2018年2月6日火曜日

笄あれこれとか

前回までは、『よみがえる幕末・明治』という間違いだらけの写真集を嗤う企画(?)の一環として、太刀(たち)と打刀(うちがたな)の違いや後者の大小セット、およびその付属品などについて、随分と余計な能書きを垂れ流しておりましたが、以下、大小揃いの拵(こしらえ)に付属する部品について申し残したことを並べて参りたいと存じます。

大小拵では標準装備の1つ、鞘の裏側、差裏(さしうら)に付けておく小柄が武器ではなく、言わば携帯用の工具あるいは文具のようなものであったのに対し、差表(さしおもて)に装着する笄(こうがい)は、烏帽子を常用した時代から用いられていた、髪を掻いたり整えたりするための道具なのでした。これが「髪掻」、すなわち「かみが(か)き」の転であることは先般申し上げたとおり。

後代には実用より殆ど装飾品のような存在となりますが、この刀装品とは別に、古くから男女ともに髪を掻き上げるのに用いた箸状の笄もあり(ウェブ上には両者の笄を混同した記述が目立ちます)、室町期の女官が垂髪(すいはつ/たれがみ)を束ねた下げ髪をこれに巻きつけて留めたところから、江戸初期に流行した「笄髷(こうがいまげ」(発祥地の上方では「わげ」)という髪形が生れたと申します。
 
 
 
江戸時代には女性の髪形が多様化し、当初は髷を結うのに使われていたこの笄も、次第に装飾品と化して行き、これを「中差(なかざし)」とも称するとのこと。棒状が基本だったところ、後期には、中央部分で2つに分れ、ほぼ結い終えた後に左右から挿し込む「中割れ笄」という様式も考案されたか。

江戸末期~明治の女性用笄
 
中割れ笄
 
そうした女性用笄の使用例を示す絵画を以下に。
 
歌撰恋之部 物思恋(かいせんこいのぶ ものおもうこい) 
 喜多川歌麿   寛政5(1793) 年頃 (部分)
 
先述した「笄髷」の派生形に、当時流行の「燈籠鬢(とうろうびん)」を施したものだそうですが、この絵には女性結髪の3点セットである櫛、笄、簪が1つずつ描かれております。
 
時代かがみ・嘉永の頃
 楊洲周延(ようしゆうちかのぶ)  明治30 (1897) 年 (部分)
 
こちらは「片はづし」という髪形で、笄髷がまとめた髪を根元まで笄に巻きつけるのに対し、まとめて輪にした髪の片端だけを巻きつけたものでそうで。笄を抜き取ると瞬時に正式である下げ髪になるって寸法。時代劇では江戸時代を通じて大奥女中がこの髪だったりしますが、江戸で用いられるようになったのは末期に至ってからとのこと。各時代の風俗を描いた『時代かがみ』の中で、これを『嘉永の頃』(1848~54年)と題しているところからもそれが知れます。

ときに、刀装具の笄にも、縦に分割可能な「割笄(わりこうがい)」というがあり、古いものを後からそのように改造した例もあるそうです。箸代りに使われることもあったなどと申しますが、同じ表記で「さきこうがい」とも訓じ、その場合は途中から先が2つに分れた女性用のものを指すのが第一義のようで。

小学館の『日本国語大辞典』によれば、それはさらに「割笄髷(さきこうがいまげ)」という、前髪を笄で2つに分けて巻く髪形の略称でもある、とのことで、挿絵も載ってるんですが、ウェブ検索ではそれ見当りませんね。上方で流行した髪形だと言い(ちょいとつまらねえ洒落が挟みたくなって「京阪」を「上方」にしちゃいました)、どうも「先笄(さきこうがい/さっこう/さっこ)」ってのと一緒、あるいは類似のものを指すような。わかりませんけど。
 
 
割 笄(刀装品)
 
刀装品ともども、ときどきこの笄を簪(かんざし)と混同している人がいますけど、簪は「かむざし」(かみざし/かみさし)、つまり「髪挿」の転じたものであり、初めから髪に挿すための飾り物であるのに対し、本来の笄は既述のように整髪、結髪(「垂髪」同様、元来は「けっぱつ」より「ゆいがみ」)の具でした。刀装用の笄と同様、簪にも末端に耳かき様のものが付いてはおりますが、いずれも実際の耳掃除にはちょっと使いづらそう。
刀装用の笄
 
なお、「笄」や「簪」という漢字表記は、古代に(髪飾りとともに)中国から伝わったものを流用しているわけですが、日本とは髪形の習慣が異なるため、元来の字義は異なり、本邦における「髪掻」と「髪挿」の別なく、同じ髪飾りを意味するのだとも。知らないけど。

