2018年9月12日水曜日

英語の名前とか(6)

いきなりですが、続きです。 ‘-son’ だの ‘-sson’ (‘-sen’ だの ‘-ssen’ だのと同類)っていう、比較的素朴なゲルマン系、と言うか英語形の接尾辞に対し、父の名を代々受け継いでゆくのが古来の因襲であったというケルト系では、宛ら尻取りの如く、接頭辞の類いを冠した親の名をそれぞれの個人名の一部とするのが習いであった、とは申します。つまり、世襲たるべき名字ではなく、古くは飽くまで1代限り、各個人の呼称であった、ということです。
 
                  

さて、「アングロサクソン」などと総称される、英国人、と言うよりイングランド人の祖について、改めて少々。世界史の教科書にも出てくるジュート族というちょいとマイナーな部族が、今のイングランド南東部、ケントの辺り(およびロック・フェスティバルの間だけ人口が激増したというワイト島とか)に居座り、サクソンは主に南部一帯、最大手といった風情のアングル族は中部から北、スコットランドにまで及ぶ地域を占めた、ということになってはおります。

バイキングとの間で一進一退を繰り返し、人的混淆も進む過程で、小国に分れていたゲルマン人たちがやがてアングロサクソンとして1つにまとまり、イングランドという統一王国を成すに至る、ってえと随分端折った話にはなっちゃいますが、概ねそんなところではなかろうかと。

でまあ、こやつらのために貧乏くじを引いたのがケルト系の先住民だったということで、主にサクソンどもに逐われ、南西端のコーンワルやウェールズの地に囲われる形になっちまうという仕儀に。

ウェールズ(というのも当人たちの呼称には非ず、ってよりアングロサクソンによる蔑称とのこと)からさらにスコットランドの地に渡った者もいましたが、スコットランドにはその後、海を隔てたアイルランドから移住(あるいは侵攻)する者も多く、それがやがて、イングランドと同じように、多少とも住みよい南の低地部はアングロサクソンが占め、ケルト系は北部の高地や島嶼部に追いやられる形となった模様。

スコットランドってのも何気なく二重民族国家で、昔から多少羽振りのいい ‘Lowlanders’ 「低地人」と、下層扱いの ‘Highlanders’ 「高地人」に分れる、という歴史があります。東北人たる下拙など、自らをその高地人になぞらえたくなったりして。まあ、上層のゲルマン系だって、中世後半までは何かとイングランドに圧迫されてはおったのですが。

「上層のゲルマン」などと申しましたが、高地地方よりさらに北東のオークニー諸島とか、そのまたさらなる沖合、大半が北緯60度をも超えるシェトランド諸島の住人もまたゲルマン系ではありました。ただし、南部低地のアングロサクソンとは別の、ノルウェー方面から来た北欧系。一方、北西のヘブリディーズ諸島の民は、高地人の一派、ケルト系ゲイル人という次第。「高低」の二重民族って括りはちょっと粗かったかも。

因みに ‘Gaelic’、つまり「ゲイル人の」とか「ゲイル語」とかって言うと、今はまずスコットランドのケルト系のことを指すんですが、もともとはアイルランドから渡ってった人たちの子孫やその言語、ということになってます。そもそも「スコットランド」という後世の国号における「スコット」ってのが、アイルランドから移住した部族の名前、あるいはアイルランドの住民全般のことだったと申します。語源とされるラテン語がいかなる意味だったのかは曖昧とのことですが。

とにかく、それとは別にウェールズ辺りから移ったケルト系ってのがまずいたってことなんですが、かつては父祖の故地であるウェールズと変らず、今よりはよほどケルトの伝統を伝える名前が残ってたってんですね。やがてゲイル語系に一掃されたようですが。

より古くは「ピクト族」なるちょいと謎の古代人も(後の)スコットランド(カレドニア)にはいて、その ‘Picts’ ってのは ‘picture’ に通じ、体に絵のある連中、ってほどの謂いだった由。ブリトン人の語源という「彫り物を入れた人々」に符合致しましょう。でもそれはラテン語由来の名称と見なした場合の話で、語源にも諸説あり、結局はやっぱり謎のまま。やがてスコットランド人全般に飲み込まれ、1個の民族としてはとっくに霧消しております。「謎」扱いされるのも致し方なし、ってところかと。

