2018年4月28日土曜日

町奉行あれこれ(28)

前回に引続き「国会デジコレ」所掲の絵図におけるその後の町奉行の表記例を以下に:

●正徳2(1712)年発行 分間江戸大繪圖(コマ番号4/5をご参照のほどを);萬屋清兵衛版[正徳二壬辰歳……との記載あり]

 数寄屋橋内  松野壹岐
 鍛冶橋内   坪内能登
 同呉服橋寄り 丹羽遠江

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次も同年の絵図ですが:

分道江戸大繪圖・乾(コマ番号3/3);山口屋須藤權兵衛版[正徳二壬辰年]
 数寄屋橋内  御奉行 松野イキノカミ
 鍛冶橋内   町御奉行 ツホウチノトノカミ
 同呉服橋寄り 町御奉行 ニハ遠江守(相当なくずし字)

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2年後の正徳4年、鍛冶橋と呉服橋の間の丹羽遠江守に代り、中山出雲守が後任として同所で町奉行に就任します。その翌年の絵図:

●正徳5(1715)発行 分間江戸大繪圖(コマ番号5/5および4/5);萬屋清兵衛版[正徳五乙未年正月]
 数寄屋橋内  松野壹岐
 鍛冶橋内   坪内能登
 同呉服橋寄り 中山出雲

表記は同じ萬屋の3年前の版と共通で、呉服橋寄りの屋敷だけ名義が変っているわけですが、この中山氏こそは「初代中町奉行」の丹羽氏の後任……なんですよね。

常盤橋番所が焼けてしまい、数寄屋橋で業務を再開した宝永4(1707)年の時点で、《中》はそれまで《南》だった鍛冶橋番所のことになり、そこを役宅としていた坪内能登守が「2代目中町奉行」とされるのもそのためなのは明白。でもこの事典はその経緯に関しても随分と曖昧なことを随分と明確そうな筆致で書いており、図や「歴任表」の錯綜に気づかなければその記述の疎漏にも気づかぬ仕組み。
 
 
ああ、そうでもないか。実際の位置関係とは食い違ったまま「単なる区分名称」と化していたのが、やがて《中》ではなく《南》(当該町奉行は坪内)が廃止されたのを機に、残る2つ、すなわち実際は南にあった《北》と、北になっていた《中》を、それぞれ実態に合せて改称した、って言ってるんでした。りそりゃねえだろう、と思ったのは、20何年前に三省堂で最初に立ち読みしたとき。 

この点については、むしろウィキぺディアの「町奉行の一覧」のほうがまだ実情を(一部)反映しているとは言えそうなんですが、いかんせん、所在地の変遷については記載がなく、また〈中町奉行所というものも〉〈理由や職務内容はあまり定かではないが、南北町奉行所の補助役として〉設置されたなどという、言わば古典的な誤解に引きずられた記述になっており、結局はおっつかっつってところ。

「実情を(一部)反映」ってのは、宝永4年4月22日(?)の南北逆転(?)に呼応して3人の町奉行の呼び方が入れ替り、丹羽が「中」から「北」、松野が「北」から「南」、坪内が「南」から「中」(名前の順番はそれぞれの就任順)に変ったかのように記されているという意味です。いちいち(?)を付したのは、まずその日付の典拠が未確認であることと(あたしのオタク力不足?)、それは恐らく件の「高倉屋敷」への移転、もしくはそこでの業務再開日のことであろうから、それなら「逆転」は《北》と《中》の間に生じたこと……などという、またも実にどうでもいい拘りの表れに過ぎませず。

しかしそもそもこの「一覧」、北町奉行、南町奉行、中町奉行の区分ごとにそれぞれの氏名を継時的に羅列するするという体裁のため、丹羽、松野、坪内の3人は宝永4年4月22日を境に表示欄が移動し、宛も各自「2種類」の町奉行を歴任したかのような記述。役屋敷が1つ場所を変えただけなのに(数ヶ月のうちに2回ではありますが)、ある日突然お互いに屋敷と役職名を交換したのか?とも受け取れる書きよう。実際そう思い込んでいる人による記事もウェブ上には見られます。

この常盤橋から数寄屋橋への移転に伴う名称の変更を「転任」と言っているサイトだってあるんですが、ちょっとでもおかしいってことに気づかない人は、当然ほんとに転任したんだと思っちゃうでしょう。

だから何だと言われても答えようはありませんけど。

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何はともあれ、ほんとならこの後に示されるべき絵図が、既にだいぶ前にご紹介致しました、初代「中町奉行」の後任、上記中山出雲守在任中を示す次の2図ということに:

●享保2(1717)年発行 分間江戸大繪圖(コマ番号4/5);萬屋清兵衛版
●同年発行 分間江戸大繪圖(コマ番号5/5);須原治右衛門版

これも既述ではありますが、前者では:

 数寄屋橋内  松野壹岐 
 鍛冶橋内   坪内能登
 同呉服橋寄り 中山出雲
 
後者では:

 数寄屋橋内  大ヲカ越前(かなりのくずし字)
 鍛冶橋内   坪内ノト
 常盤橋内   中山出雲

という表示。加藤剛の当り役(古過ぎるか)のデビューがこの年、享保2年中だったってことになります。3奉行のうち、北端に位置していた中山が、堀を1つ越えてさらに北へ引っ越したのも同じ頃だった、ということも見て取れるという次第。

