2018年5月1日火曜日

町奉行あれこれ(31)

「江戸町奉行」の「江戸」は冗語であり、単に「町奉行」と言えば江戸の町奉行を指していたのですが、とにかくその町奉行と、役宅(役屋敷)である「(御)番所」、今日言うところの「町奉行所」について、これまでに得た知見(拾得したカラ知識)およびそれについての論考(ちょいと加工を施したその受売り)をざっとまとめとこうかと思います。移転に伴う各番所の(非公式な)名称の変遷、およびその位置に応じた居住者の、つまり各町奉行の(やはり非公式な)呼称の推移、というのが主眼……の筈です。

これまでほうぼう寄り道しながらさんざん難癖をつけてきたのは、何度も申し上げておりますように、かつて三省堂で立読みした『図説 江戸町奉行所事典』という本に記載された説明文や図版、それと、いろいろ確認しようとして覗いたウェブの記事に対してなのでした。もともとこの長大な駄文は、自分の仕入れたカラ知識を自分のために整理せんがための、言うなれば悪足掻きの所産。いったいこれのどこが整理なものか、と思うのは正常な感覚とは存じますが、空間的な認識はともかく、継時的な把握やその記憶については、文章化という作業もなかなか有効だったりするのではないかと。自分にとっては、ってことですけど。

なお、当初は立読みで一部暗記などもしたその事典、その後地元の図書館で閲覧可能なばかりか、同内容の旧刊『図説 江戸の司法警察事典』は借り出すこともできることを知り、目ぼしいページを自宅でスキャンしたんでした。ちょっと懐かしい。

ともあれ、早速その「まとめ」を試みることに。
 
                  

この町奉行所事典の記述も、ウィキぺディアその他のウェブサイトの記事も、江戸時代以前の天正18(1590)年、家康の関東入部、江戸入府とともに(少なくとも)2人の「江戸町奉行」が置かれ、江戸初期(関ヶ原直後の慶長年間?)にはそれが「南」と「北」とに呼び分けられるようになった、と解釈されるものになってるんですが、その点については以前に因縁をつけたとおり、まず江戸市中に限定された司法・行政当局は当初存在せず、「関東総奉行」とか「関東巨地奉行」などという役職の管轄に江戸の町も含まれていた、というのが実情とは思われます。

さらに、江戸とは無関係の「小田原巨地奉行」や「北条巨地奉行」をも「初代江戸町奉行」に加え、最初期の天正18(1590)年、つまり未だ江戸時代以前、家康が秀吉に言われて関東に移ったその年だけで江戸町奉行が何人もいたかのように記した例もあり(ウィキ所掲の「町奉行の一覧」も、曖昧ながらそうとしか受け取れぬ記述)、まことに杜撰であると(エラそうにも)申さざるを得ません。みんな少しはおかしいと思わねえもんかしら、なんてね。

当時の正確な記録は残っておらず、詳しい経緯はどのみち不明ではあるのですが、やがて関東全域から専ら江戸市中を対象とする司法・行政担当者が(やはり2人)定められるも、初めは城門警衛という軍務との兼任だったようで、「番所」という呼称も、もともとがその詰所のことであったのを、そこで民政にも当った名残り……らしゅうございます。それがじきに市政の専任者ということになり、古地図の表示などから、その役屋敷(役所兼官舎)が各自の私邸に代って呉服橋門内と常盤橋(当初は「大橋」)門内に固定されたのは寛永9(1632)年であったと見られ、「町奉行」という呼称が定着したのも恐らくその時期であろうと推測される……ということのようで。

江戸後期以後の調査・研究による定説では、前年の寛永8(1631)年に南北両町奉行所の位置が確定した、ということになってる(らしい)んですけど、そこがどうもはっきりせんのです。将軍就任翌年の享保2(1717)年に吉宗から町奉行に抜擢された大岡越前が、それと同時に編纂を命じられて着手したという法令集(を後から改訂した)『享保撰要類集』は、町奉行の沿革においても権威的文献とされ(ているらしく)、それに依拠した記事や著述も多い(らしい)のですが(この事典やウィキなどにも孫引きされてる部分がありそう)、どのみち確かな記録の残っていなかった初期の事情については、かなり情報が曖昧なのはどうしようもなく。
 
                  

