2018年4月18日水曜日

町奉行あれこれ(18)

さて、これまでも既にいろいろと言いがかりをつけて参りましたが、『図説 江戸町奉行所事典』における「江戸町奉行所の位置」という項に掲げられた5つの図について、改めて説明(難癖)を施すことと致します。〈 〉内が各図に付された説明句(タイトル?)でございます……って、それ、前々回断ってんですけど、結局また逸脱が過ぎて、今回漸くちゃんと言及することに。毎度恐縮の限り。

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①〈寛永九年版武州豊嶋江戸庄図による南北両町奉行所の位置〉

 
『図説 江戸の司法警察事典』(1980年刊)より
 
町奉行の2人制がいつからなのかは結局不分明とのことですが、当初は各人の私邸で執務に当っていたのを、やがて常盤橋内と呉服橋内(先般の投稿における「八ツ見の橋」の西方)にそれぞれの役宅が固定され、この図はそれ以降の状態を示したもの、いうことになります。《北》は常磐橋門内の南角、道三堀の北側の河岸にあり、《南》は銭瓶橋を挟んでその対岸、呉服橋門内の北角、道三堀南河岸に記されております。

※ちょっとお断り: 一般に「北町奉行所」や「南町奉行所」と呼ばれるものを、勝手に《北》や《南》というように表記し、横着を決め込んでおります次第。また、「呉服橋門内」だったり「呉服橋内」だったりと一貫しませんが、その点は当時の表記も同様で、意味は変りません。語呂の違いだけですので、そこもどうぞご了承くだされたく。
 
                  

さて、例の「国会デジコレ」(勝手な略称をさらに縮めました。だってめんどくせえんだもん。飽くまで『国立国会図書館デジタルコレクション』というサイトでございます)には、「寛永9(1632)頃」として『武州豊嶋郡江戸〔庄〕図』なる古地図が掲載されており、恐らくこの①はそれに「よる」図ということなのでしょう。「郡」の付かない別の絵図があるとも思えませんし。実はこのサイトにはもう1つ、刊行年は非表示で、「寛永江戸図 再板』との表紙が施された『武州豊嶋郡江戸庄図』という、2つに分割された絵図も掲げられているんですが(コマ番号2/3参照)、前者が色刷りでボロボロなのに対し、後者は黒刷りながら傷みもなく鮮明です。

後からわかったのですが、自分が30数年前に購入した、名称と刊行年の記載がない寛永期の絵図も、この2つと同時期のものでした(後者の色付きじゃないほうとは同じ版木によるものかと)。しかし3者のいずれにも「南/北町奉行所」などという表示はもちろんなく、常盤橋は「大橋」と表記され、《北》の位置には「牧野内匠」、《南》には「島田弾正」との記載。
 
寛永期(1624~44年)の絵図より
 
それと、《南》は呉服橋内の「北角」ではなく、屋敷の北側、道三堀の南河岸に面する部分には東西に細長い町地が切れ切れに記されており、役宅と川とを隔てていることもわかりました。大名小路一帯の屋敷街の周縁部は悉く町人地だったようで、東側、外濠の西岸沿いには、やはり町地が南北に細く描かれております。絵図の1枚は30年前から自分で持っていたものなのに、今回改めて眺めるまでは一向に気づかぬまま。

なお、20年ほど後の明暦3(1657)年版『新添江戸之圖』にはそうした町地の表示はなく、以後、幕末の切絵図に至るまで、大名小路の周りに町人の住居はなかったものと思われます。この明暦の絵図には「正月吉辰」(吉辰=吉日)の出版と記されているのですが、例の大火(地元の本郷が火元という明暦の大火、別名「振袖火事」)も正月18日。版元は日本橋なので間違いなく被災したことでしょう。恐らく大火の直前の発行と思われますので、火災の被害状況を鑑みて町地が廃された、ということでもなさそうです。わかりませんけど。
 
明暦3(1657)年刊『新添江戸之より
 
原図は北を上にして文字の向きも統一してますが、事典の図に合せ、これも西を上にしました。なお、本郷はまだ郊外の扱いだったようで、お茶の水辺り(神田川)のすぐ北側だけが辛うじて描かれているだけで、火元とされる本妙寺(明治末に巣鴨へ移転)は欄外。寛永の絵図はさらに範囲が狭く、神田川の同じ部分を境に、北側はまったくの余白となっております。
 
 
事典の表示とは異なりますが、今度は北を上にして、それぞれ右上、すなわち北東端部分を示しました。下側の図、明暦のほうの右(東)端には「あさくさ川」と記されていますが、隅田川のことです。「大川」と呼ばれるのは吾妻橋から下流とのことで、架橋は安永3(1774)年ですから、17世紀にはその呼称自体がなかったってことなんでしょう。わかんないけど。

