2018年4月20日金曜日

町奉行あれこれ(20)

『図説 江戸町奉行所事典』における、奉行所移転の経緯を示した(筈の)5つの図のうち、漸くその2つめについて。

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②〈元禄六年版江戸正方鑑による南北両町奉行所の位置〉

 
 
元禄11(1698)年に、呉服橋の《南》[=南町奉行所=南(の御)番所]が、より南の鍛冶橋内、吉良と保科の屋敷跡に移転した後の図、ってことです。前回までああだこうだ言ってた①の図に示された呉服橋内の《南》にとっては南隣となる位置、道三堀からは屋敷1つ分を隔てた、同じ区画の南側に、〈元禄十一年までそして文化三年より北町奉行所〉との文言が記され、鍛冶橋門内北側の区画には、〈元禄十一年より〉という文句を添えて「南町奉行所」と表示されています。

しかしこの図、改めて見直すと、上記のとおり〈元禄六年版江戸正方鑑による南北両町奉行所の位置〉となってまして、いったいなんで「11年」の話なのに「6年」の絵図に「よる」の?って感じ。それに、移転後の「南町奉行所」が「元禄十一年より」ってのはまあそうだろうとして、呉服橋内の「南側」が〈元禄十一年までそして文化三年より北町奉行所〉だとは、早速①図の説明と撞着してんじゃねえかよ、もう。
 
 
他の多くの出版物やウェブの記事、何より例の「国会デジコレ」掲載の絵図(コマ番号3/4)からも、元禄11年以前の《南》は、呉服橋門の西側、南北に屋敷が3つ並んだ区画の真ん中であることがわかります。ただし、明暦3年正月発行の『新添江戸之圖』では、門内の区画が南北に二分され、それぞれ東西に屋敷が並んだ形になっており、その北東端、銭瓶端南詰に近い、呉服橋門の西隣に当る所が「神尾備前」、当時の「南」町奉行「神尾備前守元勝」です。その20年ばかり前の寛永の絵図だと、区画の辺縁部が町地となっていることは先般申し上げました。一方、道三堀の対岸、銭瓶端北詰のほうを見ますと、やはり同役の「石谷将監」、すなわち「石谷左近将監貞清」の名も記されている、という寸法です。
 
明暦3(1657)年刊『新添江戸之より(毎度掲げておりますが)
これに対し、文化3(1806)年以降の最終的な《北》の位置は、元禄11年に鍛冶橋へ移転した《南》、まさにここで〈元禄十一年まで北町奉行所〉と記している地点であり(……う~む)、それは、その元禄11年に入れ代りのように鍛冶橋から移った吉良屋敷の辺り、要するに移転前の《南》(北ではなく!)の敷地より南寄りであって、既述のとおり、北側の道三堀とは屋敷を1つ隔てた、門の西側区画の南半分ってのが実状。明暦の大火で区画自体に変更があったのかも知れませんが、その大火直前と思われる上述の明暦図における《南》、すなわち「神尾備前」屋敷の南隣、ってことになるわけです。
 
文化8(1811)年刊『文化江戸図』より
                  

さて、「国会デジコレ」を検索すると、国会図書館に元禄6年の『江戸図正方鑑』という古地図は収蔵されているものの、残念ながらネット公開はされておらず、いずれにしても「図」の字のない 『江戸正方鑑』という記載はなし。「国立国会図書館サーチ」というサイトで検索したら、

 江戸圖正方鑑
 著者 温清軒 [図]
 出版社 佐藤四郎右衛門
 出版年月日等 元禄6 [1693]

などという情報は得られました。

これ、版元はあたしが持ってる同年の江戸図、例の「坂部三十」ってのを見つけたやつと同じ(ただし「門」の字を省いた「佐藤四郎右衛」との表記)なので、改めて開いて眺めたところ、あたしのもほぼ正方形であるのに加え、同じ「著者」の「温清軒」による能書きが記されており、その末尾には〈江戸宝鑑の圖大全〉との文言が見えます。ただし「圖」(=図)の字は「くにがまえ」のない、ほんとは「ヒ」と読む別字、「啚」ってやつです(これ、環境依存文字とのことですが)。昔は「圖」の代りに多用された由。どうでもよござんした。
 
