2018年5月27日日曜日

‘subjunctive’が「仮定法」?(7)

いろいろ無秩序に書き連ねて参りましたが、英文法における「法」とその原語たる ‘mood’ (あるいは ‘mode’) については、ひとまず一区切りついたようで、引き続き、むしろこれこそがこの駄文全体の主眼か?って気もする、そもそも「仮定法」の「仮定」っていったい何なのさ、ってことについて改めて文句言っとこうかと。
 
                  

「仮定」という、またも安直で不適当極まる訳につられ、‘if’、つまり「もし(も)」との抱合せ表現のことだとでも思ってんじゃねえかしら、っていう「解説」を施してくれる御仁が、ウェブでは依然散見されるのですが、とんでもねえこって。

実は下拙も中学の時分はそんなもんではあったんですけど、だってちゃんと説明してくれねえんだもん(俺が話聞いてなかっただけか)。とにかく、原語(の筈)の ‘subjunctive (mood)’ は「下接法」とでもすべきものであり〈実際、英語以外については日本でも「接続法」だの「従属法」だの「附属法」だのって言うそうじゃねえかい)、まず「仮定」って言い方が何よりの曲者、って気もして参ります。

「仮定法」てえ訳語はどうあれ、原語たる ‘subjunctive (mood)’ は、言ってる本人が「これは事実をそのまま言ってるんじゃない」ってのを明示する動詞の語形であり、それに対し、淡々と実相を伝えている(かのような)体裁を成すのが「直説法」、ってとなころかと。

日本では前者をよく、仮定だの願望だの何だのかんだのという、話者の思い(「想念」だとか「心的態度」だとか申しますな)を表す言い方、みたように説明しとります。対する後者は ‘indicative (mood)’、 すなわち「表示形」というのが原語なので、「仮定法」よりゃよっぽど原義に近い。いずれも発話の内容が嘘か本当かではなく、飽くまでその内容に対する発言者の姿勢とか気持ちとかを示す動詞の語形、とでも思ってりゃいいでしょう。

いずれにしたってその「仮定法」、専ら仮定を表す動詞の形、てえか「言い方」なんかじゃないんだけど、そう名乗られちゃったら、中学生なら大概勘違いすんでしょうよ。俺だけ? いや、違うな。同級生の大半がそうでしたぜ。だって「仮定の方法」みてえな名前じゃあ、やっぱりしょうがねえじゃねえかい。中坊だもの。
 
                  

「仮定」ってのは、敢えて言うもおこがましきところながら、文字どおり「仮に定める」ことであって、つまりは「とりあえずこういう話だとすれば」とか「お前さんが今そこにいると思いねえ」とか、どうしたっていわゆる条件文における条件節のほうにこそ当てはまる観念で、そうなりゃこっちだって「もし6が9だったら」ってな「仮定」に用いられるのがその「仮定法」なんだろう、って思っちまうじゃねえかよ。何せまだ中学生ですぜ。「法」って字が文法じゃ何を指すのかなんて考えもしねえし、そもそもそんな「わかり切った」ことを考える必要があるとも金輪際思ってねえし。

それかあらぬか、中高の教科書でその「仮定法」を説くのに必ず並べられるのが、ものの見事に ‘if’ を使った条件文ばっかり。勘違いさせたくてしょうがない、としか思われませず。ま、ほかの生徒同様、あんまり(全然)授業なんか聞きもせず勝手に誤解しちゃった俺が間抜けだったんだろうけどさ。
 
                  

