2018年8月9日木曜日

改めて「時制」または ‘tense’ について(13 ‐ 終)

早速続きです。その ‘social distancing’ とか ‘attitudinal past’ とかって、ぜんたいどういったものなのかと申しますと、中学のときに習って、何だか理屈は飲み込めないけどとにかくそういうもんか、と思って覚え込んだ、 ‘I want ...’ より ‘I'd like ...’ のほうが丁寧、っていうようなやつなんでした。

この ‘I'd’ は、イギリスじゃあ ‘I should’ で、アメリカだと ‘I would’ の略、ってことにはなってたけど、何せ口頭では普段、特段強調するんでもなければいちいち ‘should’ とも ‘would’ とも言わない上、これもやはりアメリカナイゼイションの浸透により、敢えてかしこまって言う場合であっても、今どきの英国人は ‘would’ も普通に多用します。今どきも何も、ずっと前からそうなんですけど。

でもそれは一人称主語ならではの話。相手の意向を尋ねる場合は、 ‘Do you want ...?’ の意味で ‘Would you like ...?’ とはなる、ってのも昔懐かしい中学英語の基礎知識って感じではありますが、実はそれ、日本人にとって多少ヤバいのが、断る場合は ‘I don't want ...’ と率直に言っといたほうがよっぽど無難、ってのがわかってない人が存外多い、ってところだったりして。

これ、そもそもどういう「遠慮」の表れなのかと言うと、ほんとは「欲しいか欲しくないか」ってだけの話なのに、それをことさら遠回しに、多少誇張すれば「ひょっとしてそれがお好みということはございましょうや」とか「よもやとは存じますがお許し頂けるものなら是非所望致したきところ」みたような、実にまどろっこしい言い方にすることで(それはあたしがこれ見よがしにくだくだしい日本語にしたからでした。すみません。てえか、もちろん誰もそんな馬鹿丁寧な言い方のつもりじゃないし)、 ‘social’ すなわち「社会的」……ってよりは「社交上の」、あるいは「対人的な」 ‘distancing’、要するに「隔て」ってなもんを施して相応の慇懃ぶりを醸し出そうとの了見、とでもいったところなんです(毎度わかりづらくて恐縮)。

だから、 ‘I shouldn't/wouldn't like ...’ って言っちゃうと、それは「どうあっても到底好ましくない」って言ってることになり、敬語どころか随分と無礼な物言いになってしまう、ってことなんですが、まあそんな話もさておきまして、 ‘could’ だの ‘might’ だのも含め、こうした過去形の皮をかぶったような一連の ‘modal’、いわゆる「(叙)法助動詞」と同様に、「社交的効用のために距離を置く」(……とまでは言ってないか)ってな感じの ‘past tense’ の用例は実に多く(少なくともイギリスでは?)、これも日本人はよく勘違いしてるところなんですけど、ほんと、単純な「過去形」が実は過去とはまったく関係なく、今現在(あるいは未来)の事柄に対する「遠慮」、または「離隔」の表現に過ぎない、って場合が珍しかないんですよね。

やっぱり俺はどうにも文が長くていけえねえ。わかっちゃいるんですが、そこは何分ご容赦のほどを。
 
                  

さて、飲食店の店員なんかが、「こちらでよろしかったでしょうか」などと言うのは怪しからん、ってなことが言われ始めて既に久しいわけですが(あたしも内心「おりゃまだ食っちゃいねえぜ」と毒づいてたりして)、まさにこういう、「今」のことなのに宛も「終った」ことであるかのような言い方すんのが、 ‘social distancing’ による ‘past tense’ の用法、すなわち ‘attitudinal past’、つまりは相手に接する「態度を表す」過去時制、てなもんに当る事例と申すこともできようかと。

英語でよく聞くのが、 ‘I was wondering ...’ という言い方で、これなどは、過去に進行を加味するという二重の遠回し、って感じもありますけど、別に「悩んでおりました」ってんじゃなく、「(今)お尋ねしたいんですが」ってな心。もちろん、文脈によっては充分前者の意味にもなるのは、 ‘Why don't you ...?’ が常に「そうなさいよ」とは限らないってのと同じこと。そんな基本もわかってないバカな教師が、「なぜそうしない?」という素直で穏当な生徒の解釈を、文脈も顧みることなく闇雲に間違いだと決めつけてたりもしますな。まあいいか。

それより、上記の例などはまだ生易しいほうでして、実際には

 Did you want this?

が、単純に「こちらがご希望でしょうか」だったり、

 We were hoping you would ...

