2018年5月25日金曜日

‘subjunctive’が「仮定法」?(6)

『‘subjunctive’ が「仮定法」?』などと最初に銘打ってしまったこの一連の駄文、英語の仮定法というものに対する日本での扱いについての愚論が主旨だった筈が、ついまた余計な枝道に迷い込んでしまい、漸く何とかそこからは生還、ってところです。

しかし、何だかだいぶ間を置いてしまったような気も致しまして、話がどこまで進んでいたか確かめようと、ちょっと前の投稿を読み返したりもしたのですが、どのみち半端なままで中断してたし、「どこまで進んでいたか」などは考えるだに無駄、と思い極めました。とりあえずは、内容の重複などは顧みず、「仮定法」という訳語その他に対する悪口を再開致しとう存じます。

まずはその「仮定法」の「法」って部分、および「仮定法過去」に「用いられる」とかいう「過去時制」の「時制」って言い方についての、相も変らぬ無益な難癖から。
 
                  

さてこれ、わけがわかんないのは、そもそもその「法」って何? 「時制」って何? ってところなんですが、自分自身も含め、大抵の生徒は(教師も?)、まさに「法」だの「制」だのっていう字ヅラから、何となく「言い方」とか「仕組み」とかってことだろうと曖昧に解釈し、それで何とか話も通じるし(飽くまで日本の学校英文法では)、結局はそのまんまって感じ? 試験でも、習い覚えた「公式」に当てはめて答を書いときゃちゃんと点も取れるし。でも実はそれが最大の罠だったりして(ほんとか?)。

当時は何だかわかんないまま、とりあえず「お題目」としてそのまま飲み込んではいたのですが、辞書を見れば「法」に対応する原語は ‘mood’、「時制」は ‘tense’ となっており、さらに「仮定法」なら ‘subjunctive (mood)’ とのこと。その綴りからは、なんでこいつらがそれぞれの漢字表記になるんだか、って思うじゃありませんか。そう思ったらその原義をこそ確かめればいいようなところ、何せ高校生だし、ネットなんざ未だ影も形もないし、英語の語源を知るよすがなどあろう筈もなく、結局は「日本語」で書かれた辞書の記述で行き止まり。結局何だかわかんないまま、そこで諦めるしかないという寸法。諦めるも何も、ほんとはどうでもういいやってのが本心ではありましたが。
 
                  

とりあえず「法」ってのは ‘mood’ の訳で、 その ‘mood’ はてえと、16世紀ぐらいに生じた ‘mode’ の変形。語源はラテン語(‘modus’ だとか)で、何につけ「やり方」ってのが基本義だから、そんで「法」って訳しといたってこってしょうか。とても「語形」のことだとは思えませんな。

明治時代に、ラテン語ではなく英語から訳されたとのことなので、まあ初めから英文法の用語として考案されたものなのでしょうけれど、いずれにしても、本来「気分」というような意味の ‘mood’ は発生を異とする語で、そっちはゲルマン語源の由。ラテン語文法伝来の「法」の意で用いるようになったのは、連想による ‘mode’ との混淆の結果だとは申します。

あ、「ムード」っていう外来語、何気なくカタカナ語の大半(全部?)が原語とは相当にズレちゃってるっていう好個の例だったりもして。「ムードがある」だの「ムーディーな店」だのとは言うけれど、飽くまで人間の気分、気持ちってのが基本義であり、「場の雰囲気」を指す場合も、そこにいる人間に何らかの心理、感情を生ぜしめるもの、というのが本義。英語で ‘moody’ なんてえと、「不機嫌な」とか「落ち込んでる」とか、でなきゃ「気分が変り易い」すなわち「感情の起伏が激しい」、つまりは「情緒不安定」てなもんで、あんまり健康的な意味合いじゃ使われません。これを場所の雰囲気について用いた場合は、「何となくしっとりといい感じ」みたようなもんとは似ても似つかず、「もの悲しい」だの「陰気」だの、それどころか「不気味」ってな意味だったりして。

