2018年7月14日土曜日

改めて「時制」または ‘tense’ について(6)

「現在時制」こと ‘present tense’ は、いわゆる「現在」に限らず、過去にも未来にも充当される、話者にとっての主観的な現在、あるいは現実とでもいった、言うならば時間の枠を超えた「近い」事柄に対して用いられる動詞の形、ということではありました。前回まではそうした事例をいくつか並べておりましたわけですが、万古不易の真理だの、自然の摂理、法則だのってのも、つまるところは話者にとって(あるいは誰にとっても)、悠久の過去から永遠の未来へと連なる(であろう)「現在」ということにはなる……って理屈なのではないかと。

それとは裏腹に、「過去時制」、 ‘past tense’ というのは、畢竟話者にとっては「遠い」事象であることを表す形、とでも申しましょうか。たとえば、先般の駄文中、「現在」と「過去」という2つの ‘tense’ が、実際にはそのいずれとも離れた意味で使われる例として、

 If she comes tomorrow ...



 If she came tomorrow ...

ってのを示しとりましたが、下の例は、ご覧のとおり「明日」って言ってんだから決して過去への言及ではあり得ませず、これこそ言ってる本人が「俺はそうは思わねえけど」っていう気持ちを示す ‘tense’ である、ってこと……って、毎度言い方がテキトーで恐縮ですが、まあそういう違いこそが、 ‘present’ は ‘unmarked tense’ で、 ‘past’ は ‘marked tense’ なる理屈の元、とはなります次第。やっぱり要領を得ないだろうとは思いつつ。
 
                  

でまあ、この下のほうの ‘came’ なんですけど、我が日本では昔から「仮定法過去」の典型例の如く扱っておりましょ? 「仮定法」って日本語については、既にしつこく論難を加えてはおりますものの、自分でもまだちょいと遠慮があったか、という気もして参りました。はっきり言って、まさしくこの例における ‘came’ が仮定法過去だなどとは笑止の極み。いや、「仮定法過去」ではあるのかも知れないけれど、決して ‘past subjunctive’ ではあり得ない、ってのが、英語で英文法やってりゃ否応なくわかっちゃう当然至極なる大前提、ってな感じでして。

それが、何度も申しますとおり、日本人による日本語の英文法解説記事などを見てると、全然わかってない人たちばっかり、っていう勝手な憤慨が、つまりはこの一連の駄投稿の動機ではあったのでした。俺だって日本人だし、これだって日本語で書いてんだけどさ。

その「仮定法過去」、この ‘came’ がそうだってことは(ってより、それを用いた「表現」がそうだってことは)、あたしも中高じゃしっかり習ったし、ウェブを覗く限り、堂々とそう説いている解説サイトに事欠かぬは上述のとおり。

でもね、それ、今どきとどころかずっと昔から英語じゃあ ‘past subjunctive (mood)’ なんて金輪際言わんのですよ。まさしく ‘tense’ というものが、「時制」という訳語とは裏腹に、専ら「現在」だの「過去」だのという時間的状況を示すものではない、という事例ではあり、「法」なんざ関係ない。いや、わざわざ言うなら、ごく普通の「直説法」、 ‘indicative (mood)’ に決ってんじゃん、ってことで。
 
                  

……などと言うと、いったい君は何を言っとるのかね、ってな英語教育のベテランってのもいやがって、20年ほど前にも、求人雑誌の広告見て面接に行った江戸川区の自称「名門」英語塾(でも対象は小中学生だけ)の大将ってのにさんざんバカにされたのが未だ腹立たしく。何でも、大学も出てねえこちとらは、向うに言わせると「背伸びをしている」んだそうな。ケッ、本気かよ、とは思ったけど、まあバカなんだからしょうがねえ。江戸川区だからって侮る気はさらさらなかったけど、自ら「名門」って名乗ってる広告見た時点で、こいつぁちょいと怪しいな、とは思ったし。

こっちに言わせりゃ、便宜上古来の(ったって日本特有の?)受験英語、学校文法に沿った教え方をするのもしょうがねえ、てえか勝手だろうけど、教えるほうが根本を知らねえんじゃ話になるめえよ、ってところ。何より、当時五十ほどと思われたその「名門塾」の親玉、とっくに三十過ぎのこっちを高卒だからってんでハナから見下してやがるのが、腹立たしくも驚きではあったのでした(あれ? 最終学歴は高校じゃなかったんだけどな)。それならそれで、どうしてハナから大学行ってねえ、って断ってんのに、面接に来いなんて言うんだか。やっぱりバカとしか言いようはあるめえ。学歴と学識、まして知能はまったく比例しないのが、戦後日本の最大の特徴?

