2018年4月16日月曜日

町奉行あれこれ(16)

さて、件の『図説 江戸町奉行所事典』ですが、各奉行所(各町奉行の役屋敷)の位置関係について、わざわざ自作の図を5つも添えてその遷移を説いていながら、やはり中町奉行所設置後の混乱状態についての記述がヘン、ってより、その記述自体が混乱してたからこそ、こっちだってわけがわかんなくなっちまうんじゃねえか、っていう悪態の続きです。

文章部分の説明によれば、まるでその当時、北から順に「中」「南」「北」となってしまっていたのを、「中」の廃止を機に逆転していた南北の呼称を改めた、ってことになってるのは既述のとおりなんですが、そうなると北だの南だのってのも俗称に過ぎなかったわけではなく、やはり正式名称で、それが所在地の移動に伴って混乱していたのを、だいぶ後になってから修正した、ってことになるではありませぬか。え? そうだったの?って思いかけちゃったけど、やっぱり到底首肯は致し兼ねます。

20何年前の立読みの折、1時間あまりも睨んでたのは、主にそういう非合理な記述についてあれこれ考え込んじゃったからなんでした。でもそのおかげで、記憶事項はより強固に頭に残ることになったとは思われ、2016年暮にウェブで確かめてみたら、奉行名や在任期間はその記憶どおり。尤も、豊富なウェブの情報だって、相変らず相互に背反しつつ、どれもこれもこの事典の記述と似たような自家撞着に満ちてはおりましたけれど(おっと、また威張っちまったい)。その後、当の町奉行所事典の旧版、『図説 江戸の司法警察事典』が、行きつけの文京区立真砂中央図書館で借り出せることがわかり、その当該ページを自宅でスキャンしたという次第にて。

それにしても、買う気もないまま1時間以上も立読みしていられたのは、あまり客も店員も寄って来ない物好き御用達の売り場だったおかげではあります。その点は占め子の兎。今じゃあ寄る年波、3時間睨んだってとても憶え切れない自信あり。ちょっと寂しい。

実はその三省堂、そのとき、つまり2016年暮に行ったのはほんとに久しぶりだったのでした。だいぶ配置が変っていて、歴史もの売り場も隅っこではなくなり、通路もゆったりとして立読みも楽にはなったけれど、その分店の人からもよく見えるということに。図書館代りに使ってるのがバレても文句は言われないとは思うけど、どうせもう都合よく憶えられはしないだろうし、なんせ目が悪くて以前のような真似はしちゃおられません。やっぱり侘しい。
 
                  

そんなこたどうでもよかった。

移動の推移を述べたその説明文に呼応すべき図が、全然その文言と一致していなかったため、こっちは「何だよ、もう」と思って、あまりちゃんと見なかったのが敗因……ったって、別に勝負なんかしちゃいないけど。

とりあえず、「中町奉行所」の位置を説いた文章の内容を今一度まとめときます。

18世紀初め、「中」が新設された数年後に「北」が「南」よりさらに南へ引っ越し、北から順に「中」「南」「北」になっちゃって、もうシッチャカメッチャカ……てのが、件の町奉行所事典の言い分。いずれも正式には北でも南でも中でもなかった筈なんですがねえ。3人目を設けたのは元禄15年秋、暮に赤穂浪士が吉良屋敷に殴り込んだ年の閏8月なんですが、その3人制が十数年で廃止されたのに伴い、逆転していた南北の名称も整理された、というのですが、これも公式にはいずれも一貫して単に「町奉行」の筈。

例の大岡越前について、「初めは北町奉行、後に南町奉行に転じた」てなこと言ってる「歴史書」も昔からあるけれど、何のこたあねえ、就任時はまだ3人制で、役宅の呼称も混乱状態だったのが、2年後の3人目(つまり俗に言う中町奉行)廃止により呼び方が変っただけ……ってことになりそうなところ、もちろん役職を交替したわけでもなければ、引っ越したわけでもなく、役宅の場所は一貫して数寄屋橋内。北から南に転じた、なんてことはあり得ないし、何度も言うように、そもそも北も中も南も正式な呼称などではなく、少なくともこの当時は俗称というに過ぎず、であれば、紛う方もなく最南端に位置するその役屋敷が「北町奉行所」などと呼ばれるわきゃあるめえ、と思うあたしがおかしいってんですかえ。

十数年で廃止された第三の町奉行も、ウェブの情報では2人となっておりますが、これも役宅が交換されたわけでもなければ、「役職」の受継ぎがなされたわけでもありません。とにかく、2人だろうが3人だろうが、全員まったく同じただの「町奉行」(「江戸」は不要)であり、既述の如く、民事訴訟の受理を分担していただけです。「中」時代に3ヶ月交替だったのかどうかは知りませんが〔その後、図書館で見た古い本の記述から、やはり3交替制だったことが判明!〕
 