まあ「気分」って意味では、1980(昭和55)年にヒットしたアイルランドの姉妹グループ、 ‘the Nolans’ (当然のように「ノーランズ」って言ってたけど、[ノウランズ]ってほうがちょっとは原語に近いような)の「ダンシング・シスター」(!)の原題(および歌詞の冒頭)が、 ‘I'm in the Mood for Dancing’ で、これこそ「あたし踊りたい気分」って言ってんですよね。文法用語とは無関係の「堅気」の語義としては、それが ‘mood’ の本領。

因みにこの歌、イギリスでのシングル発売は前年暮の由。そのちょっと前まであたしゃイギリス住んでたんでした。まだまだいろいろと時差があった時代だったんですね。全然関係ないけど。
 
                  

閑話休題。「法」および ‘mood’ (mode)についてはひとまずそんなところですかね。一方「時制」はてえと、ご存知 ‘tense’ の訳なんですが、 ‘tempo’ とか ‘temporary’ と起源が一緒で、「一定の時間」を意味する ‘tempus’ から。同音同綴の異議語 ‘tense’、すなわち「緊張」も、やはりラテン語由来なれど、先祖は綴りも音も別語の ‘tensus’ とのこと。

以前、 ‘tense’ という語はもともとが「緊張」を表すものであり、「時制」とするのがそもそもの誤り、などと説いていた英語通の記事も見ちゃったんですが、確かめもせず勝手な臆測を宛も真理であるかの如く掲げる輩は未だに跡を絶ちませず。俺も大概あぶねえけど。

しかしこの ‘tense’、基本的には「その動詞が表す動作や状態が生じる時がいつであるかを示す形」ってなところではありながら、実際にはそうスッキリとはいかないってのが実情。それこそ過去「時制」って「形」が仮定「法」をも兼ねていたり、もっとフツーの、いわゆる直説法の現在時制なんかも、頻繁に過去や未来への言及に用いられるかと思うと、同じく直説法の過去時制もまた現在や未来の話に平気で顔を出したり、ってな寸法で、「動作・状態の時間を表す」という定義は初めから実態を裏切っているのは歴然。

一方、かつては助動詞との組合せからなる「句」をも指して、たとえば「未来時制」/ ‘future tense’ などと平気で称していたわけですが、それはラテン語文法の区分に現行の英語表現を無理やりなぞらえた結果に過ぎず、元来は飽くまで動詞そのものの「語形」のことなれば、今どきは「英語の時制(てえか tense)には、現在と過去しかない」とするのがよっぽど普通。日本では未だに「完了時制」などとも言っちゃいるようだけど、「完了」も「進行」も、それこそ単体の動詞では表しようがなく、ちょいと上等の(?)文法ではそれ、「相」/ ‘aspect’ っていう別枠の動詞の形態って括りですから。

あ、でも「相」って字はまた、 ‘phase’ っていう、これまた別の概念にも充当されるのでした。近年はどうも、「進行相」には ‘aspect’、「完了相」には ‘phase’ を用いて区別する流儀も目立つような。いろいろと言い分はあるようだけれど、「完了進行相」だと、宛も「完了」も「進行」も一緒くたというところが気に食わない、っていうのもそうした理屈の1つだとか。

つまり、「完了」と「進行」は元来対立する2つの「相」であり、「進行」とはすなわち「未完」の意の筈が、「完了」でもあり「進行」でもあるってことんなった日にゃ、そりゃおんなじ「相」という見方からは本来相反すべき互いの対立的立場がいかにも曖昧となり、意味ねえじゃん……とまでは言わないまでも、まあそんな了見ではありましょう。でも日本ではいずれも「相」としか言いようはなく、やっぱり英語の仕組みを専ら日本語に頼って知ろうとしても、相当に厄介なんじゃないかしら、って気はしますね。

……ってなこと言ってるとまた無駄に長くなっちゃうので(無駄って言ったら全部そうだけど)、「時制」、ってより ‘tense’ については、またいずれ改めて存念を吐露致す所存。忘れちゃったらごめんなさい。
 
                  

ともあれ、こういう「制」だの「法」だのという漢字には、「態」とかってのと同様、「きまり」というだけではなく「(きまった?)かたち」という意味もなくはない、ってことなんですよね。地元の真砂図書館ででっかい(だけでなく古い)漢和辞典を覗くと、そういうこともわかるてえ塩梅。

