2018年4月2日月曜日

無声母音と歌メロ(8)

さて、件の『眠れぬ夜』という曲については、もちろんイントロだけでなく、本体にもかなり感服したものでした。当時の邦楽は、英米のロックだのポップだのを聴きつけていてると、どうしてもいろいろと拙く、手法も古過ぎる、ってのばっかりでしたから(流行ってたのが、ってことであって、優秀な音楽家は日本にだって昔からいくらでもいたんですけど、まあ大抵は埋もれてたような塩梅で)、こういう「進んだ」音楽を耳にすると、何だか自分の油断を突かれたようでもあり、図らずもちょいと驚喜など致しまして。

分けても心憎いのは、前後5回出てくる同じ(筈の)メロディー、最初の1回目と最後の5回目だけが言わば素直な長音階上に構成されているのに対し、その間の3回では、1つの音が半音下がり、いわゆるブルーノートになってるってところ。

1.ひざまずいすべてを
2.二度とはえらない
3.自由毎日
4.あの扉開けて
5.飛び出しゆけるか

の、それぞれの付いた部分がそれで、うち4番目は2音節にわたって高→低とメロディーが動き、[オ(♪)‐↓オ(♪)]って感じ。1音節の助詞「を」を伸ばしてんですが、むしろそういうのは、赤とんぼその他の古い(正統の?)日本歌曲にこそ頻繁に見られる「間延び手法」に類するもので、発話時の音韻とは必然的に乖離致します。そういう非実際的な音節(音符)ばかりだったのが昔の日本歌曲だってことで、いったいどちらがより「言葉を大切に」しているのやら。

それはそれとして、この5つのうち1番目の[テ]と5番目の同じく[テ]が、この調(G:ト長調)の音階に含まれる「堅気」の長3度音程(1度、つまり起点からの高さの隔たりが、全音×2=半音×4ってことで)に当る《ミ》(階名)であるのに対し、残りの3つではそれが実に味わい深いブルーノート、すなわち本来長調には帰属しない、堅気の位置からは半音下がった短3度([全音+半音]=半音×3)、言うなれば瞬間的短調風をもたらすが如き洒落たもんになってんです。

……と、とりあえず書いときましたが、実際にはこの5ヶ所、いずれも一瞬1つ(半音)低いところからの急上昇という微妙なくすぐりが施されておりまして、実はそれ、この歌全体で頻用されている小技なんですけど、2つの[テ]について言えば、先ほど最初と最後はブルーノートに非ず、などと申しましたものの、実際はどっちも出だしの発声は所定の音程の半音下、つまりは紛う方なきブルーノートというのがほんとのところなんでした。1つめの[テ]は「ちょっと揺れてんな」ぐらいにしか思ってなかったんですが、よく聴くとほんの一瞬だけそのブルーノートがまず発せられているのがわかります。それに対し、最後、5回めに出てくる[テ]は、その始まりの一瞬がちょっと長めで、結構フツーに聴いていても、半音下から所定の長3度、《ミ》に移行してるんだってことが比較的容易に知れるという具合です。

大抵はそんなもん気にもせず、ぼんやりとしか聴いてないから、まず気づくこともないんですが、この小田和正という人物、無声母音の発音法という言語上の処理手腕に加え、音楽的にも随分細かいことをやってやがったんですな。おっと、そっちが本業か。

ええと、この最初と最後の[テ]以外の3ヶ所では、同じ位置に当る[カ][ナ][オ(の前半)]が、やはりそれぞれ半音下からの急上昇ワザで歌われ、つまりはまず長2度=《レ》で歌い出し、即座にブルーノートたる短3度=《ミのフラット》へ移動するっていう、全体が2つの[テ]より半音低い動きなんですね。4番目の「を」なんぞは次の音符にまで食い込んでおり、その音符が《レ》なもんだから、結局のところこの「を」は《レ》→《ミのフラット》→《レ》という、急上昇と下降の合せ技てえことに。出だしの《レ》がごく短いから、こっちはあんまり勘定に入れて聴いちゃいないわけですが、こういうところまで譜面に書き示そうったってそいつぁ無理でしょう。どれもキッチリ16分とか32分とかって長さじゃないのはわかりきってますしね。つまるところ、自分の耳で確かめるしかないってこって。

