2018年8月12日日曜日

完了は受動から派生、とかいう話(1)

先日までああだこうだ書き散らしておりました ‘have got’ か ‘have gotten’ かって話の途中で、「それについてはまたいずれ」などと言っていた件について以下に申し述べます。実はちょっと忘れてました。横着ながら、以前 SNS に投稿した文章を一部再利用。

「完了」ってのは、そもそも受け身の意味しかなかった(当然他動詞の)過去分詞を、言わば拡大解釈によって「捻じ曲げた」ものだった……ってのは言い過ぎにしても、まあ当らずと雖も何とやら、といったところではございましょうか。でもその話の前に、またぞろ昔の恨み言をひとくさり、ってことにはなりますが、どうぞ悪しからず。
 
                  

既に40年近く前、二十代の初めにバイトで塾の英語講師ってのをやってたとき、そこの塾長ってのが、いかにも自分は受験勉強を頑張って結構いい大学を出た(と思ってたらしいんですが、生憎あたしゃ日本の大学の序列なんざまったく不案内)ってな部類でして。結局よくわかんなかったんですけど、コンビニみたようなフランチャイズ方式てえやつらしく、「本部」の傘下たる半個人教室の経営者、といった風情で、何やら脱サラして開業したってんですが、当時二十代後半の御仁(資金を出したのはその親だったけど)。まあ何はともあれ、あたしを英語の専任ってことで採用したのはそのお人ではありました。

今よりはよほど世間の状況もましだったかとは思うものの、現在の自分とは逆方向の不利、とでも申しましょうか、何しろ新聞配達しか仕事なんかしたことがなく、実務経験なんてもんとはとんと無縁。高校出てからは世間の標準(ったってそれが何なのやら)とは乖離した暮しばかり送っていたため、就職ったって中途採用、臨時募集しか選択肢はございません。その後もずっとそのまま。別にいいけど。

で、何とか人並み以上だったのが英語だけで、何となく「翻訳でもやりゃあ稼げんのかしら」とは思ったものの、ネットなんざ影も形もなかったその時分、そういう求人自体がほぼ皆無。たまに新聞広告なんかを見かけても、言語的才幹のようなもんよりは、各対象分野に通じていること(だけ)が前提、ってのばかりで、つまりは「無理じゃん」ってのが明白。

でもね、技術(=専門別)翻訳って、訳語も1対1で決り切ってりゃあ、文章自体の型も紋切だから、実は何が出てくるかわからねえ世俗的原稿なんかよりよっぽど楽……ってことも後からわかったんでした。ときどき、どんな文章も自分の専門分野の流儀で押し通すという恐るべきベテラン翻訳者ってのもいて、しばしば単純に何言ってんだかわかんねえ和訳文を平気で書き散らします。あぁた、自分でこれ読んでほんとにおかしいたあ思わねえのか、って感じなんですが、思わないから平気なんですね。外国語とか翻訳とかの技量以前に、根本的な言語感覚が欠落してるんじゃないかしらと。
 
                  

おっと、そんな話じゃなかった。とにかくまあ、そういう塩梅でしたので、よんどころなく当時から新聞や求人雑誌でしょっちゅう見かける塾講師ってもんを試してみようか、とは思ったのでした。とは言っても、なんせ自分が大学出てない(入ってもいない)もんで、学習塾なんざ、たとえ中学生相手だろうとハナから埒外だろうと思い込み、当初はまったく考慮に入れてなかったんですけど、必ずしも応募資格に学歴を明記しているわけでもなく、そういう(曖昧な?)例の1つに念のため電話で訊いてみたたところ、英国帰りというところを評価(勘違い)したものか、別に大卒でなくても構わないとのこと。

まあこっちも、一応ケンブリッジ大の検定に合格し、それが欧州近辺では結構幅の利く国際的な資格だったから(当時の日本ではまったくものを言わなかったけど)、数学なんかは論外としても、英語ならいくばくかの矜持はあり、何ら怯むことなく面接に赴いたのではありました。
 
                  

……という昔語りをするつもりでもなかったんだった。いつもこのように前置きが長くなっちゃうんだけど(確信犯的)、主旨はその塾での英語の授業にまつわるちょいと苦い思い出なのでした。ほんとはいろんな事例が未だ忘じ難く、思い出すだに苦笑を禁じ得なかったりするんですが、とりあえず1つだけ例を挙げとくことに致します。

件の、自分では「お勉強がお得意」っていう塾長(いい歳して、ってこっちは内心思っちゃいたけど)、英語については相当にあやふや、ってより、全般に滅裂なる認識しか有さざるのがこっちにはバレバレっていう、まあこの日本ではごくありがちな部類。俺だって鬼じゃねえし、いちいちそういうトーシロ相手に威張ろうなんざこれっぽっちも思っちゃいなかったけど、逆にあっちがしばしば高みから的外れな指摘だか指導だかをしてきやがるのにはゲンナリ。

