2018年7月12日木曜日

改めて「時制」または ‘tense’ について(5)

前回、2つ(だけ)の ‘tense’、すなわち ‘present’ と ‘past’ のいずれもが、決して原義どおりに「現在」や「過去」の事象のみを示すわけではなく、前者は実際の時間状況を超えて、話者にとってより現実的な、言わば「近い」事柄に充当され、後者は同様に、実際に過去かどうかはさておき、話者にとっては自らの現在あるいは現実と隔絶した時間または状況に対する意識を反映するもの、とでもいうような理屈を述べました。

前者が ‘unmarked’、後者が ‘marked’ とされるのもそのため、ってな話ではありましたが、それぞれ「現在」と「過去」以外の事柄に用いられる「時制」の例はまだいろいろありますようで、それについて書き散らして参る所存。ひとまずは、前回に引続き、「現在時制」の、現在に限らぬ用法について少々。
 

                  

前回は、過去の事柄を現在のことのように語る、 ‘historic present’ の例として、ビートルズの伝記本に出てくるジョン・レノンの父の回想を記したりもしましたが、脚本のト書きなんかも大抵現在時制ですね。それは日本語でもおんなじか。

他によく見かける事例としては、ニュースの見出しってのがありました。過去のできごとを伝えながら、大抵現在時制なんです。

Mandzukic sends Croatia to first World Cup final

というのをさっき Times のページで見つけたんですが、 ‘sends’ ったって、これはもちろん、通常の現在時制とはまったく異なり、日常的、習慣的行為とか、状態、と言うより常態だとか、あるいは知覚や感情を表している、なんてわけはなく、マンジュキッチとやらの手柄でクロアチアが初の決勝に進んだ、という、飽くまで既に過去となったできごとを伝えるもの、という次第。

日本ではこういう場合、「クロアチアが初の決勝進出」というふうに、文の形にはしないのが見出しの基本とも思われますが、それでも昔の新聞だと、たとえば

帝國、英米に宣戰を布告す

ってな言い方もよく見かけるので、かつてはちょっと英語の新聞のやり方に近かったってことかも。

尤もこれ、単純に極力簡潔な動詞の形として「現在時制」が利用されているだけってのが実情で、全体としてはそれを述語とする文の体裁にはなる、と見なすのが妥当ではありましょう。昔の日本の新聞でも、基本は「文」未満の「句」であることが遥かに多く(たぶん)、その点は英語圏のものも、今どきの日本のものも同工ではございましょう。

英語の場合、既に過去のできごと(ニュースなら大半がそうではないかと)も、未来に言及する現在進行中の事象についても、見出しでは現在時制で間に合せる、って感じなんですが、いつの話をしているかは自ずと知れようし、そうでなくとも記事を読めば瞭然、といったところではないでしょうか。新聞ではないけれど、 CBS のニュースサイトには下記のような例がありました。

President Trump continues to slam allies during NATO summit

これは、今現在のトランプの了見、あるいは今後の動向を伝えるもの、って感じ? 一方、ちょっと古い記事ではありますが、

Trump accuses CBS of editing him out of context on abortion

ってのもありました。こっちは間違いなく例の 「歴史的現在」に類するものでしょう。
 
                  

これに対し、動詞が受け身の場合は、まず文の体裁にはせず、助動詞を除いた過去分詞だけを用いるのが普通のようでもあります。これも Times のページに、

Three security guards wounded in explosive cash heist

というのが載っていて、さらに、 CBS のニュースには、

Firefighter killed in Wisconsin explosion identified

というのもありました。 ‘wounded’ も ‘killed’ も ‘identified’ も、その前に ‘were’ とか ‘was’ とでもあれば、それが ‘tense’ を有する ‘finite verb’ とはなるところ、それを欠いたこういう見出しは、さしずめ典型的な ‘non-finite clause’、あるいはそれを重ねたもの、とでもいったものになろうかと。その話はもう古いか。

でもまあ、さっきの、タイの洞窟遭難事故について伝える CNN のニュースも、1週間ほど前の報道では

Missing youth soccer team found alive in Thai cave

と、やはり時制を成す助動詞を省いた ‘found’ のみで事足れり、としており、同じく過去に言及するものであっても、能動は現在時制、受動は時制のない過去分詞だけ、というのが暗黙の前提、とは思われます。

