古い英書の文言なども引合いに、訳語の不適なる(と勝手に決めつけてる)点を始め、言いたいことは結構吐き出したとは思うんですが、ここで今一度、あらずもがなの駄目押しなどをしとこうかと思っちゃいまして。ウェブに見られるその訳語、すなわち ‘subjunctive (mood)’ という原語ではなく、「仮定法」てえやつの定義における、どうにも曖昧な、と言うよりいっそ滅裂とも申すべきところについての難癖、って感じ?
まずは、ざっと目を通した複数の記事にほぼ共通する言い分を以下に要約。
【仮定法過去】
動詞や助動詞の過去形を用いて現在の事実に反する仮定や想像や願望を表す。 be 動詞は were を用いる。過去形を用いる故の名称であり、過去の時制を表すわけではない。
【仮定法過去完了】
動詞や助動詞の過去形と完了形を用いて過去の事実に反する仮定や想像や願望を表す。
【仮定法現在】
現在や未来における要求、提案、主張、危惧その他を表す。動詞の原形、またはそれに may や should などを付して表現するが、何らかの時制を表すわけではない。
……ってなところなんですが、こうした記事の多く(全部?)は、どのみち下拙と変らぬシロートの勝手な「解説」であろうし、然るべき文法書の類いとはもとより別儀とは存じますものの(たぶん)、何より妙なのは、いずれもその「仮定法」が、一定の(ごく限られた)条件下における「動詞の形」であることを明言していないところ。
上記の文言は自分が勝手にまとめたものではあるのですが、例によって、「法」は語形であり決して「作法」などという意味ではない、ってのがわかっていない方々による記述であるは明白。相変らずこれを「表現法」であると言っている例が実際少なくないんです。
まあいいや。とりあえずは上で下線を付しといた語句についてちょいとまた要らざる容喙を致しますと、まずは最初の「仮定法過去」の能書き(上述のとおりあたしが勝手にまとめてんですが)における「助動詞」てえ言辞。先般も言及しましたけど、「(叙)法助動詞」ならば、それ自体の「法」(という語形)を云々するのは間抜けな話だし(直説法しかあり得ない、ってところからしてまず通じなかったり)、 ‘be’、 ‘do’、 ‘have’ という堅気の動詞(「本動詞」ってんですか? ‘main verb’ じゃあ意味が広すぎるってんで、 ‘full verb’ とか ‘lexical verb’ とか呼ばれる一般の連中ってこってす)との二足の草鞋を穿く助動詞3種(その「特別待遇」により、この3つは ‘primary verbs’ てえことに)もまた、助動詞として用いられている限り、「法」など(少なくとも ‘mood’ など)を論うのは無意味……の筈なんですがねえ。その助動詞と「被助」動詞との組合せをも「法」だの「時制」だのとして括るのは、少なくとも今どきの英語圏ではちょいと(かなり?)古い、でなければ「簡易版」とでもいった部類の文法ってことで。
ついでに言っときますと、結構数の多い ‘modals’、すなわち「(叙)法助動詞」に対し、たった3つしかないこの二足草鞋の助動詞、最大の違いは(ってのも大袈裟だけど)、前者が、それこそ「法」、ってよりは ‘mood’ とかその原記たる ‘mode’ の原義、言わば「(話者の気持ちを示す)形式」とでもいったものを包摂、と言うよりむしろ専らそれを表すものであるのとは裏腹に、後者の3つは、いずれも言うなれば純然たる助っ人で、こいつらが「助ける」相手である後続の動詞と組み合わされなければ、何ら明確な意味を持たない、ってところ。
相変らず何言ってんだかわかりませんな。たとえば ‘be’ 自体は通常単に 「ある」とか「いる」とか、要するに「存在する」って意味の動詞なので、現在分詞(~ing 形)だの過去分詞だのと一緒になって初めて進行だの受動だのを表す助動詞とはなる、って具合。
「分詞」とは「動詞の形容詞形」ではないか、ってんで、これは助動詞に動詞を連ねたものってより、補語たる形容詞を従えた不完全自動詞である、と言い張ることもできそうな。あたしゃそこまでは言わないけれど。
‘do’ ってのも同様に、本来は「する」とか「やる」とか、つまりは「為す」って意味なんだけど、堅気動詞(たあ言わねえか)の疑問形や否定形にはほぼ必須の助っ人動詞。単に強意の役も担いますが、いずれにしろやはりそれ自体には特に意味はなく。残る ‘have’ もまた、「持つ」「有する」などという普段の役どころとはまったく関わりなく、これも堅気動詞の過去分詞との抱合せによって完了の意とはなるってな寸法(堅気の他動詞だったのがやがて助動詞に転じたってのが実情なんですが、それについてはいずれ改めて……たぶん)。
もちろん、文脈に応じて、それぞれ単独でも助動詞として現れることも多いけれど、それは飽くまで、端折られた動詞本体が何であるかが言わずと知れた場合……ってところですかね。やっぱり言うことが諄くて不明瞭か。すみません。
ついまた道を逸れちまったい。少し話を戻まして、旧弊な文法、つまりラテン語の作法にむりやりなぞらえていた時代の英文法なら、「動詞の屈折形」ではなく、助動詞との組合せである「句」をもまた「法」の例として論じていたのでしょうけれど(日本じゃ未だにそう?)、今どきはそれ、あまり科学的とも言えない、言わば世俗の文法に限られた用法とでもいった雰囲気ですぜ。多少とも精密さを有する文法なら、飽くまで「単語としての動詞の語形」が「法」ですので(ラテン語がそうだてえし)、「仮定法過去」の説明でいきなり「助動詞の過去形を用いて」云々ってのは、やっぱり間抜けではございましょう。