ブリテン島がゲルマン人に乗っ取られる前、後のイングランドたる南側がほぼローマに牛耳られていた時代、最後までなびくことなく、諦めたローマ皇帝ハドリアヌス(ヘイドリアン)が「長城」を築いてその北方の蛮族を締め出した、ってのは、そのピクト人のことでしょう。それが、南のブリトン人たちと同根なのかどうかがはっきりしない、とかいうことなんですが、日本で言えば卑弥呼がどうこうって時分の話ですから。
 
                  

さて、ケルト系スコットランド人の故地、ウェールズやアイルランドでは、中世末から近世の初めにかけて(ざっと鎌倉・室町の時分)、いよいよイングランドの支配が苛烈を増すにつれ、先祖伝来の名を奪われてつまらねえ英語名にされ、固有名詞の多くがいかにも半端なものに成り果てた、とは申します。ゲルマン人にとっては、支配統制しようにも、ケルトの名前は面倒でかなわねえ、ってことだったらしい。

それでもアイルランドのほうはまだ、そうした蛮行が加えられたのがダブリン周辺の庶民に限ったことだったのに対し、ウェールズ人の名前は、必ずしも強制ではなく自発的な阿諛などにもより、17世紀までにはすっかり凡庸な英語風ばかりになっちゃったんだとか。

加えて、そのスコッツ・ゲイルズとかいうスコットランド高地人のほうには、本場のアイルランドと同様の、アングロサクソン以前の名前が千年にわたって残されているのに比し、ウェールズ発祥のブリトン人の名前は、同じケルト系ながら、先述の如く、後からやって来たそのアイルランド人のゲイル名に一掃される形で、結局は随分と不景気なことになっちゃったそうな。

かくして、伝統的ウェールズ名はその後長らく全国的に黙殺されるに至る、って感じかと。

そのウェールズでは、アングロサクソンの圧迫の結果ってことなんでしょうけど、姓も氏も似たり寄ったりの英語名ばかりってことんなり、個々の区別がつかなくて不便でしょうがない、ってんで、ある時期名前は必ず最低3語の連なりから成る、という習慣になっていたとも申します。まあ今どきの英米人の名前なんざどのみち同姓同名ばっかり。とっくに諦めちゃった、ってところでしょうかね。

いずれにせよ、伝統的な名前がそういう情けないことに成り果てる前、あるいはまだ世襲の名字という習慣が確立するまでのウェールズでは、先述した尻取り式の個人名が何世代にもわたって連綿と続き、残された記録を解読すると、現代の庶民には望むべくもない、先祖代々の親子関係が容易に知れるのだとか。
 
                  

アイルランド、およびそこから伝わったスコットランドの人名には ‘M(a)c-’ という接頭辞を付したものが多いのはご承知の如し。それがやがて世襲の名字となったわけですが、アイルランドの名前にはもう1つ、 ‘Fitz-’ という接頭辞もあり、こっちは私生児であることを示す、との誤解が昔からあるそうですけど、この語自体にその意味はなく、17世紀初め、件のスコットランド王とイングランド王を兼ね出したジェイムズ六世または一世以後のステューアト朝の御代に、王室や貴族の庶子がこう名乗ることになった、ってだけのことらしい。

これがアイルランドで目立つようになったのは、もともとがまたしてもノルマン征服の折の貴族、 Gerald FitzWalter こと Gerald de Windsor てえ野郎の子や孫が、アイルランド攻略に従事したことがきっかけだったんだとか。 ‘fitz’ はもともとノルマン語で「(~の)息子」を意味し、中世以前の日本の名字のように、領地の名称を自らの名に添える習慣だったのが、名乗るべき領地のない支配層の子弟には、「誰それの息子」という意味でこの「fitz + 父の名」という呼称が与えられた、とかいう話なんですよね。何せ元がフランス語だし、表記は一定ではなかったようですけど。