それにしてもこのブルーノートてえ連中、今じゃあ各種Jポップでも当然のように用いられてはおりますが、当時の歌謡業界では、こういう基本的な感性すら欠落したベテランの大先生たちがまだまだ支配的。たったこれだけのことでグッと洋楽に比肩し得る小粋さが醸し出されるではないか、とは思ったのでございました。洋楽が邦楽よりエラいなんてこともねえでしょうが、その頃のあたしにとっては、到底同じ時代の音楽とは思えないほど、日本の流行歌ってのは押し並べて洋楽より野暮でしたからねえ。幼さと古臭さが綯い交ぜになったような……って、相変らずエラそうだけどさ。
 
                  

以前の投稿でも触れましたが、こういうドレミってのを音名として用いるのは、本来イタリア語とかフランス語の流儀であり、このキーにおける《ミ》の音名は、日本では「ロ」、英語では「B」、ドイツ語では「H」だったり致します。固定ド唱法、つまり、ソルフェージュは須く「国語を排して」イタリア式の音名によるべし(ま、ソルファってくらいだからしょうがねえのかも知れねえけど)、って言い張る向きが……あたしゃ嫌いです。じゃあおめえ、何でハ長調をド長調、イ短調をラ短調たあ言わねえんだよ、っていう合理的偏見(これも撞着語法ってことでひとつ)。単純に整合性、一貫性の欠如ってやつじゃねえかい、と思わざる能わず、みたいな。

ああ野暮で思い出した。敢えてその野暮を承知で申し添えますが、上で使用した《ミ》だの《レ》だのという音の名前、これは階名でありまして、それを示すためにとりあえず《 》に入れといたんですけど、階名ってのは各調性に応じた相対的な呼称です。この曲はト長調ですので、《ミ》も当然ト長音階の第3音ということであり、ハ長調では同音が《シ》ということに相成ります。

蛇足終り。
 
                  

そんなことはさておきまして、この歌、何より粋なのは、既述のとおり、都合5回出てくるこの旋律のうち、その瞬間的ブルース技とでもいうやつは2回目から4回目まで続けて3回用いられるも、最初はそのそぶりも見せず(出だしの一瞬がブルーノートだってことに、漫然と聴いてるこっちが気づかないってこってすが)、2回目以降との齟齬により、あれ? うっかりしたのかな、と思わせといて、最後の5回目もまたそのブルーな音程はやり過す(出だしは1回目より長めにその音程になってんですけどね)っていう、言わば夾撃の如き軍略。最初と最後だけってところで、よもや不注意や気紛れによる不統一ではなかろうと想察致します次第。まさか[テ]って音韻だけ半音下げ(たままにす)るのが苦手ってこともないでしょうし。ほんとのところはわかんねえけど。

それにしても、ギターソロの耳コピなら何度となくやってきちゃいるけど、ひとが歌ってんのをこれほど聴き込んだのは初めて。その意識がないままどれだけ聴いても一生気づかない音があるってのは、楽器の演奏に限った話じゃなかったんですね。当り前か。
 
                  

えー、小田和正はたまたま話の成り行きで例に選んだってだけで、ほかにも同じ流儀で無声母音に対処している歌手はいる筈だし、逆に、殆ど、あるいは一切無声母音を用いない者もいるわけではあります。必ずしも各人の出身地によって画然と分かれるわけでもないようですが、オフコースのもともとの片割れである鈴木康博も、やはり小田と同様の歌い方ではありました。両者とも東日本、横浜育ちの由(鈴木は伊豆の生れだとか)。

いずれにろ、これはメロディーが多少ともお洒落な(?)、いわゆるポップ系の歌に頻出する現象ではあり、それらに比べれば、演歌という、これもやはり童謡・唱歌の「権威」の前には「流行歌」という一段下に位置する(のか?)ものではありながら、より「伝統的」な部類には属するであろう、都はるみの『北の宿から』を聴いてみると(例は何でもよかったんですけどね)、ものの見事に無声母音は皆無なんですよね。

……ってことで、次回は一転、演歌編(?)となります。俺もほんとテキトーだよな。

0 件のコメント:

コメントを投稿