2019年4月16日火曜日

‘QU’ が「ク」で ‘EEN’ が「イーン」かよ(2)

さて、いきなりですが続きです。とりあえず「拗音」というものについての与太話を再開。

現代標準国語における拗音と言えば、キャ行だのシャ行だのといった、いわゆる「開拗音」のことだということは申し述べました。しかしそれらは、決してその仮名表記が示しているかに見える、(現代音の)[キ]や[シ]や[チ]その他(の父音=頭子音)に[ヤ][ユ][ヨ]を添えた音などではなく、その[キ]や[シ]そのものに、母音の[イ]を言わば先取りすることによって生ずるヤ行音的特徴が組み込まれている、というのが実情([キ]の父音は [k] ではなく [kʲ]というように)なれば、専らカ行、ガ行における「合拗音」に当てた[クワ]だの[グワ]だの(現代表記では「クヮ」や「グヮ」)も、便宜的な書き方に過ぎぬは明白でありましょう。ほんとは /kw/ だの /gw/ ってより、飽くまで [kʷ]、 [ɡʷ]、つまり [k] や [ɡ] に円唇を加えてワ行音的要素を込めちゃったもの、というのが正体ではあり、それを示すのが、「くわかく」という振り仮名にも見られる本来の字音仮名遣いの狙い……なんじゃないかと。

現代の標準国語音に残る、というよりは、もはや本来の国語音、やまとことば固有の音韻に取って代ったのであろう(?)開拗音は、悉くイ段音の父音に対応するもので、それはヤ行音の父音が[イ]という母音に似ているからである一方、合拗音のほうがウ段音だけなのは、当然[ウ]がワ行父音に近いから、ということも知れようというわけです。今も昔も、ヤ行イ段、ワ行ウ段の音が欠け、五十音図でもそれぞれ母音が埋め草にされているのもそのためかと。同時に、今でもヰ、ヱ、ヲ、つまり[ウィ][ウェ][ウォ]、それに[イェ]が容易に発音できるのは、もともとそれらが古くから国語音として存在したから、ということなのでしょう。いずれもほぼ外来語専用に追いやられちゃってますが。
 
                  

英語のエルとアールはやたらと騒がれるけれど、どちらも発音の習得自体はさして困難ではないのに対し、ある程度英語が話せても、 ‘yeast’ と ‘east’、 ‘woo’ と ‘ooh’ が一緒くた(いずれも母音だけ)のままって人は結構いらっしゃいます。文脈から判断不能な場合は、不可避的に混乱をきたすのですが、その /ji/ や /wu/ が、先行する父音と一体となれば日本語でも発音可能、というのが拗音のからくり……だったりして。尤も、後者はとっくに廃れている上、必ずしも英語における /w/ と同じ音というわけでもありませんけれど。東京語のワ行音もそうですが、英語の ‘w’ も円唇を要件とはしないような……。

なお、その合拗音、前回も申しましたが、字音仮名遣いが提唱された江戸後期にはとっくに下火だったようで、ア段の「クワ」や「グワ」に対応する音は辛うじて遺存するも、もっと昔には普通に用いられていたらしい「クヰ」や「クヱ」、それに「スヰ」などと表記すべき音は近世までに衰退していた模様。そうなると、古代の[キ]は、口蓋化(舌が口蓋に接近)しない [ki]、つまり[カ][ク][ケ][コ]と舌の形が同じ父音に母音の[イ]を付したものだった、ということになりましょうや。それ、結構発音が難しいんですけど。英語だって、‘key’ とかの /k/ は、不可避的に口蓋化し、 [kʲiː] とはなる、ってのが実情ですし。

英語とはちょっと異なり、この[キ]に限らず、両唇閉鎖によるマ行だのパ行だのを除けば、現代国語のイ段父音は例外なく他段のそれとは違って容赦なく口蓋化が加えられるのですが、それを認識している日本人は滅多にいません。日本人が日本語喋るのに、そんなもん認識する必要もないわけですが、そこがわかっていれば英語の発音にもかなりの向上が望めようというもの。やっぱり特に必要はないとも思われますが。
 