まあ所詮は中学生相手。自分だって中高生の時分には結構得意であった(ほかよりはまだましだった)英語という科目が、後で気づけば大部分が日本固有の受験英語、学校文法っていう「非英語」。そんなこたあ重々承知の上とは言え、やっぱりあまりにも現実の英語からは隔絶し切った間違いだらけの規範なんざ教えちゃいらんねえや、って感じ。嘘だってわかってることをどうして何の痛痒も感ぜずに受け渡すことができましょう。
 
                  

「とりあえず1つだけ」などと言っときながら、その1つの例をもまだ示してはおりませなんだ。どうにも無駄話ばかりが長くて恐縮(先刻承知)。「虚偽の英文法」については既にいろいろ言いがかりをつけておりますれば、ここでは、嘘か本当かではなく、個々の固定表現が「なぜそのような言い方になるのか」ってことについて、その塾長は言うに及ばず、大半の英語教師がまったくわかっていないまま、とにかく「そういう決りなんだから、おとなしくそのまま覚えてろ」てなことしか言わない(言えない)って話を致しとう存じます。

その塾講師時代の思い出の1つに、なんでも ‘It's gone’ てな文言は、現在完了の ‘It has gone’ の略である、って、その塾長が自信たっぷりに言ってやがった、ってのがありまして、瞬間的に「そりゃ ‘It is gone’ ってほうがよっぽどフツーだぜ」と、腹ん中で毒づいてたんでした。未だに憶えてるってこたあ、よっぽど「これだから日本式英語は……」って思いだったんでしょう。

で、そういう人たち(日本の英語教師の大半?)が、恐らく考えたことすらないのが、どうして「所有」を表す筈の他動詞 ‘have’ (とか ‘has’ とか ‘had’ とか)と、別の動詞の過去分詞との組合せが完了てえことになるのか、ってところ。あたしゃ中学の頃からそれが不可解で、でもお勉強なんざ大の嫌いだから(正しい子供のあり方)、まあどうでもいいか、って了見で、とりあえず言われたとおりそのまま飲み込んではいたのです。
 
                  

思いがけずもそのカラクリがわかったのは、18歳で英国の語学学校に行き始めてだいぶ経ってから。「完了」なんていう言語表現はもとより日本語には無縁の代物ですが(古文だと「已然」ってのはありますけど)、現代英語のそれだって、もともとはフランス語経由でもたらされたラテン語的な言い方らしい。もちろんフランス語なんて今のも昔のも知らないし、ラテン語なんざもっと知る由もなく。

ともあれ、「分詞」ってのは、原語たる ‘participle’ の ‘present’ だの  ‘past’ だのってのが殆ど意味を成さない、ってんで、近年は呼び方が改められていたりする、って話は夙に致しておりますが、ここではひとまず旧来の日本式(?)で話を進めます。昔の塾の話が発端だったりもすることだし。
 
                  

大雑把に言うとそれ、動詞の形容詞形、ということにはなりましょうか。現在分詞ってのはつまり ‘~ing’ を付したるものにて、ご存知「進行」を表すのもそれ。同形の名詞版を「動名詞」として別枠にするのは、不定詞の何々用法てな言い方と矛盾するから無効、と言い張る研究者もいます。実はオラもそう思うだ。だから、英語の文法書ではだいぶ前から「分詞」などとは言わず(英語なんだからハナから言わないに決ってるけど)、 ‘-ing form’ として括ってる、ってこともたびたび申し上げております。

一方、過去分詞の場合は、他動詞と自動詞とでちょいと事情が異なり、前者のそれは完了ではなく、いわゆる受け身を表すのが本領であり、完了(既に過去の行為、現象ではありながら、その結果や効果が持続、ってなことを表すような)の意味になるのは後者の自動詞、ってことなんでした。これに関しては、過去と過去分詞を一緒くたに ‘-ed form’、 分詞のほうだけを指して ‘-en form’ とは言うのが(一部では)既に普通、ってことも日本では未だに通用しないのがちと寂しいところだったりもして。
 
                  

ともあれ、まあそういったところではありまして、受け身ったって、結局はその他動詞の表す行為、動作を受けた「結果」を示すわけだから、やはり「完了」ではあるか、とも思えたりして。ということは、受け身ってのも完了の派生義か?って気もしてきちゃいます。結構厄介なのね。

とにかく、現代英語(実は近世以降、15世紀後半からこっちずっとその括りながら、今のような形になったのは16世紀半ば)でも過去分詞の基本義は変っちゃいません(たぶん)。「be+過去分詞」が受動態となるのは当然他動詞のみで(自動詞と前置詞との抱合せ句も同断)、その目的語を主語に置き換えた言い方に限る、ってのがもともとのありようなのではございましょう。

「have (has, had)+過去分詞」が「自他ともに」(すみません、自動詞と他動詞ってこって)完了相だってのは、どうもその「自他」の区別をうっかり閑却したために生じた、元来は誤用の所産だった……りして。

いずれにしろ完了ってのは欧語全般に見られる言い方のようだし(英語以外知らないけど)、英語における固定の完了表現が英語内部で生じた変化によるものなのか、外来の言語にもたらされたもの(近世英語はかなりフランス語に毒され……じゃなくて影響を受けた結果の由)なのかは、やっぱり判然とは致しません。あたしが知らない、ってだけですけど。