元禄6(1693)年刊『江戸宝鑑の圖大全』より(しつこくて恐縮)
その『宝鑑』には、当然元禄6年当時の番所=町奉行所も記されているわけですが、《北》の常磐橋内は「北条安ハ」(「北」は「小」に見えるくずし字)、《南》の呉服橋内は「ノセ イツモ」となってます。前者はこの年の暮に退任した「北條安房守氏平」、後者は「能勢出雲守頼相」のこと。呉服橋内北角が「吉良上ツケ」と「ホシナ兵部」、すなわち「吉良上野介義央」と「保科兵部少輔正賢」だってことは以前申し上げたとおり

なお、10年足らず後に例の〈坂部三十郎の邸跡〉から《中》となる場所には「松平タンハ」、すなわち「松平丹波守光永」の名が記されておりました。やっぱりどうでもよござんすが。
 
                  

ついでなのでウェブ検索してみると、都立図書館のサイトに、やはり「図」のついた『江戸図正方鑑』の中心部を示した写真を発見。一方、ある古地図販売サイトでは、これまた「図」のついたやつの複製品を売っていて、見本の写真も掲げてあったんですが、いずれの写真も不鮮明で、とても文字までは判読できません。ともあれ、この事典で言ってる『江戸正方鑑』は『江戸図正方鑑』と同じものであろうとは判断致しましたる次第。①の『武州豊嶋江戸庄図』が『寛永江戸図 再板・武州豊嶋郡江戸庄図(コマ番号2/3)』から「郡」が脱落してんじゃないかしら、ってのと同工。

ついでに、同じ元禄6年の同じ作者、同じ版元による絵図ながら、この町奉行所事典のイラストや、それが依拠した(らしい)『正方鑑』では、道路がただの黒い線であるのに対し、あたしの『宝鑑』では黄色に刷られていて、よっぽど見易くなってます。贔屓目ってこともないとは思いますけど。

そんなことより、やっぱりどうにもおかしいのは、どうして元禄11年以後の状況を示すのに、わざわざその5年も前の絵図に「よる」イラストを描くのよ、ってところ。この『江戸町奉行所事典』の旧版、『江戸の司法警察事典』の時分から同じ図が載っているのですが、それだって初版は1980(昭和55)年、『町奉行所事典』の10年ちょっと前に過ぎず、元禄11年以降の江戸の絵図が閲覧不可能だったなんてこたなかったでしょう。

だいいち、《南》の移転は「勅額火事」と呼ばれる大火によるものであり、移転後は呉服橋内も鍛冶橋内も様子が変っちゃってんだから、その前の元禄6年の絵図に「よる」イラストなんか見せられたってしかたがねえじゃねえか。ま、知ったことじゃねえけど、やっぱりいいかげんだよな、との思いはもだし難く。

そう言えば、以前の投稿に掲げた幕末の大岡越前像、『新編歌俳百人撰』の挿絵も、この事典では、後世のものだとはひとことも言わず、その何十年も前の「旧編」が典拠であるかの如く、〈歌俳百人撰に描かれた大岡越前守の肖像〉などとしてしゃあしゃあと載せてるんですが、それもやっぱり知らない人が見たら大岡の時代の絵、それどころか本人の生存中の肖像画かと思っちゃうじゃありませんか。ひょっとすると著者自身が勘違いしてたりして。一見して時代が違う、ってことがわかるのは、まあ下拙のような一部の物好きに限られるだろうってことは先刻承知なれど。

……てな塩梅にて、これだけでも随分いいかげんな記述だというのはわかるんですが、20何年前にはそこまでちゃんと見なかったから、本文に負けず劣らず図の説明もこんなにおかしいってことに気づかずじまいだったんです。その前に、「言ってることがなんかおかしいぜ」って思っちゃったもんで、やっぱりさして注意を向けなかったてえわけでして。それにしても、わざわざ図を掲げているだけに一層悪質……と言ったって、何ら悪意あってのことではないことはわかってます。それでもやっぱり困るじゃねえかよ(誰が?)。

何だか、自分は敢えて徒労を求めているのか、って気もして参りました。人生すべてが徒労の如き我が来し方、ふっふ、何を今さら。どうせ徒労死は必至であろうとの覚悟の上にて……ったって、いったいどういう覚悟なんだか。
 
                  

さて、私が所有する自前の絵図は、元禄6年の後、40年後の享保18(1733)年まで飛んでおりまして、それは三省堂の古地図売場に並んでるものも同様。つまり、ちょうど鍛冶橋門内に町奉行役屋敷が、それも一時は2つもあった時代がスッポリ欠けているというわけです。それで、この事典の言う〈坂部三十郎の邸跡〉ってのが、上述の如く元禄6年の絵図、『江戸宝鑑の圖大全』に「坂部三十」(「部」は「ア」のような略字)と記された位置なのだろうと早合点し、ついその点でもこの事典に毒づいてしまった……という話も既に懐かしくさえあるところ。

それが、その後「国会デジコレ」サイトにその頃の絵図が豊富に掲げられてるのに気づき、1つずつ確かめてみたら、元禄14年(刃傷松の廊下!)の絵図には、鍛冶橋内北側、呉服橋寄りの区画にちゃんと坂部三十郎の屋敷があり、翌年そこが新設の《中》となる場所であった、ってこともわかったという次第。

しかし、それは次の段階である③図が示す時期の話。ここでは②に関してもう少し無駄話を綴っとこうと思います。上述の元禄6年版『江戸宝鑑の図』、すなわち、この②図が依拠しながらも眼目たる《南》の移転よりは5年早い『江戸図正方鑑』と、出版年も作者も版元も同じという(でも見易い)私有の絵図から、さらなる蛇足情報を示そうてえ魂胆。毎度恐縮です。
 
元禄6(1693)年刊『江戸宝鑑の圖大全』より(しつこく再掲)
「元禄六癸酉歳 末春/板本 通油町 佐藤四郎右衛」と記されたこの『宝鑑』には、これも前回申し上げたように、町奉行は常盤橋の《北》が「北条安ハ」(北條安房)、呉服橋の《南》が「ノセ イツモ」(能勢出雲)と記され、5年後に《南》の移転先となる鍛冶橋内北角は「吉良上ツケ」(吉良上野)と「ホシナ兵部」(保科兵部)、その西隣は道を挟んで「松平遠江」となってるんですよね。

その南、東西に走る通りを隔てた区画には、まず東側(外濠側)、吉良・保科の向いに当るところに「永井ユキヱ」(永井靭負)、その西隣に「松平土佐」(「佐」の「エ」部分は「ヒ」の形)とあります。この松平は、「姓氏名字談義」に溺れるきっかけとなった土佐藩主、明治以後は「山内豊昌」と呼ばれてる人なんですが、この当時のこの区画では唯一の大大名(おおだいみょう)の故か、東隣の小規模大名、永井さんの屋敷より南北に長いだけでなく、その永井屋敷の南、つまりこの「松平土佐」の東隣も南半分が「松平トサ」なんですよね。アネックスってやつでしょうか。

で、その土佐藩邸(これも基本的に明治以降の言い方ですが)の付け足し、あるいは出っ張り部分の南には「伊丹左京」、その西隣、すなわち「松平土佐」の南には例の「坂部三十」[三十郎広象(ひろかた)。ただしこの当時の名乗かどうかは未確認]という表示があるという具合。いずれにせよ、この時点ではこの区画全体を大名3人、旗本1人で分ち持っていたということにはなります。
 
                  

因みに、「坂部三十」の「部」が「ア」に見える「阝」のくずし字ってことは既に(何度か)述べたとおりですが、「伊丹左京」の「左」の字も、実は一部欠けているようでよくは見えないものの、これも「松平土佐」の「佐」と同様、「エ」の部分が「ヒ」という異字体と思われます。作成者である温清軒さんの書き方なんでしょう。

『寛政重脩諸家譜』で名前を確認したところ、この伊丹氏は甲州徳美の領主で、名乗は「勝守」、左京の前の幼名は「竹之助」だったってんですが、なんとこの人、元禄11年の9月15日に、〈失心して自殺す 年二十六〉、〈よりて領知は收めらる〉となってます。初期町奉行の土屋権左衛門の孫(息子の養子)、権十郎重吉と同じ記述ながら、こっちのほうがずっと若死に。しかも、ウィキによれば「厠にて自害」ってことんなってます。う~む。

これ、「勅額火事」の直後、吉良・保科が転出してった頃で、南番所がその跡に越して来る少し前なんですよね。何かその大火事と関係でもあるんでしょうか。火元は数寄屋橋門外の山下町だか南鍋町だか(泰明小学校の辺り)っていうから、当人の屋敷も当然被災したとは思いますけれど。「乱心」は、事件の真相、本当の動機を糊塗するためにしばしば用いられた語であるとは言え、処罰ではなく自殺だてえし、いったい何があったんだか。

『寛政譜』をよく見ると、同時期に同名・同世代の旗本もおり、そちらは「伊丹左京勝世」(「かつよ」って書かれてるけど、「かつとし」とか「かつつぐ」とかってほうが普通っぽい)という人で、左京の前は「新太郎」だった由。「勝」の字も共通だけど、「失心自殺」の大名の勝守さんとは、数代を遡る百年ほど前の先祖が一緒ってことになってます。

でまた、この勝世氏も随分と短命で、勝守氏の3年前、元禄8(1695)年に卒してるってんですが、享年十八……ってことは、まだ満17歳か16歳。当主となったのも数えで14歳の時分だてえから、中1ぐらいの頃から殿様だったってことで。でもこっちには継承者がいたから、早世した勝世さんの後も家名は存続。

他にも伊丹という旗本は多く、断絶した大名家、勝守氏とは皆同族……とはなっているようですけど、他の多くの家系と同様、それぞれが伝える系図にはかなりの錯綜があり、ほんとはどうだかわかりません。それが普通で、既に中世以前から、武士の自己申告による氏族などは、むしろ虚構に基づくものが大半。氏より育ちなどと申しますが、その氏(うじ)自体がそもそも幻の如きもの、ってところでしょうか。

それにしても、こんなどうってことのない早死に旗本(ごめんね、勝世くん)のことまでわかっちゃうんだから、『寛政譜』はやっぱりおもしろい。金と暇さえあったら、全巻揃えて毎日覗いてそう。どっちもなくて却ってよかったのかも。
 
                  

またくだらねえことを書いてしまった。

実は、「乱心物」としてなら、この伊丹さんの近くに住んでた永井靭負って殿様のほうが、もっとたいへんな、ってよりかなり有名な事件の関係者なのでした。と言っても本人が乱心したわけでも、乱心者に襲われたわけでもなく、この人の先代が、言わば浅野に襲われた吉良と同様の被害者だったというお話。でも吉良と違って素直に殺されちゃったために、悪玉どころか同情の対象。

「乱心」とは言っても、殺人という行為においてはこっちの加害者のほうが何かと的確だったところが、正気だと主張した(らしい)浅野とは大きく異なるところ。結構発生件数の多い同様の事例においては、むしろ浅野こそ例外で、あんな小さい刃物(その名も小刀、すなわち「ちいさがたな」)で斬りつけたって大して効果ないのはわかり切ったこと。本気で殺すつもりなら刺すしかない、というのもしばしば指摘されるところですなんが、その点だけ見てもやっぱり浅野はヘン。

吉良を悪者に仕立てるため、まず額をやられて、逃げるところを背中にも浴びせられた、ってのが時代物の常套演出ではあるけれど、そりゃ単純に非現実的。現場に居合わせた梶川与惣兵衛(頼照)、例の「殿中でござる」の人の証言でも、背中を切りつけられて振り向いたところを頭に振り下ろされたものの、烏帽子の縁に当って助かった、ってことんなってます。いずれにしろどちらの傷も軽傷。そりゃそうでしょ、そんなちゃちなナイフじゃ。内匠頭、何やってんだか。
 
                  

おっと、忠臣蔵の話じゃなかった。永井てえ殿様の災難について書こうとしてたんだった。でもやっぱりまた結構長くなっちゃったんで、それは次回ということに。

代りに、ってこともないけれど、今回は最後にもひとつ余談を。実は、この2人の伊丹左京の死からは50年以上も前になるんですが、ホモ(武士の嗜み?)絡みで殺人事件を起し、腹を切らされたという美少年(?)が「伊丹右京」って名前なんですよね。その念友、つまりホモだちの少年もまた後追いの切腹をしたということで、後に西鶴も自作のネタに使ってるんですが、果してどこまで事実なのかは、毎度のことながら判然とはせず。いずれにせよ、一字違いとは言え、時代も身分も全然別で、まったく関係ありませんでした。すみません。

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