2018年6月5日火曜日

‘tense’(時制?)についてちょっと

先般も申し上げましたが、「時制」の原語たる英語の ‘tense’ は「一定の時間」を意味するラテン語 ‘tempus’ が語源で、同音同綴ながら「緊張」のほうは ‘tensus’ から変じたものでありました。で、「時制」のほうの ‘tense’ の基本義は、「その動詞の表す動作・状態がいつのことなのかを示す形」といったところではあるものの、現実の用法はそうスッパリと割り切れるものではない、ってのが今回の主旨です(たぶん)。
 
                  

中学や高校の英語の授業で、「仮定法過去では現在の事実に反する仮定に過去時制が用いられる」とか何とか、そんなふうに習った記憶があるんですが、この「過去時制」とか「現在時制」、それに「未来時制」や、さらには「完了時制」だの「進行時制」だのという言い方が、当時からどうにも落ち着かななくて。

あ、でも40数年前、年齢差11歳、10学年上の長姉が60年代に使っていたという「英文法精解」とかいう分厚い参考書を気紛れに覗いたところ、現在、過去、未来、および完了は時制だが、進行時制というものはなく、したがって、たとえば「現在完了進行時制」ではなく、正しくは「現在完了時制進行形」と言わねばならぬ、ってなことが書いてあって、「え、そうなの? あれ? 授業じゃそんなこと言ってなかったような……」と思った記憶もございます(「進行形現在完了時制」だったかも)。なんでその本の題名を憶えてるかってえと、「精解」なんて言葉自体初めて見たから、「へえ」って感じだったのでした。

でもそれ、姉貴はほんとにこんな厚くてめんどくせえもんで勉強してたのか、と、ちょっと感心したものの(あたしとは正反対の優等生タイプながら、ちょいと頭が硬いところも……なんて言ったら怒りそうだけど)、こりゃ俺にゃ要らねえな、と思ったのは、ただめんどくせえだけではなく、40年以上前の70年代当時でさえ差別的として批判されるような表現(いずれも著者による自作の例文および和訳)が散見される上、助動詞 ‘can’ の否定形が、なぜか悉く ‘can not’ と2語で記されていたからなんでした。ああ、こりゃ当てにならねえな、と判断したる次第。

というのは虚偽で、単純にハナから参考書なんてもんは一切俺にゃ無縁、っていうのが実情なんですがね。参考書だの問題集だのがどうこうってより、まず学校にいるわけでもねえのに、自分の部屋でお勉強なんかするわけねえじゃん、この俺が、っていう、その姉から見たらとんでもねえ弟だったもんで。
 
                  

でもまあ、その妙に厚くて一見立派そうな本、まだ英語なんか全然わかってなかった当時の自分が見ても、書いてあることがいちいち諄い割には、ほうぼうで辻褄の合わねえこと言ってやがるし、後からイギリス流の文法知ったら、「完了」を「時制」としていながら「進行」は「時制」じゃなくて「形」だたあ、まるで了見の知れねえ寝言のような言い草。

そのくだりだけは40年以上を経た今でも憶えてるってことは、よっぽど「何これ?」って思っちゃったからなんでしょう。分厚くて立派そうなだけに、余計辟易を禁じ得なかった、ってところかと。

因みに、(叙)法助動詞 ‘can’ の否定形は、少なくとも現代表記では飽くまで1語、 ‘cannot’ であり、口頭ではそれ、常に頭の音節に強勢が置かれ、 /ˈkæn ɒt/ とか /ˈkæn ət/ と発音されます。肯定・否定の峻別のため、後半を強く、 /kæ ˈnɒt/ とか /kə ˈnɒt/ と発音されることもあるかも知れませんが、それを表記する場合もやはり1語のままってほうが普通なんじゃないでしょうか。それを示すのに2つに分けるってこともありそうですが、いずれにしろ ‘not’ だけをイタリックにしたり(手稿なら下線)、ボールドにしたり、大文字にしたり、ってところではないかと。どのみち例外的な発話法を活写する算段には違いような。

