2018年7月16日月曜日

改めて「時制」または ‘tense’ について(7)

前回はつい場違いな恨み節などを吐露してしまいました。強引に話を戻し、まずは以下の2例を再掲。

 If she comes tomorrow ...

 If she came tomorrow ...

いずれも未来への言及であり、初めはこれ、 ‘tense’ というものが決して現在や過去の事象にのみ充当されるわけではない、という事例として示したものだったんですけど、こうしたいわゆる条件文ってやつにおける、「時制」ではなく「法」についての、これまた余計な言いがかりの如き与太話として、下の例に見える ‘came’ を「仮定法過去」などとは笑止千万、ってなこと言ってるうちに、図らずも20数年前の「名門」英語塾の面接試験のことなどを思い出し、またも話が大きく逸れることに成り果てたのではありました。

とにかくまあ、前回言いかけていたように、 ‘past subjunctive’ と呼ばれるのは、主語が ‘I’ でも ‘you’ でも、あるいは ‘he’ でも ‘it’ でもまったくお構いなしに使われる ‘were’ ただ1つ、ってことでして、だからそれ、別名 ‘were-subjunctive’ とは称される……ってことも既述の如し、みたいな。

一方、その上、1行目の ‘If she comes ...’ ってほうの ‘comes’ は、「仮定法現在」の能書きでよく見かける、「現代口語では直説法現在形も用いられる」云々の例ってことになりましょう。あたしゃ腹ん中でつい、「いったい非現代文語の話なんかいつしてたんだよ」と思っちゃう、ってこともだいぶ前に言っとりますが、この ‘if she comes’ を、思いっきり古臭く、‘if she come’ って言ったら、その ‘come’ が、英語で言うところの ‘subjunctive’ とは相成ります次第。

「仮定法」っていう訳自体も殆ど滅茶苦茶な上、日本の受験英語とかいうやつでは、その仮定法の説明に、宛然何とかの一つ覚えよろしく、昔っから上掲のような条件文ってのばっかり並べやがるから、いちいち「現代口語では直説法」てな、寝言にも等しい弁解、じゃなくて補足説明を添えなきゃならねえんじゃねえかい。仮定法の説明に、なんでばんたび「直説法」を示さなきゃならねえのか、ちったあ気にならねえもんかしらねえ。そんな、もはや屁理屈と呼ぶもおこがましき非現実的な「文法」を学ばせられる生徒こそ痛ましけれ、ってね。とりあえず、そう言ってるてめえらは普段「文語」ばかりでしゃべってるとでも言うのかえ? とは思っちゃいますね。おもしれえからできるもんならやってみろい……って、別におもしろくもないか。ちぇ、つまんねえ。

ともかく、‘if she come’ なんていう時代のズレたような妙ちきりんな言い方が飽くまで正統であり、それに反する実際の英語表現のほうは「現代口語」という、何やら一文安い言いようででもあるかの如き見当外れの文法なんざ、こっちゃあもうウンザリなんだよ……ったって、そりゃ俺の勝手ではあるけれど、そんな頓痴気どもがまたエラそうにも日本の英語教育について高みから云々してやがったりもするから、不快はいよいよ募らざるを得ず、ってなもんで。
 
                  

しまった、また恨み言ばっかり。どうも「仮定法」って」いう「日本語」に対する嫌悪の情もだし難きあまり、ついこのような悪口雑言が溢れ出てしまうような。遅れ馳せながら、ちっとは遠慮すべくせいぜい努めるとは致しましょう。

「仮定法」についての、こうした日本的解説の文言に明らかなのは、畢竟 ‘subjuntive’ と「仮定法」、あるいは ‘mood’ と「法」との語義、用法の乖離、ってことなのではないか、と思量致します次第。既述のように、英語では昔から ‘past subjuntive’という ‘mood’ に該当するのは ‘were’ の1語のみで、だから別名 ‘were-subjunctive’ とはされており、上例の ‘came’  などは通常の動詞の屈折例に過ぎず、それこそ ‘indicative case’ にして ‘past tense’、つまり「直説法」の「過去時制」たるは灼然……なんですがねえ。