そりゃ言い過ぎか。でも、実際自分と同世代の友人知己、それも結構名のある大学出てる連中だって、英語はともかく、禄に漢字が読めなかったり(俺もとっくにソラじゃ書けないのばっかりだけど)、何より言葉ってもんを知らない、あるいは平気で意味を取り違えて使ってるってのが珍しくもなく。それでいて「君ももっと本を読めば」などと抜かしやがる。悪かったなあ、どうせおりゃあ時代物ばっかりで。でもてめえらはいったい何をどれだけ読んでそんなに言葉がわかんねえままなんだよ。とかね。
 
                  

ああ、件の江戸川区の名門英語塾のオヤジも、まったくおんなじこと言ってやがったな。「本を読みなさい」だと。俺が本を読まねえなんていつ言ったよ。てえか、とりあえずてめえこそもうちょっと英語読めるようになってから威張れよ、ってなもんで、エラそうにも「筆記試験」なんてのをやりやがったんだけど、1つ、こりゃ例の引っかけってやつか、と思った穴埋め問題がありましてのう。

「(~から)遠くの」というような意味の単語を挿入しろ、ってんだけど、あたしゃそれ、 ‘a long way’ ってのが一等普通なんだけどな、とは思いつつ、1個しか「穴」がねえんじゃあしょうがねえ、ちょいと堅苦しいけど、‘remote’ よりゃこっちかな、ってんで、とりあえず ‘distant’ と書き込んどいたところ、何とそれは「間違い」で、 ‘far’ が正答、などといういう驚愕の結果。

いや、 ‘far from’ って、あぁたそれ、否定でなければ疑問でしか使いませんぜ、ちょっとでも実際の英語知ってりゃあ。意味が変っちゃうじゃねえかよ。それこそ ‘Sorry, but far from that, actually.’ ってなもんさね。

つまりそれ、物理的な距離ではなく、比喩としての「ほど遠い」ってことにしかならねえんです、少なくとも「現代語」としては。‘non-assertive’ って一党に類するようなもんですな。 ‘too far’ のように、何らかの否定的、疑念的なおまけでも付いてりゃ別だけど、素朴な肯定平叙文には使われません。って、ほんとにそれ、初歩の初歩なんだけど。てえか、それを愚かにも正答と言い張るにしても、なんで ‘distant’ が間違いってことんなるかってのよ。やっぱり何をどう足掻いてもただのバカとしか思われませぬ。

ほんとは ‘distant’ ってのもちょいと妙だし、何しろ「遠すぎる」風情はあるものの、やっぱり穴が1つしかねえんじゃしかたがねえ。ほんとはまず ‘away’ ってのも思い浮かんだんだけど、それもまたこの ‘far’ と同様、単独でははまりそうもなかったし。
 
                  

かと思うと、それとは別に、こっちゃあまったく迷いもなく ‘(the) following (day)’ って答えにいしといたやつも、‘next’ でなきゃ間違いだってのよね。いや、それでも別に間違いじゃねえだろうけど、口頭ではその ‘next’、定冠詞 ‘the’ の有無で意味が違っちゃうから、曖昧さを回避するために避けられる場合もあるってぐらいのもんで、何より、‘following’ のどこが間違いだってんだよ。やっぱりバカさ加減が熾烈に過ぎ、軽く眩暈を覚えたほど(嘘)。

今言った「曖昧」ってのは何かを一応言っときますと、たとえば

 He said he was leaving next week.



 He said he was leaving the next week.

では、前者がこの文の発話時における発話者にとっての「来週」、後者がその時の「彼」にとっての翌週。したがって、元の発言が先週なされたものなら、実際の台詞は前者が

 I'm leaving the week after next.

だし、後者は

 I'm leaving next week.

てえ寸法。さらに前者は、週が明けたら

 He said he was leaving this week.

に言い換えられる……ってこれ、ほんと実に初歩的なネタですぜ。日本にいた中高生の時分には、あたしだってわかっちゃいなかったとは思うけど。

あ、いずれの場合も、たとえば ‘for the next week’ ってんなら、それは「今後1週間」ってことんなります。……てなことも、普段はいちいち考えもせず無意識に使い分けてるもんで、なかなか言及する機会もありませず。
 
                  

いずれにしろその名門オヤジ、軽く(昔の)平均的高校生にさえ遥かに劣る愚蒙さではないか、ってなもんで、到底ひとさまに英語を教育しようなんて金輪際思っちゃいけねえ部類。そんなのが威張ってる「名門塾」に、わざわざ金出して自分の子供通わせる親もいるのか、と思うとちょいとした公憤さえ覚えたりして(またも嘘)。

