2018年4月1日日曜日

無声母音と歌メロ(7)

いわゆる邦楽には殆ど関心のなかった十代の頃、当時2人組の「フォーク」グループだったオフコースの『眠れぬ夜』って曲(の特にイントロ)にはちょっと感心し、件の『さよなら』以前にはたぶんそれが唯一自分の知るオフコース作品だったのでした。で、これもちょっと確認してみたところ、〈涙流ても〉って歌詞の「し」は、前後のいずれよりもピッチが低いのを明示せんがため(たぶん)、ほぼ母音の無声化は施されておらず、また〈傷けてゆく〉〈入ってたら〉〈飛び出て〉の[ツ][キ][シ]の母音も決然たる有声音でした。

まあ最後の[シ]はかなり長めですので、どのみち無声化は相当に困難でしょう(4分:♩、他の音節は8分:♪。テンポはちょっと速め。アレグロ?)。と言うより、わざわざ聴き直すまで気づかないってことは、もともと歌い方としてはどれも極めて自然なものであり、あたしの言う「うるさい」感じにならない限りは、どうでもしゃべるときと同じ無声音でなくちゃならない、なんていちいち考えてやってるわけじゃない、ってことも……ハナからわかっちゃおりやすがね。

最初の〈流ても〉は、前回例に挙げた『Yes-No』の〈たり〉だの〈あた〉だのの類似例で、通常は無声化する狭(せま)母音[イ]が、やはり/t/という次音節の父音の初期状態たる閉鎖を先取りすることによって、有声ながら極めて短く発音され、実質16分に満たないのではないかと思われる見事な瞬間芸。それにより、限りなく無声に近い印象ながら、ピッチは辛うじて聴き取れるという、やはり妙技とでも呼びたくなるような極めて巧みな処理。それも実に何気なく、ごくごく自然に歌ってるもんだから、わざわざこういうねじくれた聴き方をしない限りは到底気づきもしないという秀抜さ、ってところです。

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……と、ここまでは昨2017年暮に当時の「知見」を叙したものだったのですが、実は今さらながら(2018年春)ちょいと気づいたことがございまして、それをまたひとくさり記すことと致します。

今やっております「再録」に当っては、もちろん毎回元の文章であるSNSへの投稿文を読み返し、諸々加筆だの削除だのといった修正および訂正(誤字脱字衍字の類いは未だ一掃し得たとも思われず)を施しているわけですが、何せもともとがほんとに長期間ダラダラと書き散らした切れ目のない愚文であり、ここ暫くはそれをテキトーに切り貼りして参ったという次第。

で、上記の「ちょいと気づいたこと」ってのは、前回分を読み直していたら図らずも想起されたものだったのですが、どうして最初に書いたときには気づかなんだかと言えば、それはさらにその1年前の投稿の中身に関わる事柄だったため、単純にその記述内容が念頭になかったからなのでした。このブログへの再録作業の過程で、すなわち元の愚長文を分断し、順序を入れ換えつつ趣旨の区分ごとに掲げて行くという無益な営為によって、その1年に及ぶ隔たりが一挙に縮まることとはなり、要するに古いネタだったものも難なく思い出されたてえこって。
 
                  

……などというあらずもがなの言いわけ(なのか?)は切り上げると致しまして、早速その「ちょいと気づいたこと」ってのを。

どうせ大した話じゃありません(全部そうだけど)。無声母音を欠く似非東京弁の使い手、田村正和についての記述中、そっけなく《これ(=無声母音の欠落)以外にも妙にクセのある発音は随所に聞かれるのですが》などと述べていた、その「クセのある発音」が何に起因するのか……ってより、そもそもその「クセ」たあぜんたい何のことなのか、ってのがはっきりしたって感じなんですよね。

てことはそれ、不遜にもひとのしゃべりを「クセのある」などと決めつけときながら、あたし自身が「妙に」としか言うことができず、どこがどうクセだってのかは何ら語ってもいなければ、そもそも考えてもいなかったってことにほかならず。やっぱり俺も大概いいかげんだよな、とは改めて自覚しましたる次第にて。