これ、何気なく ‘soccer’ って言い方がいかにもアメリカっぽかったりして。まあ  ‘football’ ったら、彼の地ではアメフトのことではあるんでしょうけど。

またも余談でした。実は現在時制についてのこういう事情って、今までは考えたこともなかったってのがほんとのところでして。「時制」、ってより ‘tense’ について非ずもがなの御託を並べようとしてたら図らずも気づいたというのが実情。いずれにしてもこれ、文としての体裁がどうこうということではなく、見出しとしての簡潔さを期すれば自ずとこのような使い分けになる、ってなところではないかしらと。
 
                  

「過去」には違いないけれど、ほんの一瞬前のことを「現在」として語る例ってのもありまして、スポーツ中継ってのが大概そうですね。サッカーの試合の実況なんかでも、この ‘historic present’ に類する手が頻用されまして、ラジオ聴いてると、選手の動きは逐次現在時制で描写するのが通例のような。なんせスポーツにはとんと疎いもんで、たまたま耳にしたそういう番組の記憶で語ってるんですが、これについては、やはり興味がないので普段はまったく観も聴きもしないんだけど、野球の中継だと「打った」とか「取った」とか、一瞬前とは言え、過去は過去として扱うのが日本語の流儀なのではないでしょうか。わかんないけど。
 
                  

さて、ざっと ‘present tense’ が過去への言及に用いられる例を、思いつくままとりとめもなく並べて参ったわけですが、もちろんあらゆる可能性を網羅するなどは到底望むべくもなく、飽くまでざっと思いついた範囲に過ぎない、ということはご承知くだされたく。ついては、これとは裏腹に、未来への言及に使われる現在時制ってのについても、もうちょっと考えてみようかしらと。

未来と言えば、前回も触れたように、中高では「未来時制」として習った、‘will’ だの ‘shall’ だの ‘be going to’だのを冠した動詞句、ってのがありますけれど、再三申し述べておりますように、下拙は ‘tense’ というのを、飽くまで単体の動詞(含助動詞)の語形とする流儀を信奉する立場から、これらを「時制」とは認めません(エラそうに)。

その、言わば狭義の「時制」観の下では、広義の「未来時制」に含まれる ‘be going to ...’ あるいは「進行形」と呼ばれる ‘be ...ing’ については、先頭の ‘be’ だけが  ‘tense’ を成す ‘finite verb’ で、それ自体は常に現在時制とはなりますね。もちろんこれが「過去進行」なら、その ‘be’ の部分が「過去時制」ってことで。さらにそれ、どこまで行っても「存在」とか「状態」を表す動詞であって、「動作」だの「行為」という、言わば一時的な動きを示すものには非ず、とかね。

……って、そんなこともどうでもよくて、中学では宛も ‘I will ...’ と ‘I am going to ...’ が同義であるかのように習い、うっかりそうなのかと思い込んじゃってたこともありました。でもそれ、実際には相当意味が違いますから。

さらに、前回も申しましたとおり、未来ではあっても、確定的な意思(志)、あるいは予定のようなものに対しては、中学生が「現在進行形」と習う、 ‘I'm ...ing ’ という言い方が用いられる一方、このように主語が一人称の場合は、‘I will ...’ と言ったのでは、その未来の行動を思い立ったときの台詞にしかならず、 ‘I'll leave tomorrow.’ とだけ言うと、「明日発とう」というような、言わば「決意表明」ですね。つまりこの場合の `will’ は、この文言に `if it's sunny’ とか `if I can’ とか、何らかの付帯要素が伴わない限り、未来への想像でも、予定の伝達でもなく、これも日本で言う「意志未来」というやつにしかならんのでした。

まあ飽くまで、 ‘I’ を主語とし、かつ前後の文脈によって何ら特定の状況が感得し得ない場合、とでもいったところですが、一旦翌日の出発を決めた後は、もう ‘I will’ の出番はなく、 ‘I'm leaving tomorrow.’ が普通。