江戸の絵図とは言い条、この寛永および明暦のものに示されているのは、現代の千代田区と中央区に相当する地域のみで、東は隅田川の西岸まで。しかも、中央区の南東部は未だ埋め立てられておらず、八丁堀はおろか京橋も海辺の近くとなっています。築地の造成自体が、その明暦の大火で焼失した浅草門内の西本願寺再建のためであった、とのことですし。
 
 
参考までに……
 
元禄6(1693)年刊『江戸宝鑑の圖大全』より
 
いずれも北を上にしました。縮尺、と言うか、絵図の寸法がかなり異なるため、表示範囲が不統一ではありますが、寛永・明暦の図では海だったところが、数十年後にはすっかり埋立てが進んでいるのがわかり、町奉行の管轄も拡げられる道理ではある、ってところでしょうか。
 
                  

さてと、この事典や、複数のサイトの記述によれば、寛永9(1632)年当時の「北町奉行」は堀式部少輔(しきぶのしょう)直之、「南町奉行」は加々爪民部少輔(みんぶのしょう)忠澄とのことで、上記3枚の絵図とは明らかに撞着。《南》に記された島田弾正忠(だんじょうのじょう)利正は加々爪の前任者で、退職(解任?)は前年の寛永8年10月5日。

堀と加々爪の就任はそれと同日になっており、2人同時の交代はそれ以前からの慣例だったとも思われるのですが、この事典の「江戸町奉行歴任表」にも、ウィキぺディアの「町奉行」やその他のウェブ記事にも、「牧野内匠」の名は見られません。牧野という町奉行は2名おりますが、1人は18世紀後半、もう1人は幕末です。

つまり、この①図が依拠しているという寛永9年版の古地図には、《北》の位置に町奉行の名は示されておらず、《南》にも、前年に退職した奉行の名前が書かれているという次第。出版が寛永9年で、表示内容は寛永8年秋以前のもの、ということなのかも知れませんけれど。
 
                  

ところで、これら寛永期の絵図をよく見たら、寛永8年に退職したことになっている島田の前任者(たぶん)、土屋権右衛門の屋敷が、呉服橋の南西、と言うより、鍛冶橋を城側へ西進して大名小路(外濠と内濠の間を南北に縦断する道路)を横切り、内濠の東岸、すなわち八代洲河岸(表記とともに音も今とは異なり、ヤヨスだった模様)に至ったところの北角……ったって、文字じゃあ空間的描写があまり意味をなさないのは先刻承知、相済みませぬが、とにかくその辺りにあるのがわかりました(下図や、先ほどリンクした「国会デジコレ」のページをご参照くだされば……)。
 
寛永期(1624~44年)の絵図より(再掲)
 
でもこの土屋さん、先ほどページの画像をリンクしたこの事典の「歴任表」では「由政」、ウィキの「町奉行の一覧」では「重成」となってまして、どうやら、と言うよりは明らかに「歴任表」のほうが間違ってんでしょう。ウィキその他のサイトでは初代北町奉行とされている米津勘兵衛田政の名が見えませんし、「由政」はその米津の名乗、「田政」を誤認した上、うっかり土屋のほうにくっつけちゃったんじゃないかと。

因みに、米津は「よねづ」としている例が多いんですが、「よねきつ」が正しいようで、ウィキの人物紹介でもそうなってます(「米木津」から「米津」に改名?。田政は「ただまさ」とか「みちまさ」とか……結局わかんないんでしょう。この人についてもいろいろ言い分がありますれば、いずれ改めて触れる所存。毎度恐縮に存じます。
 
                  

土屋のほうに話を戻せば、ウィキでは「南町奉行」に分類されているのに、「歴任表」では名前の後に(北)と付されており、やっぱり迂闊にも2人を一緒くたにしちゃったための誤記ではございましょう。まあ、全般にこの「歴任表」の(南)や(北)には混乱が多く、(中)という表示がないのも以前申し上げたとおり。どうもウィキの記述よりさらに杜撰であるとは言えそう。いい加減だなあ、もう。

あと、文化6(1809)年に成ったという、江戸初期からその当時までの絶家の系譜をを記した『断家譜』には、該当する人物が「直爲」と表示されてるんですけど(ウェブで見ました)、まあ名乗は結構変るもんですから、やはり同じ人には違いないのでしょう。いずれにしろ編纂時には名跡が廃絶していたことになるわけですが、それより、「権衛門」とする出版物やサイトも多く、絵図の文字も「左」なんですよね、どうも。