でもまあ、とりあえず英語よりは今でもよほど古来のゲルマン語然としているドイツ語なんかだと、正しい完了表現では、 ‘have’ に相当する助動詞の直後ではなく、目的語の後に分詞を置く、とは仄聞致しますし(やっぱり独語なんかどうせ知らないし、目的語のない自動詞の完了はどうなんだか、ってのもわかりませんね)、東欧スラブ語の一派では、助動詞ではなく分詞自体が完了と受動で画然と分れており、完了の助動詞は英語の ‘have’ ではなく ‘be’ の対応語、てなことも耳(目)には致します(スラブ語なんざもっと知らないけど)。

ことによると、欧語全般がラテン語の真似をしたのが完了って言い方の始まりだったのかしら、とか、古代ギリシャ語にもやっぱり完了はあるてえから、もっと遥か昔からの、いわゆる印欧祖語(飽くまで観念上の言語区分ですけど)に発する太古以来の言語現象だったのかしら、とか、これまでもいろいろ勝手に思いをめぐらせては参ったのですが、確たる情報は得られぬまま。あたしが知りたいのは飽くまで英語についての経緯なんですが、未だにそれがどうにもはっきりせんのです。歴史言語学の領域ってことなんでしょうけど、だいぶ前に1冊だけ読んだ英語史の本、それはまた随分とおもしろかったものの、完了表現のそもそもの沿革については特に詳しいこた言っちゃいなかったような。
 
                  

まあ、各地の欧語の規範である(あった)ラテン語だって、言うなればローマが成行きで随分とエラくなっちゃったからそうなったってだけで、ハナはヨーロッパの一地方、片田舎の方言に過ぎなかった筈だから、完了ってのだって、ほんとは当初から各地、各民族の言語に共通の表現ではあったんだろう、という考えに傾いてはおり、ちょいと検索してみたところ、ネットの世界も昔に比べりゃ格段の充実ぶり、結構おもしろそうなネタもございました。英語だけでも読めてほんとよかった、と思うのはこういうとき。

とは言いながら、そうした知見みたようなもんについては後から追々述べると致しまして、もともとこの駄文の趣旨は若い頃のバイトに関わるちょいと苦い思い出、およびその前の滞英中に経験した「そうだったのか」という軽い驚喜についての昔語りでありますれば、当面はあまり細かいところには触れず、曖昧な部分については曖昧であると断るにとどめて、ひとまずのところはこのまま話を続けて参りたいとは存じます。その英国での「驚喜」自体が、つまりは ‘have’ が完了の助動詞になるてえカラクリについての逸話だってのは、さっきも触れとりましたとおりにて。

自動詞 ‘go’ の過去分詞たる ‘gone’ (過去が ‘went’ なのは、別系統の類似動詞との混用が犯人)にはもちろん受動の意味はあり得ず(国語には「親に泣かれる」だの「嫌な客に居座られる」だの、自動詞の受け身ってのもありますが、英語とは根本的な性根が違うってことで、そこはひとつ)、専ら ‘go’ っていう行為による結果、つまりは「行っちゃった」とか「なくなっちゃった」っていう状態を示す形容詞なのでした。もちろん自動詞全般の過去分詞がそうではないけれど、この ‘gone’ については、辞書の見出し語でもほぼ例外なく明確に「形容詞」と区分されております。

てことはこれ、取りも直さず、学校で教えられる「‘have’ +過去分詞が完了形」ってのは後からとってつけた理屈に過ぎず(とは誰も言っちゃいないけど)、 ‘It's gone’ は ‘It has gone’ てより ‘It is gone’、すなわち「‘It’ は ‘gone’ という形容詞が表す状態、すなわち自動詞 ‘go’ が意味する行為、動作の事後状態にある」ってほうがよほど間尺に合うし、実際かつてはそうとしか言わなかった……らしいんです。

あ、つい「完了形」なんていう、いかにも日本的な言い方をしちゃいましたが、この「何々形」ってのも、ほんとは文意とはまったく無関係に単語の語形を指すのが基本。「完了時制」ってのも、言ってる本人たちがちゃんとわかってないだけの古い(ラテン文法になぞらえた)、つまりは不正確な用語ってことになるんですが、それはもういいや。こないだまでさんざん文句つけてたし。とりあえず「時制」も飽くまで動詞の語形、ってことでひとつ。
 
                  

さて、ではなぜ ‘have’ なんぞという、それ自体が何らかの目的語を要する筈の他動詞(完了においては助動詞ってことになりますが)に、名詞、代名詞の目的格(人称代名詞の一部を除き格変化自体が無きに等しいのが英語なんですけど)ではなく動詞の活用形たる過去分詞がくっついて「完了」なんてもんになるのか……ってことについて、漸くいざ語るべし、とは思ったんですが、またしても無駄話が過ぎて、既にかなり長くなっておりますれば、甚だ索然たるままで心苦しき限りとは存じつつ、今回は(今回も)これまでと致し、続きはまた次回ということに。

いよいよ浪曲、講談の如き手口が板に付いて参りましたようで、まことに恐縮至極。どうもすみません。

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