今さらそんな愚痴ばっかり言っててもしかたがねえ。たいへん失礼致しました。

「法」、ってより ‘mood’ ってのは、屈折語における動詞の、まさにその屈折の例であり、その動詞の表す動作や状態について、話者自身がどういう「つもり」で言っているかを示す語形、ってところでしょう。で、前述の如く、素朴な「事実」としての陳述なら ‘indicative’、 「事実に非ざるもの」として言うのが ‘subjunctive’ ってことにはなり、英語では昔からこれにもう1つ ‘imperative (mood)’、要するに「命令法」ってのを加えて ‘mood’ 三人衆のような括りにしてんです。‘mood’ というよりその原形である ‘mode’ 自体が、今の英語とはだいぶ作りの違うラテン語文法を継承した用語、あるいは概念で(昔は ‘grammar’ ったらラテン語のことだったし)、どうしたってもとのラテン語式のままじゃ話が合わなくもなろうというもの。

他の欧語が全般的にまさしく屈折語、つまりは構文上の役どころに応じて各語が語尾変化を来し、結構コロコロ姿を変えるのに対し、英語は何百年も前にその屈折てえやつが殆どなくなり、だから話者の了見次第で「屈折」する動詞の形である「法」、おっと ‘mood’ てえやつも、無理やりのように上記3つの区分だけは残しちゃいるけれど、ラテン語その他における他の「法」、 ‘interogative mood’ =「疑問法」だの ‘conditional mood’ =「条件法」だのは、とっくに亡き者にされてるてえ次第。その残った3つにしても、大して、ってより殆ど姿形が変らねえし、やっぱり今の英語には、この「法」に限らず、そもそも単語の屈折てえもん自体がもうあってなきが如きもの……ってな与太話を書き散らしたのが、前回も引合いに出した(リンクしといた)「英語が屈折語?」てえ駄投稿なのでした。話が諄くてまことにどうも。
 
                  

話者の「つもり」を表す動詞の形が「法」、てな言い方しましたけど、飽くまで「つもり」であって、仮定法で言ったからって必ずしも「事実に非ず」ってこともなければ、直説法だからって全部ほんとの話だなんで保証はどこにもございませず。そんなことんなったら、嘘なんか金輪際つけなくなっちまうじゃねえか、てなもんで。

「つもり」ってのもまた随分と粗放な言い方だとは重々承知してはおりすが、つまりは動詞の形によって、その内容の真偽、ってより確否に対する、言ってるやつ自身の意識を明示するのが、ってよりその形自体が、要するに ‘mood’ てえもんでありまして、これを「法」と訳したのは、多少とも「つもり」って雰囲気をも漂わせるその ‘mood’ よりは、原形である ‘mode’ のほうに肩入れしたものなのやら、あるいは「制」と同様「かたち」という意味もなくはないってことで「法」とはしたものやら……ってことも前回こぼしとりました。またも諄くて恐縮。

その「つもり」ってところをより明確にしたような「叙法」という穏当な言い方もあり、あたしゃ昔からそっちのほうがよっぽどいい(まだまし)と思ってんですが、やはり単に「法」としか言わないほうが大勢を占めるようで。あ、ここで図らずも先般「いずれ」として言及を保留しといた(2つめの)話柄に漸くたどり着いたような。いちいち断ることでもないけれど。
 
                  

‘mood’ の形容詞は、古形とも言える ‘mode’ の派生形で ‘modal’ ってんですが、これは専らその「つもり」を表す「法助動詞」という可算名詞でもあります(「助動詞が名詞」っていうお馴染みの撞着文?)。 ‘modal auxiliary verb’ を端折った ‘modal auxiliary’ をさらに端折って単に ‘modal’ とは称するという、英語ではごくありがちな流れ。ってより、ほんとはまず「助動詞」が、言わずと知れた「動詞」の部分 ‘verb’ を省いて、元来は形容詞たる ‘auxiliary’ だけで間に合せるようになっちゃった、ってことなんですけどね。で、これもやっぱり「叙」を付けて「叙法助動詞」って言ったほうが、よっぽど落ち着くんじゃないかと。

どっちかってえと、日本における「法」の意味合い、つまり「形」ってよりは「言い方」みたようなもんに近いのが、‘mood’ の形容詞とされる ‘modal’ のさらなる名詞形 ‘modality’ ってことんなりそうだけど、これってどう訳してんだろう。「法性」? まあ「叙法性」でもちょいと間抜けな感じはするか……って、そりゃ俺の偏見か。

