2018年9月7日金曜日

英語の名前とか(4)

ちょっと間が空いちゃいましたが、先祖の「名前」「出身地」「職業・身分」「渾名」が、英語の名字における4つの基本区分、ということを述べ、最初にその1つめの例として(安直にも) ‘John’ というのを挙げたばかりに、どうやら話があちこち動揺することにはなってしまったようです。

これ、名字としてでなければ、既に千年ほども前から人気の個人名ではあるのですが、‘Johnson’ だの ‘Jones’ だの、あるいは ‘Jackson’ なんかに比べると、‘John’ だけっていう名字はいかにも少数派。そんなこたハナからわかってたのに、しょっぱなからしくじってたんでした。今さらながらちょいとした慙愧みたようなものを感じてはおります次第。まあしかたがねえ。
 
                  

気を取り直しまして、これら4つの要素は、未だ世襲の名字が確立する以前の時代には、悉くが個人の呼称として、またはそうした個人名の一部として用いられていたもので、だから後の名字の語源としてはいちいち「先祖の」という限定句が付されるわけではあります。もちろん今日の名字がこの4つのいずれかに画然と分れるなどということはなく、複数にまたがる例も少なくはないし、何より、文字や音韻の経時的変遷に加え、無知や諧謔による結構容赦のない変貌を遂げた末、原形とは似ても似つかぬものに成り果てているという例も珍しくはないようで。

そこは我が日本の固有名詞も同じ、と言うより、日本人の姓氏にまつわる家系伝説の虚偽は、全般に欧米人のそれより度合いが甚だしく、実はあまり(殆ど?)当てにゃならんのですが、それは趣旨に非ざれば、ここでは触れないように致しましょう。へたすっとまたどうしようもない余談に溺れてしまう恐れもなくはないようですので。

日本の場合は、英国のように支配民族が何度も交代し、それに応じて言語も諸々入れ替わる、などというほどの激しい変動はないものの、無文字民族であったところに、漢字という、本来はまったく無縁で、かつあまりにも懸隔した言語の、それも表意文字を無理やり使い出したがために、純然たる音韻表記法たる万葉仮名につられ、地名その他の原義をその漢字の意味と混同し、読み方も字訓に変ずるなど、さまざまな誤解や変容を経た結果、もともとが何だったのかさっぱりわからなくなっているという例も存外多いようです。さらには、そうした今の書き方や読み方が宛も元来の語源を示すものであるかの如く説かれ、それがそのまま広く信じられていたりもして。

おっと、迂闊にも言ってるそばから早速関係ない日本の話に逸れちまいやした。どうもいけねえ。まあ、むやみに文が長かったりするところは、生来の貧乏性が言語表現に発現したるもの、とでも思召されたく。
 
                  

ともあれ、ひとまずは、1つめの区分、人口の分布では最大の勢力を誇るという「先祖の名前」由来って型について、多少ともまとめるよう努めることと致します。ここまでで既にかくも長ったらしい無用の御託を並べちゃってるわけですが、毎度のこととて、そこはどうぞご容赦。

地名や人名に限らず、後に英国と呼ばれる彼の地における言語上の変転は、居住者の混淆や交替の所産には違いなく。何千年も前から、その都度異なる人間の集団が移住して来て、気候的にも地形的にも快適な現在の England の地に住み着き、やがて最先進国たるローマに征服、支配されるに至る、という寸法。他民族による最初の本格的な侵略とも言えるその時点で最も「新参」だったケルト人が、それ以前からの先住民を駆逐、あるいは共存、混淆した人々こそ、ローマ人によってブリトン人とは称された、ってところですかね。

尤も、紀元前4世紀のギリシャの文献には、ラテン文字では ‘Prittanoi’ となるような呼称が記されているそうで、それはどうも「刺青をした人々」という意味らしい。戦いに際して胸に模様を描いた、ともいうのすが、やがてはそれが ‘Briton’ だの ‘Britain’ だのにまで変ずるってことなんでしょう。そうなると、ローマ人によるラテン語の呼称なのではなく、その数世紀前、大陸から移住する時点で既に当人たちはそのように呼ばれており、地名の「ブリテン」ってのも、後にその民族名(というよりその一部を成す部族名)から派生したもの、ってことでしょうか。

ケルト人が彼の地へ流入し始めたのは紀元前1千年ほどのことだというし、溶鉱、金工に長けた彼らとの交易を求め、ギリシャを含む南欧辺りから今の英国南部を訪れる者もいたとのことなので、やはりその Briton という呼称は、大陸から引っ越して定住した後のものなんでしょうかしら。その辺がどうもはっきりしません。調べが甘いだけか。
 
                  

実はその「ブリトン」だの「ブリテン」だのという言葉は、中世にはすっかり古語の如き存在となっており、ゲルマン人に追われてフランスに逃げてった一派の子孫だとかいうブルターニュ人を ‘Bretons’ と呼んではいたけれど、イギリス自体を指す名称として ‘Britain’ という「古形」を復活させたのは、17世紀初めのスコットランド兼イングランド王、ジェームズ六世または一世だという話です。両者を一緒くたにした国号が必要になったから、ってところでしょう。