で、「~して頂けるのではないかと存じます」だったり、あるいは

 I thought we could ...

で、「一緒に~しませんか」だったりと、全然過去の話じゃない場合が実に多いんです。すべては「社交的過去」とでも呼ぶべき物言いで(俺が今勝手にそう言ってんだけど)、 ‘past tense’ というものが、過去への言及はおろか、仮定だの仮説だのですらないものにも頻繁に使われる、ってことなんでした。
 
                  

でもこれ、話者の側の一方的な「遠慮」とか「謙譲」みたようなもんってよりは、たとえば

 Will/Can you give me a hand?

ってより

 Would/Could you give me a hand?

って言われたほうが、頼まれた側だって多少は断り易い、ってところはあるんですね。それこそ ‘social’ だとか ‘attitudinal’ だのと言われる ‘past tense’ の何よりの効用……かも。
 
                  

いずれも、余計な遠慮(あるいは皮相的儀礼)を排すれば、単純にフツーの「現在形」とはなるという塩梅でして、

 I think ...

と言っときゃいいものを、わざわざ

 I should/would think ...

ってだけでも、からくりを知らないとまごつきそうなところ、それをもう一段「過去」に移し

 I should/would have thought ...

ってのさえ結構普通。後者の ‘perfect infinitive’ (完了不定詞?)を使った言い方だと、より遠慮深さ、あるいは自信のなさ(の演出)の度合いが増すという寸法。

横着に並べて示したものの、米語では恐らく ‘should’ ってのはまず使われないのでしょう。一人称主語に対する用法としては、形として対を成す ‘shall’ と概ね並行関係にある、って気も致しますものの(英でも ‘shall’ は既に概ね大時代)、マッカーサーの ‘I shall return’ のように、ことさら「差別化」を狙った演出ってのもあるから、米語には無縁ってこともありますまいが。
 
                  

なんかまた前回の ‘modal’ 談義に逆戻りしちゃってるような気配も感じつつ、まあ、行きがかりでえ、しかたねえ、ってことで、とりあえずもうちょっと述べときますと、‘modals’ の中でも特別使い出のあるこの ‘should’、ざっと「可能性」「蓋然性」「必要性」「見込み」「義務」「意図」などといった意味を網羅してんですが、日本では「仮定法未来」などと称して、やはり懲りることなくエラそうな説明が加えられている、複文(条件文)における従属節のそれ、つまり

 If five per cent should appear too small ...

てな言い方に使われてんのも、紛う方なく件の ‘social distancing’ による ‘past tense’ に準ずるものであって(ほんとか?)、「仮定法」で「未来」だなどとはまったくの噴飯もの。わざわざ ‘mood’ に言及するなら、どう足掻いたって ‘indicative’、「直説法」でしかあり得ず……って、もういちいち言うのも飽きちまったわい。

でも、こういう ‘subordinate clause’ に現れる ‘should’ こそ、 ‘modals’ の中でもこれが特別多彩な働きを担うやつであることを如実に物語る好例、って気も致します。「仮定法」ということになっている ‘subjunctive (mood)’ ってのが、もともと ‘subordinate clause’ 「従属節」にこそ用うべき形、との謂いだったとも申しますが、 ‘were’ を唯一の例外としてとっくに廃れていたこの古語的言い方が、なぜか前世紀初めのアメリカで流行り出し、今ではイギリスを含む英語国全般に伝播しつつある、ってな話はこないだまでやっとりました。で、暫くはまったくの米語と見なされていたその半端な擬古表現、英国では現代語としての違和感を回避せんがため(?)、この ‘should’ を、さして明確な意味も込めずに挿入し、その米国特有(であった)言い方における、主語の人称や数と動詞(の原形)との齟齬をやり過ごそうとの工夫……だったかどうかは知らないけれど、

 If five per cent appear too small ...

じゃいかにも妙、っていう健全なる現代英語的感覚から、もともと「何でも屋」的な ‘modal’ である ‘should’ を挟んどきゃ、体裁としてはよほど落ち着くのは確か。まあそれもとっくに、

 If five per cent appers too small ...