思い出した。 Oasis の ‘Don't Look Back in Anger’ でも、同じ歌詞の繰返しながら、1番では

 So I'll start a revolution from my bed

と歌ってるのに、2番ではしっかり

 I'm gonna start a revolution from my bed

になってるじゃござんせんか。これ、逆だとかなり妙だってことで。まあ、ウェブの歌詞サイトでは、それぞれ表記もいろいろではありますけどね。

それはさておき、さっきの例では、 ‘I'm leaving tomorrow’ でも ‘I'm going to leave tomorrow,’ でも似たようなもんだとは思われるものの、たとえば ‘It's raining.’ じゃあ「今降ってる」にしかならず、「降り出しそう」なら ‘It's going to rain.’ としか言いようはない……ってなことを言い出しちゃうと、またぞろ止め処もなく長い話になるは必至。そもそもこの駄文、あくまで本来の「時制」は「現在」と「過去」しかない、ってのが主旨でありますれば、「未来時制」のこたもういいでしょう。とりあえず、そういうさまざまな未来の表現にもまた、実に込み入った意味、用法の使い分けが肝要だということだけは申し上げておきましたる次第。
 
                  

それより、現在時制が未来を表す事例、ってことだったんだ。既に決った予定に対しては ‘be ...ing’ っていう、いわゆる「現在進行形」が多用される、という、かなり大雑把な説明は致しましたが、日常的、個人的なやりとりではなく、たとえば旅程とか日程とかを記した印刷物や掲示物では、まだ先のことではあっても現在時制で示されるのが通例、ってのもあります。以下は、やはりウェブで見つけた二泊三日のロンドン見物の最終日の日程。

               
We leave London at 10.00 am and head for a lunch stop in the County town of Winchester. Arriving back in the local area around 4.30/5.30 pm.
               

この ‘leave’ と ‘head’ が、未来(この記事掲載時における)に言及する現在時制ってこってして。これ以外にも、未来に言及した現在時制ってのはありましょうけれど、ひとまずはこのぐらいで。

いずれにしろ、このように「現在」の皮をかぶった過去や未来ってのが珍しくない、ってことなんですが、念のために申し添えておけば、現在時制は、たとえ素朴に現在への言及に用いられた場合でも、その「現在」は過去から未来へと、ときにはかなりの幅を持った「今」に限られるのが基本、とも申せましょう。

動作、行為を表す動詞であれば、必然的に発話時点である現在を含んで、その前後の一定期間、場合によってはかなりの長期間を「現在」として切り取った言い方となり、 ‘know’ だの ‘see’ だの ‘love’ だの、あるいは ‘live’ だの、それこそ ‘be’ だのといった、動作ならざるものについては、現在とは言い条、必ず過去から未来へと連なる一定期間(あるいは永久)の状況、状態を表す……って、しまった、また何言ってんだかわかんねえじゃねえか。ご無礼至極。

まあ、そういうかなり幅のある「現在」を扱うのが「現在時制」の本分(?)だとすると、もっと発話時点およびその前後だけに特化した言いようが、「現在進行」(「相」でも「時制」でもいいけど)ってことになりましょうか。

‘I live here.’ てえと、場合によっては何十年も前から、ことによると何十年も先までを括った「現在」への言及であるに対し、‘I'm living here.’ だと、たとえ数(十)年間のことについて言っているとしても、話者の意識では飽くまで「一時的」な期間に限った状況を述べている、とでも申しましょうかしら。やっぱり何言ってんだかわかんないかも知れませんけど。
 
                  

結局また何とも締らない話になっちゃいましたが、「現在」のほうはまあそんなところと致しまして、今度は ‘past tense’ が過去ならざるもの(現在と未来に決まってんじゃん)を示す場合について述べようかと存じます。油断してまた長くなっちゃったんで、やっぱり次回に繰越しとは致しますが、そこはどうぞ悪しからず。

その「過去時制」が過去以外に用いられる代表例としては、日本では未だに「仮定法過去」として括られてる言い方がありますね。 ‘past subjunctive’ は別名 ‘were-subjunctive’ てえぐらいのもんで、英語ではそれ、飽くまで ‘were’ の1語ですから、それ以外の「過去時制」を用いたものは悉く「直説法」であり、つまりこれ、単純に和式英文法の不明ぶりを示す好個の例、ってところなんですけどね。

それで思い出したんですが(てこたあ忘れてたか)、ほんとはもうどうでもいいような気もしてんだけど、実はこの ‘tense’ 談義には欠くことのできない(たぶん)、「仮定法」絡みの難癖、後から一応駄目押ししとく、って前回言ってたんでした。凝りもせず次回はまずそいつをまた蒸し返してやろうとの要らざる魂胆にて。ちょいと厄介そうだけど。

やっぱりこれ、五月雨式に加え、場当り主義ってんでしょうね。何にしても毎度恐縮致してはおります。ではまた。

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