くずし字だと「権衛門」も「権衛門」もちょっと見分けがつかなかったりするんですが、筆順から察するに「左」であろうとは思われる次第。黒刷りの『寛永江戸図 再板・武州豊嶋郡江戸庄図』の表記では平仮名の「た」のような形になってます。「権右衛門」って表記は、この事典もウィキも、また上記『断家譜』も、それどころか『寛政重脩諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』さえも間違えてんじゃないかしらと。
 
                  

『断家譜』には、〈土屋権右衛門、直爲、江戸町奉行、慶長17(1612)年11月18日病没〉、などと記されておりまして、町奉行の任期とも矛盾しないし、この当人に違いはないとは思われるものの、記載に間違いがあったところで、1世紀以上を経た発行時にはもはや訂正する者とていなかった、ってことなんでしょう。息子も孫も「権十郎」としか記されず、名乗は「某」とだけ。息子は寛永10(1633)年10月25日病没、孫は延宝4(1676)年正月11日に「乱心自滅」の由。それにより御家断絶ってことなんでした。う~む。

『寛政重脩諸家譜』、すなわち『寛政譜』は、江戸前期の寛永年間(1624~44年)末に編まれた『寛永諸家系図伝』と、中期の元禄年間(1688~1704年)後半に新井白石が編纂した『藩翰譜(はんかんふ)』、略して『藩譜(はんぷ)』の続編、というより改訂版あるいは修正版のような存在で、いずれにしても内容は必ずしも客観的な事実を伝えるものではなく、飽くまで各家系に伝わる「伝説」が基本。系図については、もちろん家祖の子孫を自称する者の申告によるため、ときに齟齬も避けられないというのが実情。

それどころか、『藩譜』は全般に世上の伝聞に基づく主観的な著作であり、信憑性においては到底『寛政譜』に及ばないようではあります。ところが、やはり後期の文化年間に起稿され、最終的には明治初年まで執筆が続けられたという幕府の「正史」、『德川実紀』には、この『藩譜』からの引用も少なくないとのことで、結局全面的に信用できる記録などない、ってところですかね。

ま、21世紀のこの現代でさえ、まったく根拠もなく高貴な御先祖様ってのを妄信している人もいる一方、むしろ近代以前の殿様階級のほうが、どのみち必要上の看板に過ぎぬ虚構、建前としての氏族、源平藤橘ってだけよ、ってことはちゃんと認識してたりして。

ともあれ、『寛政譜』については、先行の2冊よりよほど入念に編纂されており、記述も詳細。寛政の改革のついで、じゃなくて一環として企図されたものであり、完成は前述の『断家譜』より後の文化9年(1812年てえと、ついチャイコフスキーの序曲を思い出しちゃったりして)。件の土屋権左衛門(だと思うけど)が権右衛門になってはいるけれど、なんせ百年以上も前に子孫が途絶えちゃってんだから、やっぱり間違えてたって訂正を求める者とておらず、ってところだったんじゃないかと。

それでも木で鼻をくくったような『断家譜』に比べれば、孫子(まごこ…‥って断らないと、自分でソンシって読んじゃいそう)に関する限りよほど好意的で、特に孫(息子の養子だった由)に対してはかなり丁寧な記述が見られます。当人については、「重成」、「権右衛門」という名称のみが記され、「直爲」との記載はなく(何かの間違い?)、また町奉行その他の経歴も書かれてはおりませんでした。

しかし跡継ぎの息子、権十郎の名乗が「重正」で、そのまた次の権十郎は「重吉」、当初は「半三郎」との仮名(けみょう)=日常用の通称を用いていたことが判明。この二代目権十郎に関しては、エリート旗本然とした経歴がいろいろ記された後、『断家譜』の記載と同様、〈延宝四年正月十一日失心して自殺す。嗣子なくして家絶ゆ〉となっています。跡継ぎがいれば、たとえ改易(叙封:領地没収)とはなっても何とか家名だけは存続、って可能性はあるんですが、順調に出世していたようなのに、いったい何があったんだか。

この「失心自殺」だの「乱心自滅」だのって、結構多いんですよね、江戸時代の殿様には。自殺とは違うけど、例の浅野だって、本人が何ら詳しい動機を供述せず、被害者の吉良も心当りがないってことで、ほんとの経緯はわからずじまい。吉良がよっぽど苛めてたんだってのは、だいぶ後になってから流布した風説に過ぎず、数々の具体的挿話の類いも、ほぼ悉くが後世の創作たる模様。こういう場合は大抵、何らかの隠蔽すべき事情があるため、とりあえず「発狂による犯行(あるいは自殺)」ってことにするのだ、ってな穿った説(噂)は昔からあるようですけど、まあどうせこっちにゃわかりっこねえこって。
 
                  