っていう、まったくの現代英語(ずっと前からだけど)的言い方だって普通ではあり、それをまあ、未だに「イギリスの口語」だなどとエラそうにも決めつけてやがる、身のほどをも弁ぜざる一部日本の頓痴気どもよ……って、俺にゃ別に(かつての)イギリス語法に助太刀する義理もねえんだけど、自分が英語覚えた40年前はまだその「仮定法現在」なんてのは概ねアメリカの方言ってことんなってたもんで、つい懐古趣味的愚痴にはなってしまう……のかしら? 日頃は国語、ってより東京語について無益な狷介ぶりを振り撒いてたりもしてるんで、それを外国語たる英語にまで拡衍するが如き所業、とでも思召されたく。

思い出した。敢えて言うまでもないとは思ってたんですが、30何年前、何かとアメリカ贔屓だった新聞屋の後輩女子が、何かとイギリスを持ち上げたがるあたしに、「どうせ自分がイギリス帰りだからってだけでしょ」って言うんで、即座に「あったりめえよ。この俺がアメリカで英語覚えてた日にゃ、今頃はさぞかし『イギリス人なんて気障でよう』とか言ってんに決ってんじゃん」って言い返したら、「さすが……」ですと。だってそれ、結構人間ってもんの基本じゃねえの、とは今でも思っとります次第。
 
                  

おっと、そんな話じゃなかった。この、英国風の物言いにちょくちょく見られる「よろず屋」的 ‘should’、さっきは明確な意味が希薄、みたようなこと言ったけど、そりゃあるとないとでは文意の違いは生じ、まあ ‘modal’ なんだから、話者の存念を表すのが本来の役割ではあるのでした。で、いわゆる従属節に現れた場合など、基本義とも言える ‘obligation’、「義務」に類する意味であれば、そりゃもう明確極まる存念を示しているは言うに及ばざるところ。つまり

 I demand that he should leave at once.

てな台詞がそれで、これが米国式の(とかつては言われた)言い方だと

 I demand that he leave at once.

となり、その ‘he leave’ ってところがいかにも落ち着かねえから、とりあえず「義務」を表す ‘should’ を挟んどく、ってのが(かつての?)英国式。でもこれ、

 I demand that he leaves at once.

ったって、別に意味は変らんでしょう。それは「米国方言」とまで言われた「仮定法現在」の ‘leave’ だっておんなじこと。「義務」っぽさは、「主節」の ‘demand’ って動詞が既に示している、てな理屈にて。

でもその ‘obligation’ 的な用法に加え、 ‘putative’ とされる ‘should’ の役どころってのもありまして、普通はそれ、「(世上の噂では)~となっている」てな意味の形容詞なんだけど、文法では ‘factive’、つまり「事実として述べる」(ほんとに事実かどうかは別儀)ってやつの対義語。で、「義務」でもないのに現れる英国語法の ‘should’ はしばしばその ‘putative should’ に該当し、要するに、明白な事実としてではなく、言及内容についての可能性とか蓋然性に対する話者の気持ちを表す ‘should’、とでもいったところ。別名 ‘emotive should’ ってのも腑に落ちようってなもんで。「世評」と「感情」じゃ、通常は全然意味違うとは思われますが。

で、件の ‘If five per cent should ...’ ってやつもその一例ってことなんですが、これを「仮定法未来」などと称し、「万一そうであれば」てな意味だって言い張る和式英文法を鵜呑みにすると、結構実際の英文の意味を読み誤ります。「万一」ってほどの大袈裟な話ではなく、単に「そういう場合は」ってだけのこと。「大抵はまずないとは思うけど」ってのが前提、とは言えましょうけれど、つまるところはこれ、「5パーセントが少な過ぎるなら」と「少な過ぎるようなら」ってだけの違い、って感じですね。 ‘should’ と言ったからって、そんな劇的に文意が変ずる、なんてこたないんです。

まあ、たとえば

 It's a pity that you think so.

なら、相手が確実にそう思ってる(と話者が判断してる)のが前提で、

 It's a pity that you should think so.

なら、ほんとにそう思ってるのかどうかはわからないけれど、っていうような違いはありましょうか。でもこれだって、日本じゃ昔から

 君がそう思うとは残念だ。

ってなことんなってて、そう言っちゃったら、もうそう思ってるって決めつけてんじゃん。 ‘should’ の ‘putative’ ぶりも立つ瀬があるめえよ。

念のために言い添えますが、こりゃ決して「従属節」専用ってわけじゃなく、あたしもよく使う

 How should I know?

って慣用句、「知るもんけえ」(またちょいとガラが悪すぎる訳で恐縮)の ‘should’ も、その ‘putative/emotive should’ の例、ってことでひとつ。
 
                  

また随分と余計な能書きが長くなっちまいやしたが、実はこの ‘If it should appear ...’ って文言、 ビートルズ、てえかジョージ・ハリスンの ‘Taxman’ の一節、

 Should five per cent appear too small ...