                  

英語と言えば、日本人にとって存外厄介なのが、たとえば ‘shoe’ と ‘wish you’ とかの「(ウィッ)シュー」の違い。前者が素朴に /ʃuː/  であるのに対し、後者は飽くまで /wɪʃ juː/、つまり /ʃ/ と /u/ の間には /j/ って音が必須なんですけど、これも大抵の日本人はどちらも同じ「シュー」でやり過ごしてんです。つまり、拗音とされるシャ行音ではあるけれど、実はヤ行音的要因があるとすればそれは「シ」のほうに内包されているのであって、その「シュ」という表記に該当する実際の音は、むしろ「シゥ」とでもしたほうがよほど現実的……というようなことは、先般の訓令式云々でも言っとりました。

ああ、その「シ」の父音(頭子音……って、しつこくすみません)自体が、英語の ‘sh’ とは別音なんでした。 /ʃ/ が表すのは英語音のほうで、国語音(の父音)は /ɕ/。前者が「舌尖」、すなわち舌のほんの先端だけが、言わば口蓋寄りの歯茎に近づくのに対し、後者はもうちょっと後方までをも含む「舌端」全体が持ち上がり、どちらかと言えば歯茎寄りの口蓋に接近する音で、結果的には日本語で「シー」って言ったほうが英語の ‘she’ よりちょっと鋭い、てえか「うるさい」感じになります。摩擦を生ずる部位の面積が僅かながらも大きいから、ってこって。
 
                  

おっと、またも挨拶が遅れましたが、音声表記に用いている / / と [ ] の違いは、簡略音韻表記と比較的精密な音声表記、とでも申しましょうか、前者はいわゆる「音素」(phoneme)を、後者は「異音」(allophone)を示すもの……ってなこと言い出すとこれまた長くなっちまうんでごく大雑把に済ましときますが、当該の母語話者にとっての最小音韻区分みたようなもんが音素で、より客観的なその細目が異音……って感じ? これじゃ相変らず何だかわかんねえか。すみません。

いずれにしろ、異音ったって、そりゃまたよくある安直な訳語ってやつでして(またあたしが勝手に言ってるだけですが)、別段何かと「異なる」音ってことじゃありません。母語話者には違いがわからない(あるいはまったく勘定に入らない)個々の別音、とでもいったところでしょうか。それぞれ互いに異なる、とも申せましょうが、「異音」って言われても俄かには何だかわかりませんでしょう。俺だけかな。「互いに」ってんなら、そりゃ音素どうしがまずみんな異なってんだし。でなきゃ意味ねえし……ってな心地ではあります。

たとえば、「なんか」「なんだ」「なんぼ」その他の「ん」は、少なくとも英語ではまったく別の音素(/ŋ/、 /n/、 /m/)として認識されるも、日本人には後続の母音と一体にならないと全部おんなじ[ン]でしかない、といった具合です。標準発音におけるたった5つの母音だって、細分すれば多数の異音に分析可能だったりもしますし(各地の訛りも勘定に入れればちょいと恐ろしいほど……)。

その「ん」に当る音はさらに数種類あり、語尾では同一人物でもそのときどきで発音が違ったりもする、というのがほんとのところ。全部ひっくるめて音素記号は /N/ ってんじゃないでしょうかね。この ‘N’ の字を一回り小さく、小文字の寸法にした、いわゆるスモールキャップの [ɴ] だと、その音素 /N/ のうち、語末に頻出する「口蓋垂鼻音」を示す異音記号とはなる……とかね。