おっと、「be 動詞は were を用いる」ってのはもっと間抜けでした。「仮定法過去」とう日本語はいざ知らず、それが訳語である筈の ‘past subjunctive (mood)’ と呼ばれるのは、たった1語、その ‘were’ だけってのが実情だったりして。それも既に以前申し上げておりますが。
でもやっぱりヘンよ。「過去時制ではない」ってんならまだしも(ほんとはそうでもないんだけど……ってことについては後ほど)、「過去の時制を表すわけではない」ってんじゃ、単に歯切れが悪いのみならず、やはり勘違いしてるとしか思われませず。「過去」と「時制」の間にわざわざ「の」を挿入しているところがいかにも……って感じ。
つまりこれ、こういう文言を掲げている人たちが、「法」だの「制」だのって字面に騙されたまま(?)、それが「かたち」のことだとは認識せず、「時制」ってのも専らその「かたち」が示す時間的な状況のことだとでも思ってんじゃねえかしら、ってことなんです。先般白状致しましたとおり、あたしだって間抜けな中学生の頃には迂闊にもそういうふうに誤解したし。
これに比べれば、その中高生の時分によく見かけた、「仮定法過去には過去時制が用いられる」ってな言い方のほうがまだよっぽどましじゃん、ってことになりますねえ。とりあえず「時制」が動詞の語形を指すものである、って前提とは撞着しませんから。
その「時制」やその原語たる ‘tense’ についての、またぞろどうでもいい愚論こそが、実は今回の主眼だったのでした(って、今思いついたような気もしつつ)。でもまあ、ひとまずはその前に残りの2つ、「仮定法過去完了」と「仮定法現在」を説いた記述についても、いくつか下線を引いちゃったし、一応その下線部分もやっつけとくことにします。毎度行き当りばったりで恐縮至極。
まずは「過去完了」から。これなんざ、「動詞や助動詞の過去形と完了形を用いて」なんて言ってますけど(こうまとめたのはやっぱり自分なんですが)、「完了形」という動詞の形は存在せず、こりゃたぶん助動詞 ‘have’ と堅気動詞(たびたび勝手な言い方で恐縮)の「過去分詞(形)」との抱合せ技のことを言ってんだろうな、とは忖度してやらなくもねえものの、その言い方はやっぱり不用意に過ぎようぜ、と思わざる能わず。
これもまた、旧来の、あるいは世俗の(非オタク向けの)一般的な言い方では、 ‘perfect tense’ とか ‘perfective tense’、つまり「完了時制」とは称するとは言い条、前々回も言及しましたように、厳密には ‘perfect(ive) aspect’、「完了相」ってんですよね。 ‘progressive aspect’、「進行相」と対を成すものにて、「いつの話か」ってのはさておき、「もう済んだ」ことなのか「まだ続いている」のかを表す動詞の使いようの区分、ってなところ。‘tense’ が、まあ実際の用法はどうあれ、原議は飽くまで時間に関わる語ということでありますれば、「完了」だの「進行」だのって観念は、「過去」だの「現在」だのという、「いつ」であるかを示す「時制」とは自ずと別枠、ってことなんです。
因みに、「進行」は ‘progressive’ の訳として無難とは存じますが、原語では ‘continuous’ って言い方も併存。それだと「継続」って言ったほうが近いような気もしますけど。
古くからの文法用語は、何せみんなラテン語から来てるため、日常の英語とは意味が乖離している例が多く、「完了」という、まあ穏当な訳が(珍しくも?)当てられた ‘perfect’ って、普通の英語だと「完了」というより「完璧」といった風情であり、この文法用語を説明する場合、‘completed’ だの ‘accomplished’ だのという言っている事例が多いんです。つまり、「完了」の意味で ‘perfect’ なんて言ってんのは文法だけで、それも結局はラテン語文法の焼き直しが起点だから、ってところでしょう。 ‘complete’ だって出自はラテン語なんだけど、今の英語じゃそっちのほうがよっぽど文法で言う ‘perfect’ の意味に近いということで。
それを初めから「完了」と訳したのは、また妙に話がわかるじゃねえか、って気がしまして。そうなるとますます、やれ「法」だ「時制」だ「態」だ、ついでに「格」だ何だってのは、ほんとに了見が知れねえや、って感じ。どうせラテン語と英語のズレなんてまったくこっちの知ったことじゃねえんだから、ハナからもっと意味の通る字を当てときゃよかろうに……って、そりゃ前回もこぼしてたんでした。かかる繰り言も、つまりは寄る年波というやつか、なんてね。
おっと、もうひとつやっつけとくのが残ってたんだった。3つめの「仮定法現在」ってやつ。
自分が勝手にまとめた文言とは言え、やはりこういう具合の講釈はよく目につくんです。まずは早速「現在や未来における要求、提案……」その他ってのが間抜け。たとえば次のようなありふれた例はどうなんだよ、って感じ。
They demanded that he leave immediately.