これを飽くまで「仮定法」だと言い張るのは、単に ‘subjunctive’ の何たるかを認識せざる愚の表出せるもの、なんてね。いや、「仮定法」と ‘subjunctive (mood)’ は別語だってんならしょうがねえけど、そうなりゃもうまったく俺の知ったことじゃねえし。

たぶんこの単なる ‘past tense’ をどうでも「仮定法過去」だと言い張る手合いってのは、そもそも ‘tense’ 同様、 ‘mood’ も、動詞単体の「語形」のことだってのがわかってねえんじゃねえかしらね。意味じゃねえのよ、 ‘mood’ の違いは、とでも言いたくなります。どういうつもりの「過去形」だろうと、 ‘were’ 以外には ‘past subjunctive’ は1つもない、って、繰返し言うのも野暮だし、もうかなりくたびれてもいるんだけど、だってそうなんだからしかたがない。

そのどうしようもないあったりめえのことが、未だに日本じゃ通じず、それどころか「何を言ってるんだ、チミは」ってことんなるのが、前回の恨み言の発端なのでした。みんなおいらが悪いのか……。
 
                  

すみません、ちっとも話が前進しませんで。今一度心を入れ替える思いで一旦ちょいとまとめますと、「仮定法過去」に対応する原語たるべき  ‘past subjunctive’ に該当するのは、何世紀も前から ‘were’ の1語のみであり、それ以外の ‘past tense’ は悉く ‘indicative mood’。今の(実は数百年前から) ‘subjunctive’ という区分が適用される動詞の形は、因襲として ‘present subjunctive’、つまり「仮定法現在」と呼ばれている、先述の ‘if she come’ とか、それに類する  ‘if need be’ だの ‘if it not be’ みたような、ちょいと大時代なやつのことで、こういう単純な条件文よりは、たとえば

 They demanded that it be done immediately.

とか

 We recommend that you not do it again.

とか

 It was important that she act properly.

とかいった、やはりちょいと時代がかった言いように表れる、現代語としては(やはり何百年も前から)少々妙な動詞の姿、ってのが実際のところ。1つしかない ‘past subjunctive’ なんかより、こうした「三単現のエス」っていう中学英語ネタをも真っ向から裏切るような、やっぱりちょいと変な形態のことを指して ‘subjunctive’ とは言うのが普通ではあるのです。

で、その擬古文風の言い方ってのが、実は19世紀の時点でとっくに廃れ切っていたところ、どういうわけか前世紀のアメリカでちょっと気取った言い方として復活し、それでも長らくアメリカの方言と見なされていたのが、戦後徐々に他国をも浸潤するに至り、今では英語の卸元たるイングランド(てえか、もちろん連合王国全体)でさえ、結構普通に使われるようになっちゃった、っていうの実情……なんだけど、日本で英文法なんてもんが流行り出したのが、ちょうどアメリカにおける ‘subjunctive’ 復古の時期と重なったためか、和式英文法では、一貫して「仮定法現在」を用いるのが正しく、「直説法現在形」は飽くまで「イギリスの現代口語」てなこと言っとった(まだ言っとる?)わけですよ。英語ってもともとイギリス語じゃん、とも毎回思わずにはいられませず。

それについても以前既に書き散らしておりますが、21世紀の今日では、そのイギリスもその仮定法、すなわちかつてのアメリカ方言に毒され、おっと影響され、特にマスコミが多用するようになってるってことです。いいけどさ、別に。
 
                  

その「仮定法」てえやつに対する存念はとっくに吐露しておりましたに、うっかりまた繰り言を並べてしまいまして、やっぱり寄る年波てえやつでしょうか。何卒ご容赦のほどを。

当面の主眼は飽くまで ‘tense’ であり、 ‘(subjunctive) mood’ がそれとちょいと絡み合う部分もある、ってことで、図らずもおんなじ話を繰り返しちゃってるわけですけど、ここに至って漸く何とか本旨へと赴くことができそうな気配も感ぜられます。遠回りばかりでまことに慙愧に堪えず、ってところですが。