とにかくまあ、今度も『古畑任三郎』の冒頭の独白集(ったって、無数の視聴者に向けた台詞ではありましょうが)でその田村の語りを例示しつつ、ちょいとまた御託を並べようてえ要らざる魂胆。でも今回はほんの数例だけ挙げとこうと思います。明確な無声母音無視の例は第5回『汚れた王将』における〈気づこと〉まで出てこないんですけど、それに負けず劣らず、何だか諄い発音だなあと(勝手に)思っちゃう部分は無数にあり、早速第1回『死者からの伝言』からそれが聴かれるんです。

〈名前を呼ぶときは「ちゃん」をつけるのはやめてください〉

の「ださい」の[ク]、および

〈「ちゃん」までが自分の名前だと思い込んで〉

の「思い込んで」の[ト]がそれでして(その前の「呼ぶとは」の[キ]にもそこはかとなく漂ってるような)、これは[ダ]という紛れもない有声子音(有声父音+有声母音)や[オ]という有声母音(母音は基本的に有声ですけど)の前なれば、母音の[ウ]や[オ]が無声化すべき余地はなく、妙な「クセ」が感ぜられるのは有声無声の別によるものではない、ってことは明白……なんですよね。

これ以外にも、

〈箱ら出す前と〉
〈古なったストッキングの〉
〈手紙をお(送)るときは〉

など、その後の3回分から任意に1例ずつ挙げただけでも、このとおりもれなく含まれておりました。いずれも、無声化の対象(前後が無声父音の狭母音、[イ]と[ウ])ではないから、母音が有声のままだからって何ら問題はないのですが、とりあえず「無声父音+母音」という音節であるところは各事例に共通。てことは、母音の有声無声ではなく、各母音の直前に発音される父音(頭子音)がフツーじゃないってことなんだな、と睨んで改めて聴き直すと、ほんとにそうだったのでした。

「ください」という台詞では常にそれが感じられるので、[ク]という音韻に顕著な「クセ」かとも思いかけたんですが、同じカ行でも[カ]という例もあれば、タ行の[ト]にも発現しており、もちろん狭母音か否かも無関係。では何がその「クセ」の正体なのか。
 
                  

……と、さっきからむやみにもったいぶってるようですみません。これ、いったい何が妙なのかってえと、前回から具体例を挙げてお伝えしている、小田和正流の「有声母音をさっさと切り上げることによる疑似無声化作戦」とは対極を成すが如き、「後続の有声母音をあまりにも早めに発することによる無声父音の疑似有声化」みたようなもんじゃねえかと(ほんとか?)。

相変らず何言ってんだかわかんねえとは承知。充分自覚はあるんですが、どうにもうまい具合に言い表せなくて。小田式の「疑似無声化」(って勝手に呼ぶことにしたやつ)ってのは、既述のとおり、『Yes-No』の〈たり〉や〈あた〉の[フ]や[シ]、および『眠れぬ夜』の〈涙流ても〉の[シ]の発音でして、偶然かとも思われるものの、いずれもタ行音の前の狭母音が、そのタ行の父音/t/(の破裂を瞬時保留した両唇閉鎖状態)を早めに施すことによって、その有声状態をごく短く切り上げるという絶妙の技(なんて言ってんのはあたしだけ……ってより、これもう何度も述べておりました。重ねて恐縮)。

加えて、どうやらその無声父音たる/ɸ/だの/ɕ/だのを心持ち長めに発音しているようにも思われ(普段の発話どおりなのかも知れませんけど)、だとすれば、前門の/ɸ/や/ɕ/と後門の/t/との仮借なき挟撃により、件の有声母音[イ]=/i/の継続時間は弥が上にも短くなり、めでたくも下拙の言う「疑似無声化」とは相成る、ってな屁理屈。

