2018年4月30日月曜日

町奉行あれこれ(30)

〔承前〕どうでもいいついでってことで、その話(「ホリヤマト」とは?)についてまたひとくさり。

この元文5(1740)年からは既に30年以上前になりますが、宝永4(1707)年に常盤橋の屋敷が焼けて、例の高倉屋敷での仮営業の後に数寄屋橋へ松野壱岐守が引っ越すまで、その数寄屋橋内に住んでた堀大和守親賢(ちかかた)って殿様については、その高倉屋敷の話のついでに言及致しました。「牛之助騒動」という陰惨な事件の当事者でもありますが、その人の次男で、2代あとの当主がこの「ホリヤマト」、堀大和守親蔵(ちかただ)なんでした。この18年前、享保7(1722)年の 『新板江戸大繪圖(コマ番号4/5または5/5参照)』の同所に「ホリワカサ」と記されていたのは、先代だった亡兄、すなわち親賢氏の長男、親庸(ちかのぶ)氏だったということになります。数寄屋橋からここに移ってたんですね、堀さんちは。

ではなぜ、高倉屋敷に仮寓していた松野奉行の落ち着き先を初めから呉服橋内にしなかったんでしょうか。鍛冶橋内と呉服橋内、およびその中間の区画に3つの御番所が並んだほうがスッキリするし、利用者にとっても楽なんじゃないか、などという勝手な所感を抱いたりして。もしそうしていたら、享保2(1717)年に真ん中の中山屋敷が常盤橋に移転し、そのまた2年後に鍛冶橋番所が廃止となった時点で、約20年ぶりに元禄11年以前の配置に戻ることにはなってたんですよね。だから何だと言われればまったくそれまで。どうせまた常盤橋の屋敷は焼けちゃうんだし。

当然諸般の事情を鑑みて決めたことではあるのでしょう。わざわざ堀屋敷を立ち退かせて町奉行役屋敷にしたってことは、当時の状況では数寄屋橋のほうが何かと好都合だったとか? 考えたってわかるわけもなけりゃ、そもそもおいらにゃ関わりのねえことだった。すんません。
 
                  

ついでのついでに、「中町奉行(所)」について、「設置理由や職務内容が不詳」とする記述もしばしば見かけるんですが(ウィキぺディアとか)、《中》が《北》や《南》とは別枠なんてことはハナからなくて、町奉行の業務(民事訴訟の受理)を2交替から3交替の月番に改めただけ。配下の、行政官、警察官に相当する与力・同心は、当然2奉行時代より全体としては増員されたものの、町奉行1人当りの職員数は削減されていたとのこと。享保4年の3人制廃止で、残った2奉行の配下はそれぞれまた増員されますが、やはり全体では3奉行時代より少なくなってます。

問題は、各町奉行もその配下も、《南》だの《中》だの《北》だのという場所によって職務が分れるわけでもなければ(各与力同心の担当がどう分けられていたか不明確なのは、2奉行時代も3奉行時代も同様)、そもそも「中町奉行」という「特殊な」町奉行が設けられたわけでもないんだから、時期によってたまたま「中」に該当するものについてその役割を論じたって意味がないのはやはり歴然。当人としては終始鍛冶橋番所の長官だった坪内能登守が、常盤橋の松野壱岐守が火災によって高倉屋敷や数寄屋橋に引っ越したために、その「職務内容」が変ずるなんてこたありません。「中」の筈が「北」に変っちゃった中山出雲守も同じこと。

中町奉行(所)の存在理由だの職務内容だのったって、3人めの新規町奉行として最初に《中》に住み込んだ丹羽遠江守の後任が中山氏で、その後は代々《北》の町奉行であり続けた一方、《南》たる鍛冶橋番所の主だった坪内氏が、成行きで丹羽氏と(非公式の)名称だけが入れ代り、「中」の町奉行ってことになった挙句、その引退後に後任が置かれず役宅も廃止、ってことんなったからって、それがどうして「中町奉行所」という、南や北の「補助的な」特殊町奉行所であった、なんてことになるかってのよ。

幕末まで存続した《北》は、新規《中》の後継番所だし、廃止された《中》は元々《南》……って言えば言うほどダルくなるけど、明らかにそれだけのこと。「南町」だの「北町」だのっていう時代物用語に毒されたか、「中町」っていう特別な奉行所が十数年だけ存在した、って思ってる人が存外多くて(時代物作家なんかにも……)。別にそれで誰が困るってこともありゃしませんけどね。
 
                  