おっと、上記は飽くまで英音であり、北米発音だと、ます ‘not’ は常に /nɑːt/ だし、後半を強調する発音もラジオとかではよく聞かれますね。つまり、 /ˈkæn ɑːt/ とも /kə ˈnɑːt/ とも /kæ ˈnɑːt/ ともなるという次第。なお、この語の後に母音が連なると、末尾の /t/ は有声化、と言うより弱音化(何のことかはこちらに能書きが)するとともに、 /æ/ は、英米共通の音素記号とは言い条、米音では多くの場合かなり /e/ に近い……なんて話はとりあえずまた場違いでしたかね。毎度恐縮。
 
                  

さて、これを ‘cannot’ ではなく2語に分けて ‘can not’ と表記した場合、口頭では自然後半の ‘not’ が強く発音されることになり、微妙な口調の違いや文脈にもよりましょうが、それは単純な ‘can’ の否定ではなく、むしろ ‘not’ 以下の内容にその ‘can’がかかっている、ってのが普通。

何のことかてえと、 ‘You cannot do that.’ が ‘You can do that.’ の ‘can’ 部分の否定であるのに対し、 ‘You can not do that.’ だと、 ‘you can’ + ‘not do that’、つまり「そうしないこと」が「できる」、要するに「しなくてもいい」ってことになっちゃうてえ寸法。いずれにしても、発話上はその言い方によってどういうつもりなのかが知れるわけですが、表記の違いはその辺りを示さんがための工夫、ってところですかね。

その場合も、やはり ‘not’ だけを斜体にしたりするのは、 ‘can’ が その ‘not’ 以下全体にかかっていることを、スペースの有無だけよりは明確にできるから、ってことなんでしょう。いずれにしろ、あんまり出番のない表記ではあります。

……また余談に耽ってしまった。
 
                  

さてと、今どきの解説サイトなんかでは、「時制」とは言わず、それぞれ「過去形」「現在形」「未来形」「完了形」という表記のほうが普通のようで、40年前の自分も、周囲の生徒(それに教師)と同様、この「時制」ってのと「形」ってのを、たぶん無差別に使ってたんじゃないかとは思われます。そこはまあ、あまり(まったく)真面目に授業なんか聞いちゃいなかったから、ほんとははっきりとは憶えてないんですが、いずれにしろ「時制」という文法用語自体は頻繁に耳にし、でも自分で使うのは何かヤだなあ、と、根拠もなく思ってたんでした。単純に「意味がよくわからねえ」ってことだったんでしょう。てか、よくわかんなかったんです。

前回までダラダラと書き散らしていた「仮定法」については、まず「仮定」ってのもさることながら、「直説」でも「命令」でも、そもそも「法」って漢字の了見がわからず、対応する英語の ‘mood’ が、徹頭徹尾動詞の「かたち」であることを明確に認識したのは、高校出て英国行ってから。最初は、「法」てえからには何やら「方法」とか「作法」のようなもんか、って思っちゃって。

多少とも科学的な英文法というのは、現実の英語の法則に対する、各研究者の分析結果、と言うかそれぞれの解釈を理論化したものであり、唯一絶対の文法など存在し得ない、ということは以前にも述べました。 ‘verb’ という基礎的な用語にしても、単語に限らず、複数の語の組合せをも指す、っていう流儀もあり、ってのがその一例。

それでも、現実から乖離した恣意的かつ旧弊なる規範こそが唯一正しい文法である、というような、古臭いだけでなく明らかに誤った信念とは、いずれの理論も到底相容れるものには非ず。下拙が「和式英文法」ってやつに執拗なる論難を加えて参りましたのも、畢竟、その非現実的で的外れな規範が国内では未だ衰えを見せぬ実状への、まあぼやきてえか言いがかりてえか、そんなところではござんしょう。
 
                  