さんざっぱら「仮定法」がどうの ‘subjunctive’ がこうのと言い募っときながら、今さらって気も致しますものの、とりあえずこれ、ハナは「仮定法過去」として括られる、主に条件節での使用例に見られる「過去形」は、‘subjunctive’ ではなく ‘indicative mood’ における ‘past tense’、つまり「直説法」の「過去時制」に過ぎない、という話だったのが、とんだ恨み節を経て、かくもくだくだしい無駄話とは変じ果てたる仕儀……なのでございました。

で、これこそが、 ‘past tense’ を、‘unmarked’ たる ‘present tense’ とは対極を成す ‘marked tense’ とは称する所以、ってなところでして、最初に掲げた ‘If she came tomorrow.’ ってほうの ‘came’ も、 ‘mood’、 「法」の違いなんかじゃなくて、 ‘tense’、「時制」ってものが、「現在」だの「過去」だのといった素朴な時間的区分とは無関係に、話者の感覚的な「遠近」の違いを表している代表的な事例、ということにはなる、というような塩梅なんです。

それを、日本では昔から誤って「仮定法過去」などと呼んでるけれど、ほんとはただの「直説法」の「過去時制」とすべきものであり、英語じゃあとりあえず ‘indicative mood’ にして ‘past tense’ ってことにはなってんですよね。「過去」ったって ‘were’ じゃないんだから、 ‘past subjuncitve’ であるわけがない……って、どうもこれが、日本の英文法自慢どもには一向に理解できないらしくて、逆にこっちが見下されるってことなんですのよ。

「理解できない」ってのも、どこまで行ったって外国語である筈の英語の了見を、全部どっかの日本人が書いた日本語の説明で把握しようとし、実際それで把握し得たと思い込んでるから……なんでしょうね。つまり、理解なんか初めからまったくしちゃあいない、ってことがいつまでたっても理解できない……って、いいやもう。めんどくせえ。
 
                  

ともあれ、やっとのことで何とか ‘(subjunctive) mood’ に絡めつつも ‘tense’ という本題に立ち戻ったかのような風情ではありますが(ほんとか?)、どうもここから先がまたちょっと込み入った話になりそうな気がして参りました(何を今さら)。結局また無駄話に終始してしまったとしか思えないんですが、何をどう語るか、ちょっとは考えてから次回続きを記すことに致しましょう。

で、それとはまた別の話かとは思いつつ、ここでちょいとまた蛇足に類するようなものを少々。

以前書き散らした ‘finite’ 対 ‘non-finite’ のくだりで、 ‘tense’ を有するのが ‘finite verb (phrase)’ の条件、てなことを申し、 ‘indicative’ 「直説法」のみならず、 ‘imperative’ 「命令法」、 ‘subjunctive’ 「仮定法」に該当するものも、等しく ‘finite’ ではある、と記しておりました。

「時制」の有無が条件と言うなら、「仮定法過去」(再三述べておりますとおり、実は ‘were’ だけ)は確かに「過去時制」ではありましょうが、 ‘subjunctive’ の言わば主流たる「仮定法現在」に該当するのは、悉く主語の人称や数には頓着しない ‘base (form)’、「原形」ってやつなのだから、それのどこが「時制」なんだよ、という疑義も当然ございまして、ほんとは拙もそう感じなくもなかったというのが実情ではあります。とりあえずラテン語になぞらえた昔の英文法以来、習慣的、因襲的に用いられてきた ‘present subjunctive’ なる言い方に義理立てしたものか、とさえ思ったりして。

で、文法の流儀によっては、‘tense’ と見なせるのは ‘indicative’、直説法の動詞のみであり、原形しかあり得ない命令法や仮定法(現在)は不定詞と同様、到底 ‘finite’ とは呼べない、とする向きもおるという次第でして(飽くまで英語圏での話です)。