                  

さらなる無用の事実として付言しときますが、最後は新開地の本所に引っ込み、そこで赤穂の浪人どもの襲撃により落命した上野介吉良義央(「よしひさ」らしい)、その4年前の大火で類焼し、西(南?)隣の保科ともども屋敷替えとなるまで住んでいた所に、同じく焼け出された呉服橋の南町奉行所が引っ越して来たわけですけれども、吉良の引っ越し先はその元南町奉行所の南側、百年あまり後には最終的な北町奉行所の所在地となる場所です。なおその元禄11(1698)年9月の「勅額(ちょくがく)火事」、火元は鍛冶橋から程近い数寄屋橋門外とのことで、そりゃ吉良の屋敷も焼けるでしょう。
 
元禄6(1693)年刊『江戸宝鑑の圖大全』より
上図は火事の5年前の状況ということになります。右側、呉服橋門内に見える「ノセイツモ」というのが、この当時の「南」町奉行、能勢出雲守なのですが、個人名しか記されていないのは、町奉行というのが当人の役職に過ぎず、役屋敷とは言え、この絵図ではその住居だけを示しているというわけです。3軒が並んだ形の真ん中がその能勢邸なのですが、火事の後に吉良が越すのは2軒並びの南(左)側で、つまり元の南町奉行所(呉服橋番所)の跡地と同じ位置ではないということに。火災後、区画が整理されたものでしょう。

「刃傷松の廊下」の当時住んでいたのは、引っ越し先であるこの呉服橋門内だったわけですが、隠居願いが受理されて本所へ引っ越すのは約半年後。その翌年、元禄15(1702)年が、3人目の新規町奉行、つまり中町奉行が就任し、新南町奉行所の1つ北の区画に役宅が設けられた年ということに。例の「坂部三十郎の邸跡」がそれです(その話をする筈だったのは承知しつつ……)。

忠臣蔵もので、チラとでもその新奉行、丹羽の名前でも出しゃあ、それだけでリアリティが増すだろうに、って思うんですがねえ。吉良の爺さん(今の自分と大して変んないけど)は本所に引っ越しちゃってて、もう町奉行の役宅がその近所ってことでもなくなってたわけではありますけれど。それでも、赤穂浪士もので、この中町奉行ってが噂にすら出てこないってのはむしろ妙なのでは、という気は致します。屋敷が呉服橋のままだったら、殴り込みも郊外の本所よりゃよほど困難となったではあろうし。

かと言って、「このジジイもう邪魔だ」ってんで、討ち入り易いように川向うへ追いやったのだ、ってのはどうでしょうね。いろいろ傍証を掲げる向きもございますが、大抵は後世の付会。誰も予想していなかった討入りという暴挙の結果、俄然その暴徒たる赤穂「義士」、およびその(たぶん人格に問題のあった)亡君浅野の株が上がった、ってほうが実情に近いような。

でもまあ、そんな話はここでは場違い。わかっていながらまたぞろやっちまった。恐縮至極。
 
                  

と言うそばから、ついでなので付け足しときますが、火事で燃えた呉服橋の南町奉行所が、同じく焼け出された筈の吉良と保科の屋敷跡に引っ越した、ってのも何か妙だなあとは常々思ってたんでした。どちらの屋敷も完全に焼け落ちたわけではなかったんでしょうか。火事は9月6日で、保科邸は18日まで残っていたというし、吉良・保科邸跡が、前年に就任したばかりの呉服橋で焼け出された町奉行、松前伊豆守の新規役宅となるのは10月5日とのこと。そんなに早く焼け跡を整備して屋敷を新築できるもんなんですかねえ。

とまれ、吉良は程近い呉服橋の新居に移り(3年で隠居、本所へ転宅)、隣の保科は麻布へ転居。以前触れた土佐の分家、高知新田(しんでん)藩主、山内邸の少し北で、そのままそこが明治まで上屋敷になってます。因みにこの保科家、会津松平の「義理」の本家とでも言えそうな上総飯野藩主なんですが、またキリがなくなるので、それについては敢えて閑却。
 
万延元(1860)年刊『萬延江戸図』より
幕末の状況ですが、左(西)側上部に「保科弾正」、下方に「山内遠江」とあります。
鍛冶橋の新たな南町奉行所って、ひょっとするとまったくの新築ではなく、吉良の屋敷を補修したものだったのかも、と思っても、じゃあ保科屋敷は?ってのが新たな謎として浮上致します。「上地(あげち)」ってのがどうも微妙なんですよね。「上知」なら領地の召上げ、強勢移動って感じですけど、果して更地にしなければ「上地」とは言わないのか。そこがわからなくて。