文法に限った話ではないけれど、とかく規範ってもんが、実践上は存外頼りにならねえのとは裏腹に、いつまでも金科玉条よろしく大威張りで居座り続けるのは(英文法に限っては日本に特有の現象?)、教師にとっても生徒にとっても、結局はそれが一等楽だからでしょう。「これが正しい」ってのさえ憶え込めば、とりあえずは都合よくその規範に沿って出題された試験問題には正しく答えることができるし、教える側だって、その安直な規範だけ垂れとけばちゃんと商売になるてえ筋書き。

でもね、英文法におけるその種の「正しさ」がいかにいかがわしいものであるかは、多少とも現実の英語を知り、かつ日進月歩とも言うべき言語研究の絶えざる進化のほどに触れていれば、結構すぐに知れるところではあるのです。何より、「これが正しい」って聞いた瞬間に、「それ以外はすべて間違い」っていう、それこそが何よりの間違いにたやすく陥ってしまうところが最大の陥穽。論理的には、たとえどれほど正しい理屈だろうと、自動的にそれ以外は正しからずってことにはならない上、そもそもその規範がほんとに正しいのかどうか、あんたら何をどうやって検証したってんだよ、ってな噴飯ものの規範に今も支配されているのが、何のこたあねえ、俺がさんざんバカにしてる「和式英文法」の正体(ちょっと言い過ぎか、とも思いつつ)。
 
                  

で、今さらではありますが、さんざん言いたい放題の理屈を並べておりました「仮定法」、ってより ‘subjunctive (mood)’ に関しても、厳密には飽くまで無数の文法理論の「一部」に依拠したもの、ってのが暗黙の前提ってところなんですけど、それでもまあ、自分が主に前世紀の終盤に読んだ複数のイギリス土産の文法書では、ほぼ例外なく「単語としての動詞の形」として扱っとりましたので、それについては何ら忸怩たる思いもございませず。ウェブに散見される日本語の英文法解説を腐すために、ことさらかなり水準の異なる文法を引合いに出してたかも、って気もして参りましたが、そこはまあ、ハナから難癖が狙いですから。

何を今さら言いわけのような真似を、とは自分でも思いつつ、まずその点をもっとはっきりと初めから断っとくべきだったか、などと、どういうわけか今になって気になり出したもんで。今回の主題である(たぶん)「時制」、あるいは ‘tense’ ってやつについての記述も、悉くそういう了見の下に為されますことをご承知おきくだされたく、ってなところでして。
 
                  

さてその「時制」。件の「法」と並んで、やはりまともに授業を聞いていなかった(けど試験の点数は結構よかった)中高の時分、結局完全にはわかっていないままだったのが、この「時制」という言葉なのでした。なんか今ひとつよくわかんねえけど、まあ別にいいか、ってんで閑却してたってのがほんとのところではありますけれど。

「リーダー」「文法」「作文」に分れた高校の英語では「リーダー」ってのがかなり得意だった割に、「文法」はときどき教科書の言ってることがよくわかんなくて、今思うとそれ、単純に、それこそ「法」だの「時制」だのっていう妙な用語に軽く反発を覚え、そんでちゃんとわかろうという気にならなかったんじゃないかしらと。

文法の教科書では、いわゆる単元てえやつごとの題目に英語も付されていて、それがまた ‘mood’ だの ‘tense’ だのと、いったいどうして「法」だの「時制」だのってことになるものやら、謎は深まるばかり。「雰囲気」だの「張りつめた」だのって意味じゃなかったのかえ?などと思っちゃって。つまり、英語でも日本語でも言葉自体の意味がわからねえじゃねえか、ってのが本音で、そういうわけの知れねえ名前のついた文法事項についてああだこうだ言われたって、だからそもそもそいつら何者なのよ、ってな具合なんでした。まずそれがわからねえとなると、そこでもう嫌んなっちゃうのがこのあたし。
 
                  