「Gerald の息子」たるその家系が、やがてアイルランドで随分と栄えるに至り、 ‘Ftizgerald’ ってのがアイルランドの代表的名字の1つにはなった、というところかと。さらには、被支配側もそれを真似て、と言うより強いられて、もともと ‘M(a)c-’ だったのを「英語」風の ‘Fitz-’ に変えたりするなど、結果的にこの接頭辞の付いた名字がアイルランドには少なからず、ってことんなったらしゅうございます。

そう言えば、あの JFK、ケネディ大統領の ‘F’ が ‘Fitzgerald’ じゃござんせんか。既に特段アイルランド系だからってこともなかったでしょうけれど、これが姓ではなく名の1つとして用いられているのは、もともとが今日のような世襲の名字ではなかった名残り……ってこともないか。失礼しました。

アイルランドでは妙に流行っちゃったこの ‘Fitz-’ 名、イングランドでも中世には結構多かったようなんですが、むしろあまりにも多用されるために、やがて控えられるようになったのだとも。そうなんですかね。知らねえや。
 
                  

さて今1つ、アイルランド特有の ‘O'Brien’ とか ‘O'Con(n)or’ とかいう名字の ‘O’ ってのもありました。これは父ではなく祖父、または祖先の名の前に付されるものだそうで、元来は飽くまで単語であり、アポストロフィーで繋げちゃうのはほんとは誤用だったんだとか。

一方ウェールズ語には、息子を示す接頭辞、というより ‘O’ と同じく前置の単語たる ‘ap’ または ‘ab’、および娘を表す ‘verch’、 ‘ferch’ というのもあります。どのみち現代の表記では、ってことでしょうけれど、16世紀に、やはりイングランドの容喙でつまんないことになっちゃうまでは、そういうのを付した個人名こそがウェールズの伝統だったようで。

たとえば、 Thomas の息子の Evan は ‘Evan ap Thomas’、その息子の Rhys は ‘Rhys ap Evan’、そのまた息子の John が ‘John ap Rhys' ってな塩梅。その姉妹が Guendolen って名前なら、‘Guendolen verch Rhys’ とはなるという寸法。で、この後半の ‘ap ...’ っていう父系を示す付加部分が、後に形を変えて世襲の名字に繋がる、ということではないかしらと。
 
                  

ときに、上で挙げた ‘Rhys’ って例は、今でもウェールズ風の名として現役なんですが、読みは[リース]とも[ライス]とも。 ‘John ap Rhys’ を今どきの英語名に置換すると ‘John Rees’ とか ‘John Rice’ みたような感じ。そのまた子供である ‘... ap John’ に当る英語名が ‘Johnson’とか ‘Jones’ という次第。

でもなんでわざわざこの ‘Rhys’ って例を挙げたかというと、実はこれ、アニマルズのアラン・プライスの名字の元だってんですよね。「値段」ってのはまた随分な名字だな、と思っていたところ、これこそウェールズ名の ‘ap Rhys’ が詰って英語化した結果で、 ‘(a)p + Rhys’ が ‘Price’ に化けちゃった、ってオチなのでした。あるいはそれ、まずウェールズ語の名字として ‘Aprhys’ となっていたものから ‘A-’ が欠けて ‘Price’ とはなったものでしょうか。恐らくそうなんでしょう。わかんないけど。

この ‘Price’ よりはよほど平凡な感じですが、 ‘Powel(l)’ ってのも同じ経緯でできた名字だそうで、こちらは ‘ap Howel(l)’、より古くは ‘ap Hywel’ らしいですけど、それから ‘Aphowel(l)’ とはなり、ついには頭の ‘A’ がとれて ‘Powel(l)’とは相成った、ってことのようです。尤も、他の名字と同様、別の語源説もあり、ってより、複数の異なる経緯で同じ結果に落ち着いた、ってのがほんとのところかと。

でも似た例には ‘Bowen’ ってのもあって、こっちは ‘Apowen’、 つまり「Owen の息子」に由来する名字が元の形なんですと。‘A’ の字が省かれるところまでは一緒だけど、 残りの頭部、 ‘P’ が有声化しちゃったという次第。