因みに、こうしてガタガタ言ってんのは、飽くまで文法における用法についてであり、一般義の ‘mood’ が「気分」であるように、 ‘mode’ も普通はご承知のとおり「方式」とか「様式」とか「形式」、ってなところではあります。形容詞 ‘modal’ はそれらに「的」でも付けときゃいいか、って感じ。

そう言えば、モードジャズなんてのもありますが、音楽用語としては「音階」、すなわち ‘scale’ に対する「旋法」に当るのがこの ‘mode’。でも音楽全般の発展により(?)、今じゃ両者は同義だったりして。形容詞 ‘modal’ は、やはりこの旋法または音階についても普通に用いられます。
 
                  

おっと、また余談の波にさらわれそうになっちまった。とにかくまあ、その「叙」の字を用いる流儀の下では、元来「仮定法」のことは「叙想法」、「直説法」のことは「叙実法」とは呼び慣わすものにて、これを「かつてはそう言っていた」などとする記述もよく見かけるんですが、実はそれも結構な知ったかぶり。

‘subjunctive’ の原議を素直に受け取れば、「下に繋げる」ってほどの意味。まあこの ‘sub-’ は「下」ってよりは「従位」とか「従属」ってな風情ではありますが、何のこたあねえ、複数の節から成る文のうち、その節どうしに「主従」の関係が生ずる「複文」、 ‘complex sentence’ において、その文の主役たる主節……って言い方にはこないだケチつけたばかりだけど、その ‘main clause’ ってよりは ‘matrix clause’ ってのに対して、それに付随する従属節、すなわち ‘subordinate clause’ 内で用いられる(のが適当な)動詞の形、ってだけのことなんでした。「下位接続形」とか「従位接続形」とか、もうちょっとわけの知れるような言い方にすりゃいいものを、と思うあたしがわがままなんでしょうかしら。
 
                  

その話はいいや。「叙想法」のことよ。これは、「直説法」に対応する「叙実法」と対を成す(一見穏当な?)言い方ではありますが、それぞれ ‘thought-mood’、 ‘fact-mood’ の訳で、その伝だと「命令法」、 ‘imperative (mood)’ は「叙意法」= ‘will-mood’ ということに。これらを、「古くはそのように言った」というように書いてある参考書の類は昔からありますものの、‘thought’ だの ‘fact’ だの ‘will’ だのという、結構身も蓋もない、かなり俗な言い方からも察せられるように、実は ‘subjunctive’ だの ‘indicative’ だの ‘imperative’ だのといった伝統的文法用語の貫禄を見せる連中より由緒正しい、なんてことはございません。英米の本場でも、英文法の業界で使われ出したのはせいぜい百年ほど前なんじゃねえかと。

1845(弘化2)年生れ、1912(明治45)年没の英人言語学者、 Henry Sweet (科学的な英語研究の先駆者っぽい)が、1892(明治25)年の ‘A New English Grammar (Logical and Historical), Part 1’ で最初に用いた、との記述が日本のサイトには散見されます。  

その Sweet と交流のあった、1860(万延元)年生れ、1943(昭和18)年没のデンマーク人で、英文法が専門だったという Otto Jespersen (「イェスペルセン」って言ってっけど、英語だと「ジェスパスン」みたいな)という国際的な大物言語学者もその流儀。1924(大正3)年の ‘The Philosophy of Grammar’(もちろん英語で書いてます) で使ったことにより、その言い方が(ちょっと?)流行ったのかも、って思ったりして。ごく一部を引用で読み齧ったことしかないその本、『文法の原理』ってのが邦題とのこと。
 
                  