中3のとき、遅れ馳せでビートルズなんぞを聴いて、自分もひとつ曲を作ってみようかしら、などと思い立ち、同級生の大半と同様、それまでなおざりにしていた音楽の理屈を把握しようと、まず「音階」ってのが何なのか、その明確な定義が知りたくて教科書の隅々まで読むも、そんなこたどこにも書いてない。書いてあるのは、やれ長音階はこう、自然短音階はこう、旋律短音階がこうで和声短音階がこう、っていう具合の、要するに各種音階の紹介だけ。いや、だからそれはとっくにわかってっから、とにかくその「音階」てえ言葉の正確な意味を教えろよ、って感じなんでした。

本屋の立読みで、学校の教科書よりはよっぽど詳しい(でも初心者向けの)「楽典」なんてのを覗いてみてもそれは変らず。結局、自分なりに勝手に考えたのが、ざっと言えば、何らかの規則性に沿って複数の音程(最低2つ、つまり3音?)を積み重ねたもの(特殊な例を除けば1オクターブで一揃い)、ってなところ。そんなこたハナからわかってんじゃん、って気もするけれど、こっちとしちゃあ、ちゃんと何らかの明快な定義を示して貰いてえじゃねえか、ってことなんです。まあ、簡単な語釈なら普通の国語辞典にだって載ってるんですけどね。音楽理論が全然わかんない人には結局何だかよくわからないとは思うけど。

でもそれ、後になって気づいてみると、どうも世の中の大抵の人は、実は音階の語義なんかまったくわかっていないまま、何せ言葉自体は誰でも知ってるもんだから、平気でトンチンカンな使い方してんですよね。メロディーの断片だの、単なる2音間の音程なんかを音階呼ばわりするのはまだしも、しばしばたった1つの音を指してそう言ってたりさえします。たぶんその場合は、その1つの音の高さのことを言いたいんじゃないかとは思われるものの、じゃあ「階」の字の意味はどこ行っちゃったのよ、とは思わざる能わず。

1つの音の高さについては、それを「音程」って言ってる人もいますね。「音階」よりはまだ生易しい誤用かも知れないけれど、宛もたった1人の人間について「同一性」などを論うのにも似た非合理。「程」の字が示すとおり、2音間の高さの隔たりが「音程」ですぜ。1つしか音がないならハナからそんなもん生じようもあるめえに、なんてね。で、その音程が規則的に連なったもんが、つまりは音階てえこってしょうよ。
 
                  

……と、またも見当外れの愚痴をこぼしてしまいましたが、英文法における「法」だの「時制」だのについても(たまたまこないだからこの2つに引っかかっちゃってるだけで、もちろん他にも類似の事例はあり)、結局は似たような事情なのかも、などと思ったもんですから。てえか、今そう思ったところなんですけど。

とにかくまあ「時制」の話。「仮定法」と ‘subjunctive’、「法」と ‘mood’ のズレについてはさんざん恣意と散漫を極めた長駄文をものしてしまいましたので、訳語の是非については触れぬこととし(「制」の字義には「かたち」ってのもあるような、ってことはこないだ言ったし)、極力原語である ‘tense’ の語義や用法についての無駄話に専心する所存。
 
                  

と言ったそばから毎度恐縮ですが、それについてはまず、一見さほど関係なさそうな用語について少々語っときたくなっちゃいました。実はこれ、前回までやっていた仮定法攻撃の途中でも何度か書いとこうかと思いながら、既に充分以上に話が長くなっちゃってるし、その上さらに余計なこと言ってる場合じゃねえな、と自重していたものの、今思うと、そいつを早めに出しといたほうが、結局は全体の話ももうちょっとスッキリまとめることができたかも、って気がしてきまして。多少の説明を惜しんだばっかりに、却って言うことがいちいちくだくだしくなったような。

‘finite’ と ‘marked’ っていうのがそれなんですけど、またしても無駄話ばかりに興じて、既にかなり長くなっちゃいましたから、それについてはまた次回ってことで。

何だよ、もう……とは自分でも思っとります。どうもすみません。

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