ときに、この笄とは異なり、小柄は室町以降に使われ出した、との記述があるかと思うと、鎌倉時代に作られた小柄ってのもあったりして、相変らずほんとのところはわかりません。しかたありませんな。

                  

……などと、またしてもいろいろ無用の能書きを並べておりますが、そう思う間もなく、って感じで、ここ暫く必要もなくこき下ろしてきた件の写真集(なにしろあたしがDTPやらされたもんで)には、さらに間抜けな記述も少なからず。このとき事前に指摘(もちろんごく簡潔かつ事務的に)して無視されちゃった既述の諸例とは別に、考証上の間違いどころではない、誰がどう見たって一目瞭然と思われる編集上の手落ちにも事欠かないんですよね。

「柴田貞太郎」という、頭の禿げ上がった(つまり髷がなく全体が月代状態)、結構立派な着物着た人物が2枚の写真に写ってんですが、1枚は本人だけの立ち姿、もう1枚は集合写真の前列中央でエラそうに(大きなお世話ですけど)腰掛けてるてえやつ。で、そのキャプションが、氏名の漢字表記は同じなのに、それに付された能書きが異なり、最初が「さだたろう 39歳」、集合写真のほうが「ていたろう 22歳」という体たらく。





名前も同じ(ただし読み方がちょいと違うのがご愛嬌)なら顔も服装もハゲ具合もそっくり。つまりまったくの同一人物。こんな明らかな齟齬を平然とほっとくんじゃあ、すべての記述が信用できなくもなりましょう。てえか、まったく信用できないのはもう充分以上に論ったものと自負するところではありますが。

名前の読みだって、どうせどっちも根拠なく勝手に書いてるんでしょうけど、わからないことは書かなきゃいいのに……ったって、わかり切った筈のことすらわからないんじゃ、そりゃいくら言っても無駄か。

これについても当然指摘はしましたぜ。自分で文字入力してんだから、到底気づかずにはいられませんので。でもやっぱりこのとおり無視して刊行。しかも奥付には堂々と、著者(と称して実際に書いてるのは本人じゃないかも知れないけど)を始め、編集人が3人も名を連ねていらっしゃる。厚顔無恥(無知? 無智?)の見本市といった風情。こんなもんの編集に3人がかりってだけでも泣かせるのに、その3人が揃いも揃ってまあ……。

                  

考証的な間違いは、まあドシロートなんだろうからしょうがないにしても(自覚と、謙虚さあるいは慎重さ、何より論理性が微塵でもありゃあすべて回避可能なれど)、特段の知識なんざなくったって、てより「編集」なんてもんをやったことがなくったって、ごくフツーの知能さえあればあり得べからざる過誤……ってのは厳し過ぎましょうや。

でもやっぱり、こんな薄っぺらな写真集の僅かばかりの文章、まともな編集人が1人いりゃあどうとでもなりそうなもんを、3人だってんですぜ、これ。まあ、名前だけは印刷していても、実は誰一人何にもやってない(できない)ってことかもね。よくある話だし。

それにしたって、こうして「幕末」と謳っている以上、少しゃあ調べてから書きゃあいいじゃねえか、と思わずにはおられませず。戊辰戦争関係の写真なんざ、悉くこれでもかってぐらい噴飯ものの「解説」ばかりで、あまりの情けなさにもはや冷笑すらする気にならず、ってほどでございました。

しかも、これじゃたとえ只でも到底許すべからざるところ、なんと20ページあまりで金一千円也。阿漕ってのはもうちょっと可愛げのあるもんだと思ってたおいらが甘いのか。

因みに発行者は、当時この発行元「日本カメラ博物館」の館長にして、環境庁長官だの法相だのもやったことがある高齢のご婦人(当時既に七十過ぎ)。で、発行所が「JCIIフォトサロン」てえんだけど、あれ?「日本カメラ博物館」じゃなかったのかい。何だかよくわからないところだけは隅々まで一貫しておりますようで。

                  

他にも、まあさほど「致命的」ではないまでも、やはり随分と間の抜けた「編集」ぶりは随所に満ち溢れておりまして、明白な誤記については、何の義理もない(向うが言うには「権限」がない)こっちが勝手に直してそのまんまってところも少なからず。たぶん気づきもしなかったでしょう。逆に、わざわざ指摘してやったところはすべて無視。そういう箇所はもちろん注文どおりそのままにしてやりましたぜ。その栄えある結果がこのお笑い満載の歴史写真集という次第。