しかし、幕末(明治?)までのインテリ連中ならいざ知らず(先日述べたとおり、論語読みは言うに及ばず、国学者だろうが蘭学者だろうが、そりゃ今どきの知識層なんぞよりゃよっぽど漢字の知識はあったでしょう。学術用語には中国伝来のものも依然多かったろうし)、今じゃ学校教師はおろか、英文法の大家だってあんまりそんなこた知らんのでは。つまり「時制」だの「法」だのっていう古い(衒学的な)訳語の了見なんざ知りもせず考えもせぬまま、何となく現代国語におけるその現代漢字の雰囲気に引きずられて、少なくとも今どきの英米その他、つまり英語の本場における英文法の用語とはだいぶズレた意味合いで使い続けてる、ってことなんじゃないかしらと。まあ、最初に「法」って漢字を当てたお人がどういうつもりでそうしたかなんざ、もちろん全然知りゃせんのですが。

とにかく、自分も中高では、先日も申しましように、「仮定法過去では動詞は過去時制が用いられる」とか何とか、そういうふうに習ったんですよね。何だかよくわかんねえや、とは思ったけど、それが文法だてえならしょうがねえ、そのまま憶えといてやるか、って感じ。驚くべきことに、ってのは嘘でとっくにわかっちゃいるんだけど、今でもまだそういうわけの知れねえ、と言うか筋の通らねえ英文法を説く教科書や教師は依然猖獗を極めております次第(そこまで言わなくても……)。
 
                  

これ、何がおかしいかてえと、そういう尤もらしい言い草における「法」も「時制」も、大昔のラテン語とは似ても似つかぬ現代(実は15世紀以来の)英語における ‘mood’ や ‘tense’ の意味とは懸隔してるってところでして。だって、どっちも動詞の「形」、つまり「屈折」の事例をこそ指すのが第一義であって、『「法」において「時制」が用いられる』なんざ、随分と妙な言いようであのるはあまりにも明白、ってことなんですよね。

‘when I was young’ の ‘was’ は ‘be’ の時制の1つ、って言っても何ら問題はないけれど、 ‘if I were you’ とか ‘wish I were dead’ とかの ‘were’  なら、それこそ仮定「法」であり、「法」である以上「時制」とは別の括り。どちらもそれぞれの文法区分に従った動詞の形であり(言い方が逆で、ほんとは自然発生的な語形の使い分けを整理したのが文法……なんだけど、それはまあいいでしょう。キリがねえや)、「法」に「時制」が「用いられる」なんて法があるもんけえ、ってなところかと(すみません、つい駄洒落のような真似を)。まあ、半ば仮定法、半ば過去時制、てえか、仮定法であると同時に過去時制である、とでも言っときゃいいんじゃねえの?

「仮定法過去」ってのを、条件節における「直説法」の過去時制……を用いた「表現」みたように説明しているサイトその他は枚挙に堪えぬわけですが、今日的な言いようだと、英語の ‘past subjunctive’ は ‘were’ の1語のみで、だからそれ、別名 ‘were-subjunctive’ なんて呼ばれてんですぜ。そんな話、日本じゃ聞いたことがござんせん。寡聞にして存ぜず、と言っとくべきなんでしょうけれど。
 
                  

とにかくまあ、どこまで行ってもこれ、「法」は ‘mood’ ならず、「時制」も ‘tense’ とは別語、とでも思わなくちゃ、あまりにも言ってることがヘン、ってな「英文法」が、昔はともかく、今でも結構野放し状態ってことなんですよね。「形」のことを言ってんのか、その形を使い分ける「作法」のことを言ってんのか、一度もちゃんと考えたことのない方々による英文法指南書が、今も昔も巷に(今どきはウェブ上に)溢れ返ってるって仕儀。
 
                  

えー、またぞろ話の段取りを考えずに書き始めちゃったもので、いちいち思い出したようにいろいろ書き継いで参ることに致しますが、現代英語で(しつこいけど何世紀も前から)日常的に用いられる「仮定法」、と言うより ‘subjunctive’ は、主語の人称や数とは無関係に用いられる ‘were’ のみであるのに対し、長らく廃れていたのが何故か前世紀にアメリカで流行り出した擬古風が、「仮定法現在」などとされる(まあ英語でも習慣的に ‘the present subjunctive (mood)’ たあ言いますが)文語形。これも主語の人称だの人数だのには頓着なく、どこでも原形のまま現れるんですが(つまり「現在」という名前はやっぱりヘン)、その無遠慮なところが、つまりは仮定法てえやつの身上?