でも実はこれ、もともとは、1804(文化元)年生れ、1889(明治22)年没の Benjamin Hall Kennedy という英人ラテン語教師が、1879(明治12)年の自著、パブリックスクール(英国ではいずれも鼻持ちならない、じゃなくて上流の名門私立校)向けラテン語教科書、‘The Public School Latin Grammar’ で用いた、説明のための平易な表現であり、小難しいラテン文法用語の意味を未熟な生徒にもわかるように、という工夫なのでした。イギリスではその本、その後も長らくほうぼうの学校で使われた、ラテン語教科書の決定版のような存在だったんだとか。

ともあれ、そうなりますと、‘mood’ は 「法」だとしても、「叙」って言い方は、当人の意図からも、また原記の語感からも、かなり乖離したものと言わざるを得ず……ったって、実際にはそういう言い方自体が、日本ではとっくに、古くて「堅苦しい」ものとして廃れちゃってんだから、今さらこんなこと言ったって意味がねえのは先刻承知。

でもね、だったらやっぱり、なんで「接続法」じゃなくて「仮定法」だなんていうズレた言い方にしちゃうんだか。まあ、どのみち外国語である英語の文法を論じるのに、いちいち不正確な(それどころかわけの知れねえ)日本語訳に義理立てを続けること自体、あまりにもつまらねえ了見、とは思ってんですけどね、あたしゃ。

その廃れたほうの「叙想」だの「叙実」だのっていう、原語の ‘thought’ だの ‘fact’ に比して随分と立派な訳語を当てたのは、1884(明治17)年生れの細江逸記(ほそえいっき)てえ御仁だてえんですが、1933(昭和8)年の『動詞叙法の研究』における記述だとのこと(読んだことありません)。それまではやっぱり「叙法」ではなく「法」、「叙想法」ではなく「仮定法」……ってのが普通だったってことでしょうかね。

その細江式が定着せず、結局は「仮定」だの「直接」だのって言い方に落ち着いたのには、それなりの事情もあるんですが、いずれにしろ「古くは」なんて書かれると、まるでそっちが古来の言い方だったようじゃござんせんか。そうじゃねえ、ってことをくだくだしく申し上げたる次第にて。毎度恐縮。
 
                  

さてその「それなりの事情」について。今でも「叙〇法」って用語のほうが妥当だと主張する英語屋は少なくないし、下拙も若い頃はそう思ったりもしたんですけど、当初は飽くまで初心者である生徒にラテン語文法の手ほどきをするための方便であったろう ‘thought-mood’ だの ‘fact-mood’ だのという、ちょいとくだけた言い方は、まあ率直でわかり易い分、精密さに欠けるとも言えるわけでして。つまり、‘subjunctive’ が表すのは必ずしも「想」ではないし、 ‘indicative’ が「実」ばかりを述べている保証はない、ってことなんです。 ‘imperative’ にしたって、「命令」 だけが ‘will’、「意」だなんてこともなかろうし。

とにかく、英語では旧来のいかにもラテン語風の言い方のほうが、文法用語としては一貫して何かと普通。だからって、何もあっちのラテン語風を真似てわざわざ意味のよくわからねえ漢字ばかり当てなくてもよさそうなもんだけど、それにしても、なんで ‘subjunctive’ の原義を無視し去って「仮定」なんてことにしちゃったんだか、ってところが何より腑に落ちないのよね。

もうどうでもいいんだけどさ、俺自身は。
 
                  

えー、行き当りばったりに書き散らして参りました「仮定法」に対する散漫極まる難癖も、これでおおよその存念は申し述べたような気もするのですが、前回「忘れちゃったらごめんなさい」なんて言ってた、「時制」とか ‘tense’ ってやつについての存念、 ってよりは、それも絡めた仮定法への言い分はまだ残ってんです。ちょいと(暫く)考えてから、そいつはまた次回(たぶん)。やっぱりまたも油断してつい長っ尻になっちまったもんで……。これ、まともな人が書いたら、半分にも満たない字数で済むような話ですよね、どう考えても。
 
                  