呉服橋を「南」、常盤橋を「北」と呼び分けるようになったのが、その配置の固定化と同時なのかどうかは結局わかりませんけど、いずれにしてもそれは正式の名称ではなく、飽くまで各屋敷の位置による便宜上の区別(たぶん)。それぞれの主である各町奉行のことも、「南町奉行」だの「北町奉行」だのとするのは現代語であって、武鑑でも絵図でも「南北」を明記している例は(19世紀以前には)見られません。

江戸末期に至って漸く「南」や「北」を示した絵図も現れますが、その場合も「奉行(所)」の前には必ず「御」の字が冠され、「南町御奉行(所)」とか「北町御奉行(所)」てな塩梅。私有品では万延元(1860)年の大絵図だけが例外的に「御」の字を省いてますが、その絵図も含め、「所」は付さないほうが圧倒的に普通。
 
万延元(1860)年刊『萬延江戸図』より
両奉行とも字が逆さになっちゃってますけど。
 
武鑑では、文化(1804~18年)の辺りから「南御番所 數寄屋橋内」とか「北御番所 呉服橋(之)内」という表記が標準的になりますが、それは屋敷の所在地を示すもので、役職名は2人まとめて「町御奉行」とするのが一貫した統一表記。「武鑑」という書名は17世紀後半に初めて使われたってんですけど、この標準(?)表記は、18世紀初頭から幕末まで、書名に年号を冠した武鑑を発行し続けた須原屋(絵図の版元としても人気)の方式です。

17世紀から19世紀初めにかけての絵図には、一般の旗本屋敷と同様、当該町奉行の名前しか書かれていないのが普通で、「町御奉行」と併記されていれば親切なほう。単に「町御奉行」とだけ記され、個人名のない場合もありますが、いずれにしろ「南」だ「北」だとは言ってませんね、末期以前は。したがって「中町御奉行」と記した例はありません。

江戸市中の民政長官である町奉行が2人制なのは、民事訴訟を1ヶ月交替で受理し、「閉館」中の1ヶ月はそれぞれその処理に専念する、という仕組みで、いわゆる「中町奉行所」があった十数年間はそれが3交替制だったという次第(それも既述ですが)。元来は江戸の市内ではないため町奉行の管轄外であった大川の東側が、それまでの本所奉行から町奉行に移管されるのは正徳3(1713)年ですので、担当地域の拡大が増員の理由ではなかったということにはなりそう。

月番制がいつからなのかも判然とはしないものの(寛永末?)、いろいろな役職が2人制だったのは、徳川に限らず日本では古来の慣習だった模様。実は、まだ固定の役宅もなく、「町奉行」という名称も定着する以前と思われる寛永初期の数年間だけ、1人が死去したまま後任を補充しなかったために市政長官が1人だけという時期はあったんですが、当然まだ民事訴訟を1ヶ月置きに交替で受理していたのではなかった、ということになりましょう。わかんないけど。
 
                  

いずれにせよ、呉服橋と常盤橋(大橋)の門内、すなわち見附の内側=城側に、堀を挟んで言わば「隣合せ」に2人の町奉行の職場兼住居が固定された寛永中期、1630年代初めの位置関係は、60数年後の元禄11(1698)年9月に起きた「勅額火事」という大火で呉服橋番所=南番所が焼失するまで維持された、ということにはなるのですが、それまでにも火災は絶えず、両番所とも、移転には至らぬまでも、結構頻繁に修理や建替えを施されていたとのことではあります。

特に呉服橋のほうは、番所だけではなく、と言う前にまず呉服橋門内だけではなく、鍛冶橋を経て数寄屋橋に至る外濠の西側一帯と、内濠の東側、すなわち八代洲河岸一帯とを繋いだ地域(永代通りの北から有楽町駅の辺りにかけての外堀通り沿いと、東京駅の西側一帯を合せた範囲、と言えばよいでしょうか)が、全体的にしばしば様相を変えていたものと思われ、呉服橋番所、つまり南町奉行所も、その間何度か位置を変えていたようなのです。
 