アメリカでその復古調が流行り出した頃が、ちょうど日本で本格的な英語研究の始まった時期と重なったからなのか、随分と古臭いその言いようこそが正統であり、それに反するのは世俗の「口語」である、なとというご高説が、百年を経た今日でも未だに衰えず……って言ってるうちに、かつてはそういうアメリカ的な擬古調を「方言」とまで呼んでいた英国でさえ(英語についちゃ卸元じゃねえかい)、21世紀の今日では、すっかりアメリカかぶれになっちゃって(?)、マスコミの文章ではもうとっくに普通になってんでした。こいつぁもう、東京語の変容なんぞを嘆いてるだけじゃ済まず、今や英語についてもちょいと置いてきぼりの心地。俺も歳を取ったものよのう、みたいな。

……ってなことについては、この話の1回目でも既に言及しとりましたが、そのときに、内容より文章の粗漏にあらずもがなの攻撃を加えたウェブ記事が説いていたのが、その「仮定法現在」という擬古形だったてえこってすね。
 
                  

おっと、肝心のその「仮定法現在」よ。ぜんたいどういうやつなのかと言えば、
 

If need be (= if it is necessary).

 
の ‘be’ とかがそれ。まあこの例だと、「仮定法過去」の「例」として示される ‘If I were you’ ってのと同じで、言うなれば固定表現の1つだからさほどの違和感も生起せず、ってところですが、これに対し、教科書的にはそれこそが正しい文法だってことになっている、
 

I requested it be done.

 
の ‘be’ だの、
 

They recommend he not go there.

 
の ‘go’ とかって、その ‘it be’ だの ‘he go’ だのってところがちょいと妙じゃねえか、と思ったとしても、そりゃ別に正しい英語を知らぬが故の見当違いとは断じ難いのではないか、って感じなんですよね。イギリスじゃあ「アメリカ方言」とまで言われていたその中途半端な文語体の名残り(ほんとはアメリカでだって一旦滅んだのが復活しただけなんですが)をこそ、日本では昔も今も、宛もそうせざるは文法に違背する過誤であるかのように教え続けてるってことで。

件の解説サイトでも、わざわざ〈かつては原形を用いましたが、現代口語ではこの場合、直説法現在形を用いるのがふつうです。)とか〈提案などを表す場合、イギリス英語ではしばしば shall、 should などの助動詞をつけ加えます〉などと断ってましたけど、どう足掻いたってそいつぁ本末転倒。イギリス英語てえ使い古しのトートロジーはもう容赦してやるにしても、「現代口語では」なんて威張られちゃったら、まるで文語(文語体なんてもんじゃなく、単に書き言葉ってこってすぜ)ではその限りに非ず、って思っちゃうじゃねえかよ。だからそれ、「かつては」ったって、元来は取り繕ったお堅い文章におけるアメリカの「方言」だったってのよ(近年までは)。
 
                  

ともかくも、古代語の残滓の如き「仮定法」なる動詞の語形は、早くも16世紀、英語がイングランドという小国のローカルな言語に過ぎなかった時分には廃れており、「過去」だろうが「現在」だろうが、既述の如く、多分に固定化した言い方ででもなけりゃ、とっくに日常では用いられなくり、一時は完全な古形と化していたところ、米国ではなぜか百年ほど前に俄然勢力を盛り返すに至った、というのが実情。英国その他では、さっき言ったように、前世紀後半まで長らく米国特有の方言と見なされていたのが、この数十年のうちに英国にも逆流入し、近年ではマスコミなんかが好んで用いるようになっちゃった、ってことなんです。