それに限らず、今日普通に用いられる「ケルト」その他の民族名も、結構近代(日本では江戸後期以降)になってから使われ出したものが殆どとのことで、大昔の当人たちは全然聞いたこともない名前だったりもするようではあります。のみならず、そのケルト人だの後のゲルマン人だのってのは、大陸での移動中から当然各地で混血を繰り返しているわけで、「民族」なんてのが如何に観念的なものか、ってのは今さら言うもおこがましきわかり切ったことではないかと。それを言うなら、そもそも人類を人類たらしめている諸々の勝手な幻想こそが、あらゆる文化や文明の源……なんて言ってんのはあたしだけでしょうか。まあいいや。
 
                  

なかなか肝心の話に行き着かず、恐縮至極に存じます。とにかく少しでも話を進めるよう、せいぜい努めると致しましょう。

記録が残る時代以降の、イングランドおよびその周辺地域における固有名詞の言語的流れを概述しますと、

ケルト → ラテン → ゲルマン

といった具合にはなりますようで。5世紀初めまで帝国の北西端たるブリテン島南部を支配していたローマ人が、ゲルマン人の一派、サクソン族が頻繁にやって来てはケチな略奪行為を繰り返すのに辟易するとともに、大陸ではそのゲルマン人どもの攻勢に押されて往年の勢威を失い、つまりは不景気になって引き揚げ、数世紀の間にすっかりローマにかぶれていた被支配者のケルト系先住民が、何百年かぶりでやっと「解放」された後、ってのがアーサー王伝説の時代、ということに。

解放とは言い条、それは同時に統制が失われるということでもあり、ピクト人その他の外敵を防ぐローマ軍もいなければ、ブリトン人どうしの勢力争いも絶えず、宛ら戦国時代の様相を呈するに至ったとも申します。その過程で多くの記録が失われ、そのため英国史における暗黒時代とは呼ばれるという次第。

伝説では、2人の兄弟が率いるサクソン族の傭兵を北方からの外敵に当らせたとかいう話ですが、庇を貸して母屋を取られるが如く、やがてそのゲルマン人どもにブリテンの地を追われることになろうとは、という、その後千年を超えるケルト民族苦難の始まり、ってなところではありましょうか。

いずれにしろ、その時分にはまだ英語なんてものはありません。ラテン語の影響を受けたケルト系のブリトン語、って塩梅だったような。それがいずれゲルマン語に取って代られるという筋書き。

そのラテン語にしても、それを介してヘブライ語だのギリシャ語だのも流入し、ローマがキリスト教の卸元に転じる頃には、人名に聖書のキャラを多用するという、その後千年以上にわたる根強い因襲が生れ、その結果ヘブライ語源の名が大勢を占めるに至るわけですが、そういう状況は他の欧州諸国とも通底するところでしょう。ただし、ラテン語化の段階で既に、原語たるヘブライ語の名前は当然どれもかなり変形しており、一部は語義にも誤解があった模様。

それを言うなら、古代ヘブライ語によるユダヤの教典、キリスト教における旧約聖書の原典に記された語義自体が、既に民間語源説の域を出ず、真の語源を知るには、ヘブライ語を包摂する上位概念とも言える正統のセム語に当るしかない、とも言われ、何せ話が古過ぎてこちとらにゃあどうしようもねえ。いずれにせよ、その俗解に満ちたヘブライ語の記述を、さらに一部間違えて訳したのがラテン語の聖書で、それがまた英語その他の各国語に訳されてんだから、まあ伝言ゲームに類する誤伝、訛伝を免れないのは致し方なきことかと。

まあいいでしょう。そのラテン語に影響されたケルト語の時代の後、漸く3つめに挙げたゲルマン語、つまり古英語の原形を話す連中の天下となるわけですが、そのうちの2大部族、すなわちアングルとサクソンが合してアングロサクソンとは称されるという次第。「ゲルマン民族の大移動」なんて話も学校の世界史には出てきましたけど、そのアングロサクソンが乗っ取る数世紀前から、ローマの傭兵としてブリテンの地に入り込んでいたゲルマン人ってのも当然いたことでしょう。
 
                  

おっと、そういう人的な話より、言語的な経緯が主眼でありました。3つめの段階として素っ気なく「ゲルマン」とのみ記しましたが、複数に分れていたアングロサクソンの小王国が合していわゆるイングランド王国の体を成すに至る過程で、同じゲルマン人の一派である北欧からのバイキングにたびたび侵攻を受け、降参したり反撃したりしながらも、何とかアングロサクソンが面目玉を維持していたところに、件のノルマン人が乗り込んできて制圧、という仕儀。

いずれも祖先を同じうする(ことになっていいる)ゲルマン人どうしの争いではあるのですが、言語的には既にかなりの乖離が見られたでしょう。わけても最後の支配民族たるノルマン人は、なんせ(訛った)フランス語ですし。
 
                  

てえかこれ、「英語の名前」というのが主旨でありますれば、やはり第1の区分、「先祖の名前」に由来する名字について今少し述べようかと存じます。毎度無計画、無秩序で申しわけもございませんが、それはもうしかたがありませず。

最初に挙げた ‘John’ の話から、「誰それの息子」っていう意味の接頭辞や接尾辞について言及しておりましたが、まずはそれについて今さらながらもうちょっと言い添えておくと致しましょう。

……と思ったんですが、やっぱり「ちょっと」じゃ済まない予感はするし、今回もまた余計なことばっかり言って結構長くなっちゃったので、「言い添える」のはまた次回ということに。

毎度申しわけございません。

0 件のコメント:

コメントを投稿