でも、少なくとも ‘imperative’ に関しては、主語である ‘you’ が省かれたもの、とはされており(省かない命令文だってよくあるし)、原形とは言っても不定詞とはまったく違って、二人称主語に対応した「現在時制」なのであるから、決して ‘tense’ を欠いた ‘non-finite’ などではない、という意見のほうに、あたしゃ賛同しますね。てえか、この ‘imperative’ 「命令法」 だけでなく、 ‘subjunctive’ 「仮定法(現在)」も、やっぱり一種の「現在時制」には違いなく、したがってこれもまた ‘finite’ ということで苦しからず、ってのが大勢ではある模様。

ほんとはそれ、あっしにゃあんまりかかわりのねえことなんですが、一応言い添えてはおきましたる次第にて。ことほど左様に文法なんてもんは十人十色、百人百色の言語分析の所産に過ぎず、飽くまでもそれぞれ独自の科学的論考の結果であって、遵守すべき規範などではあり得ない、という認識こそが何より肝要、との思いはいよいよ強く。

その分、あたしの言うことも、人によってはますます眉唾ものってことにはなりましょう。そいつぁしょうがねえ。「これが答えだ」って断定してくれたほうが、そりゃ話が簡単で「楽」ではあろうけれど、そんな了見じゃどんどん現実から遊離した認識しか持ち得なくなりますぜ。どのみち人それぞれ、各人の勝手ではあるんですがね。
 
                  

……とか何とか、またも弁解じみた余計な話をくどくどとしてしまいました。とりあえず、ここ数回にわたって述べておりますように、「現在時制」とされるものが、「現在」という時間の区分とは無関係に、話者にとって「近い」事象への言及に用いられる形である、ということではあり、過去に対しての ‘historic present’ や、旅程などに見られる未来の表現、ってな現在時制の例を諸々挙げて参りましたる次第。

で、今度はそれとは裏腹に、話者が自らとは「遠い」ものとして切り離すが如き意識を示すのが、やはり時間的要因には必ずしも関りのない ‘past tense’、「過去時制」だって話をするつもりで、日本では(誤って)「仮定法過去」と括られる用法をまず述べようとしたところ、つい余計な恨み言だの仮定法談義の繰返しだのになっちゃった、というのがこれまでの顛末だったのでした。

……などと、今振り返ったって意味ねえなあ先刻承知。でもまあ、そういう流れで、「現在」にも「未来」にも用いられる「過去時制」ってもんについて、次回は書き散らす所存ではございます。堅気の動詞(full/lexical verb)だけではなく、助動詞もその範疇、ってより、‘modals’、「(叙)法助動詞」てえやつにこそ、その「過去」とは関係なく「過去時制」が多用される事例が多い、とも言えそうですので、まずはその辺からやっつけようか、と今思ってるところ。やっぱりちょいと考えてから書いたほうがいいでしょうね。それはいつだってそうに違いないんだけど、ついあんまり(てえか全然)考えないで書き出しちゃうんもんで。それじゃあ文章が滅裂になるのも無理はない、ってことも夙に自覚してはおるんですが、なんせこの性格ですので。
 
                  

おっと、その ‘modals’、すなわち ‘modal auxiliaries’ とか ‘modal verbs’ とか ‘modal auxiliary verbs’ とかって括られる「(叙)法助動詞」には ‘tense’ がない、とする流儀もあるようですね。それもやはり ‘tense’ という言葉自体の定義の違いによるものでしょう。あたしゃ、意味はさておき、徹頭徹尾動詞の「語形」を指して ‘tense’、「時制」とは言う、って立場ですので、当然この ‘modal’ てえ一派の ‘tense’ だって「存在しない」なんてまったく思っちゃおりません。

と言うより、「過去」とは無関係の「過去時制」ってことについて述べるなら、その「(叙)法助動詞」こそが好個の例、ってな了見にて、次はやはりその辺りから申し述べようか、などと思っとります次第。

ともあれ、本日はこれにて。毎度散らかりどおしですみません。さすがに今回はちょっとひど過ぎたかも。

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