以上、④図についての難癖および寄り道がつい止らなくなって、結局また1回の投稿に納まり切らなかったりもしましたけれど、残る1つ、最後の⑤に対する苦言は、表示内容ではなくその表示法についてのもの……の筈です。それも既に概略述べてはおりますし、大抵の人は別に何とも思わないであろう(どうってことのない、あるいはどうでもいい)些細な齟齬についての愚痴に過ぎないのは充分承知しながら、今一度ダメ押しの如きものを施したいと存じます。

然る後に、町奉行の名称や役宅所在地の推移について、中町奉行(所)時代を主体にまとめる所存。それにて漸くこの一連の言いがかりも何とか終えることができるのではないかしらと。なんか先日も同じようなこと言ったような気はしますが、まあいいでしょう。

==================

④の基本的な誤りは論外としても、①以下、示すべき位置関係にとって妥当とは言い難い時代の古図に「よる」ものばかりではありました。そういうことについての慨嘆を叙するつもりだったのが、例によってかくも長ったらしい愚文の連なりとは成り果てたる次第にて。

その点でこの⑤は、最終配置図の叩き台としてはまずまずと言えそうな天保期の絵図によるってわけで、何気なく5図中最も穏当かとは思われます。その前の④が、元文年間の絵図によるとしながら、まったく元文期(およびその前後の時代)の位置関係が示されていないのに比べれば、まあ上出来のほうでしょう。それでも、〈文化三年以後〉の状態ってんなら、30年ほど後の天保期ではなく、初めから文化年間の絵図を使えばよかったんじゃないか、という気は致しますが。
 
(しつこく再掲)
 
まあそういう勝手な苦情は控えることとし(もう遅いけど)、繰返しにはなるんですが、表記、図示における単純かつ不可解(無意味)な不統一に対し、今一度ケチをつけて、この⑤への言いがかりを終えようと思います。

この⑤図だけが、必要もなく他の4つより表示範囲が横方向に広いのは、既述のとおりこれだけが、題目あるいは説明句を、図の右ではなく上に、縦組みではなく横組みで記しているからなんですが、不統一はそれにとどまらず、まずそれまでの4図が悉く平行な横線2本(上になる図の下端とその次の図の上端に1本ずつ)で区切られているのに対し、④と⑤の間にはそれがないんです。突然それがなくなるわけが解せず、どうにも落ち着きません。

また、④までの説明句は末尾がすべて「何々町奉行所の位置」なのに、⑤だけいきなり「南・北両町奉行所」になってんのも実に不可解。それまでの4つが縦に2行か3行で書かれているところ、これだけは唐突に横書きにされているため、言わば怪我の功名で1行に納まっており、しかも「~の位置」を加えてもまだだいぶおつりが来るてえぐらい余裕があるってのに、まったく了見が知れませず。

ええい、こうなりゃもうしかたがねえ、ってな了見の下に、全5図をも再掲。なんせ偏執狂なもので(たぶん)。
 
 
尤も、①と②だけは〈南北両町奉行所〉としているのを、③は〈南・中・北〉、④は〈南・北〉と、ナカグロ(・)があったりなかったりしますんで、表記の不統一は⑤に限ったわけでもないんですが、こういうところがどうしても気に障っちまう野郎なんですよね、あたしゃ。「南北」とは違い「南中北」は十分に「熟して」いない、っていう判断によるものかとも臆度されるものの、だったらなんでその③だけにしとかねえのよ、って感じ。「不統一」が気になるなら(全然気にしてねえからこそこうはなっちゃってんだけど)、①と②も〈南・北〉にすりゃいいじゃねえかい。ベタ組みだと、①は2行に納まってたのが1字だけ追い出されて3行になっちゃうけど、そんなもんもっと容赦なく気にしちゃねえだろうよ、こういう著者や編集者なら。

あたしの場合これは、かつて印刷関係の仕事(最初は欧文専門の電植組版で、途中からはDTPってことんなり、最後は結局和文ばっかりでしたが)をやってたからってんじゃなくて、たぶん生得の性格に由来するものなんでしょう。それでも、こういう立派(そう)な出版物なら、表記法の違いはそのまま表記内容の扱いが別だってことを示すべきもの……なんじゃないかと思っちゃうんですよね。書き方が違ってたら、いったいどういう区別によるものか、って考えちまうじゃありませんか。そりゃ俺だけ?

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

えー、以前にもくだくだしく垂れた不平をついまた書き連ねてしまいました。しかし漸くこれで①から⑤までの図に対する苦情も終幕に至ったようで。

この後、《中》を中心に、町奉行(所)の名称や位置の推移についてまとめるつもりだったのですが、やっぱりまた長くなっちゃったんで、それは改めて次回ということに。

毎回おんなじこと言ってるようで恐縮至極。

0 件のコメント:

コメントを投稿