この ‘leave’ こそは典型的な仮定法現在(「現在仮定法」とか「過去仮定法」って言ったほうが少しはいいような気もするんだけど)。でもこの話自体が過去に対する言及であるは言うを俟たず、どうしたってその仮定法 ‘leave’ が「現在や未来」について述べるものに非ざるは灼然炳乎、でげしょ?
おっと、それを言うなら、昔から仮定法過去の能書きにおける決り文句、「現在の事実に反する仮定」云々ってのがまず間抜けなのであったわい。これもまた、
She treated me as if I were a child.
ってな言い方をするじゃねえか。こっちのほう、つまり「唯一の」仮定法過去、別名 ‘were-subjunctive’ ってやつのほうが、ここ数百年における英語表現としちゃあ、下手な(?)擬古文調の仮定法現在なんぞよりゃよっぽど普通なんだけど、これもまた話の中身は既に過去のことには違いなく。ってこたあ、その仮定法、 ‘were’ も、現在、すなわち発話時点における事実に反するかどうかなんざ知ったことではなく、飽くまで話者が言及している過去の状況についてのものであるはあまりにも明白。まあ、その後この話者が大人から子供に転じたってこともあるめえから、そりゃ「現在の事実」にも反してはおりましょうが、ハナから現在の話なんかしてねえじゃん、ってなもんで。
さてこの仮定法現在の定義、この部分に続いて、「動詞の原形、またはそれに may や should などを付して表現する」ってなこと言ってるわけですが、「表現する」とはまた、相変らず「動詞の形」である筈の「法」の説明として曖昧に過ぎると言わざるを得ず。それも、「may や should など」という助動詞「を付して表現する」ってんじゃ、そりゃもう曖昧どころか支離滅裂。しつこいけど、「仮定法」の「法」が ‘mood’ に対応するものである限り(自分たちがそう解説してんじゃん)、助動詞と動詞がくっついたもんがそう名乗れないことは言を俟たず、ってなもんで。
かと思えば、またしても「何らかの時制を表すわけではない」なんて言ってやがるし(重ねてお断りしますが、複数の記事の表現を拙が勝手にまとめただけなんですが、実際こんな感じなんです)。何度も申しておりますように、「時制」も動詞の形のことなんだから、「法」という形が「時制」という別の形を「表す」なんてことがあってたまるけえ、てな塩梅。
という次第で、ウェブに見られる日本の英文法解説における仮定法3種の定義だか何だかを、勝手に要約して勝手に論難して参った次第ですが、思うに、こうした半端な解説(もどき)を掲げてる人たちってのは、自らは何ら考えることなく、考えないからその内容の不全ぶりにも気づかぬまま、半端に聞きかじったかカラ知識を受売りしてるだけなんじゃないかと。いや、そのまま受売りするんだったら、これほどまで無様なことにはならんでしょうな。言ってることがたとえ古くたって、文法理論としてそれなりに体を成しているなら、あたしだってここまで悪しざまには言わない……んじゃないかと。
えー、前述のとおり今回の「主眼」は「時制」ってやつに対する言いがかりだったのでした。「仮定法」の説明にはしばしば登場する語ではあり、既にこれまでもたびたび言及してはおりますものの、以下、その「時制」、 ‘tense’ について、また少しばかり無益な御託を並べて参ろうかと。
……と思ったけど、悪口ばっかり言ってるうちにまた長くなっちゃったので、その話はまた次回ということに。「仮定法」云々っていう一連の駄文は、ひとまずこれで終りってことにします。結局また散漫を極め、最後までまったく締らねえまま。まあ毎度のことで。
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