それより、呉服橋の新宅も、また町奉行の役屋敷となった旧宅も、どちらも新築だったら、わざわざ場所を交換するまでもなく、それぞれ元の所に建て直しゃいいじゃねえか、って気もするんですけど、ある程度の広さが町奉行役宅には必要で、てっとり早く近隣でそれを確保し得たのが、鍛冶橋内の吉良・保科邸(の焼け跡?)だった、ってことなんでしょうかしらねえ。

まあいいか。どうせ考えたってわかることじゃないし。てえか、そんなこと考えるのがそもそもおかしい、ってこたあ充分認識してはいるんです。おかしんですよ、どのみち。
 
                  

「そんなこたどうでもよかった」って、もう何度となく書いてますけど、今回も結局そればっかりでまことに汗顔の至り。ともあれ、坂部三十郎の屋敷跡が、新規町奉行の役屋敷、いわゆる中町奉行所の敷地で間違いなかった、ってことについての言いわけ+言いがかりを続けます。続けるってより、何度も飽くことなく重ねてきた逸脱から漸く本来の軌道に戻る、ってのがほんとのところなんですが、まあそれはさておきまして……。

今さらではありますが、ここでまた下拙の勘違いを誘った要因を改めて述べとこううかと。こないだからそれやろうとして、つい話が逸れちゃうもんで。
 
                  

この「中町奉行所」というものについて、件の町奉行所事典は、

〈元禄十五年(一七〇二)にまた鍛冶橋北寄りの坂部三十郎の邸跡に中町奉行所を造り丹羽遠江守を奉行としたので、町奉行は三人となった。現在の丸の内一丁目八重洲橋西詰の南角、東京駅八重洲口構内左側である。)

と説明しております。「また」というのは、この一節が、北町奉行所と南町奉行所について説いた2つの段落に続くものだからなのですが、このとき(2016年暮)久しぶりに三省堂の立読みで確認して来ましたので(その必要がなかったことにまだ気づきませず)、この文言に間違いはないものと思います。20世紀末に憶えたとおりではございました。唯一、「の邸跡」の「の」だけ飛ばして記憶していたのは、既述のように「坂部三十郎邸」に「跡」を付したものであろうとの早計によるもの。忸怩ながら己が油断には違いなく。

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2018年4月追記:
その後、「地域資料」のコーナーに、この本のオリジナル版、『図説 江戸の司法警察事典』があるのを偶然発見。参考図書ではないので貸出しも可。なんだ、ハナから知ってりゃこんな苦労も、とは思ったけど、早速借りて帰って目当てのページだけスキャンし、すぐに返却しました。文中に挿入している図版はそれなんです。
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それはさておき、「江戸町奉行所の位置」と題されたこの項には、著者の笹間良彦氏が自ら作成したと思われる図も5つ掲載されていることは既に申し上げておりますとおりですが、それについての説明(所感?)を改めて並べたくなっちゃいましたので、どうぞ悪しからず。
 
                  

各町奉行所の位置についての説明文の前には、天正18(1590)年、家康の(秀吉のいじめによる?)江戸入府から、慶応4=明治元(1868)年、大総督府への引渡しに至るまでの概略が、明治期に元町奉行所与力の佐久間長敬(おさひろ)が著したという『江戸町奉行事績問答』からの引用によって示され、また件の中町奉行所部分の後には、宝永4(1707)年、常盤橋の北町奉行所が数寄屋橋に移転してからの経緯が記されてるんですけど、『事績問答』からの引用文以外は、何度読んでも(ハナは立読みで憶えたんですが)釈然としないんですよね。

そのスッキリしない文章に加え、本来ならその記述に合致すべき5つの図にも判然としないところがあり、これまた何度見てもすんなり腑には落ちないんですけど、当面問題となる(あたしが勝手に問題にしてる)のは第2図と第3図ってことになりますので、その2項目には特に余計な能書きを付すことになりそう。
 
『図説 江戸の司法警察事典』(1980年刊)より
図はすべて横長で、西を上にし、外濠は下部に描かれております。北が右、南が左となる横向きという次第。そういう図が縦に5つ並べられているわけですが、最後の1つだけが意味もなく大き目で、4番目までは同じ寸法。そのくせ、と言うよりむしろそのために、地図としての縮尺も、また示された範囲も異なるという、かなり不明瞭な表示法。

各図に付された題目、と言うか説明句は〈 〉に入れて記す所存ですが、その説明内容も曖昧なら、そもそも表記も表示法もまちまちという、実に丹念を極めたる不統一。上述のとおり5つ目の図だけが少し大きく、説明句もそれだけが上部に横組み1行で書かれているのに対し、その上の4つは図の右側に縦組みで2行から3行で示され、その分右端が切れるため、図によっては肝心の奉行所の位置が不鮮明となる次第。