この一帯ってことで……
元禄6(1693)年刊『江戸宝鑑の圖大全』より
 
寛永8(1632)年頃の状況を示すと思しき私有の絵図では、屋敷が南北に2軒ずつ東西に軒を連ねた呉服橋内区画の北東角の辺りに「島田弾正」とあり、これは当時たまたま1人だけになっていた町奉行、「島田弾正忠(だんじょうのじょう)利正」の私邸なんですけど、その屋敷の北隣、道三堀に面した細い部分は「町屋」となっており、それは、南の数寄屋橋一帯を除くと、上述したこの屋敷街全体に共通する状況で、つまり屋敷の連なる区画の辺縁を町地が取り囲んでたって寸法。ただし外濠沿いだけは屋敷の区画とは道を隔てた濠端に町屋が並んでます(常盤橋内はまだ一般の大名屋敷、「牧野内匠」邸で、そこも外濠沿いは「町屋」)。
 
寛永期(1624~44年)の絵図より
 
それが、20数年後の明暦3(1657)年正月、あたしの地元、本郷が火元とされる振袖火事の直前に発行されたと思われる『新添江戸之圖』では、そうした「町屋」は一切描かれておらず、呉服橋門内区画東端の北半分が丸ごと「神尾(かんお)備前」、すなわち町奉行の「神尾備前守元勝」で、屋敷の北側は道三堀に面しています。これもまた頻発した火災によるものなのかも知れませんが、その20年余りの間に「町屋」は一層され、呉服橋番所は当初の島田屋敷よりは北側に拡張されていたということに(銭瓶橋を渡った道三堀の北側、常盤橋内は同役の「石谷(いしがや)将監」こと「石谷左近将監貞清」)。
 
明暦3(1657)年刊『新添江戸之圖』より
 
しかしそのさらに30数年後の元禄6(1693)年の『江戸宝鑑の圖大全』(先ほど掲げた、鍛冶橋内に「吉良上ツケ」や「坂部三十」の名があるやつ)を見ると、前2図では屋敷地が南北に二分されていた呉服橋内の東端は3軒が並ぶ形になっており、その真ん中が「ノセイツモ」こと町奉行の「能勢出雲守頼相」。この区画は後にまた南北2軒ずつになるのですが、17世紀末のこの時分は番所が一般の屋敷に南北を挟まれた状態。因みに常磐橋内は「北条安ハ」、前年に町奉行となったばかりの「北條安房守氏平」です(いずれも既述ではありますが、とりあえずまた)。
 
再び元禄6(1693)年刊『江戸宝鑑の圖大全』より
 
ところで、東京駅周辺の、内濠と外濠の間を占めるこの屋敷街一帯は、江戸時代を通じて比較的高級な大名・旗本の居住地区となってまして、その中央を南北に通るのが大名小路。東京駅丸の内中央口の西側に当ります。かつて、八重洲の語源であるオランダ人、ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタインの屋敷があったのは、現在の八重洲口ではなく(それは呉服橋と鍛冶橋の中間で、初期「中番所」の辺り)、内濠沿いであり、「八代洲河岸」が外濠側ではなく今の丸の内側を指すのもそのため……なんですが、そんなこたどうでもよござんした。

町奉行2人の役屋敷は当初、この大名小路一帯の北東端に近接する銭瓶橋(道三堀が埋められた今日はビル街)の南北両橋詰近くに置かれたのが、その後火災によって何度か移転するってわけですが、外濠沿いの門内で内濠の外(東)側という基本は変らず、というところです。
 
Googleマップ 東京駅周辺
(これは通常どおり北が上ですが)
 
                  

てことで、次の段階、大火による最初の移転騒ぎと、その後ほどなく新設された「中町奉行(所)」の時代について。

今日最も情報が錯綜していると思われるのがこの中番所時代なのですが、錯綜の原因は、町奉行が3人制となり、役屋敷も3つとなっただけでなく、わずか十数年のその3番所時代に、いずれも火災による移転が相次いだためとは思われます。その時期を過ぎると、明治まで移転は一度きりで、位置や名称に関する今日の混乱もこの十数年間に集中、と言うより殆どこの時期に限られる模様。

その錯綜した経緯については既にかなりしつこく書き散らしておりますれば、ここは極力簡潔にまとめるよう努める所存(できるかな)。
 
                  

……と思ったけど、なんせこの困った性格、やっぱりそう手短に行くわきゃねえっていう自信に満ち溢れちゃってるもんで、今日のところは大人しくここまでと致し、続きは次回改めてということに。相変らず恐縮至極。

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