いや、ひょっとすると初めから ‘Abowen’、つまり ‘ab Owen’ だったのかも。 ‘ap’  に対して、母音の前だと ‘ab’ にしてたとか。知らないけど。でもそうなると、「娘」の意の ‘ferch’ってのも、その前に置かれる当人の名前の末尾が母音の場合で、いずれも語頭・語末ともに子音のほうが多いから、 ‘ap’、 ‘verch’ が基本形扱い、ってことだったりして。やっぱり知らないけど。
 
                  

ときに、ウェールズだのケルトだのとは別儀ながら、 ‘Money’ って名字もありますな。こりゃまた随分と「現金な」名字もあるもんだと思ったら、語源がノルマン語で、フランスの地名が訛ったうえ表記も変ってこうはなっちゃった、ってのが実情らしい。とは言え、やはり名前の語源説はそれぞれ1つとは限らず、あるいは ‘monk’、「坊主」と同根か、と思われる「お金」さんもいらっしゃるようで。

同じくフランスの地名または坊主に由来する名字には ‘Moon’ ってのもあって、キース・ムーンなんざ、初めは本名だとも思われず、まあ本人の人格とは裏腹に随分と風流な名字ではある、と思ってたら、実は「月」とはまったく関係なかったんでした。

日本の固有名詞にも、後に定着した表記に騙されて、すっかり語源が謎になっちゃってたり、見当違いの誤解が流布している例は多い、ってことは先般も申しましたが、言うなれば歴史久しき伝言ゲームの結果、ってところでしょうか。 ‘Price’ も、 ‘Money’ や ‘Moon’ も、「値段」だの「金」だの「月」だのとは無縁の名字であった、なんてこたあ、日本人には普通思いも及びませんよね。決してあたしだけじゃないと思うんですが。

それで想起したのが、無線遭難信号の「メーデー」 ‘mayday’ ってのが、フランス語の ‘venez m'aider’ の後半を模したものだとか、テニスの試合で「零点」を指す ‘love’ が、アラビア数字の ‘0’ の形状から、「卵」の意のフランス語 ‘l'œuf’ をもじったものだった、って話。いずれも確たる根拠はないとのことではありますけれど。
 
                  

さて、先般から徒然なるままに書き散らして参りました、英語の名字における第1の区分、「先祖の名前」に由来する例ってのについては、およそこんなところではないかしらと。あまりにも索然として、何の話をしてんだか判然としないような具合になっちゃってるところばっかり、ってのは先刻承知。そこは何卒ご海容のほとを。

次の第2の区分は、「先祖の出身地」に関わる例、ってやつなんですが、種類は第1区分より遥かに多いんです。個々の事例に関して言えば、何せ千年にもわたって似たり寄ったりの「クリスチャン・ネーム」ばっかりってのが英語名の実態であれば、それに由来する名字の保有者がいかに多くとも、やたらと種類の多い「出身地型」に比べると、「名前型」の名字は、それ自体の数としては相当に寂しいことにならざるを得ない、といったところです。単純な人口比では、両者が全名字の大半を占め、名前由来のほうが土地由来のものよりは多いのだけれど、今申し上げたように、それはそれぞれに該当する「人数」の問題で、名字そのものの数では、「土地型」のほうが比較を絶する多さ、ということで。

ときに、名字の総数では英語など及びもつかない、と一部では見当違いの自慢をする向きもいるってぐらいの、とにかくむやみに数の多いのが日本の名字。ところが、実は保有者が数人しかいないという珍姓も珍しかない(故意の撞着表記です)ってほどで、そりゃ反則技ってやつじゃねえの、って感じ。ま、それぞれの勝手には違いありませんけれど。

とにかくも、第2区分たる「出身地」系の他は、第3の「職業・身分」、第4の「渾名」系ってことになり、その4つに分れる、あるいはまたがるのが、概ね英語の名字の由来ってことではありました。次回は、ひとまず2番めの「土地由来」の名字について。

でも最初の「個人名由来」に比べれば、それほどくだくだしく述べることもないような気はします。てえか、名字談義のふりして随分と逸脱を重ねたからこそ、こんな無駄に長いもんになっちゃってんのは重々承知。てこたあ、よっぽど余計なところに踏み込みさえしなけりゃ、残りは存外早く片づくかも。

そいつぁやっぱり甘いか。まあいずれにしろ今日のところはこれまでってことで。それでは。

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