大半はどんなに変でも敢えて黙してはおりましたが、やはり今見ても冷笑を禁じ得ませず。一例が、まさに例の烏帽子三人衆のキャプションにある〈左が「折烏帽子」右が「侍烏帽子」(右二人)である〉などという妙に念の入った疎漏(またも撞着語法ってことで)。烏帽子についての驚き果てた知ったかぶりこそが、この一連の駄長文の発端ではあったのですが、どうせ一部の物好きでなければ気がつかないそんな話とは違い、この説明句の無様さは誰にとっても炳乎たるもんでしょう。今一度同じ悪態を記しておきます。

《「 」で挟もうがどうしようが、とりあえず「左が〇、右が〇」と、間に読点でも打たなくちゃなるめえ。これだけでも充分愚劣なのに、あたかもバカさ自慢が不足だとでも言うが如く、〈右が〉としておきながら、すぐ後にまた括弧入りで〈右二人〉との要らざる駄目押し。ハナから「右二人が」って言っときゃ「右」を繰り返さなくて済むじゃねえかい。》

口が悪くて恐縮の限り。でまあ、これの類似例が、前回トリムして掲げた福沢諭吉の写真でして、それに付された説明がまた、いっそシュールなほどの間抜けぶり。
 
 (これが『よみがえる幕末・明治』所載の状態) 
 
それについては、2010年に当時中学生だった知人の娘さんに進呈した、ここ一連の投稿の原文たるワードの文書中(結局大半書き換えちゃってますけど)に、その写真とともに勝手な「キャプション」として赤字で記した文言がありますので、それを以下に再録。

《それにつけてもこの間抜けさよ。「29歳」の位置がおかしいでしょ。正面と横とで歳が変るとでも言うのかねえ。そもそも全体が横組みなんだから、右の「正面」より左の「横顔」が先(AもBも不要)だろうし。》

実はこのDTP作業中、当時使用していた業務用和文組上げソフトの限界から(それでも当時のWindows版よりはだいぶましだったMac版)、同じ文言で始まり同じ字数で上下に並ぶ2つの「(湿板・鶏卵紙……)」が、結構はっきりズレてんですよね。これ、原稿自体は全体がもう隅々まで不揃いだったから、位置を合せようってのはどうせ下拙の勝手な拘り。遥か昔の、手で活字を組んでた時代だって、こんなのをほっといちゃ植字工の名折れではないかと。尤もその前に、そもそも原稿の段階でとりあえず字数ぐらいは勘定したでしょうけれど。

通常ならあたしだってこんな状態で放置することはなく、文字間の調整や、微細な変形などで文字幅の調節を施し、まあ言うなれば意地でもピッタリ揃えるところなんですが、なにしろ敵は、写真の大きさとキャプション枠との兼合いなんざまったく考えもしない立派な編集者(3人!)なもんで、このズレを回避するには相当な無理が必至だったてえ仕儀。

まあ今どきは(当時から)いくらでも基本作法を蹂躙するが如き無理な文字組も世に溢れてはおりますが、どんな仕事だって最低限の拘りがなくちゃあやる意味自体がねえじゃねえか、ってのがあたしの了見。空しい限り。先刻承知。

でもねえ、いくらうまく収まらねえからって、大きさの決ったキャプションの文字をここだけ小さくするなんざ論外、って考えは今も変らず。だって、印刷物、出版物の活字って、書体や大きさの違いが各文言の役割を示すもんですぜ(本来は?)。他のキャプションと大きさが違っちゃったら、そりゃ単純に他とは意味合いが違うってことんなりましょうよ。

それが、こんときゃあたしもほとほと嫌気がさしちまいやしてね。なんせ上記の赤字で愚痴ってるとおり、原稿の文言自体がこうまで崩れちまってんじゃあ、とてもそんな手間なんか掛けてられるかい、ってなもんで、これ以上の苦労は放棄するに然くはあるまい、と思い極めたる次第。もちろん先方はまったく気づかず。やっぱりなんにも見ちゃいねえんだな、と思う間もあらばこそ、奥付の入力でビックリ。編集人に3人も名前を連ねてんでした。もとより知ったことじゃねえけど、軽く唸っちまうじゃござんせんか。

                  

……たいへんご無礼致しました。ともあれ、これにて漸くこの一連の長駄文も終幕に至ったようではあります。

ちょいと寂しいので、最後に駄目押しの蛇足を今1つ。この写真集の題目にある「大君」ってのは、「将軍」をそのまま訳したのでは単なる軍人ということになってしまうために捻り出した造語だったとかって話なんですよね。現代英語で財界の大物を表す‘tycoon’ってのは、この大君が語源ということでした。

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