つい繰り返しちゃうのは、自分が40年前に「なんでえ、こういうことだったんじゃねか」と、ちょいとばかり嬉しくなっちゃった本家の英語が、分家(ってこともねえけど)の「訛り」になびいちまったのが、いかにも寂しくて、ってことなんでしょうね。またしても、俺も歳を取ったものよのう、ってなところですな。

とにかくこれ、 ‘I requested it should be done’ (または ‘it was done’) だの ‘They recommend he should not go there’ (または ‘he does not go there)だのっていう、ごく穏当な言い方こそ、アメリカ以外じゃずっと普通であり、決して俗な言い方でも、口語に限った表現でもなかった、ってことだったのに……。

それがいつの間にか、こういう、「仮定法」なんて形を使ったどうにも落ち着かねえ中途半端な擬古風の言い方(書き方)が、数百年を経て本家のイギリスでもかなり普通になっちゃってるってことでして。

まあこれに限らず、単語内の強弱アクセントの位置だの発音だのといった音声面においても、戦後「米帝」の毒牙からはかつての宗主国たる英国ですら免れること能わず、元祖イングランド語の本場の物言いのほうが、俚言であった筈のアメリカ式に浸食され続けております次第。何やら東京語における関西弁の猛威を彷彿とさせるような。ま、俺がどうこう言うべきことでもねえけどさ。どうせ東北生れだし。
 
                  

……などと、またも調子に乗って無計画に書き散らしているうちに、つい繰り言ばかりとはなっておりますれば、今回はこの辺でまた一旦区切ることに致します。でも最後に、その「仮定法」、というより ‘subjunctive’ が英米ともにかつてはすっかり廃れていたとする根拠のようなものを少しく示しとこうかと。

1845(弘化2)年生れ、1923(大正12)没の Henry Bradley という御仁は、日本で言えば幕末に編纂が始められ、明治前半から昭和初期にかけて順次刊行された全十巻の ‘OED’ こと ‘Oxford English Dictionary’、『オックスフォード英語辞典』(1989年に改訂版発行)の、編集主幹だったというのですが(1880年代から1920年代まで)、この人が 1904(明治37)年の ‘The Making of English’ の中で、次のように記してるってんです。

「数十年の後には、仮定法という形も、唯一 ‘were’ を、その利便性故の例外として消滅し去っているのではなかろうか。利便性とは言い条、他の動詞については、これに類する形がもはや何ら不可欠ではないのだが。」―― ‘Perhaps in another generation the subjunctive forms will have ceased to exist except in the single instance of were, which serves a useful function, although we manage to dispense with a corresponding form in other verbs.’

……すみません、この私訳は何ら周到なものではなく、今ざっとやってみただけなんですが、まあ文意はだいたいそんなところかと。最後はちょっと意味が曖昧か。まあ、しかたがねえ。

で、これは百年あまり前の英国人の意見なんですが(ったって、世界最高峰の英語辞書たる OED の親玉ですぜ)、もっと後には、今では懐かしい「1984年」で知られる George Orwell が、いわゆる「仮定法現在」を ‘American subjunctive’ と名づけたって話もあります。つまり、先述のとおり、日本では一貫して正統的英語とされていたその形、やっぱり本家のイギリスじゃあ、アメリカ人の勝手な流儀と見なされてたってことで。

ところがまた、当のアメリカでさえ、1801(享和元)年生れ、1882(明治15)年没の George Perkins Marsh という、外交官が本業ながら、言語学その他、驚異的な才人だったというお人が、1860(万延元)年に、

「仮定法は明らかに廃れており、遠からず完全に過去の遺物と化すものと見なすべき充分な根拠がある。」―― ‘The subjunctive is evidently passing out of use, and there is good reason to suppose that it will soon become obsolete altogether.’

てなこと書いてるそうな。これもまた野暮な訳で恐縮ですが、まあ意味はわかるからいいんじゃないかと。
 
                  

……てことで、ひとまず今日のところはこの辺で。次回もまた散漫なる愚文を書き散らすことになろうとは思いますが、まだまだ吐露致したき存念もございますれば、今暫くのお付合いを、みたいな。

すみません。

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