実際の位置関係から言えば(それしかなかろうとは思いつつ)、大岡越前(坪内との重複を避けて就任時に能登守から越前守に改称したのも既述の如し)は初っ端から「南」の町奉行だった筈。どうしてこれを「北から南に転じた」なんて言い張るんだか。そういう記述を見ちゃったにしても、「どういうこと?」ってチラとでも思わねえ方々がその与太話を広めてんでしょうかしら。「どういうこと?」って思う思わぬは勝手、と言うより、故意に思おうと思って思うやつぁいねえか、とは思えども。
 
                  

まあいいでしょう。とりあえずこれ以降の「中町奉行所」問題について記しときます。

「問題」ったって、それは専ら各奉行所(それ自体が当時の用語に非ず)の名称(俗称)がどうだったかってことに過ぎず、何度も申しますとおり、公式には2人だろうが3人だろうが、いずれも同じ「町奉行」(「町御奉行」とか)。それぞれの住居兼職場たる役屋敷が、「北」だの「南」だの「中」だのって呼び分けられてた(かも知れない)ってだけのことだってのも再三申し上げました。「北町奉行」だの「南町奉行」だのという表記自体、幕末まで一切見られませんし、それだって自分の見た中では唯一の例外。

「北町」や「南町」という文言が意味をなさないのも歴然で、武鑑の中には「北方」「南方」との表記を用いている例もあるものの、それは町奉行、つまり「人」についての区分。役屋敷という「場所」については、やはり「北/中/南(の御)番所」とするのが一貫して最も普通であったろうとは思われます。それがどうしたよ、とは自分でも思いつつ。

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まあともかくも、「第3の町奉行」たる中町奉行が「廃止」され、2人制に戻った後の状況を示す例も挙げとくことに致します:

●享保7(1722)年発行 新板江戸大繪圖(コマ番号5/5および4/5);見須屋版[享保七壬寅歳]
 数寄屋橋内  町御奉行 大ヲカ越セン(「町」は「田」の下に「丁」の字)
 鍛冶橋内   本タフセン
 同呉服橋寄り 植村土佐守
 呉服橋内   ホリワカサ
 常盤橋内   中山イツモ
*以前にもこうしましたが、色付きは町奉行以外についての蛇足情報ということで。

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その翌年:

●享保8(1723)年発行 分道江戸大繪圖. [乾](コマ番号3/3);山口屋須藤權兵衛版
 数寄屋橋内  町御奉行 大岡越前守(字はかすれてます)
 鍛冶橋内   本多豊前守
 同呉服橋寄り 植村土佐守
 呉服橋内   堀ワカサ
 常盤橋内   諏訪美濃守

……てな塩梅にて。

前に言及した、常盤橋番所の(つまりこの十数年前の宝永4年に松野壱岐守が高倉屋敷を経て数寄屋橋へ移転した)跡地に住んでいた「本多兵フ」こと本多兵部さんは、中山出雲守が呉服橋と鍛冶橋の間からこの常盤橋に引っ越した享保2年にはどこかへ転居した筈ですが、享保17年の武鑑に〈本多伊豫守 忠統;御若年寄;△上 西御丸下(大手ヨリ五丁)〉と記されているとおり、若年寄に任命されたという享保10(1725)年の絵図(コマ番号6/6)では、桜田門内にしっかりと「本タイヨ」と記されております。大名小路の少し西(上)です。

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どうせなので、その絵図における大名小路の様子も:

●享保10(1725)年発行 分間江戸大絵図(コマ番号6/6および5/6);須原治右衛門版[享保十年歳次 巳]
 数寄屋橋内  大ヲカ越前
 鍛冶橋内   本タフセン
 同呉服橋寄り 上村土佐(「上」は「植」の誤記? 「佐」は「エ」が「ヒ」の形)
 呉服橋内   ?ワカサ(文字が剥がれていて読めません。「ホリ」?)
 常盤橋内   諏訪美濃

……という具合。
 
                  

ついでに申し上げますれば、鍛冶橋内南側区画の徳島藩邸、延享5(1748)年の図:延享5(1748)年発行 分間延享江戸大絵図(コマ番号2/3);山口屋与兵衛(他)版には、「松平阿波守」と記されてまして、これは2代にわたる「淡路守」から再び「阿波守」となった先代、宗英(むねてる)の養子にして、今の言い方だと「蜂須賀宗鎮(むねしげ)」となるお人のこと。だから何だと言われればまたもまったくそれまで。

懲りずに付言すれば、この年は7月に寛延へと改元され、翌月には『仮名手本忠臣蔵』が初演。吉良邸殴り込みの元禄15年から起算してちょうど47年目でもありました。やっぱりそれがどうしたと言われれば、またしても何とも申し上げようはなく。
 
                  

『図説 江戸町奉行所事典』所載の「町奉行所の位置」という項に添えられた5つの図についてあらずもがなの難癖をつけてたら、かくも長き繰言とはなり果てているというわけですが、漸くその3つ目の図、勝手に③と表記してるやつについてはこれでおしまいにできそうです。できそうも何も、自分がやめりゃいいだけの話ではありますが。

えー、残りの2図は、眼目であった「中町奉行(所)」にまつわる錯綜とはもう関係がありませんので、次回はとりあえずその図示法の杜撰さについてちょいと文句をつけるにとどめる予定。しかる後に、町奉行(所)の引越しや名称の変遷について、ここ暫くの間に得た知見(?)に基づき、下拙なりにざっとまとめとこうかとは目論んどります次第。

それにて、このバカバカしくも長ったらしい閑話の連環にも一応の区切りがつけられるのではないかと。だからと言って、別にどうなるものでもないのは重々承知なれど。

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