と言ったそばから懲りもせずって感じで、ちょいと気になってたことについて今1つ蛇足を試みます。この ‘subjunctive’ のように、綴りの末尾が ‘-tive’ になってる連中って、その語形てえか語感から知れるように、もともとはみんな形容詞なんですよね。それこそ ‘noun adjective’ =「付加的名詞」の「付加的」ってところだけが独立の品詞名に昇格した ‘adjective’ =「形容詞」っていう「名詞」がその典型例だったりして。

で、件の ‘subjunctive’ てえ「形容詞」の修飾対象が ‘mood’ という名詞というわけなんですが、言わずと知れたことは皆まで言わず、ってのは日本語とも通底する英語のしきたりで、そのわかりきった被形容語たる ‘mood’ はハナから言わねえってのが、英語の文法では夙に普通なんですよね。だから、「法」に対応する筈のその ‘mood’ がなくても、訳では「仮定法」だとか「直説法」とかってことになるんだけど、何度も毒づいておりますとおり、未だに「法」をその(大抵省略される)‘mood’、すなわち「語形」(およびその使い方)ではなく、何やら「表現法」の如き意味で説いている和式英文法が多くて、話がシッチャカメッチャカんならざるを得ず、ってことなんでした。

これ、ざっと申さば、原語と訳語との対応関係の曖昧さと、前者の意味を確実に伝える漢字表記の欠落、ってところが、自分の中高時代と何ら変ってはおらず、ってなことになろうかと。ネット上の知ったかぶりではなく、然るべき出版物ではその後改善が見られるのかも知れないにしろ(あんまりそういう感じもしないんだけど)、どうせおいらはもう日本の英文法なんか相手にしなくなって数十年。ウェブで覗ける只のやつ見て文句言ってたってしょうがねえなあ先刻承知なれど、いずれにしたって英語の本のほうがおもしろくてよくわかるんだもん。

あ、それは本じゃなくて只のウェブ記事でも同じことか。次々と新たな知見も加えられてるし、折角英語がわかるんなら、やっぱり曖昧な訳語だらけの日本語よりゃ、ハナから英語で書かれたもん見たほうがよっぽどいいのに、とはよく思います。そういう日本人の英文法好きだってほうぼうにいそうなもんだけど、そうじゃない、半知半解のともがらばかりが高みからトンチンカンな知ったかぶりをしやがるのは、まあ英語に関してだけの話でもねえか。
 
                  

やっぱり俺が特別捻じ曲ってるだけなのかも。しかたがねえ。

でもやっぱり、日本の英語通どものトンチンカンぶりと、それを弥が上にも際立たせる倨傲ぶりはどうにも腹に据え兼ねます。最後に、そうした一知半解の素人衆のみならず、下拙も何となく結構評価していた(相変らずエラそうに)英和辞典に、この ‘subjunctive’ という「名詞」についての、ちょいとばかりガッカリするような記述を見つけちゃったって話を少々。

上述のとおり、「仮定法」を英語では通常単に ‘subjunctive’ と言うのですが、 ‘mood’ が付かなければ形容詞ではなく名詞、つまり ‘mood’ の意味を包含した「可算」名詞となり、 ‘a/the subjunctive’、 ‘(the) subjunctives’ というふうに使うのが普通。 ‘mood’ が可算名詞なのだから当然なのですが、驚くべきことに、と言うべきか、初版時には画期的と賞賛された大修館の「ジーニアス英和辞典」を見ると、2014年刊の最新版でも、 ‘mood’ を略した ‘subjunctive’ を「不可算」名詞としており、可算となるのは ‘subjunctive equivalent’ =「仮定法相当語句」(何それ?)の略であると言い張ってんです。

‘mood’ =「法」は可算扱いなのだから、こりゃまさに支離滅裂。いや、大修館は概して立派な本屋だと思ってるし、「ジーニアス」だって、昔自分が使ってた複数の英和辞典に比べればよっぽどまともではあったんだけど、やっぱりこういうところで、英語について知るには日本語は頼りにならねえな、との思いは強まるばかり。なんてね。

毎度お粗末。

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