈(ちかみつ)という名乗もまだないため「千ノスケ」との表記なんでしょうけど、苗字はかすれちゃって見えないだけなのか、初めから書かれていないのか。

因みに8年前の享保17(1732)年の絵図、および6年後の延享3(1746)年の絵図の同所には、いずれも「松平市正」と記されております。前者は先代の亡父、親純氏のことで、後者はやっと二十歳となったこの千ノスケこと親盈氏。宝暦7(1757)年、三十過ぎで対馬守に改め、引退後の寛政5(1793)年には七十近くで但馬守を名乗ったとのことなので、お父さんとは違って随分長命。いずれも図書館の『寛政譜』で見た情報ですが、まったくどうでもいい話なのは重々承知。恐縮の極みながら、どうにも止らないもんで。
 
                  

とにかく元文年間のこの場所が町奉行の役屋敷なんかじゃないことは、これによっても明白。ではその南隣、60数年後に常盤橋番所の移転先となる場所に記された「ホリヤマト」とは?

〔つづく〕……すみません、やっぱり長いもんで。

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