がネタなんでした。いずれにしろ、どっちかてえとイギリス的な(それもかなり古臭い)言い方ではあるようで。 ‘per cent’ は、イギリスでも今どきは ‘percent’ って単語扱いが普通っぽい気もしますが。

ついでのことにこれ、ビートルズの税金が所得の95パーセントってのを、当時の通貨、20シリングで1ポンドってのに引っ掛けた歌詞なんですね。1シリングが12ペンスだから、1ポンドは240ペンスっていう厄介な国だったのが、シリングを廃止して十進法に改めてから既に50年近く。今の若いイギリス人にはどういう洒落なんだかわかんなかったりして。俺が言うべきことでもねえけど。
 
                  

おっと、また逸脱の罠に(自覚の上で)はまりかけてしまった。

とにかくこの一連の疑似過去形、単純な「社交的遠慮表現」だったらまだしも、何せ隙あらばひねくれた言い方をしなくちゃ気が済まねえ(?)英国人士は、もっと容赦なくこれをこじらせた表現も多用しやがるんです。と言っても、別に彼らに何の恨みがあるわけでもございませず、むしろそういうところが好きだったりもして……って、何また言いわけしてんだか。
 
                  

さて、最後に、というより恰も最後っ屁の如く、その「こじらせた」言い方が初めは理解できず随分とまごついた、っていう思い出話でこの長過ぎる ‘tense’ 談義にとどめを刺そうかと存じます。

1977(昭和52)年ですから、既に40年以上前の話なんですが、その年の春にロンドンの英語学校に通い始め、半年は経った頃、担任が何気なく

 I should have thought ...

って言ったんです。半年前まで日本の高校で習ってた英語の知恵だとそれは、

 ~と考えるべきであった

としか解釈できず、それだと話が繋がんないから、先生何言ってんだろ、と思っちゃったじゃありませんか。その時点では、これが件の ‘social distancing’ てえもんの一党だなんてまだ全然知りませんから。

で、こっちがポカンとしてるのに気づいたその先生(二十代男性)、「ああ、これは単に ‘I think’ ってのと変んないんだけど、相手の言ったことに軽く反論する言い方なんだよね」との話。

先ほど述べた、言わば一次的な「隔て表現」である、 ‘should/would think’ や、それをもうちょっと念入りにした ‘should/would have thought’ とはまた一味違って(この「一次的」なほうはアメリカ語でも共通……だと思います。 ‘should’ は使わないにしろ)、慇懃(無礼)ぶりや皮肉の度合いがかなりの割増しとはなるようで。

これに関しては徹頭徹尾英国語であるらしく、助動詞は常に ‘should’ の模様。少なくとも40年前はそうでしたが、単純に ‘I should have thought.’ とだけボソッと言うだけで、相手の言動に対するちょっとした異論の表明ともなる、って感じです。多くは「どう思うのか」っていう内容を目的語として伴うわけであはありますが、形としてはこれ、

 お言葉ではございますが、愚見を申し上げれば……

みたような、実に遠回しの、つまりは極限まで距離を置いた言い方。でも、よほどの「目上」だとか、あるいはまったく親しくない初対面の相手に対してならいざ知らず、家族や友人知己に対してこの常套句を用いた場合は、むしろ

 ~だと思うけどね。

とか、場合によっては

 ~に決ってんじゃん。

それどころか、

 何言ってんの?

っていう、相当に辛辣な意味合いにもなり得ます。言い方自体が本来内包する「礼儀正しさ」が、より一層皮肉の度を押し上げる、とでも申しましょうか。やはりイギリス(人)特有の物言いの例ではあるようで。
 
                  

愛用のロングマンの辞書、 ‘LDOCE (Longman Dictionary of Contemporary English)’ で ‘think’ の項を覗いたところ、この ‘social distancing’ の表れとも見える、何ら過去ではない I thoughtI would think (also I would have thought, I should think/I should have thought  BrE) という細目(‘BrE’ は ‘British English’ の略で、やはり ‘should’ を使うのは英国語法との表示)とは別掲で、‘I should have thought ...   BrE’ との小見出しがあり、それがまさに今言ってたやつ。用例として、

 ‘Why isn't it working?’ ‘I should have thought it was obvious.’
 「なんで動かねえんだ?」 「そんなん決ってんじゃん。」

というのが載ってました。和訳はちょっとガラが悪過ぎるかも。まあ、訳者の人格を投影するものとご承知おきくだされたく。
 
                  

……てことで、これにて一連の ‘tense’ /「時制」談義もあっけなく終幕ということに。お粗末至極。

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