おっと、浅野の場合は乱心、すなわち心神耗弱などではなく、本人の主張どおり私怨による犯行ってことで、切腹、改易だけでは済まず、養子、つまり嫡子として既に認められていた弟の名跡継承も許されず、絶家とはなったんでした。でもその「遺恨」がなんだったのかは一切言わず、切られた吉良も知らないって言ってるから、やっぱり内匠頭はちょっとヘンだったんじゃないかしらと。飽くまで自分は正気だったと言い張り、それがどれだけ遺族遺臣にとって迷惑か、ってことは考えもせず、名を取って実を捨てた、ってところですね。

その狙いはちゃんと果され、恨みがあって斬りつけた(と本人が言い張っている)吉良は家来どもが代りに殺してくれるし、その家来どもも以後三百年にわたって英雄視されるとともに、自分自身が悲劇の青年大名という評判が見事に定着。そこまで考えられるなら、そもそもあんな下手な刃傷沙汰なんざ初めから起さなかったろうとは思いますけど。
 
                  

えー、またぞろ余計な道草を喰らっちまいやした。そんなことはさておきまして、寛永期の絵図をさらによく見たら、なんで今まで気づかなかったものか、件の坂部三十郎の屋敷もその土屋と同じ区画内、久世邸を挟んで北側にあるのを発見。と言っても、「坂部」ではなく「酒部」ではあるし(「部」は「阝」のみをくずした「ア」のような形、「郎」は同じく「ら」のような略字)、この三十郎は戦国生残りの広勝のことに違いなく、旗本奴の広利の親父にして、元禄6(1693)年の絵図で鍛冶橋南側の区画に記された例の「坂部三十」、広義の祖父に当る人物に違いありません。
 
元禄6(1693)年刊『江戸宝鑑の圖大全』より
 
同じく鍛冶橋内でも、北側、呉服橋寄りの区画に居住し、元禄14(1701)年(奇しくもさっき言ってた「刃傷松之廊下」の年)に死去した三十郎広慶にとっては高祖父ということになるのですが、その広慶氏の屋敷が、翌元禄15年新設の中町奉行所の敷地となる「坂部三十郎の邸跡」だったてえ寸法。15年当時の当主はまだ幼児の安次郎広達で、「三十郎」を世襲せぬまま数年後に幼児のまま死没、って話は以前に致しました。既に懐かしゅうございます。

この寛永期前半からは20年ほど後の明暦3(1657)年の絵図にも、やはり同じ位置に「酒部三十」とありましたので(「郎」の有無は、官名の「守」だの「頭」だのがあったりなかったりするのと同じで、表記の粗細の差に過ぎんのでしょう)、二代目(?)三十郎の広利の代に「酒」から「坂」に改めた、ってことなんですかねえ。
 
明暦3(1657)年刊『新添江戸之より(しつこく再掲)
 
ついでのことに、これも記しておきますが、色刷りの『武州豊嶋郡江戸〔庄〕図』では文字が剥がれてしまって判読できないものの、白黒の『寛永江戸図 再版・武州豊嶋郡江戸庄図』、および私蔵の寛永期江戸図(先述の如く、タイトルはないものの後者と同工の絵図)では、呉服橋内の島田の屋敷から2軒ほど西方に、「米木津内蔵介」との名が見えるんですよね。これ、町奉行所事典の「歴任表」にはなぜか記載がないものの、ウィキその他のサイトでは初代北町奉行とされている既述の米津勘兵衛田政の子で、これもウィキその他では米津内蔵助田盛(ただもり? みちもり?)と記されているのと同一人物でしょう。

「米津」を「よねきつ」と訓じるのも、「酒部」が「坂部」に転じたのに似て、もともとあった「木」の字がある時期に脱落した……とか? 「ヨネヅキ」と読ませるサイトもありましたけど、それは単なる誤認の所産ではないかと。実はあたしの持ってる絵図だと、その米木津内蔵介の名のすぐ下に「米津蔵助」とも書かれてるんですよね。国会デジコレの絵図にその表示はなく、ますます「どういうこと?」って感じですが、やっぱりこの息子の代にちょっと「改名」してたりして。そういう流行りでもあったんでしょうかね。加々爪って人も加賀爪って書いたてたりするし。
 
寛永期(1624~44年)の絵図より(ついでなので再三ながらこれも)
 
いずれにせよ、この内蔵介または蔵助さん(例の大石のように「助」と書くのが本来の官職名の筈ですが)、町奉行だった頃の父親、勘兵衛もまた同所が私邸、すなわち役宅であった可能性が高く(転々とした坂部三十郎の例もあるからわかりませんけど)、屋敷の位置関係から、お父さんが「北」の町奉行と呼ばれていたとしても非合理とは言えない……けれど、やっぱりまだ「南/北町奉行」という言い方自体なかったんじゃないかしらと〔続く……長えな〕

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