日本橋西方に当る外濠の交差点周辺だけを描いた第1図以外は、大名小路南端(左端)の数寄屋橋が漏れなく示されているのに(第2図の当時はまだそこに奉行所はありません)、北側(右側)には道三堀どころか呉服橋すら描き込まれていないものもあり、位置の相関を把握するにはかなり不親切。
 
元禄6(1693)年刊『江戸宝鑑の圖大全』より
参考までに、その第2図が「~による」、すなわちそれに基づくと言っている(のであろう)元禄6年の絵図の大名小路部分を、少し拡大して再掲致しました。右(北)側の常盤橋門内に「北條安ハ」(「北」は略字表記)とあるのが、「北」町奉行の北條安房守。そのやや右上、北西の方角には、権勢を誇る「柳沢出羽守」の名が見えます。この人、その後さらに出世して表記も「松平」なります。

余談でした。さて、以上に加えて、第4図までは各図の間に2本の近接した横線が挿入されているのに、4つめと5つめの間にだけはその平行線がなく、横書きの題目があるから要らねえだろ、とでも言われてるような心地。もちろんそんなこた言っちゃいないし、たぶんその不統一自体をまったく気にしていない、あるいは気づいてもいないんじゃないかと。
 
                  

まあ、あたしが特別うるさいやつだってことなんでしょうけど、ほかにもたとえば「南」と「北」の間に「・」(ナカグロ)があったりなかったり、5番目の説明句にだけ「町奉行所」の後に「の位置」が付いていなかったりという具合で、そういう無意味な一貫性のなさがいちいち気に障るんです。いや、これは単なる好き嫌いの問題ではなく、こうした(どうした?)説明図、それ以前にこうした事典類の記述においては、ときに致命的な誤解、誤認の誘因ともなり得る、厳に慎むべき気紛れであろう……って勝手に思ってたりして。

表現や表記の違いはすなわち意味の違いを示すものではあるまいか、って思っちゃうあたしがヘンなんでしょうかねえ。いや、下拙とて、普段こうして書き散らしている駄文では、このとおり必要もなくいろんな言い方、書き方をしちゃあおりますれど、それはまず文章としての単調さを回避したいからであり、同時に、それをしたからって文意に混乱を来す気遣いはなかろうとの確信から。だって、俺が書いてんのは別に論文でもなけりゃまして事典でもねえんだから、この笹間氏の著述とは根本的に別物でげしょ?

ハナから純然たる無駄話として垂れ流している斯様な冗文とは異なり、まったく同じ意味内容を伝えるなら、やはりまったく同じ表記、表現を遵守し、どれほど単調だろうと堅苦しかろうと、確乎不抜の覚悟で須くその一貫性を護持すべきであろう、って思うんですがねえ。この俺が言ったって一向締らねえなあ承知の上で、敢えて言ってんですがね。
 
                  

わけても特別気に食わねえのは、5図すべてに付された「~による」っていう文句。それだとてっきり、各図に示された「町奉行所」の位置が、それぞれ参考にした(?)昔の絵図の表示に「拠る」ものなのかと思っちまうじゃござんせんか。

「所」という字は幕末も最終段階の切絵図にしか見られねえようだし、よもや元禄から享保にかけての絵図に「奉行所」なんて文句は書かれちゃいめえ、ってことがわかってるあたしでさえまごつくんだから、そういう事情に疎い(=正常な)人がこんなの見たら、典拠のように「~による」として名称を記された江戸時代の地図にそう書き込まれてるもんだと解釈しても、そりゃむしろ当然でしょう。

実際はそんなことはあり得ず、つまるところこの「~による」は、単に作図の参考にしたのが所記の各絵図だってことで、道路や区画の様子がそれらの古地図に依拠しているというに過ぎない……ってことなんだろうなあ、と推量致す次第。それについては実例に即してまた触れるつもりですけど、やっぱりちょっと迷惑ですぜ、この事典の書き方。それともやっぱり俺のほうがヘン?

位置関係の推移を示すための図である筈が、なんせそれぞれが「よる」、すなわち基にした古図自体の精確さも縮尺も不統一なため、比較対照の便に供するなんざ到底望むべくもなく、ほんともういちいち間抜け。とりあえず表示範囲だけでも統一すべきだと思うんですが、既述のとおり、右側すなわち北の部分が図によって容赦なく削られており、示されている奉行所の位置がどこなのか、瞬時には了解し得なかったりするわけです。意味ねえじゃん、とさえ思っちゃいますぜ。
 
                  

何はともあれ、以下がその5つの図についての説明(もしくは難癖)……と思ったんだけど、その説明のための予備説明だけでまたもこんなに長くなってしまいましたので、各図に対する「臨床的」な言いがかりはやはり改めてということに。ほんとはそれ自体が、「坂部三十郎邸誤認問題」に対する弁解の準備段階に過ぎなかった筈なんですが。

ま、いつものこって。

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