因みに、‘small cap’の ‘cap’ は ‘capital (letter)’、すなわち「大文字」の略です。かつて(19世紀から20世紀半ばまで?)は、本文とは別掲の説明部分などに、小文字が全部大文字と同じ形で大きさだけを縮めた活字が頻用されましたが、そうしたフォントがつまりは ‘small caps’ という仕儀。
 
                  

……と、ついさらなる逸脱を重ねちゃいましたが、ついでのことに、この「ん」ってのが、単独では厳密な意味での「音節」とはなり得ず、専ら直前の音(上の例では「な」)と結合して、元来は中国語音の真似から生じたとかいう撥音(とか長音)と称される2拍分の1音節を成す「モーラ」……だってんですが、おいらそれを無視して、1拍は全部1音節って言ってるんでよろしく、ってなこと言ってたのが、前回の終りに挿入した「弁解」だったのでした。英語の ‘syllable’ に比して、日本語の「音節」という「術語」にはさしたる効用も認められず、なんて言ったんじゃあまりにもエラそうなのは承知の上でございます。

そう言えば、その「音節」という言葉を、何ら術語に類するものではなく、ごく平易な日常語だと思ってるところからしてヘン、って言われたこともありましたけど、だって「平成」は4文字、「令和」は3文字なんて言われたらギョッとするじゃありませんか。

「字」って言ったらまずは「漢字」のことでしょうよ。だから「字音」だの「字訓」だのとは言っても、いちいちそれに「漢」の字なんか付けないんだし。まあその「字」っていう「文字」自体がまず漢字だってところはともかく、仮名も結局全部漢字の派生形、派生用法なんだし……てなこと言ってるとまたキリがなくなりますが、「へいせい」だの「れいわ」だのと、随分と幼い書き方にでもしない限り、どうしたって両者とも2文字たるは明白(因みに、現代標準国語音では[ヘーセー][レーワ]だってのもそろそろ通用しなくなりつつあるようで……)。ここはやっぱり「文字」ではなく「音節」……がダメなら「拍」でもいいけど、てえかそっちが正当なんだろうけど(「モーラ」なんざ論外、とはまたこっちの勝手)、とにかく「音の数」と「字の数」は別だってのよ、と毎回思っちゃうんです。
 
                  

図らずも息巻いてしまいましたが、ここで1つ、今さらではありながら少々お断りを。拙文中、カタカナに施した[ ]は、それが語句の強調に用いる「 」とは違って、単に「音」を表したものである、ってことを勝手に示してるつもりってだけで、勿論音声表記などではありません。そこはどうぞご承知くだされたく。ふ、何を今さら、とは承知。
 
                  

さて、屋上屋を架するが如く、またまた余計なことばかり書き連ねて恐縮の限りとは存じつつも、ことのついでに今一つ。

件の「開」と「合」は、先述の如く口の形の違いを指すもので、母音にもかつてはその「開合」の使い分けがあり、表記も別だったのだけれど、17世紀初めには既に形骸化していたらしい、ということが『日葡辞書』(主に京都周辺と九州方面の語句を採録)の記述からもわかる、という話ではあります。

その「開合」の違いってのも、実は唇の形よりはむしろ口の中の状態、つまり舌の構えによる差異ってほうがより肝心なのでは、という気も致しますが、とりあえずその廃れた「合」のほう、ワ行版の拗音を示した例が、芭蕉の能書きに出てくる「過客」の振り仮名「くわかく」の「くわ」だった、てなことにはなろうかと。
 
                  

……と書いてきて、未だ看板に掲げるクイーンの話には全然到達しないまま、唐突ながら今回もここで一旦切ります。やっぱり長くなってきちゃったので。

前回の頭で「居直る」と宣したはいいけれど、自分でもこいつぁちょいと話がよたつき過ぎじゃねえか、とは思っとります。自覚があるならもうちょっと何とかすべきに非ずや、とも思えど、しょうがねえんですよ、生来こういうやつなもんで。

なにしろ、またぞろ次回に続くってことで、どうぞ悪しからず。

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