それでも商売になるってことは、世の中そっちのほうがよっぽど正義なのか……とも思っちゃうのは、そもそもそんな頓珍漢なところの求人広告に引っかかっちゃうことになったきっかけ自体が、それまで2年ほど雇われていた、子供から成人まで、生徒の年齢はまったく不問の、英語全般を教える専門学校が、バブル崩壊の煽りで生徒が激減し、あっさりつぶれちゃったからなんでした。

で、そこ雇われるまで数年間やってた欧文電植の会社ってのが、仕事自体は好きだったんだけど、従業員に対するあからさまな待遇の不公平と、一部の固定客の尊大さに辟易するあまり、たまたま(会社がとっていた)新聞の広告で見つけちゃったその英語専門塾の面接受けることにしたという経緯。

有休は常に溜ってて、毎年無駄に消えてってたから、後から残業で間に合せりゃいいか、ってんで(ほんとに退職することになった後は相当にきつかったけど)、実は体調が悪いとか何とか嘘ついてそこ受けに行ったんです。ちゃんと事前に、大卒でなきゃならねえってこたないのを確認した上で(英語関係では結構ありがち)。

で、もう1人、同日に呼ばれて面接受けに来てた女性もいたんですが、どうもそういう募集広告出すのは、いわゆる英会話学校だと思ってたらしく、面接の前にいきなり紙の試験だったんだけど、問題見た途端に諦めて帰ってったのをに憶えてます。別にそんな難しい問題なんかはなくて、まあ普通の大学入試問題をかいつまんだようなもん。自分は大学なんて受けたこともないけれど、そこの学校で働くようになってから、いわゆる過去問ってやつをしょっちゅう見るようになって、ああ、こういう感じなのね、ってのがわかったのでした。ケンブリッジの CPE っていうのに二十歳で通ったこちとらにゃあ、お茶の子さいさいってやつ?(Grade B だったけど、 C までは合格だし、その前に受けた FCE は A だったから、まあ俺としちゃあ上出来か、みたいな)。

唯一、例の「文型」問題で、順番なんか忘れちゃってたから、「第何文型」ってところだけは一部空欄にしたまま諦めたんだけど、その筆記の後、いよいよ面接となったら、そのとき1人だけその塾にいた校長ってお人が(生徒も講師もまだやって来る前の時刻)、採点するわけでもなく、ざっとこっちの渡した答案に目を通しただけで、即座に「合格です」って言ったので一安心。一応、文型の番号がわかんなくて、って言ったところ、「そんな枝葉末節はどうでもいいんです。本質さえつかんでいれば」ですと。彼の江戸川名門塾のバカオヤジとはまさに対極。

そういうまともなほうが不景気であっさりつぶれちゃうってのに、バカが自称する名門のほうはビクともしない(未だにご健在のようです、その名門塾)、ってところが、いかにも日本の実相を示す好個の例……なのか?

ま、そのまともなほうに2年いたわけだし(ほんとはすぐに仕事は辛くなりました。生徒の大半はやはり中高生だし、その大半が受験のために好きでもない英語やらされてんのがわかっちゃうから、教えるこっちも身につまされちゃって……)、何より英国帰りで英国の検定の上級(当時はまだ2段階だけ)のほうにも受かってるっていう自負のようなものはあり(日本じゃ全然ものを言わなかったけど)、弥が上にもその名門オヤジの愚劣を極めた倨傲ぶりが腹に据え兼ねた、という仕儀。20年数年を経た今でも思い出すだに虫唾が走る。なんちゃって。ルサンチマンとかいうのはこういうやつですかい? 英語の ‘resentment’ たあどっか違うんですかね。まあいいか。

でもこういう悪態って、たぶんこの年になってなお、大学行ってないことに対する引け目のような因子が自分に残っていて、実はその僻みの反動が表出したるものだったりして。若い頃はまったく考えもしなかったけど。
 
                  

……てな具合に、一旦昔の恨み言を始めちゃうと、どうにも止め処がなくなっちまって、まことに無調法でございました。だって楽しいんだもん、悪口って。ほんと、しょうがねえ。自分こそとんだケチな雑魚じゃねえか、との自覚は揺るぎもなく。

おっと、そんなことより、 ‘tense’、およびそれと絡んだ  ‘mood’ の話をするんだった(遅いよ)。今回はつい恨み言を並べる愉楽に(わざと)からめとられ、本題には行きつけぬままでしたが、続きはまた次回ってことに。

すみません。ほんと、何やってんだかなあ。

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