で、これと正反対のことやってんのが、つまりは田村正和の「妙にクセのある発音」(と拙が勝手に言い張ってるやつ)で、「弱音」(lenis)たる有声父音に対して、「強音」(fortis)たる無声父音の無声たる所以、すなわち声帯が振動せず、その代り息は強めに吐き出される、という特徴が、後続の母音をあまりに早く、言わばフライング気味に発するため曖昧にされちゃう、ってことなんですよね(たぶん)。なお、父音(頭子音)の有声無声と強弱の関係については、先般も言及しております。
 
                  

とにかくまあ、その「母音のフライング」の結果、これはリンクした当人の語りを聴けば結構容易に感じ取れると思うのですが、例に挙げた「ださい」の[ク]、「思い込んで」の[ト]、「箱ら」の[カ]。「古なった」の[ク]、「お(送)る」の[ク]における無声父音が、いずれも微かに(あるいは相当に)有声化しているが如く、いわゆる濁音と呼ばれる[グ]や[ド]や[ガ]に近似した音韻になっちゃってる、ってことなんです(近似ったって飽くまで別音ですけど)。

なんでそうなるかと申さば、通常ならとりあえずは、極めて瞬間的とは言い条、充分に息の放出がなされた後に初めて声、すなわち声帯の振動を伴う母音が発せられる、ってのがカ行だのサ行だのタ行だのにおける子音(無声父音+母音……っていちいち断るのも何ですが、それで通すことにしちゃったもんで)なるに、田村式発音では、母音のフライング(って勝手に呼んでます)によって、その息の強さ、先述の「強音」= ‘fortis’ ぶりが殺がれ、宛も有声音≒濁音の如き様相を呈する……みたような具合でして。

やっぱり何言ってんだかわかんないとは思いつつ、とりあえず英語では、この「強音」に区分される無声破裂音/k/, /p/, /t/に(強めの)母音が連なる場合、一定の条件下を除き(‘spin’ のように、音節の頭部にあって/s/が先行するなど)、一瞬まず息だけが強めに吐き出されてかなりの気流が生じ、それを「気音」と称するのですが、気音が生ずる現象は「帯気」と言い、そうした気音を伴う破裂音は「有気音」または「帯気音」と呼ばれ、いずれも ‘aspiration’ の訳。話者によってはことさらその気流を強めに発したりもします(/t/に関しては英音に顕著)。国語における田村式発音は、この有気(帯気)音ともまた対極にあるかのような存在……なのではないかしらと。
 
                  

でもこの田村流「疑似有声音」についての与太話、ちょいと上等な国語音声学ではとっくに知られたことかも知れませず、あるいは全部あたしの見当違いってだけのことで、現実にはそういうことじゃない、ってのがほんとのところ……だったりして。実は、Macに入っている音楽制作用シーケンサーソフトを使えば、音声の可視化なんてこともできなくはないんですが、たぶんそれ見たってよくわからんだろうし、敢えて確認はしておりませず。

それと、『古畑任三郎』における田村の語り、5つだけ例示したのが悉く破裂音(タ行1つ、カ行4つ)だったのは、ちょいと調べが粗雑だったからか、という気もする一方、英語における上記「帯気」現象を勘案しても、どうやらサ行の/s/とかシャ行と呼ぶべき/ɕ/とかの摩擦音は無関係の模様。わかんないけど。ひとまず今回聴いてみた第1シリーズに該当例は出てきませんでした(たぶん)。

それより、この「母音のフライングによる無声父音の疑似有声化」という現象、正和ほどではないにしろ、兄の高廣や弟の亮も同様ではあるものの、別に関西または西日本に特有の訛りってわけでもなさそうで、特段上方の芸人だの落語家だののしゃべりに目立つなんてことはありません。てこたあ、地域的な要因ではなく、飽くまで個人的なクセってことなんでしょうか。もちろん田村三兄弟以外にも該当者は知ってますけど、全国的に少数派であるのは確かなようで。ひょっとするとこれもまた、何世紀か前にはむしろ「正しい」発音だったのかも知れませず。やっぱりわかんないけど。
 
                  

……てな塩梅にて、未確認のまま追加の蛇足を終えます。

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てことで、以上が今回(2018年4月1日)の追記分でして、以下はまた再録となりますが、またも話が長くなっちゃったので、それは次回ということで。

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