2018年4月27日金曜日

町奉行あれこれ(27)

続きです。

まず『国立国会図書館デジタルコレクション』所掲の『御府内往還其外沿革図書』を見ると、この臨時高倉屋敷の期間については特に記述がありませんでした。図示されているのも、常盤橋内が「町奉行川口摂津守御役屋敷」と記された「元禄十一寅之形コマ番号36/130参照」の次はいきなり9年後の「宝永六巳年之形コマ番号37/130右頁で、その跡地は「本多伊豫守」、そのまた次の図、「享保二寅年之形同左頁だとそれが「町奉行中山出雲守御役屋敷」になってるって寸法。でもそれはまだ先の話。

八代洲河岸の高倉屋敷については、「延寶年中之頃ヨリ元禄年中之頃之形コマ番号73/130」および「元禄十四巳年之形コマ番号74/130に「髙倉屋敷」の表示はあるものの、約70年後の「明和九艮年之形コマ番号55/130にはありません。やはりどこかへ移転していたものでしょうか。


ところで、明和9(1772)年と言えば、例の田沼主殿守意次が老中格から正規の老中へと躍進した年ですが、結構難儀続きで「メイワク(明和九)の年」と揶揄されたりもしたようです。11月に安永と改元されるんですけど、「年号は安く永くとかはれども諸色高くて今に明和九(物価が高くて未だに迷惑)」との落首もあり。

                  
 
またもトンチンカンな余談でした。それより、この「元禄十四巳年之形(コマ番号36/130)」に示された高倉屋敷の位置は、当面の論考(?)対象たる宝永4年版『江戸全圖こちらのコマ番号5/5を参照とは少々異なっており、それについても気になるのでつい探っちゃいまして。と言っても、同じ「国会デジコレ」でより古い絵図をいくつか覗いただけではありますけれど、それでわかったのは、この元禄14年(しつこいけど「刃傷松の廊下」の1701年)から翌々年の元禄16年(2月に赤穂の討入り犯切腹)の間に、その高倉屋敷がそれまでより1つ北に移り、既述のように区画の端(北西角)に変ってた、ってことなんでした。したがって、宝永4年の松野奉行臨時役屋敷は、その移動後の高倉屋敷、区画の南西端で間違いないということに。

それがどうした、とは自分でも思うんですけど、ほんと、なんでこんなことがいちいち気になるんだか。

でもまあ気になるもんはしかたがねえ、ってことで、それじゃあその高倉屋敷ってのはいつからその辺にあったのか、とも思い、「国会デジコレ」の絵図を遡って見て行ったところ、公開されている中で最古の例は、寛文10(1670)年刊、経師屋加兵衛版の『新板江戸大絵図』というやつでした。区画の西半分に屋敷が5つ並んだうちの北から2軒目が「高倉やしき」で、それが30年あまり後の元禄16年には最北端に動いてるという次第。

なお、同じ区画の南西角は、この寛文10年の絵図では「火消やしき」、つまり定火消(じょうびけし)の役宅となっており、それは幕末まで不動のようです。定火消は、大名火消(松の廊下の浅野内匠頭長矩も代々火消大名の1人。ただし庶民の人気を博したのは祖父の初代長直だったとか)や、後の町火消などと並ぶ(あるいは対立する)消防組織で、常時複数の旗本がその長に任ぜられていたのは大名火消と同様。明暦の大火(1657年)を機に新設された組織(の1つ)とのことですが、出動対象は武家屋敷だけで、町地の庶民にとっては大名火消のようなありがたみはなかったようではあります。

寛文10年の定火消旗本は10名で、当時この八代洲河岸の屋敷でその任に就いていたのはたぶん「山口平兵衛重直」という人物。役職の発足後まだ10年余りではあり、この山口氏は初期の長官の1人ということになりそう。この絵図には「山口平兵 火消やしき」と書かれ、道を1つ越えた南隣の区画の北端にもやはり同じ名前があるんですけど、そっちが自宅とか?

因みに、火消屋敷自体が類焼した火事ってのも決して稀有ではなかったことが、件の『江戸火災史』で知れます。笑っちゃいけませんでしょうが。


それより、実はこの八代洲河岸の火消屋敷って、寛永9(1632)年「頃」の刊という『寛永江戸図再板・武州豊嶋郡江戸庄図(コマ番号3/3参照)』に記された土屋権左衛門の屋敷と同じ場所なんですよね。ウィキその他では「初代南町奉行」とされ、「権右衛門」と誤伝(恐らく)される人物なんですが、寛永9年頃ならとっくに故人。息子、権十郎の代だった筈ですけど、その息子も寛永10年には没している、ってなことも以前書きました

で、親父のほうの権左衛門(権右衛門?)さん、「初代」ったって、まだ「南北」はおろか「町奉行」という肩書すらあったのかどうかも判然としない時分のお人で、いずれにしろまだ各自が私邸で執務していた頃の話。その私邸の敷地が後に定火消役宅となった、ってな塩梅なんでした。

その土屋と同じ区画内、久世邸を挟んで北側には、これも前に申しましたが「酒部三十郎」(部は「ア」、郎は「ら」のような略字)の名が見られます。寛永前期におけるこの区画は、西側の内濠沿い(八代洲河岸)に4軒の屋敷が並んでおり、その北から2軒目、南から3軒目がこの酒部邸という寸法。それが、さっきの寛文10年の絵図、つまり40年ほど後の『新板江戸大絵図』では5軒並んでいて、南端が定火消の山口、北から2軒目が件の「高倉屋敷」ってことなんでした。寛永の酒部屋敷と、少なくとも一部は位置が重なる筈ですが、それがさらに元禄16年には5軒中の北端に移動、って次第にて。
 
                  
 
ついでのことに、この寛文10年の図では、20数年後の元禄6(1693)年版『江戸宝鑑の圖大全』と同様、土佐藩邸(幕末ものならまだしも、この時代にこの語はかなりの違和感がありますけど)たる「松平トサ」と同じ区画の南西角が「サカベ三十郎」(やはり郎は「ら」のようなくずし字)となってるんですけど、元禄のほうは「坂部三十」(部は「ア」に見えるくずし字)で、いずれも八代洲河岸の「酒部三十郎」(廣勝)の息子、旗本奴の廣利氏の筈。いつ「酒部」から「坂部」に変ったんだか。「サカベ」ではどっちともつきませんね。
 
元禄6(1693)年刊『江戸宝鑑の圖大全』より
 
ついでのついでにもひとつ蛇足を。寛永9(1632)年(頃)と寛文10(1670)年の間を埋めるのが、明暦3(1657)年正月の『新添江戸之圖』。今や懐かしくもある、呉服橋と常盤橋の初期南北番所の能書きや、増上寺事件の永井・内藤の話などでも引合いに出しましたが、この明暦図で八代洲河岸を見ますと、どういうわけか酒部と久世の位置が逆転していて、南北に並ぶ4軒中、坂部が南から2つ目、久世がその北隣、つまり北から2軒目になってんですよね。
 
明暦3(1657)年刊『新添江戸之圖』より
南端は土屋ではなく「酒井長門」。大火の直前の図ではあろうし、定火消の設置は翌年とのことなので、当然まだ一般の武家屋敷だったわけですが、この酒井長門守忠重という旗本、なかなか問題の多い人物で、70歳近くで改易され(40歳頃に続いて二度目)、その翌年に何者かに殺害されたんだそうな。ただし『寛政重脩諸家譜』にはその殺された話は書かれておらず、まだ十代で巻き添えになった嫡男も後に赦免。その弟が小身の旗本として名跡を継ぎ家名存続、ってことになってます。
 
                  
 
……などと放恣を極める無駄話に耽っていたら、またも主旨を閑却したまま随分長くなってしまいました。でもまあ、どうせどうでもいい話ばかりなので、今少し蛇足情報を記しとくことに致します。

この宝永4(1707)年の『江戸全圖』では、鍛冶橋内の《中》(《南》?)が「坪内ノト」、つまり坪内能登守になってるわけですけど、9年前の元禄11(1698)年に呉服橋から鍛冶橋に移転した折の町奉行は、前回の投稿で「松前イツ」や「松前いつ」という表記を呈示した松前伊豆守でした。その後、元禄16(1703)年に林土佐守に代り、さらにその翌々年、宝永2年に件の坪内氏に代るという塩梅。

どうでもいいついでにもうちょっと。『元禄十四年江戸繪圖コマ番号4/5では呉服橋内南側は「吉良上野」となってましたが、6年後のこの図ではそれが「米クラカスヘ」に変っており、同じく常盤橋内の「町御奉行 やすだゑち前」だった所は「本タ兵フ」、その北西が「松平美濃」という具合。この「本タ兵フ」は、『御府内往還其外沿革図書コマ番号37/130の右頁参照』の「宝永六巳年之形」(つまりこの翌々年)に「本多伊豫守」と記されていた人物であり、「松平美濃守」は元禄14年の「柳さは出羽守」、すなわち柳沢出羽守がより出世した後の称号。

呉服橋内の「米クラカスヘ」というのは「米倉主計」のことで、名乗は昌照、2年後の宝永6年には丹後守に叙されるものの、このときはまだ無官だったということに。でもこの人の跡継ぎが、上述の「松平美濃」(今で言う柳沢吉保)の実子で、この翌年、幼児のうちに米倉の養子となったとのこと。そういう生い立ちの養嗣子、保教(やすのり)氏[後に忠仰(ただすけ)と改名]も、後年また主計という通称を用いており、さらにこれもまた養父と同じく丹後守に叙任された後、改めて「主計頭」を叙されていますので、なんと言うか、「昔の名前で出ています」的なノリ?

一方、常盤橋内の元《北》の跡地に見える「本タ兵フ」は「本多兵部」。普通は専ら忠統(ただむね)と記されるようですが、『寛政譜』や『大武鑑』を覗くと、この当時の名乗は忠良。この年の12月に伊予守に叙任ということで、この絵図にはまだ仮名(けみょう)の(つまり官名ではない)「兵部」で載っているという次第。

でも実は何気なく大物で、3年後の宝永7年の武鑑には:

 本多伊豫守 忠良
 △上 ときははし内
 △下 南本所二ツメ
 一萬石 江州之内
 江戸より百二十里半 

と記されていたのが、そのさらに22年後の享保17年の武鑑では:

 本多伊豫守 忠統
 御若年寄
 △上 西御丸下(大手ヨリ五丁)
 △下 白かねたい 

とのこと。経済的には小規模のままながら、政治的には中枢に位置する幕閣に出世。屋敷も何気なくエラさに比例して移動しているような。

なお、「△上」は上屋敷、「△下」は下屋敷を表すという、『大武鑑』編者による字数節約のための工夫です。
 
                  
 
実に以てどうでもいい話ばかりでまことに恐縮至極。以後、町奉行以外の話は極力控える所存。……と言いながら、またも無駄話が過ぎ、3例めの絵図についてはうっかり2回にわたる長広舌となってしまいました。只今のところはこれまでと致し、次回も引き続き「国会デジコレ」掲載の絵図情報を書き散らす所存。できる限り余計な話柄に溺れることなく、絵図の表示内容についてのみ記さんと念じておりますれば、何卒ご海容のほどを。

できるかな。

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