英語の名字は、先祖の名前、出身地、職業・身分、渾名の4つが基本区分、てなことを述べ、その最初の区分の事例としてひとまず挙げたのが ‘John’ という名前なのでした。実は既に忘れかけてたりして。何せ、そこから ‘Johnson’ だの ‘Jones’ だのって話に流れ、さらには ‘-son’ という接尾辞から ‘M(a)c-’ というケルト系(ゲイル語)の接頭辞に連想が及び、ついには諸々の「マック」談義に耽ってしまったり……という迷走ぶりですから。
毎度のことながら、改めて(ちょっとだけ)忸怩たる思いにかられなくもないところではございます。でもまあ、何はともあれその「ジョン」の話。
「ヨハネ」の成れの果て(?)である ‘John’ とは別に ‘Jon’ という表記もあるのはご承知と存じますが、これは ‘Jonathan’ の略称で、やはりヘブライ語名「ヨナタン」に由来、ってことにはなっております。 ‘Nathan’「ネイサン」 ってのはそれの前部を略し後部だけを残した同じ名前、という記述も見かけますが、それはどうやら後世定着した表記につられた民間語源説に類するものではないかと。
どちらかと言えば、‘Jonathan’ のほうがもともとは複数語からなる「文句」で、「エホバ [Jehovah (Yaweh)] が与えた」とか「エホバに賜った」というのが原義または原形である一方、 ‘Nathan’ はもともと単語で、「贈り物」すなわち「与えられた物」「賜り物」といった語義の由。初めから後者を一部として包摂するのが前者、というのが実情で、前者を端折って後者になったわけではない……ようなんです。知らないけど。
‘Jon’ がその ‘Jonathan’ の略である、ということ自体が、ひょっとすると比較的近年の用法あるいは解釈で、実は初めから ‘Jon’ という単独の名前もあった、と思われる節もあり、やはり確たることは判然と致しません。相変らずしょうがねえ。
それでも、頭部を省いて後ろだけを残す呼び方ってのは珍しくはなく、たとえば「リアム・ギャラガー」って人がいますけど、あれは、「ビル」だの「ウィル」だのってのとは裏腹に、 件の‘William’ って名前の後半だけを採った呼称。他にも、女性名の ‘Patricia’ を、「パット」だの「パティ」じゃなくて ‘Tricia’ (さすがにこれはカタカナでは表し難く)と言ったり、 ‘Elizabeth’ が「ベス」だの「ベティ」だったりって例もあり。「中」をとって「リズ」だの「リジ―」だのってやり方もありますが。『マイ・フェア・レディ』の主人公は「イライザ」って名前ですけど、あれはこの頭だけを残した ‘Eliza’ なんでした。
相変らずそれがどうしたって話ばかりですみません。因みに、‘Tricia’ がカタカナじゃ難しいってのは、「トリシア」じゃあまりにも原音と懸隔しちゃうってことなんです。「パトリシア」だって結局はそうなんですけど、まだ頭に「パ」があるからごまかしも利くか、ってなもんで、実はこれ、[(パ)チーシャ]ってほうがよっぽど英語に近い。てなこと言うと眉に唾つける人もいるけれど、‘t’ の1字に何の挨拶もなく勝手に[オ]という母音をくっつけ、語頭、語中、語尾を問わず「ト」と表記、発音してたんじゃ、日本語知らない英語母語話者にはまず通じませんぜ。
大戦末期に米軍が撒いた日本の降伏を促すビラに、‘Truman’ のことを「ツルーマン」と書いてあって、その古い表記を笑う人もいるけれど、「トルーマン」ってよりゃよっぽどまし。それより「チューマン」てほうがさらに現実的なんだけど、先入観の恐ろしさ、多くの日本人にはどうも信じ難いようで。まあいいか。またぞろ関係ねえ話に堕してしまった。
そんなことより「ジョン」の話。こないだは何気なく「ジャック・ジョンソン」を駄洒落っぽい名前の例として挙げとりましがた、 ‘Jack’ が ‘John’ の派生形とはどういうことか、ってことにも触れとかなくちゃ、と今勝手に思っちゃったんで、それについてもひとくさり。
‘John’ ってのはもともと、「ヨハネ」のラテン形である ‘Johannes’ が変じたものではあるんだけど、この名が英語に流布する前段階のフランス風の言い方では、それがまず ‘Jehan’ に、次いで ‘Jan’ に縮められ、ついでに愛称的接尾辞の ‘-kin’ を付して ‘Jankin’ になったかと思うと、フランス流の鼻音化により ‘Jackin’ に変じ、しまいには尻尾がはじかれて ‘Jack’ とは成りにけり、という経緯とのこと。中世以後の英語でこの ‘Jack’ が ‘John’ に対する愛称とされているのは、つまりそういうことなんでした。
「ジャック」で想起されるのが ‘Jacques’ という別系統のフランス語名。それでついまた思い出しちゃうのが例の ‘Shakespeare’ の話だったりして。やはり俗解の所産には違いないとは思われる、 ‘Jacques-Pierre’ が転じたもんだっていう、例の与太話です。フランスの隠語による「百姓親父ピエール(ピーター)」てな渾名だったのが「シェイクスピア」という音韻に変じた、っていう古典的な洒落のようなもん、ってことは既に述べておりますが、いずれ渾名だとはしても、実際はやはり純然たる英語で、‘shake’ + ‘pear(e)’、すなわち「振り回す」+「槍」たるに相違なく……って、すみません、おんなじ話の繰り返し。これも寄る年波ってやつで、そこはひとつ。
‘Pierre’ とか ‘Peter’ がヘブライ名のペテロからの派生形で、もともと「石」って意味だってことも申しましたが、高校の頃、辞書をめくっていて、 ‘saltpeter’ (英では ‘-petre’)が「硝石」だってのを見て、「なんで人の名前がついてんだろう」と思ったら、話が逆だったというオチ。人名のほうが「石」って意味だったんでした。「石油」が ‘petrol’ だったり、 ‘petrified’ で 「化石化した」、ってより「(恐怖その他で石のように)固まった」だったりってのも、それで納得、という寸法。
またも随分と逸脱しておりますが、どうせなのでもうちょっと。シェイクスピアからは200年は前の14世紀に、世俗の言語である英語で執筆した最初の大作家(らしい)チョーサー、 Geoffrey Chaucer も、 ‘Shoemaker’「靴職人」を意味するフランス語をもじった名前で、その頃の貴族階級はまだフランス語(ノルマンジー訛り?)をしゃべってたから、お得意先である王侯向けには多少ともそれにおもねっとく必要があったのだ、てな説を唱える向きもあるものの、それにしちゃ英語で書いてんじゃん、と思わざるを得ません。どのみち今とは随分表記は違うし、何しろ印刷なんかないから全部手書き。それが、16世紀の沙翁とは根本的に違うところ。
いずれにしろそれ、いずれ劣らぬ穿ち過ぎの民間語源説ってやつでしょう。本人がフランス語にかぶれて自らそう名乗ったなんてこもねえだろうし、ノルマン征服から数世紀、古いフランス語に由来する名字なんざとっくに普通だった筈。そもそもその名前、「靴屋」ってよりは、ズボンだの股引だの、つまり脚に着けるものを作る商売ならとりあえずは該当するようだし。
前に言及した William Caxton が最初に刷った英語の本がそのチョーサーの『カンタベリー物語』 ‘The Canterbury Tales’ だってんですが、活字とは言え、17世紀頃の、ごく見慣れた普通のラテン文字で刷られたシェイクスピアものなんかとは全然違って、まず読めねえですぜ、あまりにも字体が違うもんで。
とにかくまあ、チョーサーの時分にはまだ英語自体が沙翁の頃よりはよほど古く、表記のみならず、音韻にも上流の使うフランス語臭があった、ってのはほんとなんでしょうけど(てえか、それがそのまま現代英語の基礎んなったわけですけど)、だからって本人の名前がフランス語の書換えだってのは強引に過ぎるんじゃないかと。まして、200年後のシェイクスピアがほんとは「ジャックピエール」だったってのは、どう足掻いたって根拠のないこじつけたるは明白、ってことで。しつこいけど。
ま、そういう「謎解き」風の話はおもしろいし、結構好きではあるんですが、うっかり鵜呑みにするのは、国語の語源についてと同様、かなり危うい、とは常に思うところではございます。 ‘jacques’ が「下賤の者」だったってのも、まあフランス語に関しては嘘ではないんだろうけど、それから派生したっていう語源説のもと、英語にも「何々屋」に当る ‘jack’ という語があるではないか、ってのもまたちょいと牽強気味としか思われませず。
単純に、今はどっちも「ジャック」で、名前としての出自は同じだと思われがちではあるけれど、英語の ‘Jack’ が ‘John’、すなわち「ヨハネ」に発するものであるに対し、フランス語の ‘Jacques’ は、‘Jacob’ やそれと同根の ‘James’ にこそ対応するものであり、つまりは「ヤコブ」が元ネタ。別系統なんでした。
でも中世末期、あるいは近世初期には、既にそんなことを心得てるやつなんか珍しくなり、 ‘jacques’ が「百姓町人」なら ‘jack’ もそうに違えあるめえ、ってことんなってたとしても、まあ不思議はないでしょう。
結局何ひとつ確かなことはわからねえんじゃねえかい。すみません。
英語の名字における4つの区分のうち、最も基本的な「先祖の名前」に由来するものについて述べようとして、とりあえず ‘John’ ってのを例にとったのでしたが、どうも話が錯綜してばかりで何とも要領を得ないことになってしまいました。最初から話の運びをしくじったような。
てことで、またも索然たるまま、いよいよ心苦しいところではありますが、今回もここまでと致し、次回は何とかもうちょっと整合性ある記述を心掛ける所存ではございます。引続き「先祖の名前」系の名字について、と言うより、その区分に対するまとめのようなものを試みようかと。まとまるかどうかは